« January 2015 | Main | March 2015 »

February 28, 2015

全ては神の領域、光の中へ、

思い通りにならないことに囲まれて生きること、色々なことを思い通りにしようとして生きること、ただ喫茶喫飯で出て来たものを戴き生きること、など生き方はある。

思い通りにならぬことに喘ぎ苦しみ時には怒り、思い通りにしようとお金や地位や権力に走り、そして、どうどうめぐりで、人生は過ぎて行く。

思い通りとは、即ち自分、自分に振りまわされている証拠、それは、波が大海に気付いていないのだから、辛いに決まっている。

大海は、どんな波でも、それは大海の一部であることに気付いている。大海に生きるとは、喫茶喫飯の生き方、全ては神の領域との気付き。光(仏性)の方向は、はっきり見えている生き方。

どの生き方でも、五感六識を持った人間としての逃れられない生き方であっても、運転モードは、自在に切り換えられる生き方をしたいと想う。それは、住職の云う"遊戯三昧"の生き方だと想う。

|

February 27, 2015

人間と自然と、雨上がりの朝、

今朝は、八木重吉の詩を読み返したくなった。

「あかんぼが、あんあんあんあんないているのと、まりがぽくぽくつかれているのと、火がもえているのと、川が流れているのと、木がはえているのと、あんまり違わないとおもうよ」

「窓を開けて雨を見ていると、何にも要らないから、こうして穏やかな気持でいたいと想う」

人間と自然と、シトシトと降る雨の光景、昨日は、そんな日だった。


|

February 26, 2015

母の親しかった助産婦さんの家へ、

昨日は、私の勤めるアラブの会社の特別休暇の日だった。

それでも、午前中は、個人的興味から、大手町で開催の、外国のコンサルテイング会社の天然ガスに関する小さなセミナーに参加して試た。早朝皇居を眺めるオフィスで、約10名くらいの、大会社の中堅社員達に混じって、コーヒーを飲みながら、英語のプレゼンテーションを聴くのも愉しかった。

午後、コロっと、場面を変えて、亡き母の親しかった助産婦さん(95歳)の家(相模原)を訪ねた。昭和36年に生まれた私の弟が生まれた時、九州・大牟田の家の前に住んでいた助産婦さんである。息子さん、娘さんと、私の小田原の妹も入り、5人で、昭和36年頃のセピア色の写真のアルバムを見せて貰いながら、みんなで大盛り上がり、時間を忘れるほどだった。2年前の三池高校の大同窓会のご縁で、このような再会に繋がった。

去年は、弟も連れて来て、弟は自分が生まれた時の助産婦さんと感動の再会を果たした。

帰りに妹と二人で、JR橋本駅前のビルのレストラン街に立ち寄り、食事をしながら、子供時代からずーっと仲良しの兄妹の語らいに安らいだ。

そんな穏やかな休日が、母からの贈り物のように想えた。



|

February 25, 2015

腸の健康 、 糖質に要注意、

腸は、免疫力の源で、若さや精神の安定に重大な役割を果たしていると云われています。 今月は、その腸と食事の関係について調べてみました。 年齢と共に、糖質の摂取を控え、タンパク質・食物繊維を多く摂ることが、腸の健康、全体としての健康な身体の維持に大切なことが、わかりました。

― 「腸すっきり健康法」藤田紘一郎著、(PHP 文庫)から抜粋―

1、人間には、二つのエンジンがある。
(1)①解糖エンジンと、②ミトコンドリア・エンジンがありその連携で成立っている。
(2)解糖エンジンは、血中のブドウ糖を利用してエネルギーを作り、若者には、解糖エンジンによるエネルギーがとりわけ必要。
(3)50才位になると、長時間継続してエネルギーを作り出せる ミトコンドリア・エンジンが主に必要になる。
(4)糖質を摂りすぎると、ミトコンドリア・エンジンの働きは弱くなる。

