December 18, 2009

心の束縛

人は外界を、そのものとしては見ることが出来ない。

「全ての物の差異、感覚は、その人の記憶の中にある。その記憶の中に貯えられたものと比較して、ものを見て、考えている。違いは全て自分の脳の中にあって、外の世界には無い」。そんな説明を、先日、住職から聴いた。

全宇宙を一色にする「無」とは、そんな想像の果てに浮かんで来るものだと云う。

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December 16, 2009

怒りのリトマス試験紙

怒りにも、単に自分の思い通りにならない身勝手な醜い怒りと、稀ではあるが、相手への心からの愛情、相手への救済から生じる怒りがある。

「救済から生じる怒りは、次の瞬間に怒りは消えている」と、住職は云った。

怒りが、長く、引きずるのは、自分の救済のための怒り、身体を害する怒り。そのような怒りは、他からも醜く見え、心を打つことは無い。説得力も無い。

政治家、官僚の怒りの応酬は、共に収まりの付かない、自分のための怒りにも見える。

救済の怒りは、考えてる時間が無い動物的反射の、清々しい怒りだと思う。怒られた方もすぐ、自分のための怒りなら愛情と直感出来る。

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December 14, 2009

感覚の惑わし、大海は見えず

「動物的人間は感覚の中に生きている。食べ物が十分にあれば幸せ。肉体に何か起これば不幸である。

彼の幸せも不幸も、感覚の中で始まって、感覚の中で終わる。彼の感覚の外に幸、不幸は無い。幸も不幸も、自分が作りあげている。感覚が高まる毎に、不幸も増して行く。」

一昨日住職から聴いた、ヴィヴェーカナンダの哲学のメモを見る。

五感六識の運転を止めて、感じる世界は、波は見えず、大海のみ。

日常にもありうる我を忘るる瞬間、それは凄い瞬間ではないかと思う。それこそ宇宙と一体化して、大海を垣間見ている瞬間ではないのか。悟る主体は、自ら悟りを感じることは出来ない。唯、我を忘れるのみ。

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November 17, 2009

万物に自分の生命を感ずる境涯

食べることの出来なくなった病人が、食べられなくなったことを神に嘆いた。

その時、神は云ったと云う。「お前は、人の口を借りて、食べているではないか」と。

この言葉に、私は大きな衝撃を受けた。宇宙が一体であることを思った。

ヴィーベカナンダの師、ラーマクリシナが病み、尊敬するカーリー神に問うた時の答えだったと云う。住職から、最近聴き、その意味することの深さに感動した。

例えば、牛が草を食べるのを見て、自分の生命を感じる境涯。一本の草木を見て、自分の生命を感じる境涯。"生ぜず、滅せずの世界"を感じる。

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November 16, 2009

人間の三毒の原因

住職に問うた時、住職が答えてくれた。人間の三毒、「貪り、怒り、愚痴」の元は、次の四つ。

(1)お思い通りにしたいと思うこと。(2)自分が永遠であると思うこと。(3)自分が最高だと思うこと。(4)自分だけを愛すること。

これらが、人間を陥れる三大害毒の源とは、深遠な悟りの世界。

三毒に陥る価値観は、一見、何も毒らしきものが見えないことが、人生を惑わす所以だと思う。

自分は宇宙そのものと思えば、"思い通りも、永遠も、最高も、自分だけへの愛も、全て不用、無用"。

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November 12, 2009

自分の意思か?、宇宙の意思か?

