母の人生の足跡の全シーンが蘇る、そんな旅の想い出、
母が生まれた1917年、長崎京泊り、半農半漁の小さな漁村。長崎畝刈(あぜかり)尋常小学校。大家族の長女だった母は、女中として長崎市内に奉公に出されたと云う。
昔、漁村からは、小舟で大きな船に乗り換え、長崎・大波止に着く交通機関だった。
1936年19才で単身、日本から逃げだす様に、満州国(1032年~1945年)へ飛び出し、終戦(1945年)まで住んだハルピン。 和文タイピストとしてOLをして、当時のハルピン、(人口50万人、ロシア風の建物の多い洒落た街)で青春を過ごした。 ハルピンの日本人社会約18、000人の中で、早稲田大学を出た長野県出身の男性と結婚、終戦当時1才位の男の子がいた。 夫は肺病に罹り、日本の故郷長野県の療養所に送還されている時に、終戦・逃避行の悲劇。子供は、収容所で栄養失調で死亡。
苦難の末、やっと帰国し、長野県の療養所に、死の床にある夫を訪ね、子供が死にましたと報告する時の母の辛さに、今も私は、母の運命にもらい泣きする。 長野県・伊那郡・平谷村が、母の死別した元夫の実家のあった場所。
それから、また長崎市内で働き始めていた時、何かの縁で、私の父(大牟田市)と知りあって再婚し、私が生まれた。
私は、母が生まれた長崎・京泊りも、小学校のあった畝刈も、満州・ハルピンも、長野県・伊那郡・平谷村も、大牟田も、母の人生のゆかりの地を全部、周ったことが嬉しい。 1917年~1994年の77年の人生であった。
この10年で、私は、色々な旅をしたお蔭で、今では、母の人生の全シーンが、画面として想像できる。
そのことが、今の私の、エネルギーの根源となって、私を導いている。
母の笑顔が、長崎の光景、満州の光景と重なって、大丈夫、大丈夫と私に語りかけているように感じる。
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