色即是空、別れも死も無い、
色とは物質的現象、空とは実体が無いこと。
実体が無いので物質的現象たりえる。
無常が生命の本質。
無我性から見れば、いつもある。滅すれば生じ、滅すれば生じている。
変わらないでと想うからこそ滅だけを見る。
住職にとって、お母さんとの一時的な別れはあっても、永遠の別れは無い。
私も、母とは一時的な別れはあっても永遠の別れは無い。
まるで、宇宙探査機はやぶさのよう。微かな電波を感じて私は、今日も宇宙を飛ぶ。
色とは物質的現象、空とは実体が無いこと。
実体が無いので物質的現象たりえる。
無常が生命の本質。
無我性から見れば、いつもある。滅すれば生じ、滅すれば生じている。
変わらないでと想うからこそ滅だけを見る。
住職にとって、お母さんとの一時的な別れはあっても、永遠の別れは無い。
私も、母とは一時的な別れはあっても永遠の別れは無い。
まるで、宇宙探査機はやぶさのよう。微かな電波を感じて私は、今日も宇宙を飛ぶ。
九州で独り暮らしの異母兄弟の姉が、今日、アパートから施設に移る。弟夫婦が世話をしてくれて、無事順調に引っ越しが出来ることとなった。
数日前、引っ越し準備でパニックになりそうな姉に、電話で、全部捨てて行く気持ちで準備すればよいとアドバイスした。
無一物で生きることの素晴らしさは、禅で学び、いつも憧れる境地。
姉に、無一物の素晴らしさを説きながら、私は、私の持ち物の数々を想い起こした。
いざとなれば、しなければならない無一物の覚悟。
無一物になればこそ見えて来る世界がある。無一物にならなければ見えて来ない素晴らしい安らぎの世界がある。
「無一物、無尽蔵」を想う。
今月は、年と共に食べ方、特に糖質の食べ方に変化が必要と云うことを学んだ。人体は神から戴いた精巧な装置、身体の仕組みを学ばずして、人生を悔いなく生きることは出来ない。
―「図解:40才からは食べ方を変えなさい」(済陽高穂著、三笠書房)から抜粋-
1 、 40才から”若い身体”を作る5箇条、
(1)身体の糖化を防ぐ: 糖がタンパク質と結合し、細胞が焦げついて行く。
(2)塩害を防ぐ: 代謝異常が起こる。
(3)冷えを取る: 代謝異常の常態化。
(4)腸の乱れを落とす: 善玉菌を増やす。
(5)体内毒素を消す: 7色野菜でデトックス。
2、 40才から食べ方を変えなければならない理由、
(1) 身体を支えるエネルギー源が切り替わる。 身体が、解糖系 (酸素使わず糖質分解) → ミトコンドリア系(酸素使う)に代わる。
(2)解糖系: 酸素使わず冷えた身体で活発、細胞分裂繰り返し成長。
(3)ミトコンドリア系: 酸素が行き渡った暖かい身体で活発になる。ミトコンドリアを増やすコツ: 空腹時間作る、 身体温める、軽い運動。
3、 40才からの身体を蘇らせる食品、
玄米、シャケ、青魚、牡蠣、大根、にんにく、トマト、ブロッコリー、人参、キャベツ、玉ねぎ、ゴマ、リンゴ、レモン、ブドウ、納豆、大豆、椎茸、ジャガイモ、昆布、玉子、ヨーグルト、オリーブ油、ゴマ油、緑茶、蜂蜜、酢、
4、 最低限、朝食だけは、同じ時間に摂る。
朝日と朝食がセットになることで、身体の仕組みは最適なリズムを生み出す。
5、 太らない食材、老けない食材: GI(グリセミックインデックス)の低い食材を摂る。
(1) 大豆、緑黄色野菜、レモン、キノコ、海藻、
(2) 全粒粉パン、パスタ、 果物、乳製品、
(3) 生フルーツジュース、ライ麦パン、
(4) 玄米、など
★GI 値高い食品(太る・老ける)
(1) ベークドポテト、食パン、菓子パン、マッシュポテト、
(2) ポップコーン、精白米、うどん、
(3) 砂糖、フランスパン、茹でじゃが、ともろこし、など 以上
