January 14, 2019

アインシュタインと神、

今年最初の坐禅会は、アインシュタインと宗教について、住職の法話を聴いた。

「宗教なき科学は不自由な足である」「科学なき宗教は見えざる目である」

法則への敬意なくして科学の発展はない。

「神」は、人間の弱さの産物。

聖書は尊重すべきものであるが、それでも、原始的な云い伝えをまとめたに過ぎない。子供じみたものである。

アインシュタインの宗教観を紹介してくれた住職に、新しい刺激を受けた。

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December 10, 2018

肉体と霊魂、生死問題、

西欧と東洋の生死観の差を住職から聴いた。

西欧人は、「人が霊魂を失った」と云う。肉体が主である。

インドでは、「人が肉体を放棄した」と云う。霊魂が主である。

肉体に生きるとは、五感六識に生きること。

霊魂に生きるとは、五感六識を超えた安らぎの存在を知っている人。

私も、肉体を着物のように生きたい。

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December 05, 2018

釈迦の悟りの頃、

12月8日の明け方、明けの明星の頃、ブッダガヤの菩提樹の下で7日間の瞑想の後、釈迦は悟りを開いたと云われる。

今日は12月5日、ちょうど、釈迦が瞑想をしている頃。山の中や各地の寺で坐禅をしている人達がいることを想う。

4月8日は釈迦生誕の日、2月15日は釈迦入滅の日。

釈迦にまつわる日を想い出した朝だった。

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November 02, 2018

臀部打撲症、お尻のエアバッグ、

先日の私の歩行中の原付バイクの追突事故による診断書は、約3週間の加療を要すると書かれていた。

骨折は無しで、会社の仲間たちに話していたら、「お尻でよかった。お尻は自然のエアバッグ。骨に当たっていれば骨折」とか云われて、自分も笑った。

ギャグ好きな私は、「本庶祐はノーベル賞、うちの娘は浦島小、そして私は打撲症」とか、新作を披露。

我ながら、何でもギャグにしてしまう自分にまた苦笑。

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October 29, 2018

生命、いのち、禅の世界、

道元禅師曰く、「生死(しょうじ)は仏の御いのち也」。

「いのち」は、生と死を切り離せないセットとして、「いのち」と云う表現だと云う。

住職の師、小浜の仏国寺の原田湛玄老師は、「天地同根、万物一体」は「いのち」を謳う言葉だと云う。

生は粒子、死は波動、形が代わるだけ。

量子力学の「量」が「粒子」で「子」が「波動」。

いのちは、粒子になったり、波動になったり、生死一如の世界。

自己究明、生死解決、他者救済は、住職の云う菩薩の誓願。私を導く禅の世界。

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October 20, 2018

禍福一如、因果一如、自他一如、

「禍福一如」は、「順教尼」の映画の中で印象に残った言葉。幸せも不幸も表裏一体のものを教えている。幸せの条件も、不幸の条件も、突き詰めて行くと定まったものはない。自分が決めていることに気付く。

「因果一如」の門開け、とは白隠禅師の坐禅和讃の中にある。過去も未来も無い「瞬間瞬間の永遠性」を、前後裁断された永遠性を想う。年をとる感覚が消えてしまう。

「自他一如」は、「一即一切、一切即一」の境地。観察する対象はない。森羅万象の参加者。森羅万象との一体化は、即ち「神」。

これらの言葉は、人生の航海を導く灯台の灯り。

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September 23, 2018

お手上げになってから、道は始まる、

昨日の住職の法話から。

自分自身では、もうどうすることも出来ないとさとったとき、お手上げになった時に、道は始まる。

「苦」のおかげで、やがて霧が晴れて来る時がある。

過去の記憶も、未来の憶測も共に「気分」、気分が消えたところに無分別の刹那。刹那消滅は即ち前後裁断、永遠の安らぎ、神、アートマン、太極がある。

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August 08, 2018

「頼りがいのある自分」、「星の王子様」から、

今朝530からの「100分で名著」は「星の王子様」だった。

「砂漠が美しいのは、井戸を隠しているからだよ」

静かな幸せは、想像力がないと味わえない。

頼りがいのある自分がいれば、その静かな幸せにめぐり会える。

他に頼りがいのある人を求めるのは、寂しがり屋の人間の傲慢さと苦しみだと、気づかせてくれる。

「頼りがいのある自分」とは、想像力の地平線の果てに「自他一如」に気づくことかと想う。

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August 01, 2018

アウシュビッツとジャスミンの花、

昨日、新潟に住むカトリックのアンリ神父からもらったメールに感動で心がふるえた。

数日前に遠藤周作の「沈黙」についてメールしたことへの返信メールであった。

1943年に29才で、アウシュビッツ収容所で亡くなったオランダ系のユダヤ人女性作家エティ・ヒレスムの残した言葉だった。

アウシュビッツ収容所で死んで行くことと、美しいジャスミンの花が咲いていることを共に受け入れて、人生は一瞬一瞬が素晴らしいと云っている。

残酷な迫害とジャスミンの花は分けることが出来ないものとして受け入れ、迫害は彼女の精神を侵すことはなかった。むしろ、それらの出来事が彼女の精神を高めたと云う。

そんな逸話を、アンリ神父は送ってくれた。

私が、想いもよらなかった境地、アウシュビッツとジャスミンの花の衝撃であった。

「主よ、人間がこんなに哀しいのに、海があまりにも碧いのです」につながる。

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July 30, 2018

長崎県外海町、「踏むがよい」と云うキリストの言葉

昨日の朝、NHK「こころの時代」で、遠藤周作の「沈黙」の話を聴いた。

長崎県外海町にある枯松神社は、隠れキリシタンが密かに守って来た教会であった。私は、母の実家が、まさに、隠れキリシタンの村のそばだったことに感動した。

ロドリゴ神父を密告したキチジロ-を、キリストを密告したユダになぞらえる。

キリストは云う、密告者に対しても「安心して行きなさい」と。

「沈黙」は、何も云わない何もしてくれないことではなかった。一緒に苦しむ沈黙であったことを知る。

踏み絵を踏む信者に、「私は、貴方に踏まれるためにある。安心して踏みなさい」と云うキリストを知る。

「この愛を知るために、これまでの人生が必要であった」と云う感動に浸る。

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