2、どうして腸は、糖の摂りすぎを嫌がるのか?
(1)炭水化物を摂りすぎると、脳の中の食欲をコントロールする細胞が傷つく。脳は、ひっきりなしに糖を要求するようになってしまう。
(2)腸が消化や免疫機能の維持、活性化を行うには、持続的なエネルギーであるミトコンドリア・エンジンがスムーズに稼働しなければなりません。
(3)ミトコンドリア・エンジン は、糖が多いと、うまく活動しません。

3、ミトコンドリア・エンジンは、体温37°以上で活発になる。
4、腸は、どうして野菜、果物を必要とするのか? 野菜・果物に含まれる抗酸化物質(フィトケミカル)が、ミトコンドリア・エンジンがエネルギーを生み出す時に生じる活性酸素を消すのに必要とする。

5、癌細胞は、 低体温、低酸素、高糖質の三大要素が揃うと活性化する。
6、味噌・醤油・漬物は善玉菌を増やす。
7、ごぼうは腸内最近の大好物。

8、おからは、タンパク質と食物繊維が豊富な優秀食材。
9、ネバネバ食材で、糖質の吸収を抑える。
10、ストレスに強いセロトニンの製造工場に当たるのが腸内細菌。良質タンパク質食品を食べ、太陽に当たり、規則正しい生活で、セロトニンを造る。
                                   以上                              

|

February 24, 2015

雀の観察、信号待ちの舗道にて、

昨日、昼休み、芝公園そばの舗道を歩いていて、信号待ちの時、街路樹の下の少し生えた小さな草の葉を、ちっちゃな可愛い雀が二匹、啄ばんでいた。

雀は、こんな草の葉を食べるんだと初めて、興味深く眺めた。

両手で、そっと雀を手の平の上に乗せることが出来たら、どんなに嬉しいか、想像するだけで、幸せな気分になれた。

雀の姿、そのもののに安らぎがある。

そこには、人間の三毒(怒り・貪り・愚痴)が、全く陰を潜めて、消えている瞬間の静寂がある。

気付けば、一瞬の涅槃寂静の世界ではないかと想った。

|

February 23, 2015

オレンジ・スカイ・ランドリー、豪州の移動式無料洗濯サービス、

昨日夕方、娘の住む目白で、娘と夕食をしに行った時、目白駅前の街頭で、"Big Issue"(350円の、ホームレスの人の自立支援雑誌)を買った。 いつも、私は、街で、Big Issue の販売員の人を見掛けると、必ず買うことを習慣としている。

喫茶店で娘を待っている間、パラパラとめくると、凄い記事に出遭った。

洗い立ての服で新しい人生を作る想いで、ホームレスの人々に、移動式洗濯サービスをして回る青年が二人、写真に写っていた。オーストラリア、ブリスベーンの話。 名前は"オレンジ・スカイ・ランドリイー"。

「やりはじめた初日、二人に服を洗わせて貰って、本当に嬉しかった」と云う。

こんな若者が、地球上にいる。 そのことを知ることだけでも凄い歓び。 一瞬にして、世の中が耀いたように思えた。

シリア、イラクでは、自分と違う人達への怒りから、殺戮をするイスラム過激派いる。この豪州のオレンジ・スカイ・ランドリーは、それらの人間の醜さのバランスを取るかのように、人間の素晴らしさ、美しさを際立たせている。

