雨の朝も懐かしい、
毎朝、5時くらいの時間に自然に目が覚めるって、面白い。人間も自然が創った生き物なんだなぁ。
雨が降ると喜ぶ生き物もいる。
友達の、カエル(蛙)くん。
大きなサトイモの葉の上なんか乗って、ポーズとってる小さな青カエル君も好きだなぁ。
こんな日は、雨の歌♫でも唄おう。
毎朝、5時くらいの時間に自然に目が覚めるって、面白い。人間も自然が創った生き物なんだなぁ。
雨が降ると喜ぶ生き物もいる。
友達の、カエル(蛙)くん。
大きなサトイモの葉の上なんか乗って、ポーズとってる小さな青カエル君も好きだなぁ。
こんな日は、雨の歌♫でも唄おう。
今朝の気づき、毎日が日常生活、そして特別な日。その特別な日が、日常生活になって行く。
明日が肉体を脱するときでも、日常生活を送ることの神々しさ。死でさえも、日常生活の一部と考えることの神々しさ。
毎日が、特別な日と云う日常生活、それは、禅で憧れる「今ここ」なのだろか?
そんな大それたものじゃない。
一度っきりの人生と考えることの、人生への祭り感覚が滑稽に想える。終活とか、人生の名残りを整理する感覚が滑稽に想える。
常に流れ行く川の流れを想う心地よさ。
今朝の感慨。みずみずしい朝。
8/11〜8/13の短い帰省だが、旅の驚きは十分だった。
到着して、その日の夕方のビアガーデンでの友達との語らい。
弟家族との食事、墓参り、施設の姉との面会、大同窓会の参加高校卒業以来の友人との再会もあった。
新幹線の新大牟田駅の不便さも、田舎らしくて可愛く想えた。
のんびりと、5時間の車窓の旅、田園風景の中、ゆったりとした時間が流れる。す
昨日、新横浜(09:31)から新幹線で新大牟田(15:06)に帰省した。
新大牟田駅に慣れようとトライ、新鮮な気分になれた。
常宿の清風荘にチェックインして、ビアガーデンの待ち合わせ場所に行った。
後輩や同級生と合流して歓談。
ビアガーデンは、野外のガーデン風、池には、亀が泳いでいた。
会津若松〜小出への只見線に乗り、六日町の旅館で、夕方、新潟から来てくれたアンリ神父と合流した。
アンリ神父は、朝。新津教会でやったミサで話したことを、その文を、持って来てくれた。
そこには、アンリ神父(83才)の人生で出逢った4人が、イエスのようだったことも書いてあった。
そして、アンリ神父の禅的な生き方も、驚くべきものだった。
長年の友、アンリさんに心から感謝する。
7/19は、会社帰りに横浜グランドホテル、ペリー来航の間で、横浜三田会に出席した。
応援歌や塾歌など、応援指導部の指揮のもと歌って気持ちが高揚した。
会場には、若い20代の若者達と、進んで会話して、友達になった。
今後、どんな交流が広がって行くのか、大変な可能性や楽しみ。
旅も人も、チャンスがあれば、どんどんその驚きの体験の元にして行く。
それが、みずみずしい人生だと、つくつく感じる。
6月15日(木)1104、2890g、女の子誕生、出産予定日の娘から直接ラインが1133に入った。
すぐ、おめでとうの返信をして、東京タワーの見えるオフィスの窓の外の光景も写真や、娘からおくられてきた病院での出産記録の貼り紙?をコビーして、オフィスでの写真も記録した。
将来これらの写真が、懐かしい日が来る。
翌日は、洗濯日和の快晴になった。
自宅のベランダからの光景、オフィスからの光景も写真を残した。
娘の家も。2人の幼児で賑やかになる。
人生のみずみずしいシーンの数々が展開して行く。
正岡子規の短歌会に参加していた長塚節(ながつかたかし)の短歌に、私の心は立ち止まり、大きな郷愁に浸った。
「たらちねの 母がつりたる青蚊帳を すがしと いねつ たるみたれども」
何十年も忘れていた、子供時代に見た青い蚊帳が、瞬間に浮かび、大きな波にさらわれるように心が奪われた。
長塚節は、母がつった青蚊帳の中で、 爽やかで気持ちがいいなぁっと想いながら寝たことを描写していた。
活き活きとした、人生のシーンのスナップ写真。
昨日の夜、家の近くで、町内会の人達5人くらいで、声を出して、「火の用心」カチカチと、言って町内を歩いていて、大変な情緒を感じた。
お母さんと一緒に、小学生の女の子も、ついて回ってた。その女の子の子供時代の想い出のシーンを、その画面を私が目撃してる豊かさを感じた。
カチカチと拍子木を叩く、隣り組みのおばちゃんが、私に、「一緒に入る?」って声をかけてくれて、そのやり取りが、町内会的で、ほんのりとした。
町内会の情緒を感じながら、帰宅のドアを開けた。
不図、感じる。
子供の時のように、日々の生活の中で、周りからの情報量が種々沢山あって、活気づいている。
その、沢山のインプットに対しては、私は対処(アウトプット)して行くのが子供感覚で、面白い。新しい世界を知るようで。
多少、思い通りにならなくてもいい。
その、難しさが、日々を、人生を活き活きとさせている。試されているゲームのようにも見える。
やはり、日々は、毎日、新しいキャンバスに描いて行くものだと想う。