November 08, 2009

貧しさ中の美

「親が一番親らしく見える時は、貧しい時」。

こんな素晴らしいことを、住職から聴いた。この言葉だけで、どれだけの教えがあるだろうか。

貧しさの中に、確かに美がある。

裕福になることを求めて、裕福になればなるほど、人は醜さを増して、美から遠ざかって行く。

貧しかった両親の後姿を想いだし、両親の背中にすがって、有難うと云って、泣きたくなる。

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November 05, 2009

サーカスのテント

自分が住んで居る場所も、考えてみれば、生まれてから以来、何回転居して来たことだろう。

住んで居る場所なんて、思えば、サーカスの大きなテントみたいなもの。確かに、その時は、確固たる住まいとしての存在感はあるが、長い年月単位で見れば、広がる荒野に住んで居るようなものかも知れない。

何も持たず、ただ宇宙に漂うエネルギーの一部としての人間の存在を思う。所有は幻想、所有は執着、所有は傲慢、そして所有は苦しみ。

何も持たず、ただ、「無一物無尽蔵の境地」が好い。

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November 04, 2009

苦難の意味、

前田行貴著「瞑想のヨーガ」の中に、苦難に就いての次のような記述があった。

「苦は、貪欲や執着や前世(過去)の因縁関係に起因するが、人間はこの世で修業して、更に高い霊性を目指して向上するため、自ら苦難の世界に生まれ来ている。苦難は、その人に相応しいものとして、またその人のカルマ(業)を消滅させんがために訪れているのである。」

"苦難は、その人に相応しい宿題として、与えられた課題か・・・・"。

自分の苦難・不幸は、私にとっても似合っているものと思うと、愛着すら湧いてくる。誰のせいでも無い、ただ、私に似合った、愛着のある服のようなもの。古くなった、昔の服のように、懐かしく眺められる日が来ることを願う。それが人生の修業、向上の醍醐味だと想う。

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October 30, 2009

想い出に散りばめられた日々を創る

私の20年弱前のアブダビ駐在時代の知人が、移住先のカナダ・バンクーバーから、たまたま今、日本に旅行で一時帰国されていることを知った。アブダビとは何の関係も無い弟が、仕事で知り合った方が、何とその私の知人の義理の弟にあたられると云う。

私は、昨日朝、その来日中の知人と約20年ぶりで、電話で話せた。カナダへ帰国する前に会食ができるチャンスは11月2日夜しかないことがわかった。私は、大あわてで、約束し、当時親しかったであろうアブダビ時代の同世代の友人へ連絡を取った。即日の連絡で、約15名の同窓会ができそうな展開になった。11月2日夜は、1990年のアブダビが再現する想い出の日になると思う。先週末、11月1日~3日の私の台湾出張がキャンセルになったことも、人生の展開、人の縁を不思議に、また新鮮に思う。私は、そのような、自然の力学に身を任せたような、人生の展開が好きだ。

去年、病気で亡くなった大学時代の先輩の奥さん・息子さんが、仙台から11月末の大学学園祭見学のために上京される。私は、昨日、"はとバス"のナイトツアーのパンフレットを仙台へ郵送した。先輩を偲んで、ご家族に色々東京をご案内することも、想い出の日になると思う。私は、想い出に散りばめられた日々を創る。

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October 28, 2009

「いただきますに15秒をかける」素晴らしさ

今朝、日経新聞朝刊の書籍の宣伝に、ちょっと、心に残る表現を見付けた。

心が豊かになる習慣として挙げてある項目の中に、次のような項目があった。

「いただきますに15秒かける」、「お金は自分以外の誰かを喜ばせるために使う」

先日、「言語の脳科学」の講演を聴いた酒井邦嘉先生は、「目に見えないものが好きです」と云う信条をお持ちだと云うことも思い出した。「目に見えないものへの尊敬を忘れない」と云うことも、素晴らしい。

ちょっと、一味違った、精神性に、時折、とても心惹かれる。

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October 24, 2009

「他人のままで、そばにいて」

新宿の哲学カフェで時々お会いする、作詞家の方が、歌で、「他人のままで、そばにいて」と云う題名の歌詞を書かれたことを、ご本人から聞いた。

「他人のままで、そばにいて」と云う心理は、私は、何故か、素晴らしい表現だなーと想った。

"引っ付き過ぎず、離れ過ぎず"、と云う人間関係は、理想的な人間関係のようにも思える。1日の6万もの想念が去来すると云う、夫々の人間には、一定の距離感覚が無いと、精神の安定は保てないと思う。

肉親のような近い人と、まるっきり縁の無い他人との、中間に属する人間関係に、「他人ではあるが、そばにいて欲しい人」と云う感覚の人がいることは、何か素晴らしい、人間の感情を表しているように思う。

"他人"と云う響きが、"そばにいて"と云う響きに打ち消されながら、人の繋がりの切なさと喜びのミックスしたような、何とも云えない味わいを出している。そんな言葉に出遭ったことを想い出す。

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October 23, 2009

想い出になる東京案内の予感

去年3月、ガンで亡くなった大学時代の仲の好かった先輩の、奥さん・息子さんが、11月、仙台から、三田祭に合わせて上京し、亡くなった先輩の大学時代の下宿のあった街など行ってみたいとの連絡を受けた。

亡くなった先輩は、さぞかし、嬉しかろうと思った。亡くなる数日前、仙台の病院に見舞った私の手を、しっかり握って、特攻隊の別れの場面のように、目で合図して、今生の別れをしたことを想い出す。

先輩の、大学時代のゆかりの地を、色々案内することは、とても嬉しい。武蔵小山の下宿のあった場所、商店街、大学の校舎、好きだった靖国神社もどうかななど、思いめぐらす。

先輩の同期だった人もちょっと声をかけて、数人で、会食する機会もあったらとても好いとアイデアが膨らむ。ご家族に東京を案内することは、私にとっても、先輩の大きな供養にもなると思う。

このような、予期せぬ人生の、展開が、私は大好きだ。生きている実感を感じる。先輩と、冗談云いながら、酒を酌み交わした日々を想い出す。今度、息子さんとも、一緒に飲めるのも、光栄に思う。素晴らしかったお父さんのことを、沢山、話してあげようと思う。

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October 20, 2009

感謝と云う武器

どんな強力な敵、どんな悲惨な境遇にも立ち向かう武器があったことに気付いた。それは「感謝」。

あらゆる事象との出会い、打撃・衝撃は、何かを訴えている。そんな事までして、神が私に伝えようとしているメッセージは何かと思えば、感謝が湧いてくる。

感謝で立ち向かう時、戦況は一変する。感謝は、人生の最終兵器のようなもの。

感謝で武装した人生は、余りにも力強い。憧れの不滅の帝国。

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October 19, 2009

利他遺伝子からのメッセージ

自分の為にと生きる時、人は孤独の世界に吸い込まれて行く。人を助けた記憶の無い人は、人に助けを求められない。

宇宙の成り立ちは、個としての存在は無く、全てが関わり合って、作用・反作用の反応の全体のつながりの中で存在していると思う。個体の幸せを追求する本能・遺伝子と、他を助ける本能・遺伝子が両立して、生物には組み込まれて宇宙は成り立っていると思う。

個としての幸せを追求して行く時の、あの空しさは何か?個の幸せの追求は、他から孤立を深めて行く。

あらゆる生命に組み込まれた利他遺伝子は、空しさを通して、宇宙の調和のメッセージを知らせている。

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October 08, 2009

人間が生きていたいと思う条件とは何か

ギタリスト・マリオ鈴木さんの詩の中にある。「人間に、生きていたいと思わせるものは何かと、人間が生きていたいと思う条件は何かと」。その問いを、私にも問うて試る。

目覚めて活動している時の自分の行動の源泉は何かと問うと、「半分は社会の中にあって、こうすべきと云う私の義務感・使命感、そして半分は自分の楽しみ・生きている喜びの体感のため」と思う。夜、寝ている時は、本能が何もしなくても生かしてくれている。

自然界が、その個体を生かし続ける背景は何か?と思うと、精神的には、「ちょっとした使命感と、ちょっとした楽しみ」であった。

それは、人間の60兆の細胞の一つ一つの中に組み込まれた、大自然の摂理のつまった遺伝子からの指令だと思った。60兆の細胞は夫々助けあって、個体を維持し、自己再生・増殖している。

そう思うと、その指令が嬉しくなった。生きる条件とは、大自然の摂理に、ただ身を委ねて従うことだと思った。それは、大自然のままに、云わば「無条件に生きる境地」にも思える。神の手の平の上を旅するような境地にも思える。

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September 30, 2009

運命と立命、あい半ばする人生

一昨日は、異業種交流の会で、「早期退職の人生の展開」について、私が話す役だった。早期退職とは、どう云うものなのか、改めて、自分の考えを整理してみた。我ながら、一時間くらいが、何と一気に、演奏のように話せて、小さな驚きだった。

私は、漠然とした「人生への違和感・焦り」のようなものから早期退職した。その時の心理が我ながら、今思えば不思議でしかたがない。遺伝子のなせる、時限爆弾のような、運命の行動だったのかも知れない。そして、運命を変える立命に生きる自分も十分に感じる。運命と立命、あい半ばするのが人生。

会社を辞めなかったら、生活習慣病だらけだった私は、もう数年で病気で倒れるところであったと思う。今頃、病床か死だったかも知れない。一方、会社を辞めても、その後の人生の展開・出会いがなければ、死んでいたかも知れない。食育との出会い、禅との出会い、再就職の機会を与えてくれたアラブ人との脚本に書いてあったかのような出会いなど、これらのどの一つが欠けても、私は死んでいたかも知れない。

食と健康については、姉から。禅は、偶然の異業種交流会で講演された住職との出会い、アラブ人は、いとも簡単に、出会ってすぐ採用してくれた。住職の禅を語る姿に、私は両親からのメッセージのようなものを感じる。再就職先のアラブ人は、3年前に初めて会った時、何か、貴方を助けに来ましたと云ってるような、優しさを感じた。会社を辞めてからの人生の出会いは、一瞬の切れ味の出会い。一期一会でも、清々しい、感謝の出会いに感じる。

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September 27, 2009

哀しみの裏打ちされた幸せ

「幸せの根源は、哀しみの裏打ちと見つけたり」とは、私なりの人生観。

哀しみの裏打ちが無いと、幸せは、味を失ってしまう。

裏に哀しみがあるからこそ、幸せの輝きは増す。

哀しみと縁の無い幸せは、無機質な、機械的な幸せ。それは、薄い表面だけの、感動の無い幸せのように感じる。

哀しみは、幸せの、大切な味付けなのだと思う。

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September 23, 2009

身近な悟り

私は、悟りは、修業に修業を重ねないと得られないものではないと思う。悟りを邪魔しているのはエゴ。

日常の中でも、自然の美を見て、うっとりする瞬間は、我を忘れて、その時は、エゴもへったくれも無い。

その様な、我を忘れる瞬間が多くなった人が、世に云う、"悟りを啓いた人"と云うのだと思う。

悟りは、誰でも身近に感じる瞬間がある。ただその、悟りの時間の面積が大きいか、小さいかだけの問題だと思う。

悟りは、とても身近なもの。

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September 21, 2009

仏道川柳

面白い川柳を聴いた。

「幼子の しだいしだいに 知恵づきて 仏に遠く なるぞ 悲しき」ー詠み人知らずー

確かに、人間は成人するにつれて、一時、仏から遠い存在になって、また、後年、仏の道に縁するように思う。面白いプロセス。

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September 20, 2009

生老病死は苦と云われるが、

生老病死は、人生の苦の元と云われるが、その時こそ、道元禅師の「春は花、夏ホトトギス、秋は月、冬雪さえて涼しかりけり」の歌が、人生への凄い指針を与えてくれる。

その時、その時に、徹すれば好い。老は若を羨めば苦、病は健康を羨めば苦。それぞれの時にしか味わえない人生の味わい、美がある。選り好みをしてはいけない。全てが揃って故の人生なのだから。

そう思えば、全ての時が、人生の華の時ではないかと思う。「今、ここ」に生きる。

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September 19, 2009

全てのことが、"こっぱ微塵"、法悦

色んな人生の憧れがある。愛する人と幸せに暮らしたいなど。

だが、住職は、その様な喜びも、「法の喜び、宇宙の真理を知る喜びの前では、こっぱ微塵ですね」と仰った。

「法悦の前には、世俗的な喜びなど、こっぱ微塵」。この言葉に、確かに、その様な素晴らしさが、神(宇宙の真理)を知ることの中にあるような気がする。

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September 17, 2009

平凡な、"人生の大失敗"

誰しも、多い体験だと思うことがある。平凡だが、"人生の大失敗"。

それは、親が生きている間の、親との時間の価値に、十分気付いていないこと。

あれも聴いておけば好かった。これも聴いておけば好かった。こんなことをしてあげれば好かった。こんな話をしたかった。あんな所に連れて行けば好かった。数々の出来なかったことが思い浮かぶ。

平凡な、"人生の大失敗"。

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September 16, 2009

感謝と懺悔

時折、人生を振り返ると、救って貰った人の数々を想い出す。

そして、私が、目の前でも、救えなかった人の数々も想い出す。

不器用な自分の生き方を嘆くことも。

感謝と懺悔。

救って貰った人の数々を想い出す。

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September 10, 2009

「縁(えん)」について

先日、哲学カフェで"縁"と云うテーマで話し合った。その後、縁について、自分の考えを深めてみた。

「雨の一粒、一粒でさえ、落ちるべきところに落ちる」と云う言葉を想い出した。また、「人は逢うべき人には、必ず逢う。早過ぎず、また遅過ぎず」と云う先人の言葉も。

一生に一度だけしか逢わなかった人も、縁が無かった人と云うのか、縁があった人と云うのかは、その人の人生観のなせる技。

自分の方に、引き寄せるのを縁と思っては、世界観が狭いと感じる。寂しがり屋さんだとも思う。

同時代に、同じ日本で、同じ人間として生きてることも、一つの愛おしい縁。

私を離れて見れば、見る程、大きな神(宇宙)の縁に守られているように感じる。ただ、身を任せれば好い。ゆりかごのように。

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September 07, 2009

禅の言葉、「喫茶・喫飯」

お茶がでれば、お茶を飲む。飯がでれば、飯を食べる。

人生をそのまま味わう境地。

損得・良し悪し・好き嫌いを消滅させれば、至道無難(道を極めるのは、難しく無い)と云う。

もの事を分別しない。心の作用を止める。五感六識の運転を止めれば、何があるのかと、神秘に包まれる。

父母の未だ生ぜざる世界の奥の奥、虚空世界を思う。名称と形態なき、虚空世界。永遠にして安らいでいる世界。

心の作用を止滅することが、禅。宇宙のリズムと共鳴・調和する。

「喫茶・喫飯」、人生はかくありたい。

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September 04, 2009

「算数・国語・理科・体育」、小学生の響き

明日の予定と言って、「算数・国語・理科・体育」など、つぶやいてみると愉しい。脳裏に、ランドセルも浮んで来る。

学校へ歩いて通った道も想い出す。教科書のにおい。いいなー。

明日の時間割を、適当に想像してみると、また愉しい。「国語・算数・図工・社会」。

今なら、当時の人生は、おとぎ話の世界の中にいたように感じる。メダカの学校だったんじゃないか?とか。

待てよ、今のひと時も、将来、おとぎ話のような世界に感じるかもしれない。


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September 03, 2009

母の失笑の想い出

私が幼児の頃、犬を怖がって、よく裏山から脱兎の如く、駆けて逃げ帰って来ていたと云う。母が何事かと見てみると、それはそれは小さな可愛らしい子犬で、母は大笑い、吹き出したと云う。

私が、何か悪いことをして、母に叱られて、今度から「もうしませんと」云うか?と云われると・・・・、私は、「云うぞ」と答えて、「父ちゃんに云うぞ」と続けたと云う。その時のことを、想いだして、母はよく大笑いしていた。

当時、私は真剣だったのに、今考えれば、私も可笑しくてしようがない。

母の失笑する顔、声を想い出し、私も時々、愉しくなる。 ああ吉本新喜劇の人生。

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September 02, 2009

お金は醤油とそっくり

はっと気付いたことがある。お金と、醤油が似てること。

醤油は、味付けに無くてはならないもの。だがそれは、少量で好い。

醤油だけ集めても、何になる?と思ってしまう。

また、大量にいっぺんに飲んだら病気になる、死に至ることもある。

大量に使う人は、寧ろ下品に見え、品が疑われるし、味が分からぬ人と、内心、馬鹿にされることも多い。

全く、お金と醤油は、そっくりだと思う。

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September 01, 2009

猫も武将、蝉も武将

猫は死が近くなると、どこかいなくなって、人目につかないところで死ぬと云う。何か、武将が、敵の手にかからず、果てるのと似ていると思う。織田信長は、本能寺の変で死ぬ時、誰も入れるなと言い残して、奥の部屋で自刀して果てたと云われる。戦場で死ぬのを避け、戦場を離れ、人目に付かぬ場所で逝く武将のように感じる。

蝉は、思いっきり戦って、敵の前であろうが、戦場の真っ只中だろうが、堂々と戦ってその場で果てる武将のよう。余りにも、なりふり構わぬ、潔い戦いっぷり、堂々たる死にっぷりに、敵も天晴れと心打たれるくらい。戦場で、大の字になって死ぬ。道路で、大の字に転がって死ぬ蝉に、私は、すがすがしささえ感じる。思いっきり鳴いたであろう蝉の声が聴こえてくる。

猫も武将。蝉も武将。堂々たる、腹の座った覚悟の死に方に心打たれる。孤独死だの、寂しい人生だったのだの、騒ぐ世間は、その潔い、堂々たる死など、分かるまい。私は、猫にも蝉にも、共に、右往左往しない、カッコ好い死に方だと感動する。それは、寧ろ、人生が満足であったこと暗示しているかのようにも感じる。

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August 30, 2009

人生観覧車

私は、人生を観覧車に例えるのが好きだ。徐々に、周りの全貌が見えて来る過程は、人生に似ている。

そして、私は、観覧車の最高地点を、死ぬ時と擬える考えが好きだ。死ぬまで、新たな驚きがあれば、人生の光景は、視界が拡がり続ける。視界が拡がるのは、人生への畏敬や感謝の気持ちに繋がって行く。

高い地点から地上を見れば、何ーんだ、そう云うことだったのかと、地形がスッキリ分かることが好い。痛快でもある。人生の観覧車は、そんなイメージを膨らませてくれる。

今日も、新しい視界が拡がる。

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August 27, 2009

ちょっと不幸、微妙な塩加減

全てがうまくいっていたら、こんなに自然は美しく見えただろうか?

幸せが雪崩のように襲って来たら、気が散って、身体も心もふわふわ浮いて、たぶん、充実感すら感じない、病的なハイ状態になるのではないかと想像する。

ちょっと不幸に味付けられると、人生がキリっと締まる。

私にも、ちょっとした不幸を背負わせて貰わないと、世間様に申し訳がないなど思う精神は素晴らしい。

ちょっと不幸を感じながら、大自然に向かい合う時、とてつもなく、大きな人生の美や感謝が湧いてくるように思う。

私には、ちょっとした不幸が一番よく似合うと思うと、益々、人生に対し、穏かな気持ちになる。

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August 26, 2009

頼り、頼られる幸せ、そして巨大な不安

人は、頼り、頼られる人の存在に憧れる。それが幸せのようにも思える。頼る人が、この世から消えた時、頼ってくれる人がこの世から消えた時、精神的に立ち直れない程落ち込むこともある。その後の人生の意味を失うこともある。

配偶者が亡くなった後、悲観し後を追って自死される人の例など思う。また、明治天皇崩御の時の、乃木将軍の殉死、奥様の殉死なども想起する。それは、病的な愛に思える。「頼る幸せ、頼られる幸せ」の中に潜む、巨大な不安におののきながら生きて来られたことだろう。江戸時代の心中の情景まで浮かんで来る。

釈迦は、弟子たちに、「私に付いて来るな」とさとしたと云う。

残された人が、精神的にも自立して生きて行けるように、導くのが大人の愛。いつもくっついて、甘える人間関係は、子供の時の名残。その人が消えても、愛する人に、力強く、明るく生きて行ける術を教えてくれる人こそ、崇高な愛。

私は、母が死んでも、父が死んでも、力強く生きている。「私について来るな」と、愛情いっぱいに、遠くから見守ってくれている存在、それが私に力を与えている。

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August 25, 2009

健康と衣食住で60点、

人生を100点満点で表示してみる。健康で30点、最低限の衣食住の確保で30点、これだけで、もう勝負あり。これのどちらかを落とすと、50点を取れないことが確定。相当に修業をしてない限り、人生の苦しみは増す。

その他のことは、健康や衣食住と比べたら、どちらでも好い、大したことじゃ無い。それなのに、その他のことが、人生の中で、80点や90点を占めるくらい、大きく歪んで見ていることの多いことか?

金が多くあってもなくても大差無し。出世してもしなくても大差無し。夫婦仲が好くても悪くても大差無し。その他のことは、5点や10点の配分で、それだけで、大勢を決することは出来ない。どれだけ足掻いても、満足の行く合格点には、達しない。

そのような100点満点で人生を考えると、日常煩わされる差が、大したことでは無いと思えて来る。棒グラフや折れ線グラフの比較は、基準点をゼロから描かないと、差が拡大されて、人を惑わすのと似ている。

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August 20, 2009

一人が似合う人、吉永小百合さん、高倉健さん

JR大人の休日クラブのポスターに吉永小百合さんのポスターを、よく駅でみかける。吉永小百合さんは、一人旅がよく似合う。ポスターを見ていると、そのポスターの場所に旅したくなる。

自分の内奥と、外界の自然と、深い対話をしながら、旅をしているような、そんな高い精神性を感じる。

ワイワイ仲間と楽しむ旅や、仲の良い夫婦の旅とは、全く違ったジャンルの、旅のスタイル。

吉永小百合さんや、高倉健さんは、一人が、よく似合う。穏かで、強くて、暖かで、ちゃらちゃらしてなくて、凛として、堂々と自然と調和してるような感じが好い。

一人が似合う人は、安心してその人生が見ていられる。清々しい人生。


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August 15, 2009

「もう、お兄ちゃんなんだから」、「お姉ちゃんなんだから」と云う気持ち

人生が、思い通りになることを目指して、人は、お金や地位・権力、美貌など手に入れようと頑張る。

そして、結局、それらが多少、手に入ったとしても、それは役立たなかったことに気づいて、人生は終わる。自分の思い通りになるためには、余りにも些細な、多くのことが必要で、お金・地位・権力・美貌などは、ほんの気休め、猫だましに過ぎないことに気づく。

自分の人生が思い通りにならず、他人が羨ましかったら、「僕はもう、お兄ちゃんなんだから・・・」と、他人と云う弟のために我慢しようと考えれば好い。「私は、もう、お姉ちゃんなんだから・・・」と、他人と云う妹のために我慢しようと思えば好い。だだを捏(こ)ねてる、拗(す)ねてる子に譲れば好い。

他人のために、譲る気持ちが出て来れば、ちょっと神様に近づいて、思い通りにならないことに煩わされなく、結構愉しく生きていけると思う。宇宙からみれば、自分と他は、一体の存在だから、即ち、どちらでも好いと云う気持ち。

「お兄ちゃんなんだから・・・」、「お姉ちゃんなんだから・・・」、とても好い響き。

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August 13, 2009

蝉の残業

最近、蝉が、夜遅く10時くらいでも鳴いているのに、ちょっと驚いた。

地上へ出てわずか1~2週間の命だから、時を惜しんで鳴いているのだろうかと思った。その間、子孫を残さなくてならないと云う本能で、時を惜しんで、活動しているのだろうかと思った。余命1週間の命を思った。

また、残業している蝉みたいに思って、かわいそうになったり、けな気で愛おしくも感じた。

地球にちょっと、ホームステイをしに来た旅人が、休む時間も惜しんで、そのひと時を味わっているようにも思えた。

朝になると、蝉がよく、道路の上に、仰向けに、堂々と死んでいる姿も見つける。彼等は、役目を果たし、また素晴らしいホームステイをして、逝ってくれたのだろうかと思う。蝉の一途な生き方や、潔さに感動する。

今朝も、夏らしい蝉の声を聴きながら、一日が始まる。

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August 11, 2009

「良いもの」、即ち「恐怖のもと」

良いもの、良いこと、良い人、夫々に、良い程、執着が生まれ、失う恐怖が生じる。

色々なものが見えることは、即ち多様性は、心の右往左往の根源。良いものに囲まれて、それを失うことを恐怖して生きるのは、予期せぬ伏兵に、討ち取られる如し。

多様性の中に、単一なものが見えれば、右往左往は無くなる。

エゴは、誤解している。エゴは、大海を、波の状態で見て、右往左往している。

一昨日、住職の、精神世界の展開を、またメモし、納得した。「多様性」、即ち「右往左往」


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August 10, 2009

洗濯器の中の渦潮からの脱出

その時はアッと云う間でも、後から想い出すと、色んなことを想い出し、結構長く感じられる時間がある。そのような時間を、私は充実した人生と呼ぶ。10代の頃、そして今、そう生きたいと思っている。