イスラム過激派も、豪州の青年も、本性に於いては、悪魔と仏性を共に兼ね備えている存在なのに、縁に触れて、表れる行為が、丸っきり違ったものになってしまっている。

それでも、共に、安らぎたいと云う本音は変らない。 片方は、安らぐ為の道筋を、間違えているだけなのだ。

住職から、学んで来た禅の思想の恩恵。 全ての矛盾は統一へ向う。

|

February 22, 2015

「汝はそれなり」の深い意味、

「汝はそれなり」の「汝」とは、人間だけではない「全存在」のことだった。

「それ」とは、「自ら耀くもの」(純粋知性)、 そして、「今ここ」のことだった。

自ら光り、耀き、そして変化しないもの。

それは、"委ねて知る世界"。"キャッチして知る世界"じゃない。

ただ「ある」だけ。 「どのように」ではない。それを、「純粋知性」(アートマン)と云う。

人は、それを、神とか、仏とか、愛とか、慈悲とか、真理とか、自他一如とか、太極とか名付けている。

"草木国土、悉皆成仏"。

坐禅をすると、その世界がわかると云う。

|

February 21, 2015

虫の音の音楽性、

昨日、原宿の音楽サロンのミュージック・パーテイーに初めて行ってみて、クラシック音楽に心地よい別世界を感じた。

ショパン、ヴェートーベン、モーツアルトを演奏する人、オペラのヴェルデイーの椿姫を歌う人、宝塚のような"すみれの花咲く頃""蘇州夜曲"を歌う人など、参加者(約40人)が、自分の演奏を披露する集まりだった。

私をこの会に紹介して下さった方は、元官僚の方で、まことに多才な方で、同じ異業種交流会で、私に歴史の解釈の面白さなど、強烈に学ぶ刺激を与えて貰った人。

その人は、この会で、"ミュージカル漫談"と謙遜されながら、"虫の音と音楽"に関する体験談を話して下さった。

外国人の中には、虫の音を全く雑音ととらえて無視し、鑑賞などされない人が多いが、ラフカデイオ・ハーンは、何と20種類のコオロギの音を聴きわけて楽しんでいたと云う話が印象に残った。

心の受信機は、自然を見詰める心が、何かのきっかけで、醸成されて行くのだと想う。

コオロギの音を細かく聴き分けるには、かなり、自然の中に溶け込んで、消えてしまうような、安らぎがなければ、出来ることではないと想った。

虫たちのオーケストラの存在に、改めて気付いたことは、何とも云えない歓びでもあった。

|

February 20, 2015

働くことの美、愛おしさ、

昨日夜、仕事関係の会食の後、夜10時くらいJR東神奈川駅に降り、改札への階段を上がろうとすると、上の方から、まるで何か騒ぎでも起きてるような声がして、何かと確かめてみたら、「パンのお休みサービスです。ぜひお立ちより下さい。」と、白いコックさん姿のパン屋さんの女性が、20%引きの看板を持ち、叫ぶように、パンを宣伝していた。

その一生懸命な姿に、私は心打たれて、パン屋さんに入った。明日の朝、食べる朝食にと、レーズン入りのパンを求めた。

パン屋さん姿の若い女性が、信じられないような大きな声を出して、通行客に呼びかけている。 ただ、その姿に、何か、とてつもない愛おしい感情が呼び出されて来るようだった。

子供時代に、私は、一生懸命に働く親や、大人達の働く姿を見て来た。そして、その女性を、もう自分の娘だと、擬えて考えると、それだけで、目頭が熱くなった。

そうして稼いだお金の価値は、じっとして株の値上がりを待って稼いだお金とかとは、全く異質であろうことも感じた。

少ないお金でも、家の店の手伝いを兄弟・姉妹でしながら稼いだ、少ないお金でも、みんなで一緒に食べるささやかな幸せ、あの豊かさ、あの暖かさは、寧ろ、神の祝福だった。

あのパン屋さんの女性は、こんなことを、ある通行人が思って通り過ぎたとかは、たぶん気付かないだろう。

ただ一生懸命に働く人の姿に、神を感じながら、感動しながら通って行った通行人の私。

|

February 19, 2015

お金の為に働く? と云う誤解、

数日前に、ある友人に、もし会社でお金を貰わなかった時に貴方は働くか?と聴かれた時、いやな質問だなーと思い戸惑った。それみたことかと、友人は、人はお金の為に働いていると云った。

