« January 2016 | Main | March 2016 »

February 29, 2016

長崎は特別、長崎は私の人生の聖地、

週末から長崎に来た。長崎は母の故郷だから、長崎に入ると、もう、安らぎに溢れる。

母が慣れ親しんで見たであろう山々、海、街や地名も、そう想うだけで嬉しくなる。

今回は長崎らしく、浦上天主堂や大浦天主堂も、二十六聖人殉教記念碑も訪ねた。

母の実家の京泊も、外海も。

長崎、ハルビン、長野県伊奈郡平谷村、大牟田、母の人生を知るゆかりの地は、全部訪ねた。

幼児時代に母に連れられ旅した長崎のように、母と旅している気分になる。

長崎と云う仏に抱かれる。


| | Comments (0)

February 28, 2016

コハクチョウの北帰行の頃、

2月24日の新聞に、コハクチョウが北帰行のニュースが書いてあった。

石川県・巴知潟からコハクチョウがシベリアへ向けて空にV字型の隊列を描いて飛び立って行ったと云う。

これから長い旅路を励まし合って飛ぶコハクチョウ達。

何故か、その様を想像して、
私も励まされる。

春の到来を想わせる光景。

人生の旅を想わせる光景。


| | Comments (0)

February 27, 2016

食で治すガン 、

今月は、「余命3カ月のガンを克服した私が食べたもの」(高遠智子著、祥伝社)を読んでみた。

体験から絞り出した食による医療の話、私が印象に残ったことをメモした。

1.朝は酵素ジュースで腸を活性化する。
酵素は野菜やフルーツに含まれています。常温でジューサーで作る。
ジュースを飲む前に必ず白湯(さゆ:60°~80°)を飲む。
白湯で内臓を温めてからジュース。

2、甘いもの、糖分、フルーツは、明るい内(15:00まで)に食べる。
甘いものは、善玉菌の活性が悪くなる。 もし甘いもの食べた時は、ヨーグルトで善玉菌を補充。

3、塩の代わりに昆布を使う。

4、砂糖は果物や蜂蜜で代用。

5、糖質摂りすぎ細胞を錆つかせ、シワやシミの原因になる。
処理できなかった糖はタンパク質と結合し、AGES(最終糖化産物)になり老化促進。

7、 のぼせにはアスパラガス。
生長の早いアスパラガスは、糖質を出してくれ、熱を取る作用もある。

8, 40°の熱もセロリで下がる。

9、 春は山菜や芽吹きものでデトックス(解毒)。
苦味のある野菜が毒素を出す。

10、 生野菜は塩で揉むと身体を冷やさない。

11、えんどう豆、そら豆、グリーンピースは、抗酸化作用が強く、アトピー やアレルギー体質の方の、身体に籠り易い熱を出してくれる。

12. 五色を意識して食べる、(青、赤、黄、白、黒)。
例: 緑(青)=ほうれん草、小豆の赤、蜜柑の黄、大根の白、黒豆・ひじきの黒。など 以上

| | Comments (0)

February 26, 2016

世界で最も貧しい大統領、ホセ・ムヒカの生き方、

ウルグアイのホセ・ムヒカ大統領の顔写真入りの雑誌が昨日、書店に並んでいた。

世界で一番貧しい大統領と云われる彼の表情は、もう、慈愛がほとばしり、彼の言葉が輝いていた。

「私は貧乏ではなく質素なのです。

人生はもらうことでなく、あげること。どんなにひどい状況にいても、他人にあげられる何かがあります。

貧乏な人とは少ししか物を持ってない人でなく、多くの物が必要で、無限の欲がある人のことです。

唯一夢中になるのは愛です。他の全てのものは災いです。」

昨日の昼休み、書店で見かけた、ホセ・ムヒカ大統領の雑誌。地球の裏側のウルグアイからの光、私の人生も導く。


| | Comments (0)

February 25, 2016

クウェート解放から25年、

1991年のクウェート解放から25年、クウェートでは今日は解放記念日の祝日。

1990年8月2日、私はイラクのクウェート侵攻の時を、アブダビで体験した。

家族を急遽日本に帰国させるよう手配し、空港に送り出した時の安堵感など入り乱れて想い出す。

私の世界観も人生観も、私の人生も変えたアラブでの体験。

その時、確かに私は世界史の中にいた。

静かに、自宅のベランダから、横浜の冬景色を見ながら、物思いに耽る。

| | Comments (0)