一昨日の哲学カフェで、再度「自由」と云うテーマでの議論があった。自由と云えば、「自分にとって何が、本当の自由なのか?」と云う命題を、再度、参加者は深く考える機会を得た。

そして今朝、私は不図、思った。今、私が望んでいること、「私の自由」は、私の意思なのか、宇宙の意思なのか?と。

個々の人間が"私と思っている存在"は、突き詰めれば、何億年の経験が遺伝子に組み込まれた印象・気分の総合計であり、それぞれが、宇宙の現象、エネルギーを表していると。(ヴェーダンダ哲学)

個々の人間は、宇宙の意思を現す存在であると思うと、自由も不自由も、宇宙の意思の手の上にいるのだから、どちらでも良いではないかと、楽な気持ちになる。

自由について、本当の自由に拘る気持ちは、自分と云う存在への執着がなせる技、執着の所産が故に、真理を見ることが難しいのではないかと、私は思った。個々の人間の自由・不自由と云う概念を超越して、宇宙は、永遠に安らぎ、単純にして美しく調和しているように見える。

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November 07, 2009

般若心経のドイツ語訳

昨日、会社帰り、新宿での座禅会に参加したら、二人の外国人女性がいた。アメリカ人女性とドイツ人女性。

ドイツ人女性は、以前、般若心経のドイツ語訳に触れて、日本へ留学し立教大学で仏教も学び、禅の哲学への興味が湧いたのだと云う。彼女は盲目で、現在、福祉の仕事、ボランテイアを、英国スコットランドでやっているとのことであった。二人ともチベットのダライラマ仏教に大きな関心があるとのことだった。

"般若心経のドイツ語訳"が彼女に、人生の灯りを点したことが、驚きだった。

私は、真剣に般若心経を読んでみなければと思った。

昨日の住職は、「生まれてもいない存在、滅することもない存在」「生ぜず、滅せず」の世界を説いた。「行くも返るも余所ならず」、そんな言葉を想い出す。


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November 01, 2009

動物的人間の悲しみ・苦しみ

動物的人間は、感覚の中に生きている。食物が十分得られれば、幸せである。

彼にとって、幸も不幸も、彼の感覚に始まって、彼の感覚によって終わる。

感覚が高まると共に、彼の不幸は増えて行く。

ヴィベーカナンダの言葉を、昨日、住職に教えて頂いた。

五感に翻弄される動物的な人間の持つ悲しみ・苦しみが、即ち地獄を造り出していると想う。

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October 18, 2009

生物の定義、自然界の三つの力、奇妙な一致

古代インドのアーユルヴェーダ(世界の医療体系に影響を与えた科学的思想)では、自然界には、三つの力があると云われている。(1)創造力:新しい生命を誕生させる力、(2)保存力:誕生に必要なものが貯えられている、(3)変形力:保存力を創造力に変える力、

高校の教科書に、生物の定義とは次の三つ、(1)自己増殖能力、(2)自己の個体維持能力、(3)エネルギー交換能力。この三つが揃えば、それは生物と云われる。人間の60兆の細胞も一つ一つが独立した生物と云われる。

私は、最近、アーユルヴェーダの本を読んで、高校の教科書の、「生物の定義」と、奇妙に一致していることに驚いた。生物の定義とは、生物が生まれる前の次元の、虚空世界の力と同じ。

住職が云う、"死を越えた、永遠にして安らいでいる世界"が存在しているように感じた。

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October 16, 2009

「貪り、愚痴、怒り」人生の三大悪原因、それと「自由」との関連

10月13日の新宿・哲学カフェのテーマは「自由」に就いてであった。その時、交わされた議論を経て、私が、今日、整理した境地は、次のような新たな気づきであった。

自由とは、思い通りになる事、即ち、自由とは「貪り」の温床。これには中庸で、ブレーキをかけないと人格も人生も破壊される。

不自由とは、思い通りにならない事、即ち、不自由とは「愚痴」の温床。これには、努力で、ブレーキをかけておかないと、人格も人生も破壊される。

予期せぬイヤな事には「怒り」が湧き、予期せぬ好い事には大きな「喜び」を感じる。「怒り」には学びで応じ、「喜び」には、感謝で応じるのが好い。

自由は、意外と、人間を陥れる、「貪り」の入り口だと思う。適度な不自由がブレーキとして如何に大事か、今は改めて感じる。自由を求めつつも、適度な不自由も楽しむ境地が、人生の達人だと私は思う。

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