桜が満開の日に、
昨日、東京の桜は、一気に満開だった。早めに会社へ向かい、会社へ行く道、会社の昼休み、会社帰り、私は、写真を撮り、外国の友人にも送った。
そんな桜が満開になった日、京浜東北線は朝、7時過ぎの人身事故で、沿線の鉄道のホームが人で溢れたと、後で会社の人から聞いた。
桜は、色々な想いで見ている人がいることを想った。
昨日、東京の桜は、一気に満開だった。早めに会社へ向かい、会社へ行く道、会社の昼休み、会社帰り、私は、写真を撮り、外国の友人にも送った。
そんな桜が満開になった日、京浜東北線は朝、7時過ぎの人身事故で、沿線の鉄道のホームが人で溢れたと、後で会社の人から聞いた。
桜は、色々な想いで見ている人がいることを想った。
今月も、健康の勉強したことをレポートします。よりよい人生のために。
―「尿酸を自分で改善」(藤森新 著、 法研) から抜粋-
1、アルコールは、尿酸合成を促す上、尿酸の排泄を妨げ、尿酸値を上げる。
2、エネルギー過多は、肥満から尿酸値上昇へ、肥満は尿酸の排泄を悪化させる。
3、脂質・糖質の摂り過ぎを改め、エネルギー過多を防ぐ。
4、運動は、激しくても、不足してもよくない。発汗で水分不足、尿の濃縮で、尿酸値上昇。
5、尿酸ナトリウムの結晶と白血球の戦闘中の放出物質が、激痛の痛風発作を起こす。
6、尿酸値の上がり易い食塩は控えめに。加工食品には、食塩が多い。 アジの干物、はんぺん、焼ちくわ、食パン、さんまの干物、塩シャケ、など。
7、塩分の排泄には、カリウムの活用を。カリウムを多く含む食品: バナナ、 ひじき、 日本なし、リンゴ、里芋など。
8、水分は、エネルギーの無いものを1日、2リッター以上摂る。
9、酸性化した尿をアルカリ化して、溶けやすくする。
アルカリ化する食品: ひじき、ワカメ、昆布、干ししいたけ、大豆、ほうれん草、ごぼう。
酸性化する食品: 玉子、豚肉、サバ、カツオ、ホタテ、牛肉、精白米など。
10 野菜・海藻・キノコで、尿酸を排泄。
11 動物性脂肪は要注意。
12 食物繊維でコレステロール排泄。尿酸も排泄。
13 ストレスも尿酸値を悪化。
ストレスへの抵抗力は、ビタミンCや、ビタミンB 群(神経のビタミン)で。 カルシウムもマグメシウムもストレスを抑える効果あり。 以上
昨日は、家の近所の図書館で開催の昔の映画「嵐を呼ぶ男」を見に出かけた。姉達が憧れていた石原裕次郎の当時の姿に、何か、元気一杯の昭和の時代を感じた。
その時、何の縁か、図書館の無料処分の本棚に小学館の「家なき子」があり、子供時代に読んで聞かせて貰った、何か悲しかった物語を、また、読んでみたくなった。
早速、貰って帰り、読みかえしていると、おぼろけに記憶が蘇って来た。捨て子のレミが貧しい農夫に拾われ、8才の時、旅芸人に売られ、本当のお母さんに巡り会う、悲しくて、また人の優しさが伝わる物語。私も、また感動して読み返した。そして母の優しさを想い出し、母と再会したような気がした。
家なき子を想い出すと、今でも、また頑張って生きて行く勇気が湧いて来る。ミリガン婦人(お母さん)の乗った船の川のそばで、旅芸人のレミ少年の奏でるハープが聞こえる。
昨日、午前中、立川市の市民講座で、アラブの扉と云う、アラブ入門編の講演をやった。
無事終了し、達成感も感じることができた。
最近、社会貢献への興味と、伝えたいことがはっきりあり、力みもなくなり、そのような行動が苦にならなくなった。
適度に力が抜けて、可能性が広がって来た感じがする。
駅への帰りの道で、ある参加者の方が、結構深い社会への洞察に付いて語りかけてくれた。
自分の内面の仏性を信じて、これからも、可能性を広げようと想う。
次は、どんな充実したチャレンジをやるか、構想を考える。
先日、通勤時、某社の役員から電話があり、急にその日のランチを一緒にできないかとの提案であった。
何か、急ぎの相談でもあるのだろうとOKして、会社から歩いて20分くらいの和食レストランで待ち合わせた。内容は中東の最新情報のことだったが、私は堂々とご馳走になり、うな重を食べた。