その時は、長く感じても、後から想い出すと、印象が薄く、アッと云う間に感じられる時間もある。それは、私にとって、長く過ごして来た会社での時間がその代表。

長く過ごしても、洗濯器の渦潮の中で翻弄される蟻んこのように、グルグル回っているだけの、人生もある。

私は、そのグルグル回る水流から、やっと飛び出し、洗濯器の外を眺めている心境。洗濯器の外には、おとぎの国のような、世界がいっぱいに拡がっていたように思う。

そして、ほのぼのと想い出すことの、多いことに、人生への感謝が湧いて来る。

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August 09, 2009

美男・美女の寂しさ

美男・美女と云われる人達の事件を聞く度に、醜いまでに、未熟な精神に驚かされる。満たされぬ寂しさと、貪りの餓鬼道の世界のようにも思う。押尾学事件、酒井法子事件。

外面的な美しさ、イケメンだったが故に、その内面の未成熟、醜さが際立つ。

美男・美女だったが故に、修業するチャンスを失っていたのだろうか。寧ろ、人生の大きなハンデを負っているかのように思う。

異性を渡り歩くことは、裏に荒涼とした寂しさが漂う。覚醒剤に手を出すことは、グロテスクな弱さを思う。

異性にもてたり、セレブをやったりしても、実態は、醜い程の未熟さ、地獄が存在していることに気づかされる。

自分の内面の教師と、静かに一人対話して、心の内奥の声を聞けば好い。そのような孤独なひと時こそ、人生の夜空に輝く星になり、人生が迷わぬように導く羅針盤になってくれると思う。

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August 08, 2009

荘厳で、心地好い孤独死の存在

大原麗子さんの死を「寂しい孤独死」の結末と、憐れむのは、何かぴったりこない。世間の薄っぺらな、野次馬の深く考えない人たちの浅はかさを感じる。

動物は、生物は、元々、死に逝く時は、人知れず一人、自然に死に逝くのが、寧ろ当たり前。誰かに、看取られながら逝くのは、幼児っぽい、人間社会の甘えではないかと思う。

お世話になった人達への感謝、出遭った人生への感謝を想いながら、一人で逝くのは、寧ろ、心が落ち着き、荘厳で、心地よい死に方ではないかとさえ思う。1週間後でも、何時発見されるかは、たいした問題じゃない。

何時も、パーテイーをやってるような生き方は、寧ろ、あまりにも未熟な精神で、寂し過ぎると私は思う。大切に思う人こそ、自分の死に惑わされずに、元気に生きてもらいたいと思う。だから、人知れずひっそりと逝くのが好い。寝かしつけた子供を起こさないように、ソーッと枕元を離れるのが好い。

大原麗子さんは生前、修業中に餓死で逝きたいと言っていたと云う。病気もおありだったが、徐々に衰弱して、ベットの上で、穏かに、静かに、逝かれたのではないかと、私は想像した。

それも、修業を経た精神の、荘厳な、心地好い逝き方ではないかと、私は思った。

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August 07, 2009

はかなさ、幸せのリトマス試験紙

つかの間に過ぎ行く人生とか云えば、幸せな時間がある証拠ではないか?と思う。永遠であって欲しいと思うことは、幸せな人生のひと時をもっている証拠ではないかと。

つかの間に過ぎ行く、はかなさに目を向けるのか、過ぎて欲しくないと思う幸せの存在に目を向けるのか、大きな違い。

一方、長々と続く人生とか、長い人生とか云えば、何か退屈な時間も連想してしまう。長々と感じる人生は、早く終わっても好いと思うような、不満足な人生も暗示されているようにも思う。

つかの間に過ぎると感じる程、幸せ度合いを測れるようにも思う。

はかなさの感覚は、幸せのリトマス試験紙かも知れない。


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August 05, 2009

観察する生き方

自分の人生を、他人事のように、ただ観察するように生きてみるのも、力が抜けて、新鮮で、心地好い。興味深く、野次馬的に、自分の人生の展開を眺めてみる。ちょっとした映画鑑賞気分にもなれる。

自分の力で、自分の描いたシナリオで、自分の理想通りに生きようとすると、疲れ果てて、病気になってしまいそうに思う。自分の美学のために命を落とす人だっている。

「こうあるべきだ」と云う生き方の息苦しさを思う。

「ヘー、こうなってたんだ」と好奇心いっぱいに、周りを観察する生き方は、宇宙のリズムに合ってるように思う。人生に心地よく、漂うって感じが好い。

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August 04, 2009

草の香り、蝉の声

若田宇宙飛行士の、「地球へ返って来て、草の香りが、温かく迎えてくれた気がした。」と云う言葉を聞き、草の香りを想い出した。

通勤途上、道の脇にある草むらの香りに注意を凝らせてみた。微かな草の香りに、若田さんの気持ちを想像してみた。そして、「今、地球で、私と云う生物が、生きている」って云う感じを味わった。その生物が、今日は、靴をはいて、電車に乗って、会社へ行くとか思うと、妙に可笑しかった。

蝉の声も、心地よかった。今鳴いている蝉は、どんな蝉も、今年の夏だけで終わりと思うと、わいわい騒ぐように鳴く蝉も、ドンドン鳴きなさいと応援したくなった。

天まで届くほど、大声で鳴きなさいと思った。

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August 03, 2009

成功も、幸せも、未熟さが故に

成功も失敗も、未熟な故に起こることでは同じ。幸せも不幸も未熟さが故に起こるのも同じ。

不図、そんなことを想った。

未熟だから、単純だから、成功だとか、失敗だと思い込んでしまう。未熟だから、浅はかだから、喜び過ぎたり、悲しみ過ぎたりする。

成熟した精神には、成功も失敗もなく、幸せも不幸もなく、ただ、自然が坦々と存在するだけ。

でも、ちょっとした、人生の職人は、人生を60点くらいに、やや成功や幸せを感じるように、自分を慣らせて生きているように思う。ちょっと、計器をずらして生きているように思う。その60点くらいに調節している微妙さが、職人たる由縁。それは、思い通りにならないことさえも、愉しめる人生。

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August 01, 2009

かぐや姫を送るように、

人生の出遭いと別れを、かぐや姫を送るように思えばよい。

かぐや姫を送り出した後、夜空を眺める。

この世に、この私の傍に、いてくれてありがとう。と云う気持ちで、月を眺める。

そんな、別れなら、寂しさは、いつか、隠し味となって、ほのぼのとした想い出になる。

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July 31, 2009

惜別の日

今日は、会社の若いアラブ人の夫妻が、3年半の任期を終え、本国に帰任出発する日。

この半年、一緒に、色んな場所に、沢山行ったなーと振り返る。アラブ音楽を聴きながら、伊豆・富士、日光・房総などドライブしたことを想い出す。渋滞でさえも、談笑しながら、愉しかったなー。北海道の雪も見れて良かったなーと思う。

本国では、彼等の両親兄弟姉妹が待っている。彼等にとっては、いずれ帰る故郷。一番自然な場所。

日本の想い出は、遠い異国の想い出として、人生の忘れえぬシーンとして残るだろうと思う。私も、人生の一つの忘れえぬシーンになった。

今日は、人生の節目で、自分の子供を送り出すような気持ち。私の両親がそうであった様に、晴れやかに送り出したい。

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July 30, 2009

大失敗、大成功

大失敗した自分を想像してみる。そして、「参ったなー」と、途方にくれて、つぶやいてみる。また、大成功した自分を想像してみる。ガッツポーズを取り、ニンマリと笑ってみる。

そして、自分の人生を思うと、「結構、器用に、真ん中を歩いているじゃん」と思う。

大失敗も大成功も、そう思った時は、全体が見えてなく、身体が宙に浮き、危険そのもの。

私は、サーカスの曲芸の様に、手に持った棒でバランスを取って、器用に歩いている様に思う。時折、神様の拍手も聞こえそうな気がする。

大失敗も大成功も、大差ない、世界がある。

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July 25, 2009

「私はどうなってもいい」の境地

心を魂を、身体を、清々しくしてくれる境地がある。それは、「私は、どうなってもよい。他が良ければ。」と云う境地。

この境地の存在と、この境地の想像は、心が震え、圧倒的な感動に覆われ、喜びのマグニチュードは何にも及ばない。

「あの人が幸せになれば、周りが救われれば、私はもうどうなってもいいんです。」、こんな境地を、何故私は、憧れるのか。それは、母や父が、私に、この気持ちを持っていたことを想像するからです。

そして、私は、母や父を、宇宙や自然に置き換えて考えて、ものすごく穏かな気持ちになることもあります。

「私が、幸せになる」これが、全ての苦しみ、悩みの根源。「私」への執着を捨てるところに、見えて来る世界は、光輝く、調和の世界。私への執着は、他との軋轢となる。大海に気づかず、波と波がぶつかり合うが如し。

「自他一如」「自他不二」の世界。「私」と、「他」が統一された世界。波が大海に気づく瞬間。波にこだわることはない。私は、人生に、穏かにただようように生きたい。

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July 21, 2009

父親の言葉の情景

私が子供の頃、父はよく、私や、姉、妹、弟が家から出掛ける時に、「ハンカチ・チリ紙持ったか?」と、口癖のように、またちょっと茶化したように云ってニヤニヤしていた。

また私が大学時代、横浜から大牟田にたまに帰省すると、何か話したいのに、モジモジして、ぎこちなく、周りに近づいて来て、「福岡空港行きのバスは、東新町発・・時・・分ばい」とか、突然、脈絡のないことを云っていた。

私が、18歳以上になると、「酒は、飲み習うたかい?」とか云っていた。酒を飲むことを習うとか云うのは、如何にも、田舎っぽく、年寄りっぽく、可笑しく感じた。「酒は飲みなろうたかい?」とか云ってたのは、実は、私と飲みたかったんだなーと、今は痛いほどわかる。

何気ない、遠い日に聴いた父の日常の言葉が、何故か、モジモジした愛情を感じて、懐かしい。

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July 18, 2009

ジオラマ・蟻ん子・シルバニアランド

自分が見ている世界を、模型の立体地図・ジオラマのように想像してみる。そして私は空中から、そのジオラマを見ている。家々や、人、ビル、車、犬など、全てミニアチャーで精巧に造られている。

人が皆、"蟻ん子"のようにも見える。自分は、もうガリバーになった気持ち。

シルバニア・ファミリーのような、ウサギの家族の国、シルバニアランドの小さな模型を想い出す。

人生で、私が見ている光景は、シルバニアランドのような、可愛らしいジオラマ。

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July 17, 2009

ダイヤモンドと石ころ

「ダイヤモンドと石ころが同じに見える」境地。これが修業の度合いを知れる境地だと思う。考えるだけで、嬉しくなる境地。

大自然、宇宙にとっては、ダイヤモンドも石ころも、差はない。宇宙を構成する一物質。原子の世界では、組み合わせの違いに過ぎない。波と大海のようなもの。波に惑わされれば、大きな差として見えるだけ。

それぞれの存在に、大きな価値や少ない価値を付けるのは、人間のエゴの所産。滑稽な、惑わし。

「ダイヤモンドと石ころ、大差なし」、私はそんな、生き方をしたい。

エゴ性の放棄も、これで測れる。

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July 16, 2009

世代をつなぐ共同修業

修業とは、自分の人生だけのことではなく、親達の世代から、引き継がれて来た道のり。今の私は、過去の親達の修業の集大成。

修業とは、エゴ性の放棄。南極の氷のように分厚い氷を、一つ一つ、取り除いて行く作業。母も父も、作業してくれた。その両親が、修業してくれた後を、私が、シャベルで、またコツコツと、エゴ性の氷を取り除く。両親の体験は私の体験。一緒に作業しているように感じる。

エゴ性は、全ての苦しみの根源。エゴ性の放棄の先には、永遠にして安らいでいる世界がある。全てが私であると感じられたら、永遠にして安らいでいる世界が垣間見える。波である自分が、大海であることに気づくことと同じ。

何世代にもわたり、一緒に作業していると思えば、嬉しくなる。修業は、ただ、一所懸命に、氷を、曇りを、取り除いて行くこと。単純な作業。でも崇高な、愉しい修業。母と父と、心の中で、作業歌でも歌おうかと思う。

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July 15, 2009

「一度」

「一度」と云う言葉の意味を、これほど深く、感じたことがあっただろうか。

ピアニストの辻井伸行さんの言葉だと云うのを聞いた。

「一度だけ、僕の目が見えるのが叶うなら、また、すぐ見えなくなってもかまわない。僕は、お母さんの顔を見たい」と。

またすぐ見えなくなってもかまわない、一度、お母さんの顔をみれば、長い人生、一生、その面影は脳裏に焼きつく。

一度だけ見た光景でも、人生に強烈に残るシーンがある。

「一度」と云う言葉に、秘められた覚悟や憧れ。人生の美を想った。

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July 14, 2009

奴隷開放のような開放感体験

私は長年いた会社を7年前に早期退職した時、奴隷開放のような、何とも云えぬ開放感を味わった。

男性の場合は、開放されるべき重荷は、仕事であると云う。

女性の場合は、開放されるべき重荷が、何と「夫」であるとの、週刊誌の記事に、内心大笑い。余りにも、滑稽な人間関係の存在。

男は、進んで仕事を見付け、あげくのはては、奴隷の気持ちで開放を願うか。女は、進んで伴侶を見付け、あげくのはては、奴隷の気持ちで開放を願うか。

共に、傑作な人生展開、人生の悲劇・喜劇。

「重荷にならぬ仕事」、「重荷にならぬ夫」。これが、良い人生のわかり易いキーワードだな。なんて、妙に納得しながら、考える。

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July 11, 2009

遠足の前日の子供のように

生も死も、喜びでもなく、悲しみでもないと思う、ただ自然の営み。

生は、朝の光の清々しい輝き、小鳥の声。

死とは、一日の終わりに、追憶の中で、オレンジ色に輝く夕日を眺めるような、穏かな安らぎ。明日の遠足を夢見て、そわそわして、枕元にリックを置いて寝る子供のように、床につけばよい。

毎日、生と死を繰り返していて、その集合体が人生なのではないかと、私は考えてみる。

朝に、生まれる清々しさを感じ、夕べに、終わり逝く夕日の輝きを見て、次の日の新たな朝を感じて眠る。

生とか死とかは、大自然のリズムやうねりのようなものではないのかとも思う。

私は、死を考える時、「遠足の前の日」と云う響きが好きだ。

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July 09, 2009

人生職人

科学者は、何か興味のあるテーマを、深く掘り下げて研究して行く点では、偏執狂的にも思える。

芸術家は、人間の五感の生み出す「心のさざなみ」のような動きを、大きく拡大して表現する。これも云わば、偏執狂的にも思える。

そこへいくと、職人と云う響きは、健康的で好い。職人的なこだわりは、科学者や芸術家と違って、無邪気な健康的な響きを感じ、極自然な、可愛いこだわりのように思える。

「人生職人」、「人生マイスター」。病みを感じさせない、たたき上げた人生観。時を経て、飴(あめ)色に輝く木目を感じさせるような人生観。そんなことを連想した。

私は、人生と云う家を造る「職人」になりたい。

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July 08, 2009

神様の性格

神様と云う存在を、時折イメージして見る。

「久しぶり!」と声をかけたくなる時もある。「最近顔出さないね」など、こちらは、飲み屋のママさんのような時もある。

「あん時は大変だった。あれは何のつもり?」と神様に抗議したくなることも多かった。でも、神様が、ひょんきんに見えることも多い。「そんなことして、何の意味があんの?」と、意味不明も多い。

危機一髪で救って貰ったと思う時は、「役者やのー!」と、有難く、関心する時もある。時折、神様は手荒。

結局、今は神様に、「全部お任せ」、無責任な「丸投げ」の気持ち。細かい注文は、もういい。貴方の性格がわかったから。

神様と道で出遭ったら、言葉は交わさず、じっと会釈して、数秒後、お互いに、声を出して笑い合いたい。そして、それで十分。波である私が、大海である神様を確認する。

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July 03, 2009

想像の中で語りかける人の存在、人生の喜び

現実に会わなくても、心の中で、いつでも自由に話せる人がいることは、幸せなこと。

既に亡くなった人でも、それは関係ない。よく会う人か、余り会わない人かも関係ない。結局、もう今生では、二度と会えない人であるかも知れないが、そんなことも関係ない。

今までの人生で、会えたことで、とても影響が大きかった人、影響のマグニチュードが大きかった人。

想像の中に親しい人がいれば、心の中で、いつでも自由に語り合える人がいれば、それはとても幸せなこと。嬉しいこと。人生の喜び。

物理的に、誰かと一緒にいることにこだわらず、心の中の自由な世界に、そのような親しい人がいることが、人生の喜び。それは、物理的に一人でいる時間でも、全然孤独を感じない境地。

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July 02, 2009

人生、遠くから見るのも好し

人生を、遠くから見るような気持ちは好い。

遠くから、人を見るのも好い。

余り、近づかなくて、遠くから、人生も、人生で大切な人も見るのも好い。

ちっちゃい子なら、好奇心で近づいて行く。

近づいて見ると、遠くから見る景色には及ばない。

遠くから見ると、一人でいても、音楽や文学や絵画が、益々彩りを添え、心を癒してくれる。

それは、心の余裕のようなもの。

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July 01, 2009

ネバーランド

最近亡くなったマイケル・ジャクソンが云っていた言葉をTVで聞いて、メモした。

「自分に近づく人は、何でも、むしり取ろうとする」と彼は云っていたと云う。

貪り(むさぼり)は、人間の苦しみの根源。貪る人々の地獄。

成功すればするほど、質素になり、その成功の成果を惜しみなく、貧しい人々へ与えることが出来たら、どれだけ穏かな人生になっていったことだろうと思う。

彼の夢の邸宅、ネバーランドは、人間の貪りの象徴のように思える。

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June 27, 2009

ちっちゃな子の歌

みんな、アンパンマンを歌っていた、ちっちゃな子供だと思えば、いやな人も、憎い人もいない。

今、無邪気に、歌っている子供が、将来、悪い人間や、苦しみの人生を送るかも知れないと思えば、慈悲の心が湧いて来る。

その、時おりに見せる、人生の形態に、波と大海を感じる。波は色々。大海は変わらず。

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June 21, 2009

観察する世界、変えようと試みる世界

幼児の頃、子供の頃は、周りの世界は、全て、観察する世界だった。好奇心や興味で、世界を観察する日々だった。

そしてその後、青年期に入ると、世界は観察するより、こうあるべきと、変えるべき世界に見え、ちょっと傲慢になっていたのではないかとも、今は思う。

人間が人間の知恵で、世界を変えようとすることも含めて、それでも、大きな自然の中では、法則の中では、調和しているのではないかと今は思う。どんなにあがいても、お釈迦様の手の平の上であったように。

そして今、再び、観察する世界に、戻って来た境地を感じる。

「二元に遊ぶ境地」が、私の求める境地。

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June 20, 2009

社長・会長のあと、経理事務の奉仕

一昨日、聴いたコンピューターソフトの会社の会長は、将来、会長退任後どうされるのかを問われた時、今でも、ある若い起業家の経理事務をボランテイアでやっているとのことであった。

一人でリサイクル関係の仕事をして、飛び回って苦労している若い起業家の苦労が、放置出来ず、経理事務をやってあげてるとのことだった。

「人は、ナンセンスとか、何してるのと不思議がるが、私は、目の前の困った人を放って置けないんです。」との言葉だった。魂が浄化されてる人の例を、現実にみる思いだった。

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June 19, 2009

コンピューター用語と禅

昨日夜は、ビジネス交流会で、日頃とても穏かで修行した僧のようにも見える、コンピューターソフト会社の会長さんの人生論の話を聴いた。人格が高められてらっしゃる印象だからこそ、話を聴く気になれ、そしてその通りだった。

「ハードウェアは有限で目に見え、身体みたいなもの。ソフトは、目に見えないが、無限の魂みたいなものと感じる」と評された。

ソフトが残っていたら、ハード(身体)を与えれば、コンピューターは動く。ソフトと云う表現の中に、目に見えない永遠のもの、大自然の法則みたいなものを感じとっておられた。

自分だけ幸せになることなど意味がない、落ち着かない、皆と一緒でいたい。金持ちになるより、泥棒が寄り付かない質素な人生が好いとの哲学であった。そして実際に、その考え方通り、質素な生活をしておられる。

禅の哲学、ヴェーダンダ哲学に通じる世界を、自分の50年の起業生活の中から、禅の修行をせずとも、感じとっておられた。人は、その表情・仕草・言葉に人格が現れるものだと思った。思った通りの素晴らしい人であった。

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June 14, 2009

愛おしい虫の生態

虫は人間と出会うと、出会いがしらに、必死に逃げようとするのも多い。人間と云う恐竜見たいな生きものに睨まれると、さぞ怖かろう。

もうだめだと思ったら、ありだけの抵抗のため、クワガタ虫などは角を広げて威嚇しようとさえする。

健気に、必死に生きようとする生命。

これが、可愛く見えませんか?と昨日、住職は云った。

宇宙を構成する、生きとし生けるもの、全てが調和の所産。必死に、真剣に生きようとする虫さえも、よく見れば、愛おしく見えて来る。虫も、私そのもの。


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June 02, 2009

悟りはエゴの放棄

悟りは、得るものではなく、エゴを捨てて、捨てて、捨てきった切った先に現れる境地と知った。先日の住職の話。

苦しみがあることが、悟りへの入り口であり、苦しみの種子は、光と水を与えられなければ、自然消滅する。

その、光と水は、まさに、自らのエゴ。

悟りとは、エゴの放棄。

悟った人は、悟ったとかの意識もなかろう。

悟ったと思う人は自らの勘違い。

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May 29, 2009

人身事故

一昨日の朝、通勤の時、東横線が人身事故で、白楽駅から、東神奈川駅まで歩いて、会社へは30分遅れて行った。妙蓮寺の踏み切りで、男子高校1年生の自殺だったことを、昨日、行きつけのジャズ喫茶で知った。

電車の人身事故による遅れは、最近は、よく起こり、年間自殺者3万人との統計のことを想い出した。

1日に約100人が自殺していることになる。私の知らないところで、死を前にして、呆然と、彷徨って生きてる人が、沢山いることを想った。助かるためには、どういう方法が残されているのだろうか、何がいるのだろうかと思った。

そのとき、「もう安心、貴方の顔が見えたから」と云う言葉を想い出した。

一生のうち、短い期間、出会っただけでもよい、その人を想像するだけで、死をとどまらせてくれる人の存在。

それは、私にとっては、母であり、父。亡くなって、なお、私の生命を、支えている、絶対的なゴールキーパーであることに気付いた。

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May 26, 2009

人生を俯瞰する想い、そして手製の羅針盤

自分の人生を鳥のように上空から、俯瞰して見れたら、さぞ面白かろうと思った。

「ああすれば、良かった。こうすれば良かった。」と云う思いがあるかと思えば、どちらでも良かったようにも思う。

これから起こるであろうことも、俯瞰して見る。見えるようで、ちょっと霞んで見えにくいようにも思う。でも、若い頃のように、どちらに進んでいるのか、皆目見当が付かないと云うことはない。ちょっとした手製の羅針盤も作ったし。

適度に幸せを感じ、適度に試練をあたえられ、季節がめぐるように、自然に、自然に、生きていきたい。

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May 24, 2009

人生の場面、巻き戻し・早送り

昨日は、三池高校の大同窓会だった。市ヶ谷アルカデイアに、今年は約270名集まったとのこと。姉の同窓、妹の同窓、義兄、なども、例年この時には会える。いつも、大牟田の草木饅頭がでる。蒼穹万里♪の校歌も歌える。

私は、人生のそれぞれの時期を想い出させる同窓会は、いつも楽しみにしている。想い出の場所に旅するようにも感じる。

1学年500人以上いるくらいの大きな高校だったのに、この同窓会では、同じ学年では、集まるのは7~8人。それでも、当時話したことはなく、見かけた程度の同窓が、今では長年の友人のようになって語り合っている。