九州の故郷・大牟田で長く独り暮らしをしていた姉が、今月末に市内の施設に入ることになった。思うように身体が動かなくなり独り暮らしが無理と自ら判断した。
40年程前に離婚した姉には、会いたい息子達が4人いるが、もう、何十年も会えていない。
私は、帰省の度に、姉を母のように想い、立ち寄り、沢山の昔話や人生を聴いてきた。
九州は記録的な雪になった2016年の冬、電話で話す姉は、ただ今までの感謝を繰り返す。
満州からの引き揚げも体験した姉、姉から見える人生の光景は、私にも見える。
私は、ただ黙々と、ただ黙々と、修行するように生きる。
時々くるメールマガジンに、毎日を元旦気分で、スッキリと今年を生きようと云う新鮮さを、想い出すことの効用が書いてあった。
横浜は、今朝も、オレンジ色の朝焼けが清々しかった。
毎日、元旦気分で、今日の抱負を考えてみる。
確かに、毎日、まるっきり新しい日が始まっている。
今までとまるっきり違う一日が始まっている。
春が止まってしまい、年中春に留まったら?
いつしか春を意識することもなくなる。
冬から春に変わる時の萌出るエネルギーを感じることもない。
会いたい人が四六時中そばにいたら、会いたい気持ちは無くなって、いづれ一緒にいる価値も感じなくなっていく。
常に変化の中にあり、思い通りにならないことがあってこそ、人生のエネルギーになって行く。
そして、いつしか、思い通りにならないことを、人生の隠し味として楽しめてこそ成熟だと想う。
躁(成功者)でも未熟、鬱(失敗者)でも未熟。
無常は、ただサラサラとキラキラと流れる生命の詩。
昨日は、六本木で開催のガイド協会の総会に参加、最近の訪日客の急増振りのこと、ガイド業務の情報交換など楽しい時間だった。
約50人の参加者の、各30秒自己紹介では、小さなハーモニカをポケットから取り出し演奏する人や、余興で英語の替え歌(東京の地名観光情報だらけ)を唄う人など強烈な印象だった。
私は、30秒自己紹介は、ヒッポクラブで云い慣れたアラビア語自己紹介フレーズでアピール。(アラビア語は初歩的なのに、希少価値狙い)
オリンピックを目指して訪日客急増の現状をひしひしと感じながら、ガイド業務への興味・意欲を新たにした。
見渡せば、人が深く語れば、苦しみだらけであることに気付く。
苦しみを諦らかにする、苦しみの正体を明らかにすることが、光に導く。
苦しみは、解決すべきものではなく、学ぶもの。
苦しみは、神の与えし道しるべ。
苦しみがなければ、安らぎの光に到達出来ない。
苦諦は、聖なる導きの言葉。
他から貴方は悟りましたかと聞かれ、ハイ悟りましたと答える人はバカに見える。
生身の人間が常に仏の境涯でいれるはずもなく、悟りを意識する人は、私が消えてなく、悟れて無い証拠だと想う。
そこへいくと、道元禅師の答えは素晴らしいと感じる。
「仏を証し、もて行く」と答えられていたと云う。
私は、ただ仏を証明し生きて行くだけだと、永遠にとぼとぼと修行を続ける覚悟を清々しく感じる。
住職に教えて貰った道元禅師の言葉が私の人生に刻まれた。
1月21日の産経新聞の記事に驚いた。
「老後は1人暮らしが幸せ、家族同居より満足」と云う見出し。
大阪の医師が、2年に亘る(60才以上)約1000人の診察を通した聞き取り調査結果は、独居生活の満足度が同居より上回ったと云う。
子供の有無や男女による差は無かったと云う。
満足度の高い1人暮らしの条件として、(1)自由で勝って気ままに暮らせること、(2)信頼できる同世代の友人が2~3人いてたまに話が出来ること、(3)住み慣れた土地に住んでること。
家族同居の人の満足度が低い理由は、家族の対応に苦慮するためと云う。