そのこと自体も、私にとっては、新鮮な、ハプニングであったが、 私は、会社から店に行くのに、自転車で行ってみたくなり、自転車で会食に出かけた。
会社の自転車でレストランに行き、接待の鰻を食べ、自転車で帰ると云う行動が、私には今迄考えたことのない痛快な体験だった。相手も気心の知れた後輩だったから、自転車のキーを見せたら大笑い。
ついでに、ギャグも少々。
都心を自転車で走るのも楽しい。 これも小さな驚きの世界。
昔から、桜は儚さの象徴だった。
桜は予科練の同期の桜などにも歌われた。 ♪咲いた花なら散るのが桜♪と詠って、特攻隊は勇ましく散った。
桜には、今生の別れが似合う。
考えてみると、全て、生きとし生けるものは変化している存在に於いては、桜だけでなく全ての物質がそうではないか。
今生の別れが命の証明、人生の証明。
人生は、今生の別れだらけで、なーんだと想ってしまう。
それを悲劇や寂しさに結び付けることは、偏った考えの勘違い。
全てが、今生の別れ。 前後際断されていると想えば、寂しさを超え、新たなエネルギーが湧いて来る。
色んなものが新鮮で、キョロキョロしながら、人生を送れそうな気がする。
朝の清々しい空気に、突然、色々な、昔の自分が蘇る時がある。10代も、20代も、30代も、40代もである。
変わらない自分を体感できる。私の人生を眺めている変わらない自分が確かにいる。
当時、感じた空気が、私を眺めている。私は、いつも変わらぬ空気になり、私を眺めているのだと想う。
私と云う身体と、私と云う空気が、お互いを眺めている。
今朝も、そんな朝だった。
今年も、もうすぐ横浜にも桜と云う客人ご一行が到着される。
まるで、大名行列でも見るかのような、絢爛さである。
遠くから、1年かけて、来られる行列。
下にぃー、下にぃー、
私は、街道で、立ち止まって見る。近づいたら、土下座して、見送る。
2015年の桜のご一行様のご到着。
人生の街道にて。
先日、長岡駅にオコジローと云うキャラクターが宣伝してあった。雪国の野に住む愛くるしい小動物・オコジョのキャラクターである。
私は、いつもオコジョの写真を見るだけで幸せになる。私は、オコジローのキャラクターの写真を撮り、ただ嬉しい。
私は、子供の頃、母親に愛称を付けて、オカジローと呼んでいた。何にでもジローをつけて楽しんでいた。
オカジローと云う言葉は、私と母親にしか通用しない言葉だった。だから、私には、オコジローとの遭遇は、大変な幸せな事件だった。
そのことを、嬉しさに耐えられず、早速、弟や妹、娘にも報告した。
オコジロー、オカジロー、ただつぶやくだけで、嬉しくなる。
坐禅中、物音が気になったり、五感の作用が止められない時、住職も自分に失望されていた日々があったことを聞いた。
そんなある時、全てが仏性であるのに、何で邪魔にするのかと気づかれたと云う。
丸ごと浄土であることに気づかれたと云う。
そこには、呼吸になりきる力みも不要。ただ、何となく坐り、自己を忘れている。
まるで、ぼんやりと、ふんわりと雲に浮いているような。生じてもいない、滅することもない。
昨日、般若心経をサンスクリット語に照らしながら、住職に解説してもらった。
物理的現象は変化である。一切は無常である、実体は無い。実体が無いが故に生命である。執着が強い人には、沁みる言葉。
変化を見ている変化しないものがある。不生不滅の世界がある。時空を超えた永遠がある。今ここ、の永遠性。寂しい人には、[ある]を説く。
あって無くて、無くてある世界のことだった。どちらでも、貴方の好きな方を感じて下さいと、住職は云う。
万華鏡のように、自在に真理の輝きを伝えている[般若心経]。
文芸春秋4月号に、見たことのない戦争が始まった、と云う記事があった。
戦争を知る世代からの警告、憎悪や報復に身を委ねるな、と副題に書いてあり、私は、この数日、現在の世界の危うさを思った。