それは、当時の風景と語り合っているようなものにも感じる。三池山や万田山、築町、記念グラウンドなど、背景に浮かべながら。

同窓会は、人生の場面を、巻き戻したり、早送りしたり、自由自在。

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May 23, 2009

信長も西行も、ほどほどに

力強く、冷徹に、伝統を打ち破った織田信長を尊敬する人は案外多いのには驚く。仕事中心の人に多いのかも知れない。

闘いの世界、世俗を捨て、旅に出た西行を好きな人も多い。仕事や社会の重圧から開放を願う、中高年に多いと思う。

共に極端な生き方は辛いと思う。

極端な行為・作用は、極端な反作用を呼び起こす。そのような生き方も、反作用の一環であったのかも知れない。

信長のような生き方は周りを残酷に処し、そのエキセントリックな生き方では、自分も息切れして辛かろう。

西行のような生き方では、身勝手過ぎて、本人も、周りの人も辛かろう。

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May 22, 2009

ピカピカの1年生

昔、「ピカピカの1年生♪」と云う宣伝がTVであった。

坊主頭で、あどけなく、笑顔で、はしゃぐ、新小学1年生の姿が、まさに、朝日を見る時のようにすがすがしく感じた。

そう云えば、人生に於いて、毎日は、「ピカピカの1年生」と同じじゃないか。

何が起こるかわからないが、これから起こることは、ピカピカ。

まさに、いつまでたっても、人生は1年生。田舎のイガグリ頭の小学生を想い出して密かに微笑む。

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May 21, 2009

裏を見るか、表を見るか、どちらでも好し

表を見るとき、幸せで、裏を見る時、不幸せと云う感じなのかなと思う。

表ばかりを見たがり、表しか見ない人もいる。必死で、幸せと、自分に言い聞かせる人もいる。

裏ばかり見てしまう人もいる。どうもがいても、自分が不幸に引き込まれて行くと思う人もいる。

表を見た時に幸せ、裏を見た時に不幸。見たい側を、その時々に自分で決めれば好い。

裏も表も、切り離せない、一つのセット。

力まずに、裏も表も、適当に、時々、眺めて見れば好い。それぞれに、味わい深い。

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May 18, 2009

「命がけ」では、まだ甘い

「命がけ」では、まだ甘いと住職は云った。

最初から、「命を捨てろ」と。

確かに、最初から、捨て切れた人の力は、神々しい。

命がけと云っても、確かに、ひるんでいる様子が透けて見える。

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May 15, 2009

大自然の中のそれぞれの役割

人は、それぞれに与えられた役割を演じている。逃れようもない役割を演じている。それは、それぞれの人が持つ業みたいなもの。

それは、自らが解決するしかない、自然の掟のようなものだとも思う。

そして、それぞれの人が負わされている役割が合わさって、宇宙は調和を保っているのだとも思う。

色々な役割を負わされた人がいる。そう思えば、人の役割に対する、憐れみの情も湧いて来る。

大自然の営みを見るように、色々な人生の展開を眺められたら好いと思う。

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May 14, 2009

酒は1合程度が好い、幸せも

酒は1合程度が、ほろ酔いで好い。健康にも1日1合程度なら百薬の長にもなると云う。

百薬の長にもなる酒が、止まらなくなると、身体を壊してしまう。

幸せや、お金や、出世も、同じように、未熟な人は、止まらないくらい求めてしまいがちだが、ここに身体も精神も壊してしまう要素が潜んでいると思う。人生を壊してしまうのが、貪り・怒り・愚痴。

貪りは落とし穴のようなもの。

酒は1合程度なら、百薬の長の意味が、今はよくわかる。

酒が1合程度の、幸せで好いと思う。そして、酒が1合程度の幸せなら、すぐそばにも散らばっている。

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May 13, 2009

問題は解決するためでなく、学ぶために

「人生に於ける、あらゆる問題、苦しみは、解決するためではなく、学ぶためにある」とは、素晴らしい人生哲学だと思う。

人生で困難に遭遇した時は、神は私に何を云わんとしているのか? どの様なメッセージを伝えようとしているのか?と自問すれば好い。

全ては、宇宙の法則に則った現象。大きな宇宙の、自然な現象の一部なのだから。

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May 09, 2009

人生の優先順位

昨日夜、終業後、浅草で、ノルウェーの友人夫妻の17日間の日本滞在の最後の日の会食をした。千葉で働く娘も駆けつけてくれて、4人で楽しい夕食であった。

私は、結局、日光・箱根・奈良・京都と、その内4日間、夫妻に同行した。その時撮った写真も、全てCD化して、昨晩、お土産として渡した。

彼らの、人生の想い出の旅の記憶の中で、将来、私と云う日本人が連想されるであろうことは、何とも幸せなことである。

私は、周りの人の、かけがえの無い、人生の大事な場面と感じる時、万難を排してでも、そこに立会いたい気持ちになる。常に、そのようなセンサーを持って生きたい。

そうすれば、人生は、アッと云う間に終わってしまうようなことは無いと思う。

想い出す場面が多いことは、人生を豊かにしてくれる。

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May 08, 2009

黙祷が恒例の同窓会

亡くなった父が属していた、満洲・鳳城の同窓旅行会が今年は鎌倉で5月18日19日開催される。満洲を知らない、戦後生まれの私は、父と母の暮らした満洲が無性に知りたくなり、数年前から、毎年この鳳城会には出席するようになった。毎年、全国各地で開催され、私は、仕事を休んで参加する。

当時、小中学生だった方々が主に、参加され、直接、当時の満洲の話が沢山聴ける。当時の満洲の情景さえも浮かんで来る。

今回は、小田原の妹にも、初参加を強力に薦めた。私と妹は、満洲体験者の方々より、はるかに若い戦後の日本生まれではあるが、このような会に、兄妹そろって出席出来ることは、人生の忘れえぬ一場面になると想う。

高齢の方も多く、毎年、黙祷が恒例の同窓会で、ちょっと寂しい気もするが、それも、自然の営みの流れと思えば、益々、今お会いできる機会を大事にせねばと、その時が輝く。

鳳城会の方々と妹と、酒を組み交わしながら、人生を語る。

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May 07, 2009

仲の好い夫婦、仲の悪い夫婦、それぞれの光景

今回、観光来日したノルウェーの友人夫妻は、結婚39年の仲の好い夫婦であった。観光案内している間、時折手をつないだり、ちょっと微笑ましくもあった。同時に、39年の結婚生活を、監獄だよとか冗談も云っていた。

今の私は、仲の好い夫婦、仲の悪い夫婦、それぞれに、人生の味わいとすれば、等しく素晴らしいと云う境地を感じる。

仲の好い夫婦にも、相手を喪失することへの怖れや、ちょっとした秘められた違和感、漠然とした不安など、悩みに於いては、仲の悪い夫婦に引けはとらないとも思う。

仲の悪い夫婦は、自分を表現し尽くしている部分もあり、気楽でもある。ちょっと世間には淋しく見えることはあるが。

仲が好くても、悪くても、それぞれに、人生は素晴らしいではないかと思う。

目の前に広がる大自然を味わうように、その自然な展開を味わえば好い。仲が好くても、悪くても、どちらの境遇でも、幸せのマグニチュード、不幸のマグニチュードは、同じくらいに共に存在していると思う。

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May 02, 2009

不幸の表現は自然、幸せの表現は滑稽

「そんな幸せも長くは続かなかった。」「不幸が、これでもか、これでもかと、次から次へと襲った。」とか云う表現は、よくTVで聴くことがある。そのような人生は、さぞ大変だろうと悲しくなる。

そのよくある文章の、不幸と幸せを、逆に入れ替えて試みると、ちょっと人生観に刺激になると思う。

「そんな不幸も、長くは続かなかった。」「幸せが、これでもか、これでもかと、次から次へと襲った。」

換えて試ると、滑稽にさえも響く。

不幸に対する、大げさな扱いは自然で、幸せに対する大げさな扱いは滑稽に響く。

人は、不幸に対する虫メガネしか持ち合わせていないのだろうか。


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May 01, 2009

神様への頼みごとは不要

神様への頼みごとは、誰しもが幼い頃から体験すること。

だが、座禅の哲学で、神とは対等ではなく、神とは契約するものではないと云うことを何度も、気付かされた。

「条件付きの幸せを求め、その条件を神に頼む」ことは、余りにも子供っぽく、愚かな、哀しい願いのようにも感じる。

条件を付けずに、大安心の、穏かな幸せの境地は無いのか?これが、住職が若い頃、苦しみの末に出家された時の心境であったと云う。

「神にはゆだねるもの、条件を付けて契約するものではない」。絶対的に神にゆだねた時、身も心も一挙に軽くなるような気がする。

「結果は、全て神のもの」。

どんなに高いところから飛び降りても、下では、神のセイフテイー・ネット(安全網)が、フワリと身体を受け止めてくれている。確かに、人生では、そんなことが多かったと思う。母の微笑みを想い出す。

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April 30, 2009

同じと感じる時、違うと感じる時

人は、他の人と同じと感じる時、安心や幸せを感じると思う。その人が大切な人であれば、なおさらのこと。

他の人と、何か違うと感じる時、全然違うと感じる時、孤独や不安や、不幸を感じる。

同じと感じる時も、違うと感じる時も、共にあって当然。それは自然界の当たり前の現象だと思う。それは、ただ面積の問題。同じと感じる領域が大きいか、小さいか。

その面積は、大きくても、小さくてもよい。

そして、同じと感じる心、違うと感じる心を、自在に虫眼鏡を当てて拡大して見るのも自分。

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April 29, 2009

まな板のトントントンと云う音

姉から聴いたことがある、母が再婚する時の心境を。

満洲から引き上げて来て、子供は満洲で病死、夫も死別、故郷、長崎の街で一人暮らしを始めた頃。自分の分だけを作る食事の時。まな板のトントントンと云う音が、哀しくて仕方がなかったと云う。

誰かに、この食事を食べさせてあげたいと、心は叫んだと。

その後、母は私の父と知り合って、再婚した。父も満洲から引き上げ、妻を病死で喪っていた。

誰かに、何かをしてあげたいと、心の奥底は叫んでいる。

そして、母は、亡くなる前に姉達に云ったと云う。父は、いい人だったと。

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April 28, 2009

所有せず、執着もせず、

何か、目に見える価値ある物を所有したがるのは、通常の人間にとって当たり前のこと。より高級なレベルの衣食住を求めて生きる。

人間関係に於いても、大切に思う人と、自分が誰よりも一番近い人になりたいと願う。

所有は、それを維持するための心配や苦しみで、寧ろ、自分に余裕がなくなって行くのに気づく。所有することが寧ろ、苦しみの根源になって行く。

一番近い人たることを願って、その隔たりを感じる時、その哀しみは厳然と迫って来る。60兆もの生物たる細胞から成る人間が、それぞれの個体たる人間が時に一体感を感じていれるのは、自分を中心に考えるあまりの悲しい誤解に過ぎないと思う。

所有せず、執着せず、なおかつ、人生の素晴らしさを感じられる境地。それが、宇宙と一体化した、大安心の世界だと私は夢見る。

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April 21, 2009

蜜壺に足を取られる蜂のよう

哀しみ、苦しみの最大の原因は、自分を引き離すことが出来ないことと云う。

それは、蜂が、蜜壺の蜜に、足を取られて、もう離れることが出来なくなってしまった状態に似ている。

蜜を取りに来たものが、実は、享楽の餌食になっている。

そんな、例えを、数日前、住職から聴いた。

蜜に絡み込まれず生きられれば、人生は晴天の輝き。

蜜に絡み込まれない最大の秘訣は、「少欲知足」。禅の言葉。

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April 20, 2009

自分より大切な存在の発見

昨日、日本食育協会主催の食育シンポジウムに行ってみた。内田美智子さんと云う助産婦さんが話はじめた時、会場は涙の海と化した。

赤ちゃんを産んだばかりの母親は疲れ果てています。呼吸が整い、落ちついてから、その胸に生まれたばかりの赤ちゃんを抱かせます。母親は、赤ちゃんの顔をじっと見詰め、涙を流します。

お腹の中に爆弾を仕掛けられた感じ。破裂して腰から下が砕け散った。仕掛けたのは神様で、散ってバラバラに壊れたのは、「自分が一番大切」と云う勝手な想い。自分より大切な存在に出逢いました。これは、お母さんになったばかりの、名もない普通のお母さんのアンケートへの書き残しだったとのこと。

彼女の書いた本(西日本新聞社)が、題名が「ここ」と云う。講演の後、会場の彼女の書籍コーナーは、騒乱のような、本を買い求める群集で溢れた。

助産婦、内田さんの話は、どの著名人の話も、かすんでしまうほどの、神々しいものに感じた。

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April 19, 2009

爽やかさの根源、エゴ性の放棄

「耐え抜いた人には、爽やかさが出て来る」と、住職はおっしゃった。

何故、耐え抜くと爽やかさが出るのかと云えば、それは、「エゴ性の放棄」があるから。それは、究極の「人格の完成」ですと。

苦の中にこそ、エゴ性の放棄がある。良い物も、苦しいものも、共に受け入れることが、人格の完成に繋がると。

住職も、そのために修行してらっしゃる。そして私も。目が、涙で曇るほどの感動だった。

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April 13, 2009

任運自在

「任運自在」と云う言葉を知った。

全てを神の手に、運に任せること自在の境地。

結果は、神のもの。

全ては、宇宙の摂理、神の摂理の出来事。

懺悔と感謝に始まり、そして自己を忘れゆく道だと感じる。

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April 12, 2009

英雄には敗北者、勝ち組には負け組、そして心の平穏とは、

英雄が生まれるには、敗北者が要る。

勝ち組が生まれるには、負け組が要る。

他を犠牲にして、得られるものに心の平穏は無い。

勝ち誇ったガッツポーズには、恐ろしいほどの人生への無知、エゴが隠されている。

英雄、勝ち組の空しさには、人生では早いうちに気づいた方がよい。

英雄も敗北者も、勝ち組も負け組も無い世界を、少しでも早く知ることは、平穏で幸せな人生に早く近づけてくれる。


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April 11, 2009

心の中の自分の寺

昨日の夜、新宿ウェルシテイーの会議室で開かれた座禅会に参加した。座禅終了後、来ていた知人と、同じ電車で横浜方面に話ながら帰った。その方は、"一人一寺"の会に入ってらっしゃり、自分が設立した自分の寺を持ってらっしゃると云う。

「真道山・日精寺」(しんどう山・にっしょう寺)、「真の道を求めて、日々精進する」と云う意味で付けた名前とのことであった。

心の中に建てた自分の寺とのこと。その人は、その寺のご住職と云うことになる。

毎日、心の中の寺の、境内の枯葉を掃いたり、読経をしたり、してらっしゃいますか?と私が尋ねたら、とても好い笑顔を返して下さった。

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April 08, 2009

北国の小動物・オゴジョ

絵葉書で、雪の中から顔を出す、北国の小動物・オゴジョの写真を見たことがある。イタチのような生きもので、雪と同じ真っ白。

あのような生きものを、北国の雪の草原で見かけたら、さぞかし感動的だろうと思った。

ちょっと、見かけて、すぐ隠れて見えなくなってしまっても、そのオゴジョを見た感動は一生の宝になると思う。

そんなことが、人生にもあると思う。

人生の中の出会いも、そのような遭遇と思えば素晴らしい。

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April 03, 2009

見果てぬ夢

見果てぬ夢は、常にあった方が好い。それは、ずっとそのままであることが、むしろ素晴らしい。

見果てぬ夢は、実現すると、急速に色があせていく。人生を経て来ると、何となくそう思う。

坂の上の雲を見ながら、坂道をゆっくり歩くのが好い。

見果てぬ夢は、精神を子供のように、純真にしてくれる。

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April 02, 2009

人生の聖地

最近、九州から旅行で上京した弟家族との時間の余韻がまだ強く残っている。

待ち合わせで、六本木・交差点に弟家族4人を見付けた時の光景が、何か感動的。

これから、六本木交差点に来ると、この光景を想い出すだろう。一緒に入った中華料理屋も。

人生には、色々な、大切に想う情景がある。その場所に立つと、その時の情景が、鮮やかに蘇る場所がある。

私は、心の中では、その場所を、密かに「人生の聖地」と呼ぶ。

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March 28, 2009

家族が病気した時の心の動き

先日座禅合宿の時、「自分が深刻な病気した時、貴方なら家族には何を望むか?」と、住職に問われた。

その時、「家族がずっとそばにいて、一緒に泣いてくれることを望むだろうか?」と考えた。

嘆いて、落胆して、私のことで、家族が暗い人生を歩んで欲しくない。

家族から聞きたい言葉は、「大丈夫」。「何とかなるから」。

それぞれに家族が、「個」として、力強く生きて行く力を見せてくれたら、何よりの励ましになると思う。

それは、自分の寂しさを、遥かに超越した、宇宙からの愛だと思う。そう感じられたら、看病する側も、看病される側も大丈夫だと思う。

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March 26, 2009

林に住む段階

人生の区切りの各場面を住職は紹介してくれた。

「学ぶ時期」、「家のこと仕事のことに集中する時期」、そして「林に住む時期」、その後「遊び行く時期」

「林に住む時期」って発想は、素晴らしいなーと、うっとりした。

生活に引き回され、仕事に夢中になっても、真に社会のため、人のために働いていなければ、人生の後半には、ふさわしくない。人生の素晴らしさを味わうには、ほど遠い。

林に住むような、自然の中に身をおいて、生きていながら、千の風になったように、自由に人生を、精神世界を飛び回りたい。一元を体感し、そして尚、二元世界に遊び行きたい。

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March 25, 2009

一切れの「たくあん」の示唆

座禅合宿へ行くとき、いつも感激することがある。それは、食事の後、一切れの"たくあん"を小さな椀に残しておき、お湯を自分が使った椀の大きな椀から順番に注いで、その「たくあん」で洗って行く作業。

「たくあん」で洗った、洗い汁を飲み、最後にその「たくあん」も食べる。

椀に残った洗い汁を、飲む行為は、最初、何でこんなことまでと思ったが、その後、多くの想いへ誘ってくれた。

生きることは、何かの生命を頂いて生きている。他の生命を無駄にしては申し訳ない。洗い汁をすする、その質素な振る舞いに、私は、何か高い穏かな精神性を感じるようになった。

宇宙に調和して、邪魔にならないように、生きているように感じ、穏かな安心を得る。

生きることそのものが、懺悔する存在に気づくことは、究極的には、自己犠牲や慈悲の心を誘発する。それは大安心の世界。

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March 21, 2009

地球は青かった

衛星から地表の、ある地点を見る時、近づくとみるみる詳細な状況が見え、遠ざかると、全体の山や海の地形がわかりやすく見えてくる。パソコンのグーグルマップのようなものでも体験出来る。

人生の苦しみ・哀しみ・喜び・楽しみなどは、焦点を合わせてドンドン対象に近づいている状態と似ている。画面が対象に近づくにつれて、感情が尖鋭化して行く。

そして、レンズを遠ざけ、より遠く高い所、高い所を目差して、視点を移していくと、鳥の目のように、全貌が広がっていき、ついには宇宙に溶け込んでしまう。

「地球は青かった」とは、「人生は素晴らしかった」と云う意味だったことがわかる。

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March 16, 2009

先が見える時代と見えない時代の体験、そして旅

高度成長期、終身雇用時代、よく聞いた、先が見えてつまらないと。先が見えて安定するとつまらなく感じることは多い。

今は、先が見えない混沌の時代、不安に感じて、将来が計画できる時代にして欲しいと願う。

結局、先が見える部分と、先が見えない部分が混合してるのが、人間のお好みなのだなと思う。

まさに旅と同じだなーと思った。

旅には、先が見える部分と、先に何が起こるかわからない部分がうまく混合している。

だから、私は旅が好きなのだと思う。

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March 13, 2009

思い通りにならないことの意義

思い通りにならないことの存在が、思いをかなえることのエネルギーを与えている。

思い通りになったら、ドンドン、夢が夢でなくなっていく。夢を失っていく。

思い通りにならないことが、夢を築きあげている。

夢のエネルギーも、大き過ぎなく、小さ過ぎなくが好い。


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March 12, 2009

"おたく"に囲まれて

一昨日夜はヒッポクラブで語学の会に出席、幼児がフランス語、韓国語で挨拶したり、私もアラビア語の自己紹介をしたり、幼児とゲームをしたり、いつもの語学の別世界を楽しんだ。いわば語学おたくの会。

昨日夜は、パソコンソフトのマイツールの会に出席、懇親会にも出た。会話は、これも別世界。いわばパソコンおたくの会。

その他、私は、"何おたく"かなと考えた。そうだ、"座禅おたく"、"旅おたく""食育おたく"・・・。

人は、それぞれに、何かのおたくと考えれば、可笑しく感じられる。そんなことに夢中になって。

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March 09, 2009

内面の教師の存在

外部の指導者は、その人に暗示を与えるだけと云う。

その人を真に導くのは、内面の教師だと住職は云う。

照らす自分。照らされる自分を感じる。

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March 08, 2009

「三世両重の因果」、さんぜりょうじゅうの因果

前世、現世、来世の三世は、エネルギーにおいて繋がっていると云う。重なり合って繋がっていると云う。

物質はエネルギーの所産。心が肉体を持つのであって、肉体が心を持つのではない。そして、エネルギーには法則性がある。

生まれてから40歳くらいまでの半分は前世の影響を引きずり、40歳から亡くなるまでの半分は現世の印象・気分が来世へ行く。

心は、一番ぴったりの所に落ち着く。一番波長のあった所へ行く。

これが、「三世両重の因果」とのこと、昨日住職から学んだ。

今の私は、前世の貯金を使い果たし、来世のために貯金している存在か。穏かな印象・気分を残したい。

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March 07, 2009

生物観察の如く

人を見る時に、生物観察のように、別世界を覗くように見れれば、人間関係はずーっと楽になると思う。

こうあるべき、こうすべきだ、こうして欲しいと云う気持ちが、いっぺんに消えてしまう。そして、新鮮な生物観察が始まる。

そう思うと、色んな人の個性が、自然現象の一面のようにも見えてきて、愛おしくもなる。

人は、それぞれに、自分に、周りに翻弄されながらも、一生懸命に生きてるではないか。

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March 04, 2009

一人の時間の意味、そして洞察

一人の時間が好きな人もいれば、嫌いな人もいる。

他の人と一緒にいる時、気を使う場合は、むしろ一人の時間が幸せ。

その人と一緒にいて、気を使わなくていい人なら、一緒にいても幸せ。

と云うことは、自分が気を使わなくていい人とは、自分が無神経になっていないか、相手を軽く見過ぎていないか、と云う面も考えておく必要あるかも知れない。

思い通りになるのが幸せなら、自分が一緒にいて幸せなら、むしろ自分が傲慢になっていないか気を付けなければならないのではないかとさえ思う。

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February 26, 2009

冬に輝く生きもの

「冬に生き生きする動物がいます。」と云う台詞が、映画"旭山動物園物語"の中にあった。

銀世界の中、雪にまみれて喜ぶペンギン、白クマなど。冬季閉園だった冬こそ、旭川動物園の最高の魅力に気づいた物語。

人生の苦難はよく冬に例えられる。

私の両親も、冬がとても似合う人だった。沢山の苦労があっても、苦しみは「生きとる、証拠たい。」と笑って、周りを励ましていた母。

多少の不幸なら、まるで、雪と戯れる動物達のように、子供の私達には生き生きとさえ見えた。

冬に輝く生きもの。雪にはしゃぐ生きものにも勇気を貰える。

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February 23, 2009

元ベイスターズ、盛田選手の講演

昨日は、もと横浜ベイスターズの大魔神・佐々木と並ぶ大ストッパー(1992年頃)だった盛田投手(現野球解説者)の、脳腫瘍体験(98年、2005年)の講演を聴いた。

大手術で、再起不能と思われたが、その後リハビリをして、392日ぶりに球界復帰(99年)した時の様子を彼はこう語った。

「リリーフカーに乗って、マウンドへ向かう10秒くらいの時間が、とても長く、走馬灯のようにお世話になった人達の顔が浮かんだ。マウンドが高く、輝いて見えた。」と・・・

リハビリの時は、5mの距離さえも20分くらいかけて、手すりにつかまって歩いた自分を体験して、日常、普通に生きてきたことのすごさ、有難さが、初めてわかったと。

そして彼は、5歳の時、がんで亡くなった弟のことを想い出し、講演の途中で、「ちょっと待って下さい。」と云って、1分か2分、ただ、宙を見上げて沈黙した。

その沈黙が、彼の、最大の感動を語っていたと思う。

彼は、今でも、脳腫瘍の後遺症と闘っていて、今後も闘って生きていくと思うが、彼の体験を通して得たであろうものには、禅の修行をする人が辿る道にも似た、大いなる安らぎを感じた。


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February 20, 2009

褒められたり、出世すると修行は中断

悟りへの道は、色々あって、勤労・作務(さむ)により悟った人に、仏陀の十大弟子の中の一人もいると聴いた。

ただ、箒(ほうき)を与えられ、ただ黙々と庭を掃いて、悟りに達したと云う。

一つのことに徹底的に集中していき、座禅の時の静かな呼吸の時のような状態に到達したのだろう。

ただ、勤労・作務で悟りまで高めるには、究極的な苦労がないと駄目であると云う。ちょっと頑張って、褒められたり、出世すると、修行にはならないと云う。褒められたり出世するのは修行の邪魔だと云う。それでは、サラリーマンでは、勤労により悟る境地は、まず無理。

