近所付きあいに潜む危うさ再認識、
いつも、私が挨拶しても、挨拶をしない近所の男性(会社の管理職らしい)がいるが、先日、奈良に坐禅年始会に出掛ける朝、たまたま家の前で会って、また私が、挨拶しても、知らんぷりで不快だった。
一度目は聴こえなかったのかとも思い、二度、「おはようございます」と云うと、こちらをギョロリと見て、やはり無言。
よっぽど、「挨拶もできないのか!」 とちょっかい出してやろうかと、内心思ったが、ぐっと堪えて、私も、ただ見過ごした。
これから、坐禅会の年始会に旅行に行くのに、こんな偶発的なことで、近所つきあいが、最悪に発展する恐れがあったことに、ふっと気づき、胸を撫で下した。 もし、そこで、喧嘩にでもなったら、旅行も台無しになっていただろう。 何のための坐禅だろうと苦笑い。
ちょっとしたきっかけで、最悪の展開が起こる危うさを再認識した。
相手が、どう反応しようとも、私はやるべきことをやる。 相手が期待通りでなければ、止めてしまう行為は、自分勝手な行為で、気まぐれで脆い。
相手の反応も神の領域、私は口だしすべきではない。
無功徳に働く時、訪れる安らぎを想う。 全てに神からのメッセージが込められている。
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