February 24, 2016

中高年サラリーマンの覚せい剤汚染のキッカケ、

先日TVで、最近中高年の覚せい剤汚染が増加していて、中高年のサラリーマンがターゲットになっているとレポートされていた。

分別あるサラリーマンが何故覚せい剤との縁が生まれるのかが分からなかったが、それはバーなど飲み屋の女性から、元気になる薬と云われてキッカケが出来てしまう手口であると知った。

女性のいるバーなどによく行く会社でも管理職のサラリーマンがこうして人生を台無しにして行くのだと云う。

その背景を知り、飲み屋の女性の怖さを知った。


| | Comments (0)

February 23, 2016

アラブのレセプション、娘と出席、

昨日は、クウェートの解放記念日のレセプションが大手町のパレスホテルで開催された。

私がアブダビにいた頃、小学1年生だった娘は、レセプションとかの度にベビーシッターに預けられていた。

その娘が成人して、一緒に初めてパーティーに出ることは感慨無量だった。

アラブ料理やアラブ音楽、アラブ衣装の人々、娘には懐かしい世界に帰れたことだろう。

会場では、友人知人に、私の娘ですと紹介して回った。

アラブの体験は、家族の想い出。

| | Comments (0)

February 22, 2016

二十四節気、雨水、

2月19日~3月5日の頃を二十四節気では雨水と云うらしい。

野山の雪が溶け出す頃。雪解けの水で川や海が濁る様を雪濁りと云うことも知った。

凍てついた田畑が潤いを取り戻し、農耕開始へ向けて準備をする時期と云う。

2016年、本格的に活動しなくてはと想う。人生の収穫期に、微笑みが出るために。


| | Comments (0)

February 21, 2016

禅、即ち、名前と形を捨てる訓練、

名前と形は、すぐ人に何か、強いイメージを抱かせる。

例えば、「家」と云うと自分の住む家などすぐイメージする。実体は木やガラスや繊維やセメントや、そんな物資の集合体。

それぞれの物質もまた細かく見れば原子として見れば、大自然の野原の中。

名称と形態は幻。人間の五感(カルマ)が勘違いさせている。

名称と形態は、執着を生む。実体の無い物に執着することの苦しみを想う。

住職は云う。禅とは、名前と形を捨てて行く訓練だと。

名前と形なき世界の安らぎを想う。

| | Comments (0)

February 20, 2016

餅が膨らんで、懐かしさ、

昨日の朝、朝食に切り餅を2個焼いた。

不図、餅がぷーと膨らんでいくのを見た時、何十年も前、子供時代に見た光景が蘇った。

冬の日、火鉢、白い灰、火箸、金網の上に並んだ丸い餅。

膨らんでいく餅が、それぞれに膨らみ方が可愛いらしい。

そんな子供時代のシーンが、餅の膨らんでいく様に、凝縮されているようで、うっとりするように眺めた。

餅の膨らむ様、ただそれだけのこと。冬の日の朝。

| | Comments (0)

February 19, 2016

全ては死にかけていると云う気付き、

先日久しぶりで行った新宿の哲学カフェの後の懇親会で何げなく耳にした、「全てはDying(死にかけている)存在」と云う言葉が、想い出される。

死にかけている存在だからこそ、愛おしい気持ちになれるのだと想う。

死にかけている存在だからこそ、今日も名残惜しい一日が始まる。

新宿の懇親会の居酒屋には、ネパールから来て2年と云う若いネパール人の女性が忙しく働いていた。話しかけると、現地のように「ナマステ」と挨拶してくれて合掌した。

三蔵法師が目指した西方浄土の雰囲気のかけらを私は密かに楽しんだ。

| | Comments (0)

February 18, 2016

子供食堂のカレーライス、母の幸せ、

西日本新聞2月15日版の記事がインターネットに載っていて、暫く、その情景を思い浮かべた。

12才の女の子、9才の男の子、8才の女の子を持つ、42才の母親の話、 九州のある貧しい母子家庭の家族の話が掲載されていた。

母子家庭の親子4人は、子供食堂の暖簾をくぐった。 「たたで食べられるレストランがあるんだ。 ママも料理作らないでいいから一緒に行こう」と連れだしたと云う。 貧乏だと思われたくないから、子供達をちょっとごまかした。 子供達は、普通のレストランでないことはすぐ気づいたと云う。