ただ、人知れず、黙々と作業していく中で、悟りに近づくことも出来ると云う。

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February 17, 2009

例えば10メートルの人生絵巻

一昨日、TV新日曜美術館で、江戸時代の絵師、岩佐又兵衛の絵巻が紹介されていた。何メートルにも及ぶ絵巻の物語に引き込まれるような感じであった。

自分の人生を、頭の中で、10メートルくらいの絵巻に表現したらと想像してみた。夢中で生きてる人生であるが、絵巻にしてみると芸術性が増し、心地よい感じであった。

半分は描き終えてる絵巻をしげしげと眺めて見る。フムフムとか、うなずきながら見る。

そして、今日からの描き方に、適度な注文をつけてみたくもなる。配色や構図も考える。

そう思って、今日も会社へ行く。

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February 16, 2009

娘の人生観

昨日、娘と二人で会食した。

娘は今しか出来ない事、将来やってみたい事などについて語った。親からみれば、ちょっとハラハラするが、これも若さがもたらす、自然な願望かとも思った。

人間は、遺伝子に組み込まれた何か企画書のようなものがあり、時間の感覚もきちっと制限を設け、木々が葉を出したり、実をつけるように、その年齢に応じた興味があるのだろうと思った。私の人生もそのように展開して来たし、今もそのような、見えざる自然の摂理に導かれているようにも思う。

娘の人生観を聴きながら、自分の人生の事も思い浮かべながら、大きな宇宙の意思に委ねる事を思った。それは、どんな事があっても、神のゆりかごの中、お釈迦様の手の平の上。

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February 14, 2009

・・しなければならない事

「・・しなければならない」と思う事が多い程、不自由で、人生は辛い。

「・・しなければならない」事を、むしろ進んでやっていると思えば、むしろ楽しんでいるとさえ思えば、状況は一変する。楽しめば、不自由も自由に変わる。

身の周りで起こる色んな事、色々な、しなければならない事を、好奇心で眺めて見ると、ちょっと楽しくもなる。

人生にも、結構、幸せのメリハリが付いて見えてくるようでもある。

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February 12, 2009

人間関係の黄金律発見

たまたま買った英語で書いた禅の本に、凄い表現を見付けた。人間関係には、三つのパターンがあると説明してあった。

(1)ゲスト対ホスト: 給仕される人と、給仕する人、社会や個人でも、この人間関係の類が多い。だが、内実は大きな不満の爆弾を抱え込んでいる。ゲストがのぼせ上がってしまっていることが多いから。水面下の人間関係は破綻していることが多い。

(2)ゲスト対ゲスト: 最悪。 両方ともに自分が接待されて当然と思っているから、衝突は必至。夫婦の亀裂は、大概がこれだと思う。

(3)ホスト対ホスト: 最高の穏かな付き合い。 自分を客と思っておらず、何かを相手にしてあげるホストに、自然に慣れている人。そのような人どうしが巡り合えば、最高の人間関係。修行した僧と僧が出遭った時のよう。すごいと想う。そんな人間関係に憧れる。

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February 10, 2009

父ちゃんへの"ようかん"

ロンドン出張中に、日本人の方がアラブ人にと持って来られた"ようかん"の土産を私にも頂いた。

普段"ようかん"は滅多に食べない私は、その"ようかん"を見ていたら、姉から聞いた母のエピソードを想い出し、胸が熱くなった。

生前、病気で入院中の母に、姉が好物の"ようかん"を持って行った時のこと、母は"ようかん"を半分食べ、半分を残し、これは「父ちゃんの分」と云って、しまってまた姉に託したと云う。

私の両親は、満州からの引き揚げで、配偶者と死別した者どうしで再婚し、私が生まれた。人生の地獄、どん底を経験したであろう二人の、再婚後、助け合って生きて来た"人生の同胞意識"に、ただ泣けてくる。

"ようかん"を見ていたら、「父ちゃんの!」と云って、"ようかん"を手渡す時の情景、母の表情が浮かび、母の想いや、強さや、母の人生を想った。

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February 08, 2009

生き返って来たと思えば感動

人生は、その時、その時がもう既に、遠く消え去る無常の中にいると云われる。

そのような意味では、その時その時に、もう死んでしまったと思えば、分かりやすい。

そして、毎日を、生き返って来たと思えば、毎日が輝く。

その時は、もう行動に迷いは無いように感じる。

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February 05, 2009

人生の有限性

人生を、死刑が確定し、執行をまっている状態と思うと面白い。

人生の有限性から云えば、死刑とにているともいえる。

何十年後の死刑執行であっても、自分を振り返り、懺悔することは普通の人にも、大切なことだと思う。

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February 04, 2009

神のゆりかご

あまり暴れると、人間関係のゆりかごからは落ちることはある。

どうあがいても、神のゆりかごからは落ちることは無いと感じる時、大安心の世界に入る。

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February 03, 2009

春は花、道元禅師の歌

春は花、夏ホトトギス、秋は月、冬雪さえてすずしかりけり」と云う、道元禅師の歌について、住職の解釈は、「執着の無い世界」、「大丈夫の世界」、「自然そのものの世界」を歌ったものとのことであった。

執着の無い、大丈夫の、大自然に抱かれた世界か。

この歌を、かみしめる人生を送りたい。

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January 27, 2009

無一物・無尽蔵、手放すことの圧倒的な力

捨てれば、捨てるほど豊かになる感覚が今は、心地よい。

得れば得るほど、不足や乾きはひどくなる。

手放すことは、豊かになることの秘訣だったことに気付いた。手放せば、宇宙自体が私になる。

幸せの気付き、心の平穏の道。

手放すことの魔法の力。美と真理の啓示。手放すことの圧倒的な力に驚嘆する。

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January 26, 2009

人生は美術館を見るが如し

人生は、美術館を見るのと似ている。

一人でないと、じっくり味わえない。

誰かと一緒だと、気を使って、真に、美と対峙できない。

人生は、一人になる時間がなければ、その素晴らしさの深さを実感することはできないとさえ思う。

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January 25, 2009

人生の支配者の変遷

子供時代は、誰が自分の人生を支配しているのか混沌として、不明だった。

青年期は、誰か、他人が完璧に、私の人生も支配しているのだと思っていた。

そして今、結局は、自分が自分の人生の支配者だったことに気づいた。

混沌とした人生、他人が支配する自分の人生に、歯軋りする様な口惜しさを感じていた。

そして今は、自分が自分の人生の支配者だったことに気付き、過去のことは、心地よい口惜しさに変わった。

全ての世界の価値観は、今は、私が決めている。だから少しでも多く、私の時間は私が決める。気合いが入る人生に思う。

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January 24, 2009

目立つリスク

ただ目立ちたい人は、目立つことは、大変危険なことだと思う。

目立つべき、しっかりした内容もなく、ただ目立ちたいと思うことは、ボロをさらすことになる。

政治家には、自分が目立つことに耐えられる人間かを自問した方がよさそうな人も多い。

目立っても、失望から滑稽に、ボロボロになることもある。そんな姿をよくTVで見かけて、可愛そうになる。

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January 23, 2009

美しいものを見た時の衝撃

一度でも、何か美しいものを見た時、その後の人生は一変すると思う。

美しいものを見つけた時の心の衝撃のマグニチュードの深さが、その後の人生を一変させる。

時折、そんな経験をしながら生きていければと思う。

だから、芸術や、旅や、自然と対峙することは、私の人生の優先事項。

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January 22, 2009

とてつもない夢、些細な夢

青年期の夢は、とてつもない夢、年配者の夢は些細な夢を持つことが多いと思う。

でも、その後、年を重ねるにつれ、若い頃の、とてつもない夢が、実は幼児っぽい、些細な夢だったことに気づく。

同時に、若い頃、些細な夢と思っていた夢が、とてつもない夢だったことに気づく。

面白い逆転。

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January 21, 2009

「悼む人」直木賞

直木賞の天道荒太さんのインタビュー番組をたまたまTVで見た。「悼む人」は、「誰に愛され、誰を愛し、人に感謝されたか」を問う作品だと云う。それは、死に際した人間の深い問いかけだと思う。

私は、最近、その境地とは、ちょっと違う問いかけ、生き方にも魅力を感じる。力まずに、人を愛する境地。自己がちょっと放棄されたような。

「愛されて良し、愛されなくても良し、ただ大切と想う人が健やかに生きてさえいれば」と云う境地。そして、その大切な人がこの世を去る時が来たとしても、穏かに宇宙の意思として淡々と受け入れる。

そんな、大安心の世界を生きたい。自己が宇宙に溶け込んでしまうような、大安心の世界。

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January 20, 2009

変化しないものへの執着

変化するものへの執着は苦しみを増す。

執着は捨てられないものならば、変化しないものに執着すれば良いと云う。

変化しないものの存在を微かに感じるだけでも、少し楽になる。

変化しない何かがあるから、変化しているものが見える。

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January 19, 2009

無言館からの示唆

17日、日経ホールで、映画監督、大林宣彦氏の講演を聞いた。

大林さんは、講演の中で、戦没者の若い画家達の遺作の絵を展示してある長野県の無言館の話をした。

24歳くらいまでに死んでいった若い画家達の絵を見て彼は、彼らの人生の深さ、密度の濃さに驚嘆したと云う。

今70歳になられたと云う大林さんは、続けて云った。私は、彼らの生きた24年間を、また今から70歳の新人として生きていきたいと。70歳から24年生きると94歳、可能である。

70歳からでも、まだもう一人分の充実した人生を、新たにスタートさせることだってできることに気づかされた。

戦後生まれの私は、まだまだ沢山の新たな人生を送れるチャンスがあることに気づき、そうか! よっしゃと、心の中で掛け声を発した。

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January 14, 2009

想い出作り

日常、色んな選択肢の中で、人生を送って行く中で、"想い出作り"と云う支点は好いと思う。

素晴らしい想い出になりそうなことを選択する。

どちらでも好いことに囲まれて生きている日常の現実に、ちょっと冷水をかけられる気がして、痛快な感じもする。

穏やかに、夕日を見送るような気持にしてくれる、好い想い出になることを、日々重ねていけたらと思う。

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January 12, 2009

最後に残る大切なもの一つは?

ホスピスで、穏やかにいずれ死を向かえる人達に、大切なものを、思い付くままに沢山書いてもらって、徐々にその、大切なものの数を減らして行ってもらうと、最後に残る一つには、形あるものを残す人はいないと云う。

結局、日常には思いもよらなかった、気づかなかった価値に気付く瞬間。

日常生活の中で、その最後に残る大切なものを、気付いて生活するならば、かなり、違った人生の行動、人生の選択肢が拡がるはずだと確信する。

そのような行動ができる人は、私にとって、まさに尊敬に値する人に思える。

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January 11, 2009

親孝行は人間にしかできない?

何か、どこかで、「親孝行は人間にしかできない」と聞いたことが、何故か耳を離れない。

動物は、自然界の掟で、親子は早い段階で、離れて行く。

飼い犬、飼い猫などは、親子で飼ってもらう例は稀だと思う。親子離れ離れ。仮に動物が親子で、住んでいても、人間のような情があるのか私にはわからない。

そうか、親孝行は人間にしかできないのか。そうだったのかと、今さらながら思う。

そして、亡くなった両親のことを想い出し、早く気づけば良かったと、ため息がでる。

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January 10, 2009

忙しいけど退屈な人生,暇だけど退屈ではない人生

忙しいと、色んなことに追いまくられて、誰の人生かわからなくなる時がある。その時は、充実した感じも味わえるが、後が怖い。 忙しいけど、想い出せば空虚な人生にもなるリスクも大きい。「忙しいけど退屈な人生」にもなる。

暇が出来ると、時に、ちょっと後ろめたい気持もでるが、色んなことを考えたり、やってみて、ちょっと、生きている実感を感じることが出来る。何と云っても、自分との深い対話が出来る。それは、「暇だけど退屈ではない人生」。

可笑しな逆転。

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January 08, 2009

目に見えない視界が拡がる時

人生の登り坂では、現実的に、目に見える視界がいっぱいに拡がっていく。若者らしく、勢いや、登った高さを楽しめば好い。

人生で必ず訪れる波に於いては、下り坂に於いては、今まで目に見えなかったものが見えて来る。目に見えない視界が静かに感動的に拡がって来る。

そして、下り坂に於いては、登った坂の愉しかったことの余韻を静かに味わうのも好い。想い出となった余韻も、沢山の現実的な幸せをもたらしてくれる。

登り坂も、下り坂も、上ったり降りたり、夫々の味わいがある。

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January 05, 2009

人生の忘れ物

ある知人の方からの年賀状に、剣の達人のような、穏やかな表現にも鋭い切れ味を感じた。

「終着駅が近づき、ふと網棚の荷物を見上げました。このところ忘れ物が多いもので・・・・。勿論、人生の終着駅の話ですが・・・・。」とあった。

何か、ジーンと来る、熱い厳しさのようなものを感じた。

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December 29, 2008

一所懸命であることは、可愛いこと

一所懸命であることは可愛いことだと思った。必死であることは、可愛いことであると思った。

それを達観して見ている時は、愛おしく思える。

時に、一所懸命に、時に達観して生きる。

自分が当事者だと思った時は、必死に生きて、そして、自分の気持ちにちょっと余裕ができたら、達観して眺める。

その時は、一所懸命なことは、可愛く思える。

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December 27, 2008

サンタクロース、心地よい失望

サンタクロースを信じることは、微笑ましく可愛いこと。電車の中や、街で、小さな子供達が、サンタクロースの話を夢中でしているのを聞く度に、メルヘンのような気持ちになれる。

一方、サンタクロースは、"自己中心世界の象徴"だなーとも感じる。子供時代は、自己を中心に世界が存在する実感が大きいから、サンタクロースと自己との世界が成り立つのだろう。

世界の子供の数だけサンタクロースがいなければ、サンタクロースの話は成り立たない。ちょっと変だぞと気づき始めることは、ちょっと失望に近いが、自分の愚かさにも気づき、"面白い失望"、"心地よい失望"でもある。

そして、「待てよ・・・・」と云う、人生の疑問の始まり。やはり、このプロセスも、人間の可愛いところだと思う。

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December 23, 2008

「いかだ」を捨てる域

色々な習い事、修練の道は、まず形を覚えることから始まると云う。

しかし、「形は、形を超える為にあるもの」と住職は云う。

自分を乗せて来た「いかだ」を捨てるのが、修行の真骨頂と云う。

書家が、筆を捨てて、自分を表現する域に達するなんて、考えただけで、降参。


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December 22, 2008

神を求める心とは、

「神を求めると云うことは、サターン(悪魔)に追いかけられてる証拠です。」と、住職は云う。

強くなりたいと願う人は、自分が弱いと思っているから。

だけど住職は云う。思い通りに強くなった人間は、破滅・崩壊へ向かうと。

人は、悟りに迷い、賢者は、「迷いを悟る」と云う。

「サターンがいなければ、神は存在しない」との世界が、微かに見えて来る。

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December 21, 2008

金メダルのような想い出

人生で、金メダルをもらったような、感動の想い出があれば、その時々で、完結して封印すれば好い。

完結したと思うからこそ、穏やかに、その感動のマグニチュードが封印される。

永遠を求めるところに、感動を汚す大敵が潜んでいると思う。

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December 20, 2008

慣れる事の生命力

哀しいこと、不幸なことにも、「慣れること」は痛みを和らげてくれる。

嬉しいこと、幸せなことにも、「慣れること」は、満面笑みの有頂天ボケから、平常に戻して、真顔にしてくれる。

浜に押し寄せる大きな波のよう。大きな波も、次第に、小さな波の水面に戻って行く。

押し寄せる大きな波も、浜辺の波打ぎわに白く泡だって到着して消える。そしてまた、引き返し、大きな波になって返って来る。

その光景を見ている、私がいる。慣れることの生命力を感じる。

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December 15, 2008

無常観を越えて

人は、「永遠なるもの」を求めるが故に、苦しみを感じると云う。万物は変化する。

この無常観こそ、すべての修行の始まりだと云う。

無常観を突き抜けて、苦しみの真只中を突き抜けて、喜びに到達出来れば素晴らしい。それが、「春は花、夏ホトトギス、秋は月、冬雪さえて涼しかりけり」の境地だと思う。「晴れて好し、曇りても好し、富士の山」の境地。

万物を変化させている、絶対的な調和をもたらしている法則のようなものの存在を感じれれば、無常観にあっても、視界が明るくなるのを感じる。

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December 14, 2008

母と子の別れ

住職が幼児のころの母との別れの場面の話を聴いた。

「母は、電車のホームで、泣いて近づく私を、鬼の形相で、遠ざけた。そして、ホームの陰で、じっと目を凝らせて、遠くから私を見つめ続けた。親戚の人が、私を手を引いて連れて行ってくれるまで、ジーと、隠れてこちらを見続けていた。」

それが、住職の、修行への導きであったと云う。どちらに転んでも、安心と云う境地は無いのかと。

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December 10, 2008

執着

人は、何かへの執着は免れない。

移り行くもの、変化するものへの執着は、苦しみをもたらす。

「絶対的なものに執着せよ」と住職は云う。

陰と陽の二力の拮抗する調和の世界、ゼロの世界を見れば、色々な矛盾の世界、変化の世界も、背後に穏かに安らいでいる世界が垣間見れる。

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December 06, 2008

会えても、会えなくても、金字塔の想い出

もう会えなかったら、想い出は金字塔のように輝く。想い出は、年を追うごとに輝きを増すこともある。

もし会えたら、新たな金字塔になる想い出が、上書きされる。

会えても、会えなくても、既に素晴らしさに於いては完結している。

そんな、大切な人との出会いが、人生の中ではあると思う。

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December 03, 2008

育てるものではなく、見つけるもの

人生は、色んなものを、見つけて回ること。ある知人の不図した言葉だった。

何かを、作ったり、育てたりするものでなく、それは、そこにある。

曇りに埋もれたり、人混みに隠れて、見えないのかも知れない。

人生は、ただ、身の周りにある、輝くものを見つけて回ること。静かに、耳を澄ませ、じっと目を凝らす。

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December 02, 2008

私を理解しての叫び

現代は、家族や社会からの疎外感を感じる病の人が多い時代と思う。大きな疎外感は、犯罪や自死に繋がる恐れがある。

一方、私は想う。60兆の細胞を持つ人間、厳密な意味で云えば、人それぞれに、元々、理解不能な神秘的な存在。小さな疎外感くらいは、共存して生きて行くくらいの気持ちを持つ余裕も大事だと思う。

時に、周りに、自分への深い理解を求める心境は、幼児的な、傲慢な願いにも思える。自分が、周りを深く理解できているだろうかと思うと、大概が勘違いが多いことに気付く。

お互いに、理解出来なくても、愛おしく感じることは出来る。お互いに、理解出来ないが故、尚、愛おしく感じることも出来ると想う。

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November 21, 2008

人間が同じに見える世界

同じ種類の犬、同じ種類の猫が同じに見えるように、人間が、時に同じに見えてくる。

他の生物から見れば、種類としては、人間は同じ範疇にひっくるめて、同じに見えてると思う。

性格は色々あるだろうが、同じ種類に、大ざっぱに見ているだろうと想像する。とても面白い。

地位が高いぞ、美人だぞとか本人が思っても、同じ範疇の、十把一絡げ(じっぱひとからげ)の人間が、たむろしているくらいに見られている世界があるように思う。そう思うと、滑稽なくらいに、人生が面白い。色んな事が、どっちでも、いいじゃないか云う気持ちになる。

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November 20, 2008

不幸を楽しむ

何事も、流されてしまって、もがいていては、苦しみが増す。死ぬ事すら起こり得る。

運良く、その濁流から逃れてみると、今度はその処し方がわかり、将来その濁流を楽しむ事すら出来る。

雪崩の怖さと、雪景色の美。人生における不幸も同じではないかと思う。ちょっと自分を離れて試れば、不幸を、楽しむ事すら出来る。

幸せも不幸も無い。ただ、大自然の、宇宙の営みがあるのみ。その大自然の営みを、景色として眺めれば、それぞれに、味わい深い美がある。人生の春夏秋冬の巡り。

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November 17, 2008

余りにも感動して、伊藤和也さんの遺品の写真

今朝NHKのテレビで、アフガニスタンで農業支援中に、ゲリラの凶弾に倒れた、伊藤和也さんが残していた写真の報道に、余りにも感動して、衝撃を受けた。

彼は、アフガニスタンの子供達の笑顔を沢山撮っていた。そのあどけない、清らかな子供達に、彼は神を見出していたと思う。

村の長老が云っていた。イトウは、見返りを求めずに、我々を助けてくれた。日夜、農業や井戸を掘って、子供達が将来食べて行ける社会を夢見ていたと云う。子供達はまだ、彼が死んだ事を知らない子もいる。車の音がすると、イトウが来たと云って飛びだして行く子もいると。

この世に、伊藤和也さんと云う人がいた事を知るだけでも、私は、巨大な感動に包まれる。哀しさと共に、例えようの無い、美や、幸せに包まれる。

今日は、急遽、この二つ目の記事を書かずにはいられなかった。

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November 16, 2008

「矛盾の人」とのネーミング、

世に善人、悪人といるのは、自分の価値観、社会の価値観がある以上、逃れられない。

自然界の現象は、全て"矛盾"と"統一"の、繰り返す運動。

苦しみは矛盾。悪人は苦しみの象徴。

悪人は「矛盾の人」。坐禅の住職のネーミングか、初めて聴く言葉。

あいつは悪い奴と非難するより、「徳無きは、憐れむべし」。

苦しみは"慈悲"を誘発するという。

そして、遂には、己の闇を知り、闇は、光が造っていることに気づく。それから、崇高な懺悔の領域へ。

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November 15, 2008

車のナンバーをメモする遊び、

昨日、ノルウェーの友人が仕事で来日、7年振りくらいの再会。夜、新橋ライオンでビールを一緒に飲んだ。

お互いに仕事の話は、余りせず、趣味や旅や人生の話ばかり。

中でも傑作だったのは、彼が子供の頃、街を走る車のナンバーをメモして、遊んでいたと云う。男の子が電車に夢中になるようなものかな。車のナンバーをメモされた方は、気持ち悪いかも知れないと思いながら、笑ってしまった。

この友人は魚釣りも好きなので、10年くらい前に、魚のミニ図鑑をプレゼントした。魚を見て、パッと名前が云えるマニアって可笑しいと思ってしまう。

子供時代の興味の拡がり・価値観は、新鮮で、人生の楽しさを想い出させてくれる。

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November 13, 2008

「今」の神秘

過去は現在の集合体。未来も現在の集合体。

ただ、現在が猛烈なスピードで過ぎ行く。

過ぎ行く過去に希望の芽を見出し。未来に夢を抱く。

それは、今が、希望そのものであり、今が夢そのものである証。

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November 08, 2008

金持ち地獄、有名地獄

音楽家、小室哲也さんの破綻ニュースは、まさに「金持ち地獄」と思った。一旦成功して、出来た、人生に対する傲慢なイメージと浪費癖。

有名人になったが故の見栄、事業への勘違い的な未熟さ・甘さの並存、それらがジワリジワリ、人生を蝕んで行く。金もちになったが故の地獄。

金持ちであることが、有名であることが、どれだけの人生の重荷になるか、気づいていない人も多い。

それと対称的に、質素な魅力は、輝きを増す。「無一物、無尽蔵」を思う。

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November 02, 2008

人生のスナップ写真

子供時代の光景。トカゲは人間に出合った時、自ら尻尾を切って逃げる。出会った子供も怖がって、自分も逃げる。

ビックリ仰天、お互いに怖がって、一目散。

それを、母は、微笑んで見ていた。宇宙意思は、微笑んで見ていた。

生きていることの一つのシーン。

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November 01, 2008

喜びは夏、哀しみは冬、ただ淡々と、

例えば、喜びは夏、哀しみは冬と考えてみる。

四季は、折々と、素晴らしい光景を見せてくれる。

喜びに向かう春、祭りに向かう春。新芽が、新緑が眩しい。

哀しみに向かう秋、夏の祭りが終わった後の秋。秋は紅葉が眩しい。

ただ、淡々と、人生の出来事を、四季の美を味わうように、眺めれば好い。

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October 30, 2008

時価=幻想価値、価格に表せない価値の存在

最近、日経新聞の大磯小磯と云う経済評論欄で、市場価値評価を幻想価値評価と評する記事を読んだ。

実際購入した簿価は、時と共に市場価値(時価)と乖離して行く。現実は、通常の取引なら、時価でないと、決済されない。

幻想は、楽しい楽観的な幻想、根拠無き熱狂もあれば、悲観的幻想もある。物は、人間の付ける価値の増減に関わり無く、ただ淡々と存在している。

市場価値も幻想、簿価も非現実的、拠り所は、自分が下す価値。

価値は絶対的な価値で現すより、優先順位で現せばわかり易いのかもしれない。

原始的に、私の価値の優先順位は何か考えてみる。確かに、心の中には、価格に表せない価値が、存在している。そう考えると、金や名誉と云う幻想以外の、深い人生の価値観は、神々しく輝く。

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October 29, 2008

ちょっと空腹、ちょっと貧乏=人生の隠し味

お腹がすいている時は、食べ物がとても美味しくなる。空腹は自然の調味料と云う。

お金も、自由に使える程、沢山あれば、簡単に手に入ることで感動を鈍らせる。

物質的な豊かさを求めつつも、適度に空腹、適度に金が無いことは、寧ろ、人生の隠し味。

食べ過ぎた時の空しさ、気だるさ。お金持ちの、傲慢さ、身勝手さ、軽さを想起する。

寧ろ、進んで、ちょっと空腹に、ちょっと貧乏に保つくらいに、意識的にした方が、人生は、感動的に、感性が鋭敏に保たれると思う。ものの価値が輝いて見え、人生が清く、瑞々しいエネルギーに溢れて見える。

それは少食が健康の秘訣と云うのと似ている。


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October 27, 2008

子供の幸せについて

世の大抵の親達は子供の幸せを願って、勉強しなさいとか、子供にあーしなさい、こうしなさいと云う。子供の幸せは、即ち親の幸せでもある。ちょっと拡大した、エゴとも云える。

親が、子供の幸せを願う前に、「人に役立つ人、社会に役立つ人になりなさい」と叱咤激励出来る親は、すごいと思う。

「自分は幸せでなくても、人に役立つことを目指しなさい」と利他の心を説く親はすごいと思う。

自分が幸せになることは、本人にとっては、隠れて美味しいものを食べてるようなものに感じる。

「自分の幸せを犠牲にしてでも、人に役立つことをしなさい。そしたら、母は褒めてあげます。」と云える親に私は感動する。

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October 26, 2008

命の恩人

父の満洲引き揚げ体験の中で出て来る袁さんと云う人は、父達家族の危険な引き揚げの時、神様のように手助けをしてくれた中国の人。父の遺稿・満洲脱出記に名前が出て来る人。

私の命の恩人と思う人は、実は、アラブ人のアル・アワデイーさん。私の再就職の時、スムーズに石油業界に再度復帰出来たのも、彼のおかげだった。初めて、会った時、彼の笑顔、話をした時に彼の横顔に、私は母の優しさを想い出した。亡くなった母が私を助けに来たのだと思った。彼はもう、アラブに帰任してしまったが、私の人生の危機を救ってくれた。

そのような母の恩人は、父だったと思う。夫、子供を病気や引き揚げの前後に亡くし、呆然としている中、光を与えてくれたのが、やはり配偶者を亡くした父だった。父は、母が、もう一度、生きようと云う気持ちを起こさせてくれた人だったろうと思う。母は父が亡くなった時に云っていたと云う。この人と一緒になって良かったと。

そして、もう一人、母にとっての命の恩人がいた。それは、再婚して初めて生まれた「私」だったかもしれない。

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October 25, 2008

自己主張、無我のリズム

自己主張は陽のエネルギー、私はここにいますとアピールするエネルギー。若さには自然なもの。赤や黄色など激しい原色を想起する。

無我は、陰のエネルギー、私はどこにもいませんと透明人間になってしまうようなエネルギー。熟年には自然なもの。「わびさび」の境地を想起する。

派手な美、隠れた美、それぞれに感じるものがある。自分の気分の状態がその好みを決めている。

ちょっと見ると、気づかないが、「あれっ」と発見する隠された美は凄い。奥行きの知れない美は神秘的にさえ見える。そのような美の存在に気づかせてくれるのが、陰のエネルギー。

誰知れず積む徳も、「陰徳」と云う。誰にも、気づかれるつもりも無い「陰の徳」は、人に気づかれる徳とは比べようも無い衝撃。

宇宙一杯に美が拡がる。

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October 24, 2008

成功者=失敗者

「成功者は、失敗者と見付けたり」の悟りを感じた。

「あの不安定な傾きを見なさい」と云う私の内面の直感的な気づきは、そう示唆していた。

成功でも失敗でもない、あの平衡に保たれたシーソーの美しさは、つかの間の均衡の故なのだろうか?