私も、常々そう思っていたことに、まさに我が意を得たりの想い。
同居で支配したり支配されたり、執着されたり執着したり。
本来無一物が安らぎ、無支配、無執着が安らぎだと想う。
同居が幸せの場合は、よっぽどの人格者か修行した人でなければ、稀だろうと想う。
今日の課題は何か?と、朝、自問してみる。
やるべきことは私の、神から与えられた課題。
好きでも嫌いでも、やるべきことは、毎日大体わかる。
毎日、何か少しずつ学びになって、安らぎに向かう。
神は、手荒に扱うようで、実は、計算された学びの課題を私に与えている。
毎日の課題を、ただ黙々とこなし、神からのメッセージに耳を澄ませる。
世間が考える不幸の中にも幸せを見いだせる力、それが出来なくて成熟は無い。
世間が考える幸せの中にも、厳然たる不幸があることに気付く力がなくては、成熟は無い。
世間の考える幸せ・不幸に振り回されて終わる人生なら、余りにも幼な過ぎて哀れ。
幸せか不幸かの審査委員長は、世間では無い。
自分自身の成熟が問われている。
昨日は横浜でも雪景色の中、出勤した。
ひんやりとした空気、雪道のよちよち歩きを新鮮に味わった。
電車は、間引きノロノロ運転で、満員電車で会社へは1時間遅れだったが、長い電車の中の時間、諦めて、ただジッと身を任せた。
会社では、アラブ人達は雪が珍しく喜んでいた。
東京の雪の日を、私は、ただ、味わう。私の人生の中の一日として。
人は苦からの解脱を求めて、光へ導かれる。
光の世界の安らぎを知れば、再び、来た道を引き返し、光と闇の世界に留まり、救済の歓びを求める。
光の世界は、留まる所ではなく、折り返す場所。
再び帰った光と闇の世界は、もはや、何があっても大丈夫の世界。
私は、身体だと想う人は、外に物質を見る。
私は、心だと想う人は、外に印象を持つ。
私は身体でも、心でもないと想う人は、自分の背後を見る人は、外に神を見る。
人は、いつも見えているものを語る。
あなたは、物を論じる人か?、印象を語る人か?、神を語る人か?
何を論じる人か、人はそれで見抜かれる。
身体や心(波)を超えずして、背後(大海)が見えずして、安らぎは無い。
昨日の住職の話から。
昨日会社帰り、九段のチュニジア大使館公邸で開かれた友好協会のレセプションに出席してみた。
アラビストの友人知人達との会話や、アラブ音楽など楽しんだ。
そこに元NHKの初代ニュースキャスターの磯村尚徳さん(86才)も、小野元チュニジア大使とパリ時代の文化活動の繋がりで出席されていた。
小野元大使の挨拶を、因みにと磯村尚徳さんがフランス語で喋ってくれた時、久し振りに聞く磯村キャスターの流暢なフランス語の響きに感動した。
磯村キャスターとは初めてお会いし、初めて言葉を交わしたが、まるで私は、学生時代に感じた語学への情熱が蘇った。
私は、大学時代、第2外国語はフランス語だった。
語学は、その国をどっぷりと、丸ごと飲み込むような、一体感を感じる感動がある。
思いがけない磯村キャスターとの出会いが私の語学への情熱に火を灯してくれた。
人生の1時間の価値を例えば1000円とすると、1日24,000円。 週168,000円、 月730,000円、 年で8、760,000円。 10年で8800万円=丸めて10年で約1億円。
1時間1000円としても、人生80年生きるなら8億円。
これは、一体、誰にもらったのだろう。
借金なのに、気づかなくて生きてるのが人間の厚顔無恥振り。
親に毎年、1000万円位払ってもいいくらいなのに、すっかり忘れてしまった借金。
私の両親は云うだろう、別に、貸したつもりもないし、お前がそう想うなら、社会に返してくれればいいよと。
