法(真理)を求めるに、阻害するもの、
先日は、住職の太極拳のグループの表演会に誘われて見学をした。
住職は、太極拳も禅も、法(真理)を求める手段と云う。
太極拳のベテランのメンバーの人が、挨拶の中で、太極拳は、「法」を求めるに、坐禅よりわかりやすく有利と言われるが、名利を求めたり、武術性(勝ち負け)を求める面が「法」を、求める上で、障害にもなっているのではないかとの感想を、私は小さな驚きをもって新鮮に聴いた。
一方、坐禅の方でも、「法」を求める道は、険しく、組織(臨済だの曹洞だの)や規律、序列(人格神のように道元禅師や白隠禅師)を考えてしまうことが、「法」を求める上で障害になっていると私は想う。
「法」と人格神は、相容れない。