あの安らぎは、何なのだろうか。それは、休息と修復と、またエネルギー再生の泉のような瞬間。そして、何よりも、穏かに美しい瞬間。人工的な美では無い。

オリンピック選手になっても、大金持ちになっても、それは大きなシーソーの傾きを表している。その傾きを生み出した人工的な力が大きい程、自然の美に比べたら、不安定で美しさには程遠い。世間で云う極端な成功は、シーソーのアンバランスな傾きの瞬間なのだろう。

成功でもない、失敗でもない瞬間に、「穏かな、圧倒的な美」が隠れていたことを発見した。

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October 23, 2008

遊園地のシーソーの示唆

割り箸の真ん中を支えて、左右に振らし、遊園地のシーソーをイメージするのが、とても示唆に富んでいる。

富が多い、少ないはあっても、人のやってる行為は、このシーソーのようなもの。多く稼げば、無駄な程多く使い、少なく稼げば少なく効率的に使う。人生の中身は、多く稼いだ人が、少なく稼いだ人より必ずしも豊かとは云えない。

歓びは、反対方向では、同じ程の強さの哀しみが待機していて、哀しみの反対方向には、歓びが待ち構えている。遊園地のシーソーのように。激しい結果を求める人には、激しい反動が待っている。

自然界は何事にも、バランスを取る働きがある。色んな事に、目くじらたてることは無い。何事も、いずれ自然にバランスの世界に吸収されて行く。

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October 21, 2008

祭りの形態、私の価値観

19日日曜日の朝、横浜中央魚市場の市場祭りに出掛けた。朝9時過ぎには、既に1万人の人出だったとのこと。その活気は、何か遠い昔の子供時代に感じた街の活気を想い出させた。昼間は2万5千にもなると云う。

そこには、生き生きした人間の生活の息吹が溢れていた。それは、心地好い、人間の生命の祭りのように思えた。

前日、韓国出張から昼に帰って、午後、等々力の東京都市大学の学園祭で、山本寛斎氏の講演を聴いたが、何故かそのことが脳裡にだぶった。

山本寛斎氏は、モスクワ赤の広場での12万人の大イベント、ベトナム、インド、日本でも武道館大イベントなど、大きな祭りを企画したり、人々に元気を出させることを夢にして、走り続けているとおっしゃった。でも毎日、泣いていますともおっしゃった。

私は、思った。何億円もかけて、人工的に、何か大きな装置を造り、整然と太鼓をたたいたり、空中ショー、をしたりして、人々を驚かせるイベントをしても、自然に起こる人々の生活の中のイベントが、それにも増して、元気を与えてくれるように思う。人工的な絢爛豪華は、私には、いくら金をかけても、生活の中から自然に出て来る素朴な行事には及ばないと思う。

生意気な考えかもしれないが、山本寛斎さんの生きかたも、辛かろうと思った。そんなに自分を酷使して走り続けなくてもいいのにと、不図思った。

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October 18, 2008

「楢山節講」

先日、緒方拳さんが亡くなった時、彼の「楢山節講」の映画のシーンをちらっとTVで見て、感じるものがあった。

山に母を背負って行く息子の気持ち、愛する息子に背負われて行く母の気持ち。私は、私の内面に、その両方になり切れる気持ちが存在していることに気づいた。

いよいよ最後の別れの時、母を見つめる子の気持ち、子を見つめる母の気持ち。

人生の過酷さ、美しさ。

宇宙に、永遠に消えない縁(えにし)は続く。永遠にして安らいでいる世界。

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October 15, 2008

旅は、母への感謝

旅をして、周りを見て回ることは、生命への感謝。

人生が、世界が、こんなに驚きに満ちた、感動の場所であった事に気づかせてくれるのが旅。

旅は、母を感じることと同じ。

そして、旅は、仏像を感じることにも似ている。

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October 14, 2008

幸せの中の哀しみ、哀しみの中の幸せ

幸せの中に哀しみが潜み、哀しみの中に幸せが潜む。

哀しみが夜明け前の陰の世界、幸せが昼間の陽の世界。

一人の時は、闇から、再会の世界の光が射し込む。

大切な人と一緒の時は、夕日を惜しむ、寂しさが漂う。

陰は、闇は、一人は、実は、希望に満ちた昇り坂。

そして、その先に、闇も光も、もはや一体のものに感じる世界が拡がる。

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October 12, 2008

質素はすごい

質素のもたらす安心感は何だろうと不思議に思う。

質素に生活すると、何だか大自然に褒められたような、気持ちになる。

自分が生きる分を、慎ましやかに生きるって、神に褒められた感じになる。

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October 09, 2008

別れへの耐性の変化

今もし、両親が生きていたら、別れることが辛くて辛くて、耐えられなかったかも知れない。

両親を亡くした時は、何か、他のことに気を取られ過ぎて、その辛さは、今よりもずいぶん、少なかったように思う。

自分にはまだ遠いものだが、誰しもある人生の寿命のようなものを感じて、ただ淡々と両親の死を受け止めていたように思う。

でも,今思えば、両親とどれだけ、話したいか、一緒にいたいか、測り知れない。人生の価値観・優先順位を間違っていた。

それでも、今、私の脳裡には、私の成長を見て、優しく、微笑んでいる、両親の姿が見える。

今、両親が生きていたら、別れの辛さは、測り知れない。

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October 07, 2008

次の行動、つまり過去の印象・気分の集大成

過去の何万年もの期間に、遺伝子に蓄積された印象・気分が、気づかない内に、今の人間の、次の行動を決めている。

今の行動は、過去の印象・気分の集大成。壮大な力学。すごいなーと思う。

そして、理性・精神を高めることで、その行動も、壮大に軌道修正もされる。運命に立ち向かう立命。

これからやる私の行動は、今まで私の集大成。


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October 05, 2008

自然と云う言葉の無い国、アマゾン

アマゾンの原住民には、自然と云う言葉が無いと云う。何故ならば、「不自然」が無いから。

幸せと云う言葉は、「不幸せ」の証。

サターンを消す為に神を得て、サターンを消したら、神も消える。

昨日、住職から中道に就いて聴いた。

「あって好し、無くても好し」の境地。憧れの境地。

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October 03, 2008

平等の旗印

平等と云う思想を突き詰めて考えて行くと、何故か「怒り」が芽生えて来るような気がする。

権利と云う思想を突き詰めて考えて行くと、何故か「貪り」が芽生えて来るような気がする。

自分が持たざるものには、平等主義を。自分が持てるものには権利主義を。それが、人間社会をつき動かしているように思う。

市民革命の旗印のように、思って憧れて来た思想が、怒り・貪りの温床になるなんて、驚きであった。

宇宙は、人間の身勝手な平等や権利思想を遙に超えた、ただ大自然の営みを現しているだけ。

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September 30, 2008

天国じゃ退屈過ぎる?

天国とか地獄とかの世界は、二元論の世界であるが、輪廻の輪で見ると、天国と地獄が隣合わせであるのは面白い。

住職は、「天国じゃ退屈過ぎるでしょう」と云う。

皆の為に、私だけ地獄へ落としてくださいと云う気概は、寧ろ、本気なら天国へ突き上げられ、強く天国へ行きたいと願う心は、寧ろ貪りにも似て、地獄へ近づく。

一元世界を見て、二元に還り、仏界から地獄まで、自在に転ずる境地。これが人生の極意なのではと思う。つまり二元に遊ぶ境地。

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September 29, 2008

「私が・・の想い」、そして矛盾の肥大化

生まれて以来、成年期へ向けて、ドンドン自分と云う意識が大きくなって、暫くまだまだ、自分と云う意識は肥大化して行く。肥大化し続けて、人生の最後まで、地獄の苦しみを味わうこともある。

自分と云う意識は、云わば陰陽の陽、プラスの世界とも云えると住職は云った。

プラスは同じ量のマイナスが無いと統一されない。重すぎる「陽」「プラス」では、矛盾が強く、辛かろう。

「私が・・の想い」を無くすことが、「陰」「マイナス」エネルギー。自分が肥大化させた「私が・・の想い」を、中和させ、統一させてくれるには、対応する同じエネルギーが要る。 プラス10にはマイナス10が要る。そこに、私から離れることの重大な意味が存在している。

私は想った、死は、「マイナス」、「陰」の世界、我が無い世界。そして、人生においては、そのマイナスとプラスが調和する世界を、感じる境地が、最高に安らいでいる境地であると。

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September 28, 2008

私が受け持った人生の間に

「消えないものは、現れないもの」、「本質的なものを求めなさい」住職は云った。

1000万年単位で見れば、全ては消えてしまう。

過去の印象・気分の総合計の、大きな雲にグルグル巻きにされた存在たる人間。人生に降りかかる問題は、解決すべき問題ではなく、ただ、学ぶべきもの。その過程は、大きな曇りを取り除いて行くことに似ている。

「生じもせず、滅することもないもの」・・・・・・。幻想のように刻々と変化するものを写しだす、永遠に不動のもの・・・の存在。

虚空世界に一杯に拡がるような、「全てが私であった」と云う境地。

私は、厚い雲をコツコツと取り除く合間に、ちらっと光を感じられるくらいまでは、私が受け持った私の人生の間に到達したい。

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September 27, 2008

「会えなくてもよい境地」

私の両親が亡くなって、もう10年以上、それなのに、私は、現実に両親が生きているかのように、心は身近に両親と対話して生きている。

鮮やかに鮮明に、両親の表情までも読みとれる。もう二度と会うこともないかも知れない、人生で出遭った大切な人達も、両親と会うのと同じように、自在に対話して生きている。

いつでも、どこでも、脳裡には、両親や大切な人を呼び出せるから、もう一度だけでも会いたいと云う願望は、意外と無く、不要でもある。それは、「会えなくてもよい境地」と私は名付けた。

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September 25, 2008

消息不明も天体の作用?

人は接近したり、遠ざかったり、天体の変化、星の位置の変化にも似ている。

ある友人・知人は、その後の人生で、消息不明や忽然と姿を消してしまうこともある。誰しも、ある人にとってみれば、消息不明の部類になることもある。

人間関係の縁は、神秘的な星の引力の強弱のようなものだろう。

親子・大切な人との遭遇は、何百年振りの星の接近のようなものかもしれない。また、次は、何百年、何千年後かもしれない。

あらゆる不孝も幸せも、近づいたり、離れたりする星の作用のように壮大な宇宙の営みかも知れない。

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September 24, 2008

雑草の乱

私の家の近くに、宅地の家屋を取り壊し更地になった場所が2ヶ所あって、毎日その様子を見ながら生活しているが、雑草の成育の早さ、逞しさには驚愕する。

4~5ヶ月で、うっそうとした雑草のジャングルになってしまった。また、誰かが家を建てる時には、刈り取られてしまうだろうが、この光景は、私には驚きだ。

抑えられても、虎視眈々と、この時を待っていたかのようにすくすくと伸びている。何十年も、聖地の回復を狙っていたかのように、太陽の光を満喫している。

自然界にとっては、人間も雑草も、大差なかろう。大自然にとってみれば、どちらでも、好い。

雑草と人間が呼ぶのも、人間の傲慢。雑草も一つ一つ名前もある、れっきとした自然の生き物。彼らは、人間を雑人と呼んでるかもしれない。

母は、私によく「負けるな、雑草のように逞しく生きろ」と云っていた。小さな宅地にうっそうと茂る雑草を見る度に、母が微笑む。

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September 20, 2008

何と云っても人生の大敵は、

何と云っても、人生の大敵は、「貪り・怒り・愚痴」という事は、何度も住職のヴェーダンダ哲学の中でも聴いた。

人間の精神を蝕み、餓鬼・畜生に堕ちていく人生の最大の大敵。

確かに、私は、貪る人に美を見たことが無い。ブレーキの効かない人は、坂をかけ降りる。

怒る人には、その怒りが治まるまでは、愛を感じ近づいて行くことは出来ない。孤独な地獄に堕ちて行く。

愚痴ばかりを云う人は、闇ばかり見て暗い暗いと嘆いている。「水の中で、渇を叫ぶ」が如しと云う。

改めて、「控えめに、穏かに、感謝して生きる」ことの、素晴らしさを感じる。遠慮がちな人生が、寧ろ輝いて見える。

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September 19, 2008

海に向かって叫ぶに相応しい言葉

先日、三浦海岸で行われた、あるセミナーで、海に向かって何か大声を出す競争があった。

「バカヤロー!」とか、「金が無い!」とかの叫びが多かったが、私は、何が命の叫びに相応しいか考えた末、結局「ありがとう!」と叫んだ。

大きな海原めがけて、打ち寄せる波の音に負けないように、身体を揺すって声を張り上げ、「ありがとう!」と叫んだ。

両親、即ち宇宙に向かって、「ありがとう!」と叫んだ気がした。

叫ぶには、一番相応しい言葉が、「ありがとう」だった。これも人生の大発見。

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September 15, 2008

「何を見ようとしているのか」に尽きる人生

外の世界は余りにも多種多様。巨大で複雑で、神秘。人間の体験も、余りにも多種多様。そのこと自体は、自然の営み、宇宙の摂理の一環。

そのなかで、人間の脳は、自分が見たいものを見て生きている。他の多くの事を無視して、何かに気を取られて、何かを見ている。

だから、それぞれの人の人生観が、違ってくる。それは、群盲索象に似ている。

人生では、自分が見たいものも、脚色も、評価も、意味付けも、全て自分に任されている。

今日も、私の「力作」に取り組む。「私は、何を見たいのか」と。


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September 13, 2008

ET、かぐや姫、静寂へ帰る波紋

空を見上げて「ETお家帰る」と云うシーン、かぐや姫が空へ帰るシーン、池の小石がポチャンと作る波紋が消えて行くシーン、これが、今朝の私の連想。

芭蕉の「蛙飛びこむ水の音」には静寂に表れた波紋がまた、また静寂に溶け込んで行く様が浮ぶ。

人生も、一つの波紋。それぞれの波紋が、ちょっと共鳴したり、衝突したり、渦潮を作ったり、遠すぎて接することも無かったり、そして、また静寂に帰って行く様が、心を穏かにさせてくれる。それを一生と見ても好し、一日と見ても好し。

人生で誰しもある大切な人との別れの場面も、ETがお家に帰るのを見送ってあげる気持ちになれば好い。大騒ぎしながらも、かぐや姫を見送ってやる気持ちになれば好い。それは、喪失感ではなく、静寂へ帰る水の波紋なのだから。

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September 10, 2008

効用・限界・束縛

昨日夜、哲学カフェで、言葉の持つ「効用・限界・束縛」の側面について改めて整理できた。

そして、今朝、何かを所有することも、「効用・限界・束縛」と云う同じ側面があることを思った。

所有し、自分の方にたぐり寄せる行為には、より限界と束縛を際立たせる効果も存在していることを感じた。

自分から解き放つものが多い程、豊かではないのだろうか。

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September 08, 2008

水平線に消えて行く、ミカン箱の光景

女優の長山藍子さんはミカン箱が海の遠くに流れて小さくなって行くのを、子供の頃、引き揚げ船の甲板からずーっと見ていたと云う。

日本がもうすぐと云う日に、友達の男の子が亡くなり、船上で、水葬をした時のことだったと云う。その光景が、子供心にずーっと残り、その後の人生の原風景のようなものですとおっしゃった。

終戦後、満洲から引き揚げる時、北朝鮮の街に母と子で暮した時、貧しくて、母は物売りか、物乞いをして、私は母のそばにチョコンと座っていたことも憶えていますと。

そして、佐世保に引き揚げた時、先に帰っていた父が、乞食同然の私を抱きしめてくれて、お父さんのヒゲがちくちくして、痛かったこと。手の平に乗せてくれた金平糖の美味しかったこと。

ミカン箱には、そのような想いが全て閉じ込められていることを知った。

ー9月6日(土)舞鶴、平和記念フォラムでの長山藍子さんの話ー

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September 04, 2008

働く時間の美

働くことは、その働きの収入の多寡とはかかわりなく、人生に確かなバランスを与えてくれている。

働くことは、自分を謙虚にさせ、何か日常をピリッとさせてくれる。

働くことも、精神の修行の方法でもある。

何か社会に、他人に役立つことに、労働と時間を費やすことは、人の心にも訴える。

自分の趣味に生き、自分だけの好きなことをすることは、楽しそうだが、行きつくところは、孤独と、寂しさが付きまとう。

働くことは、お金を得る多寡ではなく、精神を富ませてくれる。人の為に何かすると云うことは、美しい。

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September 03, 2008

旅人の表情

人間の身体が先なのか、心が先なのか?と考えてみると、心が先だと云うことが何となくわかる。

先に心ありとすれば、肉体は、その心を一時的に具現化しているに過ぎない。

我々が、日々目にする人は、それぞれの心(精神)を形に現している。運命もあるが、運命を変える立命もある。

行き交う心が、旅人のように思える。どこかに向かって旅をしている。その表情が向かう先を暗示している。

大江戸日本橋から、富士山を見ながら、清々しい気持ちで、人生の旅がしたい。


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September 01, 2008

さかな達の胴上げ

魚は云ってるかもしれない。

ここまで、生きて来れたのが奇跡だった。網にかかったのは俺の運命さ。もういいんだ。俺の事は気にすんな。お前は人間だろ。俺の分まで生きろ。

俺は、お前の中で生きるんだ。頑張ってくれよ。魚好きなお前を、生かし続けて来た俺達も、今のお前に育ってくれて嬉しいよ。お前は、俺達、魚が胴上げして祝ってくれてる存在なんだぞ。 ・・・・・・・・・

私も、いつか誰かの魚になって、一緒に胴上げに加わりたい。

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August 30, 2008

いやな人への対処、考え方発明

私は、どうしても相性の合わない人への対応を処する術を考え出した。

それは、その人を、不良の子供と思えばよいと。ひねくれた不良息子・不良娘と思えばよいと。

あるいは、「嫌な人だが、娘の大切な友達」と思えばよい。

周りが全て好人物なんてことは、寧ろ異常。いやな人もいて、丁度よい。人生の隠し味。

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August 27, 2008

修行と祭りでセット

人生では、会うべき人には必ず会う。それは早過ぎることもなく、遅すぎることもなく。

それが、望ましい人でなかったら修行をさせてもらい、好い人だったら祭りを楽しめば好い。

修行と祭りがそろってこそ人生のセット。

出会った人は、それぞれが遺伝子からほとばしる、何かメッセージを伝えてくれている。メッセージが伝わるか、伝わらないかは、自分の受信機の手入れしだい。

思えばそれぞれの人に、「役者やナー」と関心する。アカデミー賞主演男優賞・主演女優賞。

人生の賛歌。

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August 25, 2008

「のんびりはできないんだぞ」

「お前は死ぬのだぞ。」「のんびりはできないんだぞ。」

22日夜から参加した伊豆の坐禅道場での、住職の皆への言葉だった。「お前は死ぬのだぞ」と思うと、底力と慈悲が湧いて来ることを体験してくださいとの想いだった。

そして昨日の早朝の坐禅の時、我々は初めて、住職に警策棒で叩かれた。右肩に激しい音が、道場一杯に響いた。

何十年も前、中学の理科の熱血先生に叩かれたことを想い出した。その時の先生の愛情は直ぐわかった。教えの痛みは今も覚えている。そして、大人になって、愛情を感じて、叩かれたことは昨日が初めてだった。

窓から見える外の木々は雨にうたれて、モヤっていた。電線には水玉が、滑って動いて行った。その光景が、ただ、ただ懐かしく、名残惜しく、また幸せであった。

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August 21, 2008

自未得度、先度他

戦後、満洲から邦人の引き揚げの頃、共産軍の病院に看護婦として徴用されていた当時16才の女性の逸話が、最近、気になってしょうがなかった。

家族みんながやっと引き揚げることができるようになった時、病院に迎えに来た姉に、「自分が今帰るのは申し訳ない。他の日本人の方々が、一緒に帰れる日まで、まだ頑張る」と一人残ったとのこと。そして昭和22年2月急性肺炎で亡くなってしまった。

患者の共産軍の兵士や他の看護婦にも人気があり、みなに見守られて土葬されたとのこと。享年16才。

私は、坐禅の住職から聞いていた「自未得度、先度他」と云う言葉を想い出した。「己の未だ渡らざる前に、一切衆生を渡らせんと発願す」。真白き富士の乙女の死を想った。16才で神の域。

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August 19, 2008

シベリアの丘

先日銀座松坂屋の平和記念展の行事で、女優・松島とも子さんの講演を聴いた。

昭和20年に、お父様をシベリア抑留で亡くされて、45年振りにお母様と、シベリアを訪ね、お父様の埋葬されているであろう場所を捜したとのこと。

数日間、捜した後、手がかりのある丘の上に立ち、母はこう云ったと云う。「ここでいい」、「日本はどちらですか」、そう云って、バラの花をたむけ、丘の土を手で、懐かしむように、何度も掘り返したとのこと。

ブルゾンの下には、同行した娘の松島とも子さんも気づかない間に、喪服を着ておられたとのこと。

新婚数ヶ月で、満洲で兵隊に行き、そのまま帰らぬ人となられた父親が、出征する前に、母に「絶対生きて帰るから待っていてくれ」と言い残して行ったことを、お母様は、至高の愛と思って生きて来られたことがわかったとのことだった。

