傑作な一日、遺影、法話、痛快会社経営
昨日は、朝一番は新横浜へ互助会メモワールのイベントで、これまでも毎回撮影してきた趣味の遺影撮影、案外面白い。
昼は、九品仏へ座禅会、終わってから九品仏の境内で、座って花見、ちょっとアルコールも入り、ほろ酔い、最高。
夕方は銀座、コリドール街の居酒屋て、名古屋から慶應のイベントに来た先輩達と4人でミニ同窓会。会社経営の先輩の苦難人生も、語れば、何と痛快会社経営みたいな感じ、当に正当防衛の人生って感じに、呆れて笑った。
日々は、新しい、驚きに満ちて。
昨日は、朝一番は新横浜へ互助会メモワールのイベントで、これまでも毎回撮影してきた趣味の遺影撮影、案外面白い。
昼は、九品仏へ座禅会、終わってから九品仏の境内で、座って花見、ちょっとアルコールも入り、ほろ酔い、最高。
夕方は銀座、コリドール街の居酒屋て、名古屋から慶應のイベントに来た先輩達と4人でミニ同窓会。会社経営の先輩の苦難人生も、語れば、何と痛快会社経営みたいな感じ、当に正当防衛の人生って感じに、呆れて笑った。
日々は、新しい、驚きに満ちて。
今回の高知へ旅して、高校時代からの親友の車で、昨日は、一日中、色んな場所を回った。
彼が高知大学(農学部)時代に下宿していた場所、朝倉と云う大学そばの田舎の風景を初めて見た。久礼と云う漁港の街の商店街でカツオ飯も食べた。
車の中では、ドライブ中、高校時代のように色んな話が弾んた。
彼が、話してくれた、樋口季一郎中将の話は、痛く感動した。
1940年エストニアの領事代理杉原千畝が6000人のユダヤ人の避難を助けた話より、遥かに多い2万人のユダヤ人がソ満国境で立ち往生したとき(1938年)、当時の樋口季一郎は、日本はドイツの属国ではないと、人道的見地から、2万人のユダヤ人避難民を保護し、上海へ送り届けたと云う。
また、彼は、1945年の大戦終戦の時、雪崩れ込むロシア軍に対して、防戦して、ロシア軍に打撃を与えて、(カムチャカ諸島の占守島)、ロシア軍の北海道の支配を頓挫させた男。
私は、今回、高知に旅して、親友からの熱っぽい話に、何となくしか知らなかった、樋口季一郎中将の偉業に、感動と尊敬の念を新たにした。
旅と人のもたらす、小さな驚きの数々、これが私の人生を形つくる。
今週の週末は、何とか、時間を捻出できそうだったことに2週間前に気づいて、直ぐ飛行機の予約、昨日会社帰り、ずっーと思っていた高知への旅を実現。
2020高知空港に着き、高知市内の三翠園と云う素晴らしいホテル(山内家の屋敷を利用したホテル)に泊まった。
高知には、高校時代に一緒にヒッチハイクした親しい友がいる。日石時代に知り合った石油開発会社の友人もいる。
高知は、必ず近々訪れたい場所だった。
空港から市内へのバスは、はりまや橋で降りて、タクシーでホテルへ着いた。路面電車が走る街、よさこい踊りの像が見えた。
今日から二日間の高知、人生を彩るのが旅。旅と人の小さな驚きは、人生のエネルギー、人生の醍醐味。
高知「三翠園」にて、早朝の清々しい風呂を楽しむ。
昨日、思いがけない機会に、川西友さん(元ボクサー36才?)の話を聴いて、彼のやっとできるようになった親孝行と、静かな日常の幸せに、私の心は感動に震えた。
とても貧しい家庭に育った川西さんは、ボクサーになった。東洋スーパーフライ級チャンピオンにもなった川西さん。28才で引退後、色んな仕事をしたが、余裕がなくて、親には、何もしてあげる余裕もなくて、心もイライラしていた。その中で6年前に出会った全国福利厚生共済会との縁で、今では、大企業の役員並みの永続収入を得る立場まで、人生が好転した。大社会貢献事業をしてるからこそ、これだけのエネルギーの開放が出来たのだと想う。
お母さんには、何でも買ってやるよと言っても、何も要らないとニコニコ笑っているばかり。好きなデパ地下に行っても、色々見るばかりで、欲しいと言わない母の横顔をじっと見る。今まで、我慢して、我慢して、私を育てて来た母が、今、浮かんでくる。どうしても何か買うように勧めると、ラスクが買いたいと指指したと云う。母と子が、穏やかな幸せの日常に、デパ地下のラスクコーナーの列に並んだと云う。
私の心は、そのお母さんが、愛おしくて、号泣したいほどだった。
後でインターネットで、川西友、ボクサーと調べてみると、川西友子の云うボクサーが、沢山記事が出ていた。