過激派は、憎悪や報復をエネルギーとしている。こんなに虐げられている人々がいるのに、気にもせず平然と豊かに暮らす人々が、憎悪や報復の対象になる時代なのだと想う。また過激な行動は、過激な反作用を生んで行く。
虐げられられている人々の存在に気付き、手を打たねば、見たことの無い戦争が拡大して行く。
森林火災を消す、一滴の水滴でもいい。水滴を運ぶ小さなハチドリになろうと想う。
昨日、会社帰りに横浜・反町ふれあいサロンで、12才のシンガーソングライターのKo-Sei君のライブを聴いた。
横浜市立盲特別支援学校・12才 のKo-Sei君は、2014年11月のヘレンケラ、記念音楽コンクールで3位だったと云う。
今年2月28日、たまたま神奈川公会堂で彼の歌を聴き、余りの輝きに衝撃を受けた。
ハンデは、人をこれ程までに、美しくするのかと、私は、眩しさに打たれた。彼は、天使のようだった。
♪何があっても絶対にやるから。♪貴方を笑顔にしたくて。♪君の声に導かれ。♪涙の川を泳いで。
彼は、少し吃音もあるが、私も子供時代の吃音で苦しかった気持ちも蘇り、彼の心の叫びが、尚一層、伝わった。
彼の次のコンサートは、3月27日(金)1300~横浜・城郷小机地域ケアプラザで、私は、会社で行けないのが残念。彼の夢、いつかスタジアムでコンサートが実現する日に必ずつながると想う。
私は、母に心の中で、Ko-Sei君と会ったよ、と報告した。
Ko-Sei 君の歌、 ユーチューブ、
https://www.youtube.com/watch?v=I8qG3U-k8k4
3月8日、調布映画祭で、昭和39年の映画・愛と死を見つめての上映の時、浜田光夫さんの舞台挨拶で、今年、3月13日で吉永小百合さんは、70才になられることを聞き、全く驚いた。
今まで思っていた70才と云う言葉の響きに、革命的な変化をもたらす情報だった。
変化するもの、即ち無常と、時空を超えた・永遠の今ここを、感じるなど、一元世界と二元世界を連想を楽しんだ。
素晴らしい映画のシーンの静止画像は、永遠に心に残る。それぞれの人の人生に、心に残る永遠のシーンがある。年を経ても変わらない、永遠のシーンがある。
昨日、哲学カフェで、テーマは、お金についてだった。
昔、日本では、お金を「おあし」と云ったと云うことが、何か、どんどん回って行くようなイメージが湧き、心地よかった。
お金で、目に見えないものを買おうと云う発想も、心地よかった。
金融関係の人が、お金は、実体の無いものと云う意見が、同感だった。現在の世界は、実体経済の何倍ものお金を発行している。お金が、幻の価値であることがわかる。
私にとって、お金は、醤油と同じで、料理に必ず必要だが、多過ぎると、料理がダメになる。人生には、衣食住に最低限のお金は、必要だが、多過ぎると、人生をダメにしてしまうと想う。私のお金についての考えを披露した。
人は、お金を、何故欲しいのか?、深く自問して行くと、
意外なものに到達すると想う。それは、お金と云う手段を必要としていなかったことに気づくと想う。
道元禅師は、薪と灰の例えで、今ここを説いた。薪は、薪の法位、灰は灰の法位があり、前後際断されていると。薪が灰になるのではない、灰は薪が変化したものではない。
不連続の世界、永遠の世界が展開している。
物質の変化を時間と云う。今ここは、時間も空間も超越した世界を表している言葉だと云う。
人生の素晴らしいシーンを想い出した時、それが過去の出来事ではなく、永遠に見える力だと想う。
人生は、永遠の静止画像の集まりのようなもの。日々が輝いて見える。
住職は、今ここは、歓喜ですと、おっしゃった。
寂しさや孤独は魔境、千人・万人の友だちに囲まれていることに気づいてくださいと。
波の私は、大海の私でもある。大海の世界を感じる時は、それは、時空を超えて、安らいでいる。
新潟は、私が大学卒業後初めて勤務した場所、懐かしい会社の後輩達がいる場所。そして、私が社会人ESS(英語会)新潟ESSを発足させた場所。