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August 18, 2008

人生の被害者

自分が被害者であると感じる人は多い。被害者と感じることはたやすい。

自分が被害者と感じることより、自分が加害者と感じることができたら、それはバランスの力がすごい。

真理は、被害者でも、加害者でもなく、それぞれが中立的に存在しているのではなかろうか。

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August 17, 2008

人生の競技種目

人生もオリンピックみたいに、それぞれの人に種目がある。水泳も柔道も卓球もと、同じ人にはできない。

自分の種目は何だろうかと考えてみる。

私は、出世競技、金持ち狙い競技などは、余りにも大勢が参加して、ありきたりで、興味無し。競技者に、尊敬出来る人格者も少なく、内容が薄っぺらで、その姿は滑稽にも見える。

カーリングのような、余り人のやらないような、新しい競技も好いな。

まだ余り気づく人の少ない、「自己究明」や、「生死解決」、「他者救済」の種目などは素晴らしい。

身近な表現ならば、小さな驚きを求める私は、「人生の旅」と云う種目が一番ぴったりの私の種目と思う。それは金メダルとか銀メダルとかある競争競技ではなく、比較するもののない、究極の自分の得意種目と云ったもの。

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人生の目撃者

私は、人生の色々な場面のWitness(目撃者、証言者)だと思うと、感激する。

私は、ただ、色々な場面に遭遇し、それを見ている存在。

人生の色々な場面に、立ち合っている存在。

そう思うだけで、感無量になる。

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August 15, 2008

人生ソムリエ、人生マイスター

人生のソムリエという発想は面白い。ワインを飲む時の講釈のように、1970年のボルドーの、円やかな味わいの云々・・・。自分の人生を語ってみる。酸味がちょっときつい? でも、口当たりはそんなに悪くないでしょう。なんてつぶやいてみる。

人生マイスター(職人)と云うものも好い。頑固に伝統を守る親方、女将って感じ。考えると、可笑しくなってくる。

日曜大工のように、自分の"人生と云う家"を、こつこつと作っているという発想も好い。木の上に作る、ツリーハウスって云うのも憧れるナー。

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August 13, 2008

それぞれのイルミネーション

人間の持つ遺伝子の中でも、一生のうち、スイッチがオンされるのはほんの数パーセントであるとのこと。

本来、おびただしい数の遺伝子の能力が、設計図が存在している。

人それぞれによって、どの遺伝子のスイッチをオンにして、どのスイッチがオフのままにしておくかを決めている。

それは、一種のイルミネーションのよう。どれとして、同じイルミネーションは無い。

人間を、例えば、祭りの山車に出て来る、イルミネーションのようなものに擬えると面白い。仮装行列のように、次々に出て来る、イルミネーションに拍手。

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August 12, 2008

人生のバンド

私は楽器の演奏は何もできないが、人生をバンドに擬えると、「そうだ!」と、嬉しくなった。

私の好きなジャズのバンドなら、ピアノは初恋の人、ベースは高校時代の恩人の先輩、ドラムは坐禅の恩師の住職、トランペットは私の再就職の恩人のアラブの友人など、想像してみると、何か素晴らしい、音色やメロデイーが聴こえて来るような気がする。

人生の夫々の場面で、大切な人達が、夫々の楽器で、バンドを作ってくれている。

そして、私が人生を歌う。人生のバンド。

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August 11, 2008

家族と同じ、人生の家族

人生の中では、実際の家族でなくても、人生で忘れられない大切な人達がいる。

時間ではない。短くとも、一緒にいた時間の密度が濃ければ、その衝撃が大きければ、もう、その人達は、心の中では、その人は「人生の家族」ではないか。

心の中で、常に一緒にいる存在ならば、もうその人は、「人生の家族」ではないか。そう考えると、嬉しさが込みあげてくる。一人ではなかった実感が、押し寄せる。

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August 10, 2008

「これで、いいのだ」の哲学

赤塚不二夫さんへのタモリさんの弔辞をインターネットで見て驚いた。

「貴方の考えは、全ての出来事、存在をあるがままに、前向きに肯定的に、受け入れることです。それによって、人間は、重苦しい陰の世界から開放され、軽やかになり、時間は前後関係を断ち放たれて、その場が異様に明るく感じられます。この考えを貴方は一言で云いあらわしています。「これで、いいのだ」と。

坐禅でなくても、「今ここ」の境地が得られている。

「これで、いいのだ」の言葉に、彼の万感の人生哲学が込められていたのかと、ハッと思った。

赤塚不二夫さんと、生前会ってみたかったなーと思った。

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August 09, 2008

主人公か脇役か

自分から見れば、自分は花びらの中心。他人から見れば、自分は脇役。

自己診察して診ると、自分を中心に考える時の滑稽な異常心理を発見。

自分を脇役と考える時も、やはり滑稽な病的心理を発見。

結局、花びらの中心でも、脇役でもない。

ただ、人それぞれが、ドーンと、堂々と、荘厳なまでに、独立して、対等に存在している。

そう考えると、嬉しいやら、哀しいやら、そして可笑しくもある。

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August 08, 2008

不幸に鈍感な人生

幸せに気づき、不幸に気づかないのが、幸せな人生か。

不幸に気づき、幸せに気づかないのが、不幸な人生か。

どの部分に精神が、敏感か、鈍感かが、人生の人幸・不幸を決めてるのかもしれない。

幸せも不幸も、万人共通に、適度に交ざっているのだろうが、不幸に鈍感と云うのは、傑作で最高。

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August 07, 2008

お礼参り、お礼廻り

「お礼参り」と云えば、ヤクザ用語に聞こえてしまうが、御世話になった人達に、お礼を云って廻ることは、素晴らしい。

人生も半分以上過ぎたと思ったら、残り半分は、御世話になった人達にお礼を云って廻るのが好い。

自分を主張し、自分の楽しみの夢の為に費やす時間ばかりでは、どこか寂しく、人生が空しかろうと思う。

お礼を云って廻る境地は、何かが、その事で完結するような、妙な安定感をもたらす。それは矛盾が統一されるような境地ではないだろうか。

自分がどうしても、お礼を云わねばならない人達のリストを作り、時々その人達を訪ね、また時々手紙を書くことなどは、まさに人生に平穏をもたらす楽しみだと思う。

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August 05, 2008

反作用の集合体、人生のブランコ

人生で生じていること、見てること全ては、反作用の集合体だと思う。自分の身体も、自分の周りに起こることも、全て、"その前にある何か"の反作用。

それは、ブランコのよう。大きく振らせば、大きく揺れる。

若い時程、揺らさなければ面白く無い。そして揺らし過ぎれば危険と云うことに気づく。

私にとって、ブランコを揺らす原動力は、「驚き」。そして、それは「小さな驚き」であることが好い。

ゆっくりと、穏かに、足をぶらーんと伸ばしたり止めたり、周りの子供達の声を聞いたり、遠くの山を眺めたり、子犬が近づいて来たりしながら、ブランコをこぐのが好い。

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August 02, 2008

忙しかったらアウト、暇だったらアウト

毎日の充実度を考えると、「忙しかったらアウト、暇でもアウト」など頭に浮んだ。

忙しいと、充実しているように感じるが、ゆっくり判断できなく、細やかな温かみのある人間のつき合いができなくなる。勢いはあっても、安らぎが少ない。後からフーと寂しくなる。

暇だと、自分の社会的存在に自信がなくなり、寧ろ、色んな事にチャレンジする意欲も薄れがちになる。時間が、ゆっくりと流れるが、何とも云えない疎外感や虚しさが忍び寄る。

結局、人間は、ゆっくり、周りの景色を見渡しながら、グライダーのように、飛ぶのが好いと思う。

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August 01, 2008

人生の渦潮

これでもか、これでもかと不幸が襲う。これでもか、これでもかと幸せが襲う。

次々と不幸が襲うと云う表現は、よく聞くが、次々と幸せが襲うと云う表現は聞かない。

だが、人生は、不幸と幸せの力が交わり、渦を巻く、渦潮ではないのかと思う。鳴門の渦潮の中か、或いは、洗濯機の中で渦潮にもまれる蟻ん子のような存在か。

時おり、渦が凪ぐ時がある。その時は、夜寝ている時。その時は、満天の星を見て、ちょっと周りの景色が見れる。

自分の力では、如何ともしがたい渦潮にもまれて、渦潮に翻弄されて生きる数々の人生の事を思う。宮崎駿監督の崖の上のポニョ、魚のポニョのシーンみたいだ。

ただ、不幸だけではなく、幸せの渦と不幸の渦が織り成す、乱流に飲まれて、流されて行くようなものではないか。じっと、自分を観察して、渦が凪いだ時に、ちょっと自分の好きな位置に調整すれば好い。

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July 30, 2008

「托鉢は午前中のみ」の示唆

先日、鎌倉円覚寺の夏季講演の中で、僧が行う托鉢は午前中のみで、ピッタリと止めるとの話が、妙に心の中に残った。

1日中、托鉢ばかりやったら、本来の色々な修行ができない。

必要最低限の食を得て、後は本来の修行をすると云う考えは、人の生き方に大きな示唆を与える。

蓄える事に夢中になっては、更なる他の修行ができない。

収入を得る事に夢中になるのは、最低限の衣食住の為。後の時間は、自分が本来やるべき自分の人生のプログラム(修行)を考えてみる。これだけは、やらねば納まりのつかない、人生のプログラムみたいなものがある。

そのような「人生の時間配分」をしてこそ、納得のいく人生ではないのかと思う。

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July 27, 2008

保護色人生、穏かな大冒険

動物や昆虫の保護色は、動物・昆虫を目立たないようにして、身を守っている。周りに溶け込んで、居るのか居ないのかわからなくなる。

これが、何だか坐禅で目指す、宇宙との一体感に通じるのではないかと、私の仮説を立ててみた。

「私はここにいます」と云うアピールは、弱い赤ん坊が母親にアピールする時などには好いが、危険を伴うことも多い。それだけ、鷲や鷹に狙われたり、人間に踏み付けられたり、可愛いとストーカーされたり、捕まえられて、ペットにされたりする。

社会でも、目立つことを目指している人達も、自ら危険を増しているのでないかと思う。名誉、出世、有名、金持ち、セレブ、奇抜な服装・行動など、これらは、「私はここにいます」のメッセージ。

人は、何の為にそうしたがるのかと考えてみると、集団の中での存在感の無さに、寂しさを感じたりして、耐えられなくなり、「私は、ここにいます」と云いたくなるのではないかと思う。

でも、それは、自然界のルールでは、最も無防備に、危険な状態に陥るのではないだろうか。自然界に保護色で溶け込み、漂う、それが、人生の穏かな大冒険には、一番好い状態ではだろうか。

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July 23, 2008

社会からの慈悲と拍手

僧は托鉢して生きる。芸人は投げ銭で生きる。貰えるのは、相手の慈悲、感動しだい。

全ての職業の人も、自分の収入を、托鉢・投げ銭と思えば素晴らしい境地になれる。収入は社会からの慈悲、拍手。

サラリーマンも、毎日、茶碗を持って、人里を歩く托鉢と思って試たら良い。自分が流しの芸人と思って試たら良い。

人間も、本来は、実は、社会からの托鉢・投げ銭で生きてるようなものではないか。制度化されてるから見えないだけ。

当然貰えるものとして契約して、糧を貰っている事は、人を傲慢にさせる。正当に主張できる収入など本来は、どこにも無い。サラリーマンも、利権で生きてるようなもの。

今日も、自分を、茶碗をもって人里を歩く僧と思えば、人々・社会への感謝の念が湧く。

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July 21, 2008

数学と仏道修行

円覚寺夏季講座で、花園大学の佐々木閑先生の話を聴いた。先生は数学は精神を集中させないと解けない点で、仏道修行と似ていると云った。

回答を得る為には、情報の整理をしないと解けない。消すべきもの、残すべきもの、色々試してみる。

答えは最初から、存在していて、頭が混乱していて、回答が見えないだけ。

答えがわかってしまうと、答えは浮き上がって見える。

消すべき情報が、煩悩。要らない情報を消して行くのが修行。

確かに、数学と仏道修行は、似ている。思わず笑ってしまいたい程の、思いもよらない比喩だった。

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July 20, 2008

貧しさ、宇宙との調和の象徴

昨日朝から例年恒例の鎌倉円覚寺の夏季早朝講座が始まった。足立老師の話は、貧しさが人を育てる話であった。

「貧は人を苦しめず、人は貧に苦しむ、貧は菩薩の種、日々仏道に進む、貧は世界の福の神」

アテネ文庫「ミレー」からの文章と云う。ミレーの一生は貧しさと病気の人生だったと云う。

ミレーの絵は、「晩鐘」、「落穂ひろい」、「種を蒔く人」。貧しい農民の絵に、人は何を惹かれるのだろう。何を見出しているのだろう。

貧しく最小限で生きる事は、吾、自我の横暴を食い止める。富は自我を醜く膨張させる。傲慢な祝祭が始まる。

貧しさは、宇宙との調和の象徴だと私は直感した。

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July 19, 2008

ちょっとした不幸、人生の隠し味

ちょっと不幸が一番好い。ちょっとした、苦しみ・悩み・問題は、人生に落ち着きをもたらす。

幸せばかり感じると、何か世間に後ろめたささえ感じる。

自分だけ幸せを感じた時の、しらじらしさ、空しさ。恐ろしささえ感じる。

ちょっとした不幸は、他と繋がっている安心感と、優しさをもたらしてくれるように感じる。

それは、人生の隠し味。

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July 18, 2008

無人島に一人ぼっち

地球上に人間が65億人いても、一人の人間が人生で身近に関わる人数は200~300人もいるだろうか?と思う。そして、身近ではないが、重大な影響を与える人が、また同じように200~300人もいるだろうか?。合計で精々400~600人と関わって人生が展開しているのではないかと思う。

地球上に65億人もいても、それぞれが、500人前後の小さな特異な世界で、全然違った光景を見て、人生を送っているのではないだろうか?

また、地球上には65億人もいるのに、孤独な無人島に住んでいるような寂しい気持ちの人もいる。

私は、ある時は、無人島にいる気持ちになっても、満天の星にため息をつく程の美を感じたりすれば好いと思う。

ある時は、祭りの雑踏の中、街の喧騒の中、またある時は、無人島に一人ぼっちでも、素晴らしい時間ではないかと思う。

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July 17, 2008

わらびがみ(童神)

夏川りみさんのコンサートで、彼女が、「童神(わらびがみ)」と云う曲を歌ってくれた。出身の沖縄では、「わらびがみ」と云う言葉があるそうだ。方言っぽい彼女が語り掛ける言葉には、彼女の素朴さ純真さがにじみ出し、「わらびがみ 」を伝えるに相応しい人であった。

私が、ずーっと感じていた境地を、この言葉が、すっきりと云い表してくれた。

電車の中でも、近所でも、街中でも、私は子供に出遭うと、小さな神に出遭ったような気持ちになる。何を話しているのか知りたくて、時おりこっそり耳をそばだてる。

時に坐禅の会では、「名僧に囲まれている境地」を味わうように、子供に出遭うと、「わらびがみ」に囲まれる境地になる。

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July 16, 2008

金メダルを超えて輝く

昨日、オリンピックランナー松野明美さんの講演を初めて聴いて、この人に逢えて、本当によかったと思った。1988年のソウルオリンピック頃に活躍した彼女は、今二児の母。そのお子さんの一人が心臓病やダウン症で生まれた事で、その後の彼女の生き方は、それは、感動の嵐のようなものだった。

彼女は、今は、ダウン症の4歳の男の子の、オムツが取れるようになる事が夢ですと云った。金メダルを取る事よりも、子供のオムツが取れる事が夢ですと云った。

人生を、ゆっくりでも、時に立ち止まり、歩き出しても、マイペースで、前へ前へ進んで行く事、それが今、マラソンで金メダルを取る事よりも幸せである事を、初めて知りましたと云った。

彼女は、赤ちゃんを出産した時、まだ臍の緒が繋がった我が子と対面した時の感動は、金メダルよりも、遙に遙に幸せで感動的であったと云った。

私は、初めて、私の母の気持ちに深く近づけたと云う感覚と、マザーテレサに対面したような、何か、フワーと、揺りかごに抱かれたような気持ちになった。

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July 15, 2008

死んだも同然の瞬間の集合

万物は流転する。全てのものは変化している。

目の前を絶え間なく通り過ぎて行く現在が、かつて未来と呼び、たった今過去になって行く。

私には、時間が、静止写真のように、その時、その時に完結した瞬間の集合のようにも見える。

即ち、生と死が同一化した瞬間。生まれたばかりの瞬間が、もう二度と帰らない過去になっている。

死んだも同然の瞬間の集合が、重ねて、パラパラとめくれば、アニメーションのように人生になって現れる。

人生は、神秘的な勘違いで出来ている、宝もののようなアニメーション作品のようにも思える。

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July 14, 2008

紫陽花

まだ近所の小道には時折、色あせた紫陽花を見かける。

去年の紫陽花は両親。今年の紫陽花は私。来年の紫陽花は娘。毎年、季節を彩る。

限りあるもの、続いて行くものを、同時に感じる。

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July 12, 2008

何万枚の世界地図の啓示

数日前聴いた講演で、宇宙飛行士から見た地球は地球儀みたいに見えるのは確かだが、国境が無いことを改めて気づかされた。

地球を人間の視点で考えた場合。魚の視点で考えた場合、それぞれの動物で考えた場合、微生物の視点で考えた場合、植物の視点で考えた場合、人間でも民主主義の視点で考えた場合など、何万枚、何百万枚の世界地図ができあがる。

そうだ、私は多次元を生きていたんだ。

全く想像もできない、色とりどりの世界が、そこにはあったんだ。

自分に見えてる世界が小さく、小さく縮んで見える程、自分が何も所有していない実感が湧き、気持ちが開放され、宇宙に漂うような感覚になれる。そして、安らいでいられる。

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July 11, 2008

娘との飲み会

昨日、終業後、船橋駅で娘と待ち合わせて、夕食をした。就職して3年めで、千葉で一人暮らしをしている娘と会うのは久しぶり。7時半、駅の改札で、娘を待つのは、楽しかった。

娘の推薦の海鮮料理屋へ行って、ビールや日本酒も、二人で飲んだ。娘の仕事の大変さ、人生の事など、話しを聞いたり、何もかもが嬉しかった。

若い頃に見える人生の光景がある。娘の目に映り、展開する人生が、決して安定した、楽なものではないことを知った。

自分が生きて来た人生を想うと、私の両親が生きて来た人生を想うと、「何とかなるさ」と心の中で、娘の生き方にエールを送った。

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July 09, 2008

哲学カフェの風景、自分の為か、人の為か?の命題

人に褒めてもらいたいとか、人に頼られる存在になりたいとかの望みは、色んな人が共感する望みのようだ。昨日夜、哲学カフェの中で体験した。

それでいて、「人の為、社会の為」と云うと、”恩着せがましい。結局は自分の為では無いか”と切り捨てるニヒルな人が多いことに驚いた。

自分と他人が、全く同一だったら、自分の為とか、人の為かを区別する議論は成り立たない。私にとっては、過去、自他不二、自他一如の境地が、その不毛な議論を、終わらせてくれて、心がすっかり軽くなった。人が喜べば、自分も嬉しくなり、人が怒りだせば、自分もイライラして来る。それは、自他一如の証ではないのか。

マザーテレサの行為も、結局は自分の自己満足の為と云わないと気が済まない人が多いことに、中途半端に迷える、孤独な現代人の現実を感じた。

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July 06, 2008

ぜんまいの命

私は、朝の子供向け番組、「ぜんまい侍」のファンで、毎朝、出勤前の準備の時、TVのチャンネルを合わせている。娘が子供時代、あんみつ姫を見ていた事も、思い出せ、楽しい。

先日、「ぜんまい侍」の所以がわかった。

一度死んだ侍が、神様に、もう一度生き返らせて貰うのに頼んだ時、何か良い事をしたら、頭の上に付いたぜんまいが巻かれ、エネルギーが生まれる仕組みが創られた。

「何か良い事をしたら、それが、生きるエネルギーになる」、その良い事をした分だけ、ぜんまいが巻かれ、生きる事が出来る。

素晴らしい発想。素晴らしい人生哲学。

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July 04, 2008

せめて質素に

現代は、世界の少なくとも半分の人は、窮乏化して行く過程に見える。人間社会の野蛮さにおいては、戦乱の大昔と変わらなくも見える。紀元前の前後の中国の殷や周、秦、漢の時代とも変わらないのかも知れないと思う。

こんな時代だからこそ、せめて質素に生きる価値があると思う。

贅沢やセレブ志向は、自慢出来る事ではない。窮乏化していく人達の恨みのターゲットになるだけ。

自分が生きて行くのに、最小限に必要なものを、控えめに得て、質素に生きて行けば、どれだけ心は穏かになれることか。

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July 02, 2008

人生、全て誤差の範囲?

地球上の全ての生物は、大腸菌だろうが人間だろうが、全く同じ遺伝子暗号を使っているとのこと。

何たることか、地球上のあらゆる生物は、微生物、動物、人間を含め、DNAで繋がっている。遺伝子の村上和雄先生の講演で聴いた。

科学は素晴らしいが、科学の力で、部品を集めても、一つの細胞でさえも造ることはできない。今人間として生を受けていることだけでも、余りにも幸運で、また莫大な高価な身体をもっていることに気づく。今、人間として生きているだけで、金持ちだろうがなかろうが、偉かろうが偉くなかろうが、どちらでも好い誤差の範囲。

人間の生命は地球38億年の歳月の中で、微生物のような時代から、一度も途切れず今日まで生き延びて来ている。

人間としての100年か20年か、50年かは、どうでも好い誤差の範囲。38億年プラス何年と云うのが、自分の命の真相。

人生、全てのことは、誤差の範囲。目くじら立てることは何も無い。

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July 01, 2008

「完敗で、幸せ」の境地

ある姉妹の話で、現実的な姉と、理想家の妹が、よく姉妹喧嘩していたと云う。

時を経て、ある時、姉が、妹に手紙をくれたそうです。「貴方に完敗です。そのことを嬉しく思います」と。

「貴方に完敗で、幸せです」。

これは、宇宙に溶け込むような、雄大な、深い愛情の境地ではないかと想った。

自分は誰に対して、完敗で幸せを感じられるだろうかと想像してみると、自分の愛情の対象が垣間見れるような気がする。


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June 26, 2008

思い通りにならないこと

人が思い通りにならないことは、人間の尊厳。動物でも思い通りにならないことは、動物の尊厳。

自分も、誰かの思い通りにもならないことは、自分の尊厳。

生きとし生けるものは、そのように創られている。

例えば、人間を構成する60兆の細胞(生物)のことを考えれば、そう思う。

思い通りにならないことで、調和している。そして、永遠に安らいでいる。

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June 22, 2008

都蝶々さんのお母さん

都蝶々さんの義理のお母さんは、父親の駆け落ち相手の芸者さんだったと云う。

都蝶々さんは、子供の頃から、旅芸人の一座に付いて旅して成長したとのこと。

その義理のお母さんは、厳しく都蝶々さんに芸を教えたと云う。傍で見てると、継母だからいじめているようにも見られたと云う。

でも、蝶々さんは、義理のお母さんの事をちっとも恨んでない。

お母さんは、泣きながら、バチで叩いて、蝶々さんを鍛えてくれたと云う。

子供は愛情を見抜く。感動のシーンだったことがわかる。

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June 21, 2008

海亀の赤ちゃんの群れ

海亀の赤ちゃんは生まれたら、自力でパタパタと歩いて海を目指す。そのパタパタと歩く姿は、とてもかわいい。

だが、自然界は過酷で、途中、力尽きるものも、鳥に狙われるものもある。一斉に、海を目指す姿を想像すると、多くが海まで辿り着いて欲しいと願う。

海へ辿り着いた時の光景は、母親の顔が見えた時の赤ちゃんの顔のように素晴らしい。

そして、辿り着いた海亀の赤ちゃん達は、途中で倒れた海亀の赤ちゃん達の代表として生きて行く。

私も、誰かの人達の代表として生きているのではないかとも想う。

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June 20, 2008

どちらでも好いことの気づき

全てが、自分だと思うと、人の競争、争いも、可愛そうなくらい、愛おしくも見えて来る。

自分を守る為、自分の繁栄を達成する為、それぞれに頑張る姿がある。

富が、AからBに移っても、AでもBでも自分なら、どちらでも好いこと。

全てが、自分の一部なら、穏かな調和が、眼前に拡がる。

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June 19, 2008

一流選手とは?