それでも、 ミンチカツと梨ののったカレーライスが運ばれると、「すごーい、梨だよ、カレーだよ」と歓声。無言でカレーをかきこむ音、スプーンが皿に当たる音が響いた。 元気な声で「お代わり」。

そばで見ていた母は、いつしか涙ぐんだ。

子供食堂が開かれるのは週に一度、貧しい子供達が空腹を満たす。

日本の子供の6人に1人が貧困にあえいでいると云う。


| | Comments (0)

February 17, 2016

安らぎ、神の世界、

昨日、会社帰り、久しぶりに新宿の哲学カフェに出た。

キックオフトーカーは、人はそれぞれに色々な役割を持ち生きているが自分は世界平和を目指して生きているとの話をしてくれた。

私に振り返って考えると、私は、「安らぎ」と云う言葉で神をイメージして、日々生きていることを想った。私のあらゆる行為は、安らぎに向かうのか否か、それが私の行動指針。

私の安らぎでもあり、全体の安らぎでもある。私が安らぐだけでは駄目で、私も周りを安らがせる存在でなければならない。

法灯明、自灯明、法の灯火、自己の内面の灯火。

その灯火に導かれ、私は、色々な役割を果たして日々生きて行く。

私の友達にとって、周りの人々にとって、あるいは私とでくわした動物や鳥や虫、草花にとって、私は、どう映っているのだろうか?、何十面相にも見えているかも知れない。

それでも私は、微かにも、宇宙探査機はやぶさが発し続ける電波のように、「安らぎ」の電波を発信しながら生きて行く。宇宙にさまよって迷っても管制塔は神。

そんな夢想を楽しんだ。

| | Comments (0)

February 16, 2016

釈尊以前、

会社そばの青松寺の門に新しく掲げられてる句は、

涅槃会(2月15日)に因み、

「釈尊、自然(ぢねん)に滅し、佛のみ教え、常しなえに伝ふ。」

釈迦はダンマ(法)に気づいた。ダンマは釈迦以前からずーっとある。

住職の言葉が重なる。


| | Comments (0)

February 15, 2016

7度1分です。ちょっと痛いですよ。可愛いお医者さん、

昨日、娘の同級生のお父さんと近所の寿司屋さんで一杯。

孫の3才になる女の子が、お医者さんの真似をして、診察してくれるのだと云う話に、可愛いくて参った。

いつも云う台詞は同じ。7度1分です。(注射の真似して)ちょっと痛いですよ。大丈夫、大丈夫。

孫の女の子は、おじいちゃんの胸のシャツを引き上げて診察するのだそうだ。

「7度1分です。ちょっと痛いですよ。」、私も呟いてみて微笑む。

| | Comments (0)

February 14, 2016

禅門、浄土門、共に行く、

禅門は自力門と云われる。

自分のための修行だから、駄目である。浄土門のように祈り、委ねて行く力も大事である。

浄土門は他力門と云われる。

願いばかりでも駄目である。禅のように、なりきって行く力が必要である。

禅門と浄土門の融合、則ち、お釈迦様に帰ることだと云う。

昨日、静かに、聴いた住職の法話から。


| | Comments (0)

February 13, 2016

全て借り物の気づき、

「私の持ちものなどない。

この服も、この靴だって。

ひととき、自分が身につけているだけ。」

会社のそば、愛宕・青松寺の門に掲げられた今月の句。

全て借り物、感謝こそすれ、権利などない。

万人に共通の真理だと想う。

| | Comments (0)

February 12, 2016

三崎漁港、小さな旅、

昨日は、冬の快晴の日、河津桜も三部咲きの三浦半島、三崎漁港へ初めての小さな旅。

京急久里浜から少し先の終点の駅、三崎口からバスで約15分の場所に三崎漁港はあった。

岸壁を散策していると、花暮岸壁に見つけた港の哀歌。

この埠頭は全国のマグロ漁船が世界の海に船出して行く岸壁で、いつまでも尾を引く別れのテープ。胸を刺す出船の汽笛。

そんな案内文が書かれていた。

色々な人生の光景、別れのテープ、胸を刺す出船の汽笛か。

昼食は、三崎漁港・漁業組合女性協議会経営の食堂で、港の光景を見ながら、漁港のおかみさんの料理を味わった。

花暮岸壁も食堂も、私の知らなかった三崎漁港の光景として、私の小さな旅の記憶に刻まれた。

| | Comments (0)