その新潟で、私は、私が講師をして、友人知人を集めたセミナーを思いつき、昨日実験した。演題は、私が社会に知らせたいアラブのこと、食と健康のこと、私が学んできた小さな驚きを、披露した。
友人知人やそのまた友達なども集まり、大変、達成感のあるセミナーができ嬉しかった。参加者どうしも、知り合いになれて、私は、その縁を繋いだことにもなる。
午前中のセミナーの後、念願の、新潟・酒の陣と云うイベントに、セミナーに参加した友人達と行き、ワイワイと、また楽しんだ。
会場で、大学時代のクラスメートの新潟市の大幹部とも偶然会えたり、最近東京から新潟へ転勤した官僚の友人とも会場で偶然会える縁に驚いた。会場は、一日で7万人~8万が集まる場所での再会でもあり、狐にでもつままれたようだった。
セミナー会場から酒の陣の会場、朱鷺メッセまで車で送って下さったのが、セミナーにも参加してくれたベルギー人の坐禅の友人の神父様。
雪国、新潟で、私は、暖かい縁に包まれた日を過ごした。新幹線の車窓から見た真っ白な雪景色を想い出す。
先日、ちょっと、自宅そばからの通勤経路を変えて歩いてみたら、ある家の木に、小鳥たち用の水入れが取り付けられているのを発見した。
私の心は、一変して、メルヘンの世界に入った。
小鳥たちにとっては、水が飲める珍しい木だなーと思っているかも知れない。
私は、心の中の情景で、ちっちゃい子供に、この水入れの説明を楽しんだ。
そして、また子供の気持ちにもなり、全てが助け合い、調和して生きている世界にほのぼのとした。
所有は悲しみ、最近、よくその言葉が浮かんで来る。
所有している意識は、人間に、三毒、即ち、怒り・貪り・愚痴ももたらす。
所有しているからこそ、苦しみ、悲しみが生まれる。
所有は、他に対して、ゲスト(客)が持つ感情。
私は、何一つ所有していない。私は、ただ仕える人であり、他に対してゲストであることはない。そんな覚悟が、とても素晴らしく想える。
何一つ所有しない、それは、神の領域だから、輝いているのだろうと想う。
今週は、朝からアラブ人ゲスト2人を連れて、各社を回るスケジュールだったので、朝、0830とか、普段より早い時間で、都内のホテルロビーの喫茶室で待ち合わせたり、スターバックスでお茶を飲む機会があった。
若いバリバリのビジネスマン達と交じって、面談に同席するのも、昔の自分が見た光景が、再び、現実となって眼前に現れているようで、それは懐かしいものだった。
海外出張で、滞在するホテルで朝食やお茶を飲んでいた自分が、再現されるのだから、感慨ひとしお。
たまに、都内のホテルで、朝、お茶を飲むのも、自分の人生の映画を見るような気分になれ、大変心地よかった。
震災で生き残った時、亡くなった人に対して、後ろめたさを感じる人の話を、よく聴く。
戦争で生き残った人が、亡くなった人へ、自分が生き伸びたことへ、後ろめたさを感じる話もよく聴く。
震災や戦争が無くても、自分が今、生きていることに、後ろめたさを感じられたら、申し訳ない気持ちに覆われ、即ち、自他一如の境地に繋がり、即ち、仏性への気付きの道だと想う。
世界で戦渦に苦しむ人々、衣食住さえままならぬ人々が大勢いることを想うと、今の自分の生活に、後ろめたさを感じることは、修行の入口だと想う。
ただ生きていることにさえ、後ろめたさを感じる力が、人格を向上させる。それは、神へ近づくことだと想う。
昨日の朝、爽快な雨上がりの朝、通勤途上の道の真ん中に、ミミズの姿、私は、薄い手袋をしていたので、そーっと掴んで、道路脇の草むらに帰してやった。
私の手で掴まれて、バタバタ、クネクネするミミズ、それも、まだ元気だった証拠。
ミミズを助けた後、今度は、ナメクジが道路の真ん中をノロノロと這っていたので、これも手袋で掴んで、また道路脇の草むらに帰した。
雨の音は、ミミズなどの生き物にとって、天敵のモグラの襲来と勘違いして外へ逃げ出すのだと云う。
ただ、それだけのことなのに、心やすまる一日の想い出だった。