昨日、妹が、雑誌の記事のコピーをくれた。高妻容一・東海大学助教授の、一流選手達の共通点の事が書いてあった。

一流選手は、試合結果にとらわれない。自分へのチャレンジを楽しむ。

二流選手は、試合結果に一喜一憂。勝ったら大喜び、負けたら落ち込み。結果を楽しむ。

三流選手は、人が見てる時だけ練習、見てないところではサボる。手を抜く事を楽しむ。

結果にとらわれないって、すごい境地だと思った。ただ黙々と修行する境地。すがすがしい想い。

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June 18, 2008

地球へのホームステイ

今、日常慣れ親しんだ自分の人生をホームステイと考えれば面白い。

外国の知らない土地の、知らない人の家に御世話になる。その御世話になる人の家の一室を借り、全てを好奇心一杯の目で、周りを見つめる。

いずれは、本国に帰らねばならないから、書きとめておきたいことや、想い出の写真も大切に残しておきたい気持ちにもなる。その場面、場面が心に焼きつく忘れられないシーンもある。

私は、遠い宇宙の塵のような微小なエネルギー体、今、地球のホームステイ先にいる。地球特派員報告中。

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June 16, 2008

「可愛さ」と「かわいそう」、赤ちゃん

「愛おしさ」の元になるの感情は、「可愛さ」と「かわいそう」と云う感覚だと云う。赤ちゃんを見ればわかる。

「かわいそう」と云う感覚は、言い替えると、「健気(けなげ)さ」に通じると云う。

「愛おしく」思われる人は、「可愛さと、健気さ」があると云う。

人々が通常めざしているものは、可愛くないように、かわいそうでないように、「醜い程、自信たっぷりな人」をめざしているのではないだろうか?「愛おしくない、一人ぼっちの成功者?」をめざして生きている人が、何と多いのではないだろうか?

愛おしさには、素直さと健気さだったら、誰にでもできる。

勘違いして、変な成功者?をめざす人生は、道に迷ったも等しい。それは、他の人に、愛おしく思ってもらえない孤独の終着駅なのかも知れない。

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June 12, 2008

「伝えること」って、どんなこと

伝えることって、どんなことか?との問いに、「笑顔」の例を知った。

喋らなくても、人は、笑顔、表情で、既に、沢山のことを伝えていることを思った。

私は、「伝えることとは、笑顔」と云うのが、最高の生き方のように想えた。

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June 11, 2008

名僧に囲まれて

昨日終業後、新宿で、横山紘一先生の哲学カフェに出席した。先生の「十牛図入門」(幻冬舎)に感動したこともあり、久しぶりに顔を出した。

共に禅の修行をしている人が、私の坐禅の師、山口博永禅師は、「日本の中で5本の指に入る名僧の一人」と呼んでおられることを最近知って、嬉しかった。

そして、この横山紘一先生(立教大学、唯識論)も、昨日の会話の中で、横山先生も、名僧だと思った。

横山先生は、昨日、「私の妻」・「私の夫」と云うのを、「妻の夫」・「夫の妻」と置きかえる境地を教えてくれた。「私の娘」でなく、「娘の父」の境地。

他があって、しかる後に自分がある。自分を離れることができる程、争い、疎外感はなくなると。

そして、「水があって、魚がある」、「魚は、水の影」である境地に通じている。

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June 08, 2008

平凡な奇跡

人と偶然に会う確率から、天文学的確率とか考え、私は、何か不思議に思っていたが、他の日常の様々な出来事も、天文学的確率の中で、生きている事に他ならないと思った。

生まれて来る時も、何億の中から、1個の細胞が生き残って、生まれて来ている。人間全ては、先ず宝くじの当選者。余りにも、奇跡的な事が多過ぎて、その奇跡は、平凡な日常に見えてしまうようになっている。

平凡と思われる日常と思っても、ある時は、奇跡の連続のような人生の展開に、宇宙を感じてみたいとも思う。

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June 07, 2008

犬に教えられた執着

館山、坐禅道場の犬が、餌箱に入った餌は、完璧に自分の物として、取ろうとするものには、誰でも牙を剥いて怒るとの話を住職から聴いて、可笑しかった。そんな人が、身近にも感じられて、犬と姿が、ダブって可笑しかった。

それを聴いたのは、約1ヶ月前のこと。

そして昨日夜、住職は坐禅の途中に云った。人間は地球を自分の物と思っている勘違いのことを。

そうだ、私も、自分の家・土地を、権利証を持って、自分のものだと、牙を剥いて、怒っている犬と同じであることを、気づき、可笑しくなった。私も、餌箱に入った餌を牙を剥いて守る犬と、同じレベルだったかと。

自分が、何一つ所有していないことの気付きは、宇宙との調和の入門。

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June 05, 2008

パソコンのインク、一元論へ

私のパソコンのインクは、4種類。黒と、黄、赤、青。

その4種類しかないのに、写真の印刷の時、自然の沢山の多彩な色が見事に印刷されて出て来る。

その私の目は、4種類の色を、多彩な色に見える生物に造られている。

その4種類だって、成分を細かく分析していくと、ちょっとその原子か電子核か何かの位置や配列を変えてるだけで、素材は同じものかも知れない。

人生色々とか、多彩な色に惑わされて、人生を見ているが、素材は同じものと思うと、気が抜けるやら、目の錯覚の人生と思い、可笑しい気持ちにもなる。今朝、不図、パソコンのインクは、一元論へのヒントにもなることに気づいた。また、「波と大海」を想う。

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June 03, 2008

不幸のバランス

昨日、ビジネスランチの時の雑談が、たまたま人生論に及んだ。

不幸な人のバランスは、その分、深く神の存在を、神をいつも考えることが出来ることだと、アラブ人の同僚が云ってビックリした。

アラブ人から一元論を聞こうとは、思ってもいなかった。

確かに、不幸になった分、神との対話は深まると思う。

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June 02, 2008

旅の話の盛り上がり

人生は、それぞれの人が、毎日、その人のレンズを増やして生きていることではないかと思った。

それぞれのレンズを通して見てきたものを、群盲索象のように、見た人が、見た部分、触った部分の感覚を表現する。

特派員報告のように、それぞれの特派員が人生をレポートする。

同じ場所にいるのか、違った場所にいるのか、お互いにわからない。

そして、同じような場所だと感じる時に、人生の旅の話も、盛り上がる。

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June 01, 2008

偶然の背後の世界

最近、日比谷線の中で、アメリカ在住で出張来日中の、もとの会社の後輩と偶然出会った。3年ほど前にも、同じように、やはり地下鉄の中で、同じ後輩(米国から出張来日中)と同じように偶然会っていたので、とても驚いた。出張中と云う確率の中、地下鉄に乗る時間帯の確率、そして同じ車両や駅に居合せる確率に、気の遠くなる偶然に驚いた。

また、最近、東横線の電車の中で朝、偶然車内で見かけた知らないおばさん二人と、夕方山手線の中で再び、同じおばさん二人と偶然会う珍現象にも驚いた。

人間社会の色んな縁は、その人にとって好い縁も悪い縁も、大きな宇宙において何らかに作用し合っている力があるのではないかと思った。それは、何世代にもわたって続く、何かのエネルギーが、なせる技なのではないかと思った。

人間にとって、毎日起こる偶然の背後にあるものは、知る由も無いが、何が深い縁があるのではないだろうかと思う。

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May 31, 2008

どちらでも好い境地

「どちらに転んでも大丈夫の境地は無いのか?」の問いが、坐禅の住職の出家の命題であったと云う。

「どちらでも好い」と云う境地。執着から開放された境地。「もう、そのままでいいんですよ」と云う境地。

光も闇も一体化した境地。時に光に、時に闇に。

力を抜けば、大きな宇宙のリズムが、その鼓動の波に載せてくれるような気がする。じっと耳を凝らす。

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May 30, 2008

中国でホームレス男性が寄付の報道

中国の重慶で、ホームレスの男性が、肉体労働・ごみ拾い・物乞いで貯めたお金180元(約2680円)を、四川大地震の被災者へ街頭募金で寄付したと云う。5月26日、YahooNewsで知った。「苦しいことがあれば、四方八方から応援するものだ」ともメモに書いてあったと云う。

日頃、坐禅の住職が云う修行の極致、「自己救済の前に、他者救済を優先する行為」とは、このことかと、胸が熱くなった。

コピーを妹や知人にも送った。

Yahoo Newsのインターネットの書き込みには、感動の嵐と、心無いコメントも少々続いていた。

全てが、人生を現しているようだった。

空き缶や雑誌を山ほど抱えている姿を見慣れたホームレスの人が、自分より、優先する価値に目覚めていることを想像するだけで、私は衝撃的な驚きと幸せに包まれた。

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May 28, 2008

優しい匂い

7~8年前、40才の時、人工透析になられた女性が、もう長く生きなくてもと諦めていた時、二人の子供が病院に来て、母と会った場面の話を聞いた。

中学3年の男の子は、どんな身体になっても生きてと頼んだと云う。

中学1年の男の子は、母の背中に回って、母の身体に顔を押し付けて、ただ母の匂いをクンクンと嗅いでいたと云う。

その時、その女性は、生きる力を取り戻したと云う。

私も、脳裡の中で、優しかった母の匂いを想い出していた。

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May 27, 2008

城山三郎さんが超えられなかったこと

全体主義国家の戦争の悲惨さを、痛切に感じ、時代に警鐘を鳴らし続けた城山三郎さんは、私も共鳴するところが沢山ある。理不尽な組織の為に、泣かされて働く企業戦士にも、彼は、戦時中の日本の全体主義の残酷さを見ていた。「旗振るな、旗振らすな」と云う彼の思想は、心に残るものがある。戦争に翻弄された人間の、体験から来る、迫力がある。

「全体主義」、「滅私奉公」とかの響きは、私は、とうの昔に、忌み嫌うべき言葉の棚に葬っていた。

数日前、坐禅の住職は云った。「組織の為」でなく、「一切の為」に拡がるならば、滅私奉公は、修行の最高の極致であったことを。

個人主義的・西欧的発想より、家族主義的・組織主義的な日本の発想が、その枠を拡げ、「一切の為に」とすれば、世界の平和に、心の安定にどれだけ貢献出来ることだろうと思った。

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May 26, 2008

嫌な物、良い物

嫌な物は、個人では被害の意識、陰の力。全体では、守る力。慈悲の心を生む。強すぎると、盲目的になる。

良い物は、個人では、むさぼる気持ち、陽の力。全体では、攻める力。知恵の心を生む。強すぎると破壊的になる。

陰の力も、陽の力も同じもの。出方が違っているだけ。

「煩悩・即・菩提」 「悟り・即・迷い」。二つのものの背後にあるものがある。

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May 24, 2008

いつもの様に、特別な事を、

阪神大震災を経験された人の手記にあった。毎日が特別な日だった事に気づいたと。

毎日が特別な日、人生最後の日だったのに、いつもの通りの平凡な日と思い、平凡な過ごし方をしていたと思うと。

誰と会い、何を語り、どの様な時を過ごすのか?人は、今日も、大きな選択をして生きている。

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May 23, 2008

人生は、自分の家を造る行為

昨日、知人に頂いた資料の中で、「自分の家を造る仕事が人生」と考えている人の話が書かれていた。

大工さんが、通常、お客さん用に建てているありきたりの家を、建て終わった後に、退職時、会社からお礼にと、自分にプレゼントして貰ったと云う時の話であった。

クレームが来ない程度に適当に造っていた家が、いざ自分のものと思った途端に、いざ自分が住むとなった途端に、他人事では無かったことに気づいたと云う話であった。

柱や壁、釘の一つ一つが、見る度に、自分が造ったものながら、恨めしく思えたと云う。

そして、人生は、自分が、外の世界に何らかの発信して生きていることは、社会にも、他人にも、結局、それは自分の家を造っている行為であったことに気付いたと云う話であった。

平凡な毎日の生活でも、社会を嘆いたり、人を批判したり、社会や他人を評論したりしても、結局、それは、自分の住処(すみか)を造る行為でもあった。

子供時代に憧れた、里山の中の、心地よい、隠れ家のような、質素でも、心休まる住処(すみか)を造りたい。

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May 22, 2008

ビジネスの光景

ある番組で、若者のビール離れに対応して、ビール会社が、どうやって若者にビールを飲ませるか、あれこれ営業戦略を練ってる様子が放送されていた。

ビジネスの世界の身勝手さや、ビジネス世界への違和感を感じた。

どう社会に役立つかを、常に仕事の基軸に考えてもらいたい。世の中の、沢山の会社は、組織の維持・拡大が、至上命題化してしまっているのではないか?

自分が持ってる物を、人にどう売りこむかではなく、社会や消費者には、どのようなニーズがあるのかを考えるのが先ではないかと私は思う。会社のエゴを社会に押し付けるスタイルになっては、情けないと思う。

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May 16, 2008

仕事の原点

仕事の原点は、社会に役立つことだと思う。社会に役立つことをするからこそ、社会が、人が、お金を払ってくれる。

社会に役立つことの原点を忘れて、運動会やオリンピックのように、ただ自分の属するチームの勝ちを目指して頑張っている姿は、尊敬にはほど遠い。

社会が喜ぶことをしているか?人が喜ぶことをしているか?の自分への問いかけは、仕事の原点を思いださせてくれる。

自分の収入が増える技術を増し、経済的に豊かになることに気を取られていると、アット云う間に人生は終わってしまう。

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May 14, 2008

人間としての勘違い

幸せなのか、不幸なのか、はそれぞれの人が、勘違いしているようなものかも知れない。幸せとか不幸とか、人間が感じるのはそれぞれの人の勘違いで、自然や、物事は、中立的な現象だと思う。

物事を不幸に感じるのも、勘違いかも知れない。幸せに感じるのも同じ。ただ、自然現象があるのみ。

金子みすずさんの大漁の歌を想い出す。大漁で、浜が、漁村が、幸せに湧き返る時、魚は、仲間の大量の惨事に、弔いに静まり返る。

人は「人間としての勘違い」の中で、また「自分としての勘違い」の中で生きている。そして、その勘違いの中でしか生きて行けないように造られていると思う。それもまた好しかとも思う。

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May 13, 2008

十牛図の感動

私が、禅の入門図と云われる十牛図に最初に接したのは、6年前、中村天風さんの著書「盛大な人生」の中だった。

一昨日、横山紘一先生の著書「十牛図入門」(幻冬舎新書)を買ってみた。ぺらぺらと数ページめくるだけで、もう感動の嵐が巻き起こる想いだった。

逃げた牛を探すところから始まり、牛を見付け出し、飼いならし、そして全てが空になり、最後の十枚目に、迷える童に手を差し伸べる境地となる図である。室町時代に中国から伝わった図だ云う。

「自己究明、生死解決、他者救済」が描かれていることを再認識した。

一元を目指し、再び「二元に遊ぶ」境地だと思った。

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May 05, 2008

ジャズのアドリブのように

人生もジャズのアドリブの演奏のように、自然に出たとこ勝負で、調和したメロデイーを奏でられたら最高だと思う。

自然に、自然に、メロデイーが躍動するままに。

今まで起きた、色々な幸せなことも不幸なことも、自然なメロデイーだったのかも知れない。

そう思うと、気持ちがスーと楽になる。

これからも、素晴らしいアドリブを奏でたい。自然に身を任せて。


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May 03, 2008

想い出は未来への燃料

人生を飛行に例えるならば、グライダーのように空を、穏やかに飛ばしてくれる力が、想い出の力だと思う。

時々、体勢を整える為に新たな推力を与えてくれるのが、何か新しいことに挑戦する時。

そして、人生の楽しみのおまけは、日々の小さな驚き。

人生をグライダーのように、緩やかな気流に漂う鳥のように、飛ばせてくれるような力が、想い出の力ではないか。

想い出は、未来への燃料。

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April 28, 2008

偶然の出会いが二つ

昨日は、東横線の中で、約18年前、中東アブダビの国営銀行に勤務しておられた日本人女性と偶然あった。お互いに名前を云って、驚きの再会だった。彼女のご主人もアブダビの石油開発会社で働いておられ、今でも、アブダビで勤務され時々、彼女もアブダビへ行くとのことであった。「National Bank of Abu Dhabi」と、当時、電話すると返って来ていた彼女の声さえも懐かしく想い出した。私のアブダビ時代は、人生の転換点であった時代。

夕方、横浜駅のコンコースを歩いていたら、私が大学卒業後就職したころ、九州の父が会社の本社の人事部へ、墨の字の挨拶の手紙を出した時に受けとって、私に教えてくれた人事の担当の会社OBの方に、偶然お会いした。私は、苗字を呼んで声をかけて、お互いに懐かしく近況を話しあった。父は生前、私に何も云わず、私の行く末をいつも見守っていた。ただ、ひたすら息子をよろしくお願いしますと云う趣旨の手紙だったと云う。

このような偶然の出会いの連続に、人生の、神秘に包まれた展開を、感じざるを得ない気持ちになる。人の出会いも、自然の営みの一つ。

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April 26, 2008

新聞配達への想い

今朝、5時過ぎに家のポストから新聞を取りに、玄関を開けた時、まだ新聞は来ていなかった。直ぐ、バイクの音がして、新聞配達の青年が見えた。

遠くからだったが、私は、「お早うございます」と小さく声をかけた。

彼は、新聞を持って走って私に近づいて来て、玄関前で、「日経新聞 朝刊です」と云って、笑顔で私に手渡してくれた。朝5時の早朝の空気の中に、彼の「日経新聞 朝刊です」と云う声が、清々しく、こだまのように響いた。

新聞配達は、私にとって、特別な想いの象徴。新聞配達は、人生への前向きさ、人生への意地、熱意、などあらゆる尊敬の対象が詰っている。

数日前に講演を聴いた、脳性小児麻痺の病を抱えながら、新聞配達をして家計を支えられた、杉本博道さんのことも想い出した。

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April 24, 2008

全く異なった私の視点

今週は毎日、中東からの訪日団5名を連れて、日本の石油の顧客表敬訪問中だが、各社との面談・昼夜の会食の場面で、自分の経て来たサラリーマン生活の、まるでパノラマをみるような思いが頭をよぎる。

各社の面談相手の上下関係、発言内容、雰囲気、話題、面談の決まり文句など、自分がまるで、幽体離脱したかのように、客観的な視点で、そのシーンを眺めている。

それは、将来、人生を振り返る頃に、あの頃は、ちょっと仕事に夢中過ぎたかなーと思いだす人達のシーンのような気もする。

明日、訪日団を送り出したあと、また、静かな郊外の庭園でも一人歩いてみたい。すでに、小田原城の藤の庭園も、心に浮かんでいる。

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April 22, 2008

人間は一つの天体?

直径が0.1ミリと云う人間の細胞一つ一つの中の遺伝子には、約60億の遺伝言語の精密な設計図が記述・描かれていると云う。60億語とは、辞典の広辞苑の約3万冊分。

これは、極小の中に、極大の宇宙の存在を感じさせる。

人間の60兆もの細胞も、世界の人口65億よりはるかに多い。人間は一人一人が、世界の人口の1万倍の数の細胞を持っている。細胞は一つ一つは一個の生物で、更に、その中に、広辞苑3万冊分の情報を持っている。

人間は、既に一つの天体の観。極小の世界に、極大が存在、並存している。

人間が何か壮大な宇宙にも見え、私の人生観へ大いなる示唆を与えてくれる。

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April 21, 2008

神の、神との出会い?

今週は、アラブからのゲスト5名が来日、顧客挨拶周りに1週間同行する。ちょっと、慌しい週になりそうである。

そんな中でも、昨日は、小田原の妹の誘いで、脳性小児麻痺と闘いながらサラリーマンをされ、全国で講演活動をされてる杉本博道さんの講演を初めて聴いた。そして、この講演を聴けた縁に、深く感謝した。

脳性小児麻痺の病気と、親の離婚、極貧生活、それでも彼は、不自由な身体でも新聞配達をしながら、時間をかけて高校・大学と進みま、大手コンピューター企業に就職。そして48才の今、システムエンジニアとして働きながら、障害児を抱える人達などへ希望を与える講演など、社会貢献をしている。ホノルルマラソン2回出場、東京マラソンも1回出場と云う。

職場で知りあった奥さんの言葉も凄かった。健常者の奥さんは、両親に結婚を反対されながらも、「貴方の宿命を転換させ、来世でも貴方と結婚したい。」とまで云ってくれたそうです。

何だか、神の、神との出会いだったのではと思う話でした。

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April 12, 2008

大学時代の光景

昨日は、懐かしい大学時代の同級生と3人で新橋で懇親会をした。

友人の地元愛媛では、大昔からゴルフ場があって、子供時代には、ゴルフ場のそばで遊んでいたとか、地元の野球を評して、黒潮打線ならぬ、赤潮打線と云っていたとか、大学進学で上京する時、漁師のおじいちゃんに「魚がおらんけん、東京の大学に行く」と云ったとか。

もう一人の友人の、学校で成績の悪かった人が社会では良かった例は多いが、成績の良かった人が社会では落第だった例が遙に多いのでないかとの人生観も印象に残った。

今朝、ニュースで、大学の入学式に、学生より遙に多い父兄の参列のニュースがあった。生前、私の九州の親は、一度も東京の大学を見ること無く他界した。入学式と云わず、大学を一度くらい見たかっただろうと思う。生活が大変で、九州から出て来るには、金と時間が無く、また照れくさかったかも知れない。

私の両親も、兄弟も姉妹も大学には行っていない。今私が想い出す大学時代の光景は、両親・兄弟・姉妹からのプレゼントだったと思う。

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April 11, 2008

人生のルネッサンス

一度、会社を辞めてから、私の人生で始まったことを振り返ると、私は、何かの縁で救われたと云う気持ちになる。会社を辞め、時間ができたことで、縁が生まれ、私の人生で、考えられなかった展開が起きた。

1. 食と健康の勉強の縁で、薬・医者との縁が切れた幸せ。健康への自信。

2. 坐禅の住職との出会いと、ヴェーダンダ哲学との出会い、これで私の人生観、人生に対する気持ちがとても楽になっ た。(自他一如)。

3. 私の人生の宿題だった満洲やニュージランドへの旅、姉妹との米国への旅、娘とのアラブへの旅。

4. 文学や絵画、芸術への深い興味が生まれたこと。

5. そして、4年のブランクを経て、石油ガス業界へ、産油国側の会社へ復帰できたこと。

人生の選択としては、危険極まりない選択もして来たと思うが、それも、私の遺伝子の技か、何かに押し出されるように、行動して来たと思う。それは、人生の新たな価値の創造、私のルネッサンスの始まりだと思っている。


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April 10, 2008

評価の切り口、人生の価値観

人生の評価の切り口は、それぞれの人の個性のように、本来、沢山の組み合わせで成り立っているのだろう。

忙しく、日々流されるように生きてる人は、その評価の切り口が、世間の最大公約数的な基準になってしまうのではないかと思う。つまり、収入・地位・人間関係・贅沢・趣味・スポーツなど等。

そのような世間の最大公約数的な価値観は、複雑な人間にとっては、機械的に、余りにも単純過ぎる価値観で、私は、そのような価値観では、幸せをもたらすとは思えない。

その人にしかわからない、価値観とその優先順位があってこそ、個としての人生を、充実させていることではないかと思う。

時に、収入・地位・人間関係等を犠牲にしてまでも、その人が行動する時に、私は、その人の価値観に興味と、その人の人生に興味を覚える。

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April 06, 2008

人生賛歌の気概

自己究明・生死(しょうじ)解決・他者救済を同時にやること、それが修行と住職はおっしゃった。自他一如の考えだと、それはわかる。

そして、内なる宇宙を信じるが故の気概。それは、「釈迦、何するものぞ」と云う気概。

素晴らしい気概、人生賛歌の気概。

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April 05, 2008

つかまず、持たず、腰かけず

「つかまず、持たず、腰かけず」。

悟ったと思った瞬間に、つかみ、また突き落とされることを、住職は云った。

諸縁を放捨するところに、「つかまず、持たず、腰かけず」の境地が生まれる。

「つかまず、持たず、腰かけず」の中に、円かなる太虚の安らぎがある。


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April 04, 2008

2年前?、20年前?