でも、人は、お金を貰わなくても働くことは沢山ある。

お金によって実現できる、自由や満足をイメージするが故に、人は、手段に過ぎないお金が大切と想うようになる。

もしお金で得られる自由や満足が、お金以外で得られるなら、紙切れたるお金に興味はなくなってしまう。

TVで古くなった紙幣を細かく切断して、リサイクルしている番組をみた。300万円が、細かい紙切れになって、枕のようになってビニイル袋の中に入っていた。

お金を象徴として、手段として、何を目標に生きているのかを自問することは、人生で究めて大事なことだと想う。

生存の為、人に施し、人と一体感を持ちたいとかが脳裏に浮かべば、「お金の為」と云う中途半端な答えを云う必要はない。

生存の為、人に施し、一体感を持ちたいなら、お金以外の手段もある。

お金は、一つの手段でしかないのに、人は何故、単なる紙切れであるお金に巨大な妄想を抱き、思考を停止してしまうのかと、苦笑したくなる。

|

February 18, 2015

牛の仏陀、牛の哲学者、猫の仏陀、猫の哲学者、

インドの思想家・ヴィヴェーカナンダ師の1896年ロンドンでの講演録(人間は死後どうなるか)の中に、人間を離れて考える例えが、まことに痛快に語られていて、笑い出したくなるほどだが、真理の安らぎに包まれる。

「牛が哲学者になって宗教を持ったと仮定せよ。それは牛の宇宙を持つだろう。そして、牛流の問題解決をするだろう。その牛が、我々の神を見ることは、ないだろう。

猫が哲学者になったと仮定せよ。それは、猫の宇宙を見るであろう。猫が宇宙を統治すると云う猫流の宇宙問題解釈を下すであろう。」

彼は、人間がとりがちな、途方もない利己的な解釈に気づかせている。人間の五官を備えた生物・人間としての見地から宇宙を知っているに過ぎないことに気づかせてくれる。

自分を波と見て、且つ、大海と見る力。

何たる力強さ、優しさ、慈悲、知恵であろうか。

牛にもキリストがいて仏陀がいて、猫にも、キリストがいて、仏陀がいるような、そんな世界に誘われる。


|

February 17, 2015

1秒だけ仏陀、10秒だけ仏陀、

衆生本来仏なり。

ならば、人は、何故そう見えないのかと云う疑問が常に残る。

私は、人によって、仏性を表わす時間の長い短いの差が大きくあるのではないかと想う。また、まるっきり、仏性が、曇りに隠れて見れなくなっている人間もいるだろう。

五官六識ある人間に、一日中、仏性なんて、現実には、なかなかありえず、それでは、生きてゆけまい。

殆どの人が、仏性を表すのは、一日の中でほんの0.5秒とか、1秒とか2秒とか、殆ど、本人も他人も気づかないくらいの短さではないのだろうかと想う。

それが、5秒、10秒、1分、1時間と増えて行った人が、まさに修行した人々なのだろうと想う。

ほんの一瞬にしか見れない、人々の仏性、これを見る力も、修行によって培われて行く。

24時間仏性など途方もないことだが、仏性の一瞬を増やすことなら、今世でも十分にできると想う。

そう想うと力が湧いて来る。

|

February 16, 2015

雨の日には雨の中へ、風の日には風の中へ、

TV日曜美術館で相田みつおの晩年の作品に、「雨の日には、雨の中へ。 風の日には風の中へ」と云うのがあった。昨日は、そんな言葉を知るだけでも、慰められた日だった。

昨日は、同じ禅を学ぶ、一元的世界がわかる人の中にいる時と、二元論だけの世界にいる人の中にいる時は、自分の平常心が揺れることを体感した。

昨日は、長く会っていない元の会社時代の友人で、過去、人生哲学の差で何度も衝突したことのある友人と敢えて、久しぶりに、会ってみようと思って、昼、喫茶店で会ってみた。

やはりその友人の話は、唯物論、性悪説、被害者意識、攻撃性の塊りで、聴くに耐えないくらいであったが、約6時間も色々な話をした。お互いに長いつき合いだから、意見が衝突しても、こんなに長く話せたのだろうと思う。

私の安らぐ一元的世界は、ことごとく、欺瞞、詭弁、不快、無益、偽善、押し付けなど罵られる始末。

それでも、私は、二元(好き嫌い)の中で生きながらも、一元(自他不二)の世界をいつでも一方で感じながら生きていると、云い続けた。 彼には、それが、耳障りであったのだ。