先日、調布映画祭(6日~8日)があり、昭和39年の名作「愛と死を見つめて」(吉永小百合・浜田光夫主演)を初めて見た。
ミコとマコの悲哀を見て、死に逝くミコが、私に、"健康な日を3日だけ下さい"と,日記に書くシーンがあった。
1日目は、父母兄弟との団欒の日、2日目は、恋人マコとの日、3日目は、人生の想い出に浸る日、そして、その後、長い眠りに就きますと。
死が近い日、父の提案で、父と病院のある大阪市内をタクシーで観光するシーンもあった。その日は、一番嬉しい、また哀しい日でした、と書かれていた。
私にとっても、人生への万感の想いが伝わった。生きて来た証しを想う。
昔、川崎・中原は10万本もの桃の木があり、日本一美味しい桃が採れる産地として有名だったと云う。
だが、戦争で全ての中原の果樹栽培は禁止され、穀物栽培に強制されたという。
昭和20年、空襲を避けるため疎開して行く子供達が村の秘密の場所にそれぞれの宝物を埋めたことが、おばあちゃんの日記の中にあり、70年ぶりで、その場所を探し出し宝物を捜索した。
その場所には、何と、大きな桃の木が、綺麗なピンクの花を咲かせていた。女の子は、お父さん自慢の桃のタネを秘密の場所に宝物として埋めていたのだ。
中原の子供達約50人で演じる、なかはらミュージカル桃の里ものがたりの風組の公演を、中原市民会館で昨日の昼見た。300人位の会場は、まるで宝塚のように、感動の渦と化した。公演後、子供達は、嬉しさと達成感で、どの子も、顔がぐしゃぐしゃになるほど泣いていた。
私も、感動の記念にCDやDVDを買った。そして、これは、私の宝物になると想う。
昨日、人間は死後どうなるのかと云うテーマで、住職の法話を聴いた。
菩薩と云う人格は、身体を持たずして、誓願を持つ。
菩薩の誓願とは、自分より他を優先するとの誓い。
誓願は、種子となって、仏性(真理)へと導く。
誓願は、生死を超える。永遠なる自由、永遠なる安らぎが感じられる世界。
「私は、どうなってもいいです、他がよければ」と、云える覚悟、それが誓願。
宇宙の安らぎ、永遠性は、自他一如にある。それは、個しか見えていない人には、自己犠牲にも見える。
住職の師・原田湛玄老師の誓願、「私は、椅子になります」と云う覚悟に、心打たれる。
昨日の夜、TVで、2月20日の川崎多摩川河川敷の少年殺害事件の現場検証が、容疑者立ち合いのもと行われた様子が報道されていた。
容疑者は、青いビニール・シートの囲いに覆われ、周りから、容疑者は見れないように配慮されていた。
河川敷には、捧げられた花で丘が出来るほどで、容疑者の目には、どう映ったのだろうかと思うと、無数の花に胸が一杯になった。
被害者・涼太君の13才までの人生で、彼が育った、島根県・隠岐諸島・西ノ島、どんなにか、美しい光景だっただろうかと想った。
涼太君が見た、西ノ島の光景も、私は、是非見てみたいと想う。
人生の過酷さ、美しさが、涼太君の心に刻まれて、13年の人生が終わった。
涼太君と会いたくなったら、隠岐・西ノ島に行こうと想う。西の島の名前が、私の心に刻まれた。
昨日の国際LPガスセミナーでのレセプシヨンの時、私をこのセミナーの顔になりましたね、と云つてくれた人がいて、驚いた。
毎年、600人くらい参加するセミナーで、ただ、黙って聴講しているだけなのに、長年の常連だから、そう云われるのだろう。元の会社の頃は、私が、産油国代表者に、会場で議論をふっかけていましたねとかも云われて、そんなこともあつたかなー、と思い出し、気恥ずかしい気持ちにもなつた。
今年も、懐かしい友達と会え、愉しい時間だつた。それは、仕事と友情の確認の機会のようなもの。
また、セミナーを終え、世界中に散らばつて行く。それぞれの国の光景を想い出す。
今日・明日、東京プリンスホテルで、国際LPガス会議があり、世界中から主なLPガス関係者が集まりセミナーが開催される。
昨日、帝国ホテルロビーで見かけ声をかけた米国からのゲストは、毎年来日して、いつもカッコよくスーツを着こなしているが、何と79才で、今まで8回も結婚したと聞き、驚いた。