2年前、桜の頃、ノルウェーの友人の娘さんが来日、桜の小田原城を妹の家族と共に案内した。私は、彼女らが天守閣に上っている間に、広場に残り、こっそりサムライの鎧をつけて、彼女達を驚かせて、大笑い。

もう10年、いやそれ以上前にも感じるが、たった2年前のこと。

驚きは人生を豊かにする。驚きのもとは、旅と人との出会い。

1年はアッと云う間に過ぎるなどとは、もう今は思わない。人生がアッと云う間に過ぎるのは、驚きの不足。

沢山の小さな心地好い驚きが、重なって、2年は20年にも感じられる。

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March 25, 2008

排水溝のふたの事件

昨日のYahoo Newsで、衝撃を受けたニュースがある。

"親子で、排水溝のふた盗む 「生活が苦しかったので、お父さんを手伝った」と中二少女"。3月19日、夜9時過ぎの世田谷下馬のマンション解体現場とあった。

私には、成人した娘が一人います。子供の頃からの成長の様子の想い出が、私の人生の宝となっています。

14才の娘に、「生活が苦しかったので、お父さんを手伝った」と云われた時の、父親の気持ち、それを聞く警察官の気持ち、娘の気持ちを思うと、ただ、人生のせつなさが、涙を誘った。

この親子の人生に、貧しくとも、焼き芋のような優しい温かさと力強さが、もどって来ることを願う。

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March 24, 2008

今の輝き

リンゴの切り口が直ぐに酸化して行くように、哀しみも苦しみも幸せも、何もかもが、時と共に色あせて行く。

だからこそ、今が輝く。人生は、今を頂点として、展開している。

今は、どんな状態であっても、壮大な舞台の輝きなのだ。

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March 23, 2008

メルヘンの光景

人生では、もう一度だけとか、あの日に帰りたいと云う想い出がある。

それは、もう人生の素晴らしい瞬間であって、実際は、二度と無くても、その人にとっては、十分に幸せなことだと思う。

草原の中で、ちらっとプレーリードッグを見つけた時のように、また雪山の斜面で、白い可愛らしいオゴジョ(イタチの一種)をちらっと見つけた時のように、もうそれだけで、一生残る想い出になる。

ちらっと見た、メルヘンの光景は、それが存在したと云うことだけで、もう充分ではないかと思う。

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March 21, 2008

早朝の開放感の想い出

今朝は年末に期限切れになってしまった運転免許更新の為に、横浜二俣川に朝8:00に間に合うように出掛けることにした。

早朝、暗い内から起きると、6年前に会社を辞めた時、余りの開放感の為か、深夜でも早朝でも、目が覚めると、嬉しくて、慣れない小説を読んだり、今後の夢を考えたりした時のことを想い出した。今日は、会社に行かずに、何をしてもいいんだと思うと、嬉しくてしょうがなかった。

その後、ゆき詰まったりした時は、何の組織にも属さない自分が、寧ろ、とてつもない危険な心細い存在であることに気づいたりもした。

そして、今、結局は、極端であることは、不安であったことに気づいた。極端な自由は、極端な束縛と同じくらい、混沌として、苦しい。極端な成功も、極端な失敗にも似ている。

適度に、まだらに、色々な矛盾するものが、溶け合ってこそ、自然に、穏かな、時に美しい人生の情景が生まれる。

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March 20, 2008

適度な不幸

闇の中で光を見出すことの方が、光の中で闇を見出すことより、私は好きだ。

適度な不幸、思い通りにならないことが、どれだけ小さな幸せを、際立たせてくれることか。

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March 18, 2008

明るい人、暗い人

よく、成功していると思われる人達の講演で、「明るい人でないと、周りに人は寄り付いて来ない」と云われることが多い。

私は、いつも明るい人は、薄っぺらに見えてしまう。どこか、無理されているようで、行き詰まるのではと、息苦しく思ってしまう。でも、その明るく見える人が、陰で泣いている姿を知ると、その人に深さを感じて、好きになる。

明るさに拘ることで、大本営発表のように、無理されて生きているようで、滑稽に感じてしまう。

人生は、単純ではなく、圧倒的な大自然に対峙するかの如く、人生に感じる明るさも暗さも、大自然の大きな営みの一部として、堂々と味わえば好いと思う。

明るい人も暗い人も、その人が時折見せる心の情景なのだから、自然に、そのままでこそ、深い味わいであり、魅力ではないかと思う。

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March 13, 2008

春、秋の美

色々な、深い苦しみを経ての平穏は、格別な幸せの味わい。

熱い夏、寒い冬を経ての、春、秋だから、その素晴らしさは倍増する。

私は、人生の、春や秋の美しい光景を、いつでも、脳裡に呼び出せるように生きて行きたい。

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March 12, 2008

価値観の幼児性指標

夢を聴いて、子供の夢と変わらない大人は、価値観が未発達と云うことかも知れない。

子供は、自分の存在が余りにも大きく、自分が宇宙の中心として、色々な夢を語る。

自分を際立たせる夢が多い。

成熟した、修行を経た成人は、自然の中に自分を溶け込ませるような、自分は自然の一部として、穏かな夢を語るのではないだろうか?

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March 11, 2008

全てに良い人はいない

同じ人が見せる、色々な表情は大自然の表情に似ている。

良い人が、時に悪い人に、悪い人が、時に良い人に。

たまたま巡りあわせた時期によって、人も、見える表情も変わる。

このような、色々な表情を見せる大自然の営みの繰り返しが人生。

自分の大好きな大自然の光景を思い浮かべれば、人生も捨てたもんじゃない。

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March 06, 2008

魚の食べ方の想い出

先日、煮魚を食べていたら、不図、魚が好きだった父の煮魚の食べ方を想い出した。魚の骨を吸うように食べていた父。カブト煮などは、それはもうキレイに食べ尽くしていた。魚もあれだけ食べてしまわれては、本望だったろうなど、勝手な推測までしてしまうほどだった。

煮魚の骨を吸うように食べている自分をみて、父を見るようで、可笑しくもあり、突然訪れた父との再会が懐かしかった。

生前、じっくり、話したことの無い父だったが、今、その頃の父の行動・言動・仕草を想い出すと、どれだけ私を愛していたか、苦しくなるほどわかる。

ただ申し訳なくて、父が生きている時に、そのことに気付けなくて、人生の哀しさを感じる。これは、後悔と云うより、今まで気づかなかったが故に、何倍にも増幅された、父親への思慕であろう。哀しみと、心地好い清々しさとの入り混じった、深い感情である。

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February 29, 2008

愛と云う響きの危険

愛と云う言葉は、素晴らしい言葉の響きを持っている。

だが、愛と云う言葉にも、夢と同じように凶器を含んでいる側面があることを思う。一つの愛が、他の排除、他への無関心を伴って進行して行く時に、愛は凶器、狂気にもなって行く。

自分の国を愛するが故に、他国を悲惨な滅亡へ向かわせることもある。自分が愛する特定の人のみに、気を取られている間に、多くの人の悲惨な苦しみに、背を向けることもある。

一定の愛が、先ず全ての人に向けられてこそ、その後に、特定の自分の国、自分の特定の人に向けられてこそ、美しい生き方になる。自分の国のみ、自分の家族のみに愛が向けられた場合、美しさは消え、醜ささえ生じる。

他国の存在を忘れて、他人の存在を忘れての愛も、美しい愛として語られる大いなる危険が、人間社会には存在している。

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February 28, 2008

元来、不合理の気づき

人生の中で、「何の罪も無い人が」、「何も悪いことをしていないのに」と云う場面をよく見かける。

インドネシアの津波災害、ユダヤ人であったが故の虐殺、アフリカの内戦の犠牲、交通事故の被害など、色々な場面を、その人の人生の因果関係でみると、まさに「何も悪い事をしていないのに、」と云う気持ちになることが多い。

ライオンが、草食動物のインパラの群れを襲い、偶然、群れから逸れた1頭に襲いかかるように、時に災難は突然、降ってくる。

元々、何かをしたから、こうあるべきと云う人間の思想を、はるかに超えた宇宙の営みが、そこにはあるのだろう。それは、人間にとって合理的とか、不合理とか云うのとは、全く違う、異次元の摂理なのだろう。

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February 27, 2008

想い出の勝利

人生で関わる人との時間は、長い人もあれば、とても短い人もある。長く関わっている人が、それに比例して強い印象に残るわけではない。

その人との関わりの衝撃が大きければ、短い関わりでも強い想い出が残る。

人との関わりには、長さと深さの尺度がある。想い出は関わりの深さの表れ。

想い出が強く残ることは、その人の人生の勝利だと思う。想い出の勝利。

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February 25, 2008

既に、千の風になったとしたら

快晴の日、不図、空を見上げ、千の風とはどんな風だろうかと想像した。

そうだ、もし千の風になったとしたら、小鳥になって誰を目覚めさせるのだろう。星になって誰を見守るのだろう。

一度死に、忘れ物をして、この世に舞い戻ってきたら、どんなことをするのだろう?

そんなことを考えたら、人生を、日々をどう生きるか、明らかな道が見えてくるような気がする。

そして、人生も、人間の60兆の細胞世界では、小さな死と生を繰り返しながら、継続している様も、一緒に想像した。

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February 24, 2008

原作・神、脚本・神、演出・神

「原作は神、脚本も神、演出も神」の作品が、人生ではないのか。

それぞれの人の人生では、それぞれに主役が別で、主役は自分。メインキャスターは、父、母、家族など。

実際の人生では、気になってしょうがない成功者のように思える人達も、単なるエキストラみたいなもの。時の総理大臣だって、自分の人生では、通行人のような脇役。

エキストラに惑わされず、メインキャスターや、自分の役者振りを、原作者になったつもりで、考えてみたい。

そして、燻し銀のような円熟した演技をやってみたい。

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February 21, 2008

極悪人と善人

人間は、食用に飼っている家畜から見れば、極悪人。魚を食べるのが好きな私は、魚から見れば、天敵、極悪人。

そして、大概の多くの人は、苦しむ悲惨な人達を助けたマザーテレサを尊敬する美しい気持ちも持った善人でもある。

人間とは、客観的な存在として見れば、極悪人と善人の同居する存在ではないのか。

ただ、人間として、生きて行く為の、関心事と、無関心な事が、分かれていて、人間は気づかない極悪人の世界も持っているのではないかと思った。意外に気づかない人間の側面を見た思いがした。せめて、その事を自覚して生きて行こうと思った。

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February 20, 2008

長男

私の母は、十年以上前に亡くなっているが、生前、子宮ガンを患ったことがある。ガンとストレスの関係で、母のストレスのことが、ずっと気になっていた。満洲引き揚げのことや、戦後の生活の苦労などを漠然と思っていた。

数日前に、小田原の妹と二人で、横浜で食事をした時に、妹が、長男でもなかった父が、子供の頃、祖父・祖母を引き取って同居したことが、口には出さずにも、大きなストレスになっていたとのことを初めて聴いた。

子供時代、6人兄弟・姉妹の家に、祖母・祖父が同居し始めた時のことは、微かに覚えている。子供の頃、毎日、二階に食事を運んだことも覚えている。文房具店や、貸本屋を営みながら、一家総出で働きながら、母の心は、パニックになることも多かったであろうことが、今は、痛いほど分かる。

ただ、小さかった私が、「長男で良かった。母ちゃんを面倒みれるから」と云ったことが、母は、痛く嬉しく、何度も、人の前で、そう云っていた。結局は、地元に残された弟夫婦が両親をみてくれた。 「長男」の響きは、遠い昔の家族の情景を想い出させる。


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February 17, 2008

哀しみに遊ぶ

人生には喜びと同じ分量の哀しみが用意されているように思う。逆から云えば、哀しみの分だけ、喜びもある。

そして、過去に味わった哀しみの激しさに応じて、今の哀しみは、柔らかな哀しみに感じられる。

色々な哀しみを経て来た人間が知ることのできる境地、それは「哀しみに遊ぶ境地」。それくらいでなきゃ、修行した甲斐がないと思う。

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February 16, 2008

躁(そう)の人の役割

政治家や財界人、スポーツ選手、芸能人など社会で目立つ人は、躁鬱の躁(そう)の方の人達なんだなと思う。

だけど、幸せな勘違いをしてくれているおかげで、社会が活動的に動いて行く点では評価して上げなくてはと思う。社会や人間を単純化して、思考・行動して行くから、衝突も多い。それが毎日のマスコミを賑わす。

大勢の普通の人は、躁(そう)の人と比べると、ちょと大人しく、愚痴・悲観も多く、欝(うつ)っぽい。時に躁(そう)の人の押し付けに抗議する。犯罪や事件にもなる。鬱(うつ)の人どうしの喧嘩も、時に起こる。

行動する時に躁(そう)になり、休憩する時に鬱(うつ)になるような、「躁(そう)に遊び、鬱(うつ)に遊ぶ」、そんな生き方は、芸術品並ではないかと思う。

交換神経による活動と副交換神経による休憩に似ている。 確かにどちらかに偏ると、滑稽でもあるが、病気になりがちであると気付いた。

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February 15, 2008

バランスの芸術

今私が見ている今と云う時は、バランスの芸術、芸術的な均衡なのだと思う。

喜びも哀しみも、幸せも不幸も、健康も病気も、成功も失敗も。社会や経済の発展も衰退も。

あらゆる矛盾は統一へ向かい、統一は矛盾へ向かう宇宙のバランスの摂理の中。

そういう宇宙の摂理を感じれば、穏かに身を任せる気持ちも湧いてくる。寄せては返す海の波を想う。

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February 12, 2008

幸せ総生産、ネパール

国民総生産GNP、国内総生産GDPなどは、毎日、新聞に出て来て、人間社会の世界中の関心事のようにとらえられている。一年間にどれだけの富を価値を作りだすかの経済的尺度。

現在のGNPで富を表す尺度に、大疑問を投げかけるのが、Gross National Happiness(幸せの総生産)。ネパールの人の考え方と云う。

東洋人の私は、経済が目指す右肩上がりの目標・将来に、動物的に疑問・不安を感じる。循環思想、バランス思想の自然界を感じると、経済成長・拡大を志向することの、偏執狂的単純さに危険を感じてしまう。

人の心を豊かに、幸せに、必ずしも導かない経済成長に、大いなる疑問・危険性を感じる。田舎の人達の穏かな表情を、都会の殺伐とした、目が血走った、したたか過ぎる人達ばかりに変えてはならない。GNPでは、人間を知るには、単純過ぎる。GNPでは、人間の心を知らな過ぎる。

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February 10, 2008

バランスの摂理

万物は循環している。矛盾から統一へ。統一したらまた矛盾へ。自然の力学。海の波のよう。

矛盾のぶれる幅だけ、また統一への幅が決まる。ひと時たりとも、留まりたること無し。

今、私は、あることでは統一へ向かい、あることでは矛盾へ向かっている存在。その集合体としての人間。

そのリズムを感じ、身を任せる境地。これは、永遠に安らいでいる境地。旅の果てにあるであろう境地は、これだなと思う。

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February 06, 2008

子供が可愛い理由

街や電車の中や、生活の中で見かけるちっちゃい子供達は、みんなとても可愛く見える。どうしてなのかと考えてみると、行動や言動が余りにもストレートで、素直に見えるからなのではないかと私は思った。

手のうちがすべてバレてるような、幼いストレートな表現。泣いたり、笑ったり、「あッ、新幹線だ!」とか驚いてみたり。

見てる大人の自分は、お釈迦様になったみたいに、手のヒラの上で、子供達の行動や言動を見ているような穏かな気持ちになる。

人間は、キラキラ輝く天使のように生まれ、人間の旅をして、また神様の世界へ返って行くのではと、私は仮説を立てた。

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February 05, 2008

夢中になるに足ることか?

今、自分がやっていることは、夢中になるに足ることか、常に問うことは大事なことだと思う。

1日って、案外早く過ぎて行く。あれもしなくては、これもしなくては、と思っている内に過ぎて行く。

何かをやっていると、一つのことに気を取られて、あっと云う間に1日が終わってしまうこともある。特にたいした重要なことでも無いのに、時間を費やしてしまう。

日常の仕事や、つき合いなどに、気を散らされて、自分の人生で、大切に思っている懸案事項が、どんどん、後に後に押しやられて、延期されて行く。

「夢中になるに足ることか?」、自分につきつける日々の問いとしたい。

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February 04, 2008

人生の動体視力

めまぐるしく変化して行く、周囲の状況や、社会のこと、人生のことを思うと、その様子を見るには、動体視力のような特技・機能が必要なのだと思った。

人生では、日常は、動いてなくて、止って見えることが一杯ある。それは、勘違いなんだなと思う。

そして、何か幸せな状態を、同じように止った状態で、夢見たりする。

いつも、新幹線のように走っている存在の関わりが、人生なのではないだろうか。すれいちがいざまに、何を感じるのか、何を見るか、動物的な動体視力を研ぎ澄まして、周囲を見てみようと思う。

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February 03, 2008

人生の景色の面白さ

若者は、大人の云うことを、迷信と思い、一笑に付す。 大人は、若者の無知、傲慢さを一笑に付す。

子供時代の関心事は、おもちゃ・お菓子。青年時代の関心事は、収入、地位、名誉。熟年時代の関心事は、愛、健康。

常に、変化の途上にいる人間。 景色が変わる車窓のよう。

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February 02, 2008

大本営発表のような生き方

幸せなことも、不幸せなことも等量・同時発生しているのではないか?

それぞれの人の受信機が、幸せにチャンネルを合わせたり、不幸にチャンネルを合わせたりしているだけではないのか?

大本営発表のように、強がりの嘘の発表はやめて、ただ坦々と人生を味わうのが、穏かで好い。色々な人生の番組を、見るも好し。それが、人生の豊かさではないのかと思う。

大本営発表のような生き方は、むしろ空しさが響くような気がする。

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February 01, 2008

巨大な、確率との遭遇

昨日、会社帰りに、もとの会社の同期入社の友人と愛宕の交差点で18:10くらいに、偶然会った。共に新橋方面で一杯飲む約束があり、新橋駅近くまで一緒に歩いて、じゃーまたと別れた。(私は愛宕で勤務。彼は神谷町で勤務。お互いに徒歩圏内であるが、都心で偶然に会う確率は、かなり低い)

一杯飲み終わり帰途につく為、21:40くらい、JR新橋駅から、東海道線の前よりの車両に乗った。

吊り革つかまって、発車を待っていると、隣に、その数時間前に偶然会った友人が、また偶然に乗り込んで来た。お互いに、絶句するほどの驚きだった。同じ駅、同じ時間に、こともあろうに、また同じ車両の、同じ入り口から、私の隣に乗り込んで来た。

余りにも、不思議な遭遇に、お互いに、お前とそんなに縁があったってしょうがないなーと云って暫く、大笑いしながら、その偶然の確率の神秘に、衝撃を受けた。

この確率は、計算するとどうなるのだろう?天文学的数字? ただ、何かキツネにつままれたような、何次元もの世界が存在するような、また頭をかきむしりたいような、未知の世界の存在を感じた。

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January 29, 2008

偶有性(ぐうゆう性)

「脳を鍛える偶有性」、「コミュニケーションにおける偶有性」と云う言葉を、脳の研究者の番組で知った。

偶有性とは、「想定外のこと」のようだ。つまり、私の大好きな「驚き」。

人と接すると、大なり小なり、想定外の行動・言動に接する。その偶然性に如何に対処するかで、脳が鍛えられ、活性化すると云う。

旅にも、同じ想定外の風景が広がる、人にも想定外の世界が広がる。だから、人生の探検が楽しいのだと思う。

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January 28, 2008

余命100年

「赤ちゃんは余命100年」と云う考えは、何か、考える材料を与えてくれる。夏休みの始めには、8月の終わりの頃のことなど、先の先と思っているのと似ている。

100年と云う期間は長すぎて、一時、時間を忘れていても好い期間なのだろうか。余命1ヶ月、余命1年は、涙を誘う。余命100年では、ギャグかとも思い、笑いを誘う。

夏休みの宿題がたまって、一夜漬けで宿題を片付ける情けなさを防ぐには、やはり毎日コツコツなんだなーと思う。自分の人生の宿題のことを思う。

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January 26, 2008

重信房子さんの生死観

日本赤軍の重信房子さんのインタービューでの彼女の生死観を思わせるような言葉に驚いた。

数々の同士と死別してきた彼女は、こう云っていた。

「死を認めた時の苦痛がそうさせるのか、実感としては誰も死んでいないのです。みんなと今も一緒に闘っている気分です。苦しい時、命に関わる時に、代わる代わる登場して来て、私の苦痛を相対化してくれます」

余りにも、過酷な人生の選択をして来た彼女の人生に、「あの時を過ごしたのは私だ」と云う自信と覚悟があった。

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January 23, 2008

想い出の番付表

人生の中で、想い出をくれた人の順位、番付表を作ってみると面白そう。

相撲の番付表のように作ってみると、西の正横綱は誰だろう、東の横綱は?、順位は、時々入れ替わることもある。

番付に出て来る人達は、それぞれに得意技があるはずだ。それだから番付が上がってきたのだろう。

心に「想い出の番付表」を、描くだけでも、これから如何に生きるべきか、人生に指針を与えてくれそうな気がする。

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January 22, 2008

呼吸の哲学

「滅びること」、「思い通りにならないこと」は、吸う息に似ている。

「栄えること」、「思い通りになること」は、吐く息に似ている。

吸えねば、吐けぬ。吐けねば、吸えぬ。宇宙のリズムの調和の美。

それぞれに、それぞれの時を味わえば好い。一元を知り、二元に遊ぶ境地に憧れる。

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January 18, 2008

60億人の劇団、60億人の役者

地球上の人間すべてを、役者と考えて試ると、世界が違って見えて来る。

それぞれの、役割が先にあり、それぞれに、役者が振り当てられて、それぞれが、その役を演じている。

そう思って、周りの人を見ると、「役者やなー」と関心する人達ばかり。みんな三船敏郎や森光子ばかり。

すごいなー。ただ、すごいなーと思ってしまう。60億人の劇団。

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January 17, 2008

神の専門分野

昨日の朝、通勤途上、駅に行く道ですれ違う人の表情をチラチラ見たら、確かに、先日電車の中で感じた五百羅漢の時と同じように、神様のようにも見えた。

ただ、それぞれの神様は、それぞれの専門分野があって、慈悲分野、慈善分野、知恵分野とか自分の得意分野があって、その他の圧倒的多数の分野では、全然目立たない普通の人だから、なかなか神と気づかれないのだと思う。

それぞれの神が、抜きん出た専門分野は、分かる人が見ないと、見えない。だから、通行人は、皆、ただの普通の人に見えるのだろう。本当は、ある特定分野では、神なのにと思った。

神の専門分野が違うから、ズレがあるから、お互いの神の部分に気づかないのだと思う。

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January 16, 2008

電車の中の五百羅漢

昨日、夜8時頃、軽く飲んで、地下鉄日比谷線での帰宅する電車の中で、電車の中に座っている人達の表情を、サーと見回して試た。書類に眼を通す男性、眠っている男性、本を読んでる女性、ただボーと前を見つめてる男性、軽くうつむいている女性、それぞれの人が、五百羅漢の表情に見えてきた。

衆生すべてが神とは、このことかと、嬉しくなった。

電車の中の五百羅漢が、それぞれに、慈悲、知恵、怒り、叱咤、求道、など、何かを伝える表情に思えてきた。

今日も、道で、神に会うに違いない。

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January 12, 2008

人生の坂道

子供の頃見た急な坂道が、大人になって見ると、さほど急ではないように見える。人生の中で起こる出来事もそんな風に見えているかも知れない。自分の目線が変化している。凄い嬉しいこと、悲しいこと、など、その激しさが、ちょっと緩やかになっていることを感じる。

また、自転車と坂道を想定すると、年を重ねることは、下り坂でのブレーキが発達すること、登り坂では、登り坂用ギアを充実させているのではないかと思う。

若い頃の坂道は、かなり危険だったが、年をとることで、ブレーキと変速ギアを効かせて、より安全な旅ができるようになって行く。

ブレーキも、変速ギアも無く、人生の坂道を走る人を見ると、「あぶないっ!」と思ってしまう。

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January 09, 2008

ロケのセットの中で、

現在も、いつの日にか、いずれ将来、懐かしい遠い昔の日々になって行く。昭和30年代がそうであったように。

そう思うと、今、私は平成20年の映画のロケのセットの中にいるようなもの。ロケのセットと思って周りを見回すと、よく作ったものだと関心したりする。すれ違う人達は、エキストラの人達。

時代考証は完璧、時代考証不要の現実の中。

元禄時代や昭和30年代などの情景を見るのと同じように、この今、平成20年の情景を、繁々と眺め回して見ると、新鮮で面白い。

遠い将来の人になったつもりで、大昔になってしまった平成20年を振り返って見ると、好奇心だらけになる。

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January 08, 2008

ルピゴン川を渡るような瞬間だらけ

人生では、毎瞬間、いつもルピゴン川を渡っているのに、それに気づかないのが人間。

人生では、毎瞬間、引き返すことの出来ない重大決定をして生きている。ただ慣れっこになっていて、自分が重大決定をしていることに気づかないだけ。

ロケットの発射の、4秒前、3秒前、2秒前、1秒前、発射! と云う、緊張の一瞬だらけなのに、ボサーっとして、退屈な人生と勘違いして生きているのではないか?

時々、「サイは投げられたり!」と覚悟して、選択した自分の人生を、堂々と進軍しなくてはならない。決断するのが怖くても、時は着実に進んで行く。 これぞ自分の決断と云う瞬間を重ねて行くのが、悔いの無い、覚悟の人生ではないか。

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January 07, 2008

ミニ孫悟空の空想

孫悟空が手の平の上で、毛を吹くと、小さな孫悟空の分身が沢山生まれて飛び散る。どれでも、ミニ孫悟空。

私も、姉も妹も弟も、母孫悟空、父孫悟空の分身なのだ。どれが本物か、見分けがつかない。

私は、父とも母とも、兄弟・姉妹とも一緒だと思ってしまう。なーんだ、そうだったのか。同じ孫悟空。

夢の国、ガンダーラを目指して、玄奘僧正のように、一緒に旅してるような気がする。

そう云う空想は、何とも云えない、幸せな旅だなー。

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January 06, 2008