何もしなくて、私は、毎日24,000円、もらって生きている様なもの。
それくらい、社会に何かをしなければ、バランスが取れない。 何かしなければと想う。
母の満面の笑顔、父の満面の笑顔が浮かぶ。
私の生きて来た目で見た人類、人間社会の姿を想う。
私が行った場所、私が会った人、私の微かな足跡が残る。
人類全体から見れば、65億人の中に埋没して見えない。生きているのか死んでいるのか分からないような、見えない存在。
私は、顕微鏡で、地球に私を探し出し、まだ生きてうごめいている姿を見つけて微笑む。
顕微鏡がないと、何があっても大丈夫の悠久の宇宙に地球が浮かんでいるだけ。
自分の幸せの実現のために、必死で生きて来た人生の苦しさ。
自分の幸せよりも優先する価値に目覚めた時の安らぎ。
自分の幸せの実現に必死になっている時、自分と外の世界が切り離された孤独を味わう。
自分の幸せより、気を取られる価値観に目覚めた時、それは光となって私を導く。
数年前、閉店した白楽のジャズ喫茶のファンの方々の会があることを最近知り、昨日の夜、その新年会が商店街の定食屋さんであり、誘われて行ってみた。
私は、休日や会社帰りの常連客だった。時間帯は違っていたが、同じように近くに住む常連客だった人が5~6人集まってママさんを囲んで、近況やジャズ談義など。
ジャズのレコード盤は、一時、商店街の風呂屋さんに預けてあると聞いている。ファンの応援で、またあのジャズ喫茶が復活する日がくればと想う。
美味しい珈琲を飲みながら、好きなジャズの調べに、まどろむ時間。
私の人生で、ジャズは、ずぅーとそばにあって慰められて来た。
昨日、朝、気功のため綱島小学校の体育館に行く時、運動場で遊ぶ子供達の光景を見た。
その光景は、私が子供時代に見た私の通った小学校の運動場の光景と何も変わらないと感じた。
私自身も小学生として、この光景を見ていると想った。
これは錯覚なのか、現実なのか? 私は、子供時代に見た光景が現実に目の前に現れたと十分感じることを楽しんだ。
今は、過去に全く遜色ない輝きで私の眼前にある。
今は、未来に全く遜色ない輝きで私の眼前にある。
若い頃を懐かしむ必要はない。未来の理想を夢見る必要はない。私の眼前にあるのは、ただ、今が旬の輝き。
それぞれの人の身体の設計者は神、それぞれの人の人生の脚本家は神。
私も神の描くシナリオ通りに生きる。作用と反作用が織り成す私の人生。縁が織り成す私の人生。私の存在も、私の人生も大自然の造形。
神は私の人生を通して何を描きたいのかを想う。
色々な波が、大海を成す。大海の安らぎがあれば波はお遊び。
世界の名著に出てくるように私は、私の人生で神を描く。
毎日、新しいことが展開して行く。
新しい展開は、自身の縁が引き寄せるエネルギー。
そのエネルギーは、光に導かれているか、安らぎに向かっているか、常に考える。
ただ、流れに巻き込まれていないか、時間を潰すような生き方をしていないか、常に自問する。
今日も人生のデコボコした道を、転ばずに歩く。
今日は、今まで生きて来た人生の頂点としてある。
自分の人生の羅針盤を想う。
娘の幼なじみのあっこちゃんが毎年お正月にアメリカから一時帰国し、ヴァイオリンコンサートをやり、私と娘は、今年も一緒に出席した。
会社のアパートで同じ棟の同じ階段だったし、一緒に公園なとでよく遊んでいた。
そのあっこちゃんが、奏でるヴァイオリンの調べを聴きながら、あっこちゃんや娘の幼児時代が映像のように蘇る。
コンサートの後、あっこちゃんと娘が話す場面も写真にとった。成人した幼なじみの写真。
娘と私は、コンサートの後、神楽坂音楽の友ホールから近くの毘沙門天そばの静かな日本酒の店に入った。