そのことが、また、彼の生き方の美学かと感心した。
私も、LPガスの世界なら、一生現役の生き方が出来るかも知れないと希望が湧いてくる光景であった。
世界中の大勢の友人知人との再会に、昨日のレセプションから、興奮気味の自分に、アルコールは、ほどほどにと、今朝から、戒めている。
禅は、脇役の歓びを教えてくれる。
人生は、いつも自分が主役を演じている力みがあるが、禅は、私が、の想いを和らげて、他と同一化し、全体に溶け込ませてくれる。
他を引き立て、そぅーと自分を消す力が、素晴らしい。
私は、禅を、宗教的にも、哲学的にも学んでいる感覚はない。ただ、住職の描く世界観に安らいでいるだけ。
住職は、私のことは、どうでもいい、みながよければと云う境地を、色々な描き方をして表現してくれる。そして、言葉の世界を超えた、永遠の静寂をも感じさせてくれる。
人間の成熟は、主役をおり、脇役に歓びを見いだすことにあるのではないかと想う。そこには、強さと優しさと安らぎがある。
世間では、色々な事件や犯罪が毎日起きていて、大勢の人が、犯人に対して怒りが湧いて来ることも多い。
世界ではイスラム過激派の行為、日本では最近の痛ましい少年の殺害事件など。それらの事件について、圧倒的多数の人は被害者に自分を擬えて悲しみ、大きな怒りを感じる。
全ての人の心の中に、自分の思い通りにしたい気持があり、そうならない時に、極端な人は犯罪を起してしまう。思い通りにならなかった時に感じる怒りを他へぶつけて他を傷つけてしまう。
怒りは、また他からの同じくらいの怒りを誘発して、人間どうしの全面対決に繋がって行く。
加害者と被害者が、共に我が子であると云う苦しみがわかることが、神(仏性)であると想う。
自分が加害者であると気付いている人には、懺悔はあっても、もはや怒りは無い。
怒りを抑えるには、いつでも、自分の持つ加害者の気持を忘れてはならないと想う。
人は、煩悩に於いて、全て加害者であると想う。
昨日は、午後、雨の中、最近の事件で亡くなった13歳の少年・上村涼太君の亡くなった現場へ、献花に行った。
現場は、川崎駅から大師線に乗って、一駅目の港町と二駅目の鈴木町の間くらいの場所の、河川敷であった。事件発生の2月20日から、約10日経っても、大勢の献花する人がいた。バスケットボールの前に、花は一杯に積まれ、大勢の人の悲しみが伝わって来た。そこは、彼が最後に見たであろう、多摩川の光景が広がっていた。
バスケットボール部の先輩(15歳)に連れて行って貰ったゲームセンターで、容疑者の18歳の少年グループと知り合い、悲劇的な縁に繋がって行った彼の人生。
色々な縁が渦巻く人生で、その縁の扱い方次第で、その後の人生が、制御不能になるような恐い縁もある。
人生は、常に仏性(安らぎ)に導かれているか否かを問わなければならない。それは、まだ、13歳の被害者の少年には、難しい状況であったかも知れない。
人間の三毒・"怒り、貪り、愚痴"に導かれてはいないか? 自分のエゴは拡大・肥大化してはいないか? と、常に自問して行かなければならない。
人生には、常に好い縁と同時に、悪い縁にも触れている。
そして、仏性を見る力を養うのが、修行だとも想う。
生きる苦しみの正体は、自他が切り離されていることに気付いた。
老いる苦しみは、恐がらなくて好いと四季が優しく教えてくれる。老いには、次の誕生への気配がある。遭えなくなった人との再会の気配がある。老いには、性別を越えた、神に近付いた人間の色気がある。
病む苦しみは、今まで不自然に生きて来たことへの懺悔と、今残っている命、身体への感謝を惹き起こす。そして、自他が一体ならば、病に口惜しさはない。宇宙から眺めているから。
死の苦しみの正体は、自他が切り離されていることに気付いた。
"自他一如"、"自他不二"、は宇宙そのもの。真理、仏性、神、自ら光を放つもの。
どんな人生にも繰り返す生老病死、サクラの花のように繰り返す。