February 11, 2016

こんな快晴の冬の日だった、娘が生まれた日、

昨日は、娘の誕生日だった。

1984年の快晴の冬の日の朝、私に初めての子供が誕生した日。

早朝連絡を受けた私は、まだ暗い早朝、武蔵小杉の会社のアパートから、義父が勤める市川の国府台病院に向かった。

総武線から見える江戸川?の川面がキラキラと輝いていた。

都内に離れて暮らす娘に、昨日の朝、娘が誕生した日の想い出をメールに書いた。

昨日も、同じような快晴の冬の日の朝だったと。

| | Comments (0)

February 10, 2016

神への道、プラトン流の表現、

学生時代、世界史が得意で大好きだった私は、禅を教える住職が法話の中でプラトンの「饗宴」を紹介してくれた時、不思議な縁に大変驚いた。それで私は、プラトンの「饗宴」を初めて読むことになった。

プラトンの云う「美のイデア」永遠に変わることの無い美、則ち「神」。

美(神)を求めるステップ、肉体の美→精神の美→知識の美→美そのもの(美のイデア)。

おおいなる美の大洋へと向かい、それを観照して、多くの美しく壮大な言論と思想を 惜しみない知への愛において生み出し、そこで力を得て成長し、まさにこのような美の何かひとつの知識を見いだすまで進んで行くのです。

人生における世俗的な全ての渇望は、この神への道を示す入り口に過ぎないと想う。

そのような悠久の美(神)の世界を、自分の人生の中に拓げて行くことが、生きる歓びであると想う。

| | Comments (0)

February 09, 2016

生き方・死に方、直線か循環か、

私は、生き方を考える時、直線的に、進歩や堕落を連想する。

死に方を考える時、何か生まれ変わる再生、循環を連想する。

人生は直線的なのか、循環なのか?

考えてみれば、円の曲線も、微細に区切れば直線の集合。

個としての人生は直線の道、その直線の道は、いづれ循環の道に通じているのかも知れない。

循環の道は、個としての直線を遥かに超えた大安心の調和の道。

直線的に遠くに遠くに離れて行ってるつもりであっても、また帰るべき所に帰る道なのかも知れない。

仏性から生まれ、ちょっと揺れて散歩して、また仏性へ帰る壮大な循環の道。

生々世々、仏性へ帰る道。


| | Comments (0)

February 08, 2016

高校先輩の画伯、個展、日本橋三越、

週末、高校先輩、大津英敏画伯の個展(日本橋三越本店)に、娘を誘って行ってみた。

大津画伯は、娘さんや孫娘さんを風景の中に描き込まれるスタイルを沢山描かれている。

会場にその娘さんや孫娘さんも見えていて、とても安らかな空気に浸れた。

40年年以上前、28才で病死した私の姉の同窓生の方々5人も会場に見えていて私は、懐かしく挨拶した。

貴方が邦子さんの弟さんと、私はしげしげと見つめられた。私も亡くなった姉の同窓生の方々をしげしげと見つめ感慨無量だった。

大津画伯にも、会場で会う同郷の友人達にも、私は娘を紹介した。

娘に知らせる私の人生模様、私の故郷の香り。

そして、娘と日本橋・銀座を散歩して帰った。


| | Comments (0)

February 07, 2016

2月、こころの中の暖炉、

2月6日は特別な日だった。私の母の誕生日であり、また住職の誕生日であった。

住職にはお祝いのメールを出し、亡き母には長崎の外海町の広大な海の情景を想い浮かべながら語りかけた。

母には人生の哀しさも歓びも、生きる素晴らしさを教えて貰った。

住職には、法を求める道の輝きを教えて貰った。無条件の幸せと云う言葉に圧倒された。

また2月は来週、娘の誕生日。月末は子分のような弟の誕生日。

娘には、愛することは自己より優先することを、人生で初めて体感させて貰った。

弟には、母の持っていた優しさや温もりがあり、可愛くてすぐちょっかい出したくなる。

2月は、厳しい寒さの中で、ほんわかとした縁の暖かさと、学び続ける人生の素晴らしさを感じることができる。

今年の2月は、神様は、1日おまけして29日にしてくれた。そんなに無理しなくても私は大丈夫なのにと微笑む。

| | Comments (0)