講演の後、彼は直ぐ、会場を後にしていたから、名刺交換もできなかった。
ぜひ、また、親孝行の日々の話をも聴きたいと想った。
全国福利厚生共済会は、筋金入りの篤志家、高井利夫さんが、20年前に立ち上げた、個人の助け合いの非営利法人である。
これから益々、苦しくなって行く個人に、節約の大インフラを構築(大企業並みの福利厚生)、そして、少しづづでも、その事業に携わる人には、継続永続収入ヘの道を開き、雇用の創出まで行う。
国がやるべき、大社会貢献事業を、長年の苦難(赤字を個人負担)を経て軌道に乗せた、全国福利厚生共済会の草創期の方々に、強い尊敬の念を禁じ得ない。
私も、この事業の更なる発展に携わり、強力に応援して行きたい。たぶん、私の、ライフワークになると想う。
今回、オーストラリアからLPガスセミナーで来日のWinさんと、3/4〜3/6、安曇野、穂高へ旅した。
穂高駅前での、子供達が、親しく手を振ってくれたこと、日本アルプスが綺麗だったこと、Cottageの宿泊が楽しかったこと、ホテルのシャトルバスの運転手さんがモンゴル人の青年だったこと、
白馬が穂高から1時間の場所で、スイスのような街になっていたこと、
松本と長野が、武田と上杉の歴史的な対象であること、
日本アルプスから流れる千曲川が県境で、信濃川に名前が代わること、
羽田空港第3ターミナルのVila Fontaineと云う、素晴らしいホテルとSpaの存在、
ウ・タント国連事務総長がミャンマー人であったこと、
最近の世界のLPガス情勢、
Winさんの、カラオケが聴けたこと、
などなど、沢山の、素晴らしい小さな驚きに満ちていた旅。
昨日は、坐禅会の旅行で、初めての高野山、雨の中の訪問となった。
私は、足も慢性的に痛いので、敢えて無理せず、喫茶店に入って、お茶でものんで、ただ、高野山の雰囲気を味わった。
私が行かなかった奥の院の参道には、私が尊敬する順教尼の腕塚があったと云う。
後で、写真を見せてもらった。腕塚は見れなかったけど、とても嬉しい驚きだった。
今朝は、亡き母の夢を見た。順教尼は、母の表情を想い出させる。
今回の旅行会の解散場所は四天王寺。四天王寺は、順教尼の養父、堀江の6人斬り事件の犯人、中川万次郎の墓がある。墓を建立したのは、被害者である順教尼その人。
今回の旅行会の縁は、順教尼との縁だったのかも知れない。
今月初め、近所の洗濯屋のおばちゃん80才、よく、私のジョークで笑っていた、ガンを患って、第4ステージだとか?、笑いながらも、覚悟を示していたおばちゃん。
月に2回くらい土曜日の朝、通っていた。今朝、散髪屋さんに行く時、店の前に、廃業通知が貼ってあった。
散髪屋さんの、おばちゃん(79才)から、洗濯屋さんのおばちゃんが今月初めに亡くなったことを知った。
この数年の、楽しい、おばちゃんとの会話が蘇る。近々亡くなることは、薄々感じていたが、ついに、お別れが来たか。
最後に会ったのは12月末のことだった。
おばちゃん、ありがとう
今朝、唯識の横山紘一先生が逝去された訃報がメールで届いた。
私の禅の師 山口博永先生の法友でもあった。
20年くらい、哲学カフェや、禅の集まり、飲み会、色んな場面で、大変影響を受けた人。
館山の自然村の「生死を語る会」は、何度も参加させてもらった。数年前、早朝、布良の海を散歩した時、このような横山先生との別れが来る日を想い、感慨無量になったことも思い出す。
横山紘一先生のライフワーク、「唯識仏教辞典」は、数年前に完成した。玄奘法師に捧げると仰っていた。
私の人生の想い出を彩る人達が、亡くなって行くことは、私の覚悟も、準備させてくれる。縁は、全てが私の一部であった。
私の一部が、消えて逝くのと同じ。
それが大自然の営み、
唯、「私」という「印象気分」を生きる。
昨日は、会社帰りに小田原の妹の家を半年振りくらいに訪問した。
兄妹の談笑をして、リラックス。
久しぶりに、妹の子供達にも、成人はしているが、お年玉をあげたら、おお歡び。
妹は、運転免許は返上したので、今回は、朝の7時のバスで、新松田までバスで行き、小田原経由、新幹線で、東京へ悠々出勤。
新潟や名古屋からの新幹線通勤は、慣れたもの、小田原なんて悠々。
新幹線の車窓から眺める、朝日を浴びた山々は、格別の美しさ。
人生を経て来たがゆえの、安らぎか?
朝日に感謝。朝日を拝んでいた祖父。
子供時代に見た爺さんの不思議が蘇る(笑)。