娘の幼児時代、神楽坂居酒屋、昔も今も、まるで混ぜご飯の境地。
1月5日の毎日新聞の記事に衝撃を受けた。
2014年8月琵琶湖大橋から62才の男性が飛び降り自殺した時、身に着けていたカバンには、自分と母親とのへその緒、一緒に焼いて欲しいとメモ書きが入っていたと云う。
彼は、2006年2月京都桂川河川敷で、車椅子に座る認知症の母(当時86才)を首を絞めて殺害し、自らも自殺を図った人物だった。
桂川河川敷、琵琶湖大橋、私は、このエピソードをその情景の中に連想することになった。
正月は、各社の社長さん達は年頭の挨拶をする。会社の業績を伸ばそうと挨拶するが、殆ど物足りなく印象に残らない。
社長達でなくても、個人が密かに自分への年頭の挨拶をしたら、さぞ、自分の人生が引き締まって好かろうと想う。
今年にかける目標、自分の人生の面、社会貢献の分野、世界の苦しみへの出来ることは何か、人類へ、全生命へ、地球へ、と自分が出来ることは何か、を考えてみる。
私自身の幸せを必死で求めても、年頭の挨拶は、自分でさえも聞きたくもない。
どう他を安らがせることができるかが問われている。
自他一如、自他不二、神のメッセージを自分の言葉で、自分へ年頭の挨拶を考えてみる。
年末郷里に帰省した時、いつも会う独り暮らしの姉と、弟家族。
16才上の異母兄弟の姉は、一年前に比べて身体が弱っていた。もうそろそろ独り人暮らしは無理と感じ、半年くらいしたら自分で施設に入るつもりになっていた。
異母兄弟の私を、いつも我が子のような気持ちで接してくれた。
いつも私が帰る時、辛い表情をした。今年は、私が帰る時、「ひろし、ハグして」と云って私を驚かせた。兄弟で初めてそんなことを云われたが、私はすぐ姉の云う通り照れながらもハグした。
日本人どうしの、姉との初めてのハグ、それは人生の哀しいほどの愛おしさだった。
姉の住む独り暮らしのアパートから、私は、涙を隠して駅に向かった。
送られて来た年賀状に書かれていることなどから、今の私の実像を想像してみる。
アラブのこと、石油のこと、ギャグのこと、禅のこと、人生の気付きのこと、旅のこと、飲み会のこと、健康のこと、苦しみのこと、楽しみのこと。
私に対する何十面相的イメージを想う。群盲索象、象を触る盲人は、触った場所で象を想像してしまい全体像を知ることは出来ないのと似ている。
人は皆、何十面相でもある。
私は、それをオーケストラの指揮者のように、仏性の光に導かれて、調和させて、人生を奏でて生きたいと想う。
懺悔と感謝は、光へ導かれる力。成道への道。
懺悔はブレーキ、感謝はアクセル。
2016年の開始に当たって、アクセルとブレーキの効き具合を確かめる。
今まで無謀な運転をして来た人生を想う。よく事故死しなかったなぁと想う。
ただ不思議なことに、アクセルとブレーキを勘違いしても
大事故にはならないところが神の優しさ。
懺悔と感謝は、ただ守る力。
年末に見た東京の愛宕・青松寺の門に書かれた正月の言葉を想う。
歳あらたまりて、我あらたまる。生まれ代わり、死に代わり、命輝く。
何があっても、今が、今まで生きて来たことの頂点としての今。
その今に相応しい生き方を想う。
2016年、正月に寄せて想うこと、私は今年の年賀状は、無常の持つ光のことを書いて、挨拶とした。
万物は常に変化を免れない。それを常に消えると捉えるのか、常に生まれると捉えるのか?
留まることは澱む、無常は、常にみずみずしい生命を歌っている。
個としての生命や、私の肉体の生命など、そんなちっぽけなことに捕らわれて、安らぎはない。
無常は宇宙の真理そのもの。
春は花、夏ホトトギス、秋は月、冬雪冴えて涼しかりけり。道元禅師の歌を想う。
2016年正月。