February 06, 2016

笑訳・ブッダの教え、と云う本

今朝の新聞の書籍広告に笑った。

この世のものは全て元々ひとつの液状の塊。則ちこの世はカレーである。

仏像は浣腸されていると思って見るべし。「かまへんよ」って顔してる人一番偉い如来さん。明王さんは煩悩ありまくりやからぶち切れてはる。

なめたけを見て「めちゃうまそう」と思う人も、「ナメクジ」かいなと思う人もおる。

サンマーク出版、ブッダも笑う仏教の話、Mー1(漫才)王者が書いた本と云う。

修行と笑いのコンビネーション、私のお笑い系の感性を刺激される。このやろう、と云いながらつい笑ってしまう。

| | Comments (0)

February 05, 2016

独りの食事の深い意味、

私は、毎朝、自分で適当に用意して、独りの食事をして会社に向かう。

質素な食材の素朴な味、その中から思索の材料になる深い精神性も味わっている。

玄米、麦、大根おろし、豆腐、納豆、キムチ、時に味噌汁、ただ炒めただけの野菜やキノコ、焼き魚、海藻も牡蛎も。ヨーグルトとミキプルーンは毎日欠かさない。

結構、朝の静かな独りの食事を淡々と、安らぎの時と感じている。

禅の道場では、食事の時、無言であることの意味・精神性が私は好きである。食事はチャラチャラした人間の身がってな宴ではない。

黙々と、食材に感謝して修行をさせて頂く。

誰かと話ながら、命を捧げてくれた食材に余所見しながら対峙することは出来ない。

今朝も独りの食事を味わう。

横浜の清々しい冬の朝、遠くに汽笛を聴きながら。

| | Comments (0)

February 04, 2016

翻弄された人生、それも与えられし修行、

昨日は、清原和博選手の覚せい剤逮捕ニュースに驚いた。

彼の経て来た人生の激しい波に、さぞ大変だったろうと、不憫に想う。

未熟である程、突き上げられた分、突き落とされるのは自然の力学とは云え、余りにも憐れ。生々世々、修行を続けて行って欲しい。

年末に認知症の母を施設に見舞った時の彼の辛さを想う。

離婚したことで会えなくなった息子達が野球をする姿を語る時の優しい顔。

彼は、地獄に落ち、人々にこちらには来るなよとサインを送ってくれている。

そうしか生きれなかった彼。

地獄へ行く彼の男義、ただ合掌。

| | Comments (0)

February 03, 2016

得ようとする生き方の儚さ、

何ひとつ得ようと思っても得ることはできない。

例え得たとしても、それは失望し、滑り落ちて行く。

何か得ようとする生き方の儚さ、未熟さを嘆く。

得ようとする気持ちが無い時、人は神を観る。

万物は、何をもにも支配、所有されず、ただ在る。

私が望むように、全ての存在は、自由で安らいでいたい。

私は、ただ眺めているだけで、その光景を愛でる存在でいたい。


| | Comments (0)

February 02, 2016

心残り、

修行への道を選び、法の光を浴びた住職は、その縁に対し、ある時「よくぞ母さん、私を捨てた」と、生みのお母さんへの感謝の言葉を吐露された。

それでも、お母さんが、その後、亡くなる前にも、私に会いたいと云って欲しかったと、住職は述懐される。

お母さんが宇宙いっぱいに広がったような、全ての女性がお母さんに感じられる安らぎ。

お母さんの遺骨を抱いて、四国ご遍路参りをされた時の悲しみ。さぞ、会いたかったと話かけられたことだろうと想う。

神は、厳しさと優しさで、光へと導く。


| | Comments (0)

February 01, 2016

無我、大我、安らぎ、

仏教では無我、ヴェーダンダ哲学では大我と呼ぶ。

自分の存在の諸縁の深さ、広がりに気づけば、我がドンドン薄れて行く。無我、大我への道。

地球が大宇宙の中で小さく遠ざかって行くように拓がる道。

全てはあるべくようにある。

外の世界を変化させて、自分をぬくぬくと幸せにしようと想う浅はかさに気付く。

外の世界は、自分の程度でしか見えない。

住職の静かな言葉に、叱咤される。

| | Comments (0)

« January 2016 | Main | March 2016 »