昨日、横浜は、快晴の気持の好い休日だった。夜、疲れて帰宅後、心には、相田みつおの句が浮かんだ。「雨の日には雨の中へ、風の日には風の中へ」


|

February 15, 2015

"なりきる"だけでは、まだまだ、

昨日の住職の言葉に、言葉を越えた真理の世界の光を感じた。

"なりきる"だけでは、まだまだ浅い。 "なりきる"とは力みがある証拠。

怒りがある間は、まだまだ本当の苦しみを知らない。本当の苦しみはエゴを崩壊させる。

修行とは"陰陽二力"から"大極"を知ること。2の世界から1の世界に気付くこと。その修行する気力は"苦"から生まれる。統一の世界は、これほど自由な世界はない。

母心(ぼしん)とは、一般的な母の心ではない。我が子と他人の子の差が無い世界のこと。一切の存在、全てを我が子と見れる力のこと。それが菩提心。これが神。

光の世界に行くのではない、ただ帰るのだ。そんな、ほんわかとした気持で、今朝は、目覚めた。

私は一元の世界をA面、二元の世界をB面と、自分の世界では呼んでいる。A面を演奏したり、B面を演奏したり、
それぞれの曲には深い味わいがある。

|

February 14, 2015

会社とか、国とか、家族とか、帰属の軸をへし折ってこそ、

会社とか、国とか、家族とか、帰属する集団に貢献するのは、素晴らしいには違いないが、私には何か、当たり前過ぎて、ピリッとしない。

身勝手なエゴが、多少広がっただけで、会社のエゴは醜い、国のエゴも醜い、家族のエゴも醜い。

会社とか、国とか、家族を入口にして、それを超えた価値を唱えて行かないと、私には、感動に値しない。

自他一如とは、自己が単に少し広がったくらいじゃ、家族や会社や国くらいに広がったところで、安らぎは来ない。

宇宙一杯に広がった自分にならない限り、安らぎはない。

全生物、全物体も含めて、全てが我が子、全てが我が親、と見える力が、"自他一如"(宇宙の真理)の世界だと想う。

会社とか、国とか、家族とかの軸をへし折ってこそに、見えて来る世界だと想う。


|

February 13, 2015

座頭市の切れ味の凄み、

仕込杖が鞘(さや)走り、カチリとまた鞘に収まって、一呼吸、、、、、座頭市が、ハクションとくしゃみをすると、周りの悪人どもが、花弁が崩れるように、地に倒れ伏す。

三歩、歩いて三人、横に三歩走って、また三人、相手に刀を合せる暇を与えない。 座頭市の逆手斬り。

桜木町のジャズ喫茶"ちぐさ"の中に置いてある本、"野毛的"(平岡正明著)に、こんな座頭市の映画の魅力の真髄が描写されていた。

すれ違うだけで、ドキドキする緊張感。

地面に砂ほこりが舞う。

こんな仕込杖を持って、座頭市並みの技を持って、街道を歩いてみたい。「いやな、渡世でござんすねーー」とか云って、、、。

それと、同じ様な切れ味を持って、人格を磨いて行けたらと憧れる。 仏性にて一瞬の逆手切り。そしてハクション。

|

February 12, 2015

"母のソネット"、銀座"ギャラリー403"、

昨日、昼、詩と書の個展を見に立ち寄った銀座1丁目のギャラリー403は、古いビルで、手動のエレベーターを体験出来る程の古さで、すぐ別空間に入れるような空気がある。

そこには、"母のソネット"と云う題の自作の詩の一部が、"書"で描かれていた。

「青白き閃光 爆風 友の声 母が語りし被爆その時」、 「親しみし 中島川はくろぐろと 水満ち死者満つ 母の見しもの」、

「見しことも 見ぬ 行く末も 夢の中へ 四十二年は静かに終る」、「母逝きし 卯月十二のさくら花 咲くも憶えず散るも憶えず」、

「十六歳のもろ手に余る悲しみを 投げどころなく ただ立ち尽くす」、 「悲しみよ 時を味方に澄んでゆけ 添える手のないすり鉢をする」、

「ふるさとの香りを運ぶ橙(だいだい)で 作るなますは 母の味して」、「 青匂う豆の筋とる指先は あの日に似たり 母のソネット」、

「大切な言葉 云えぬままでした 聞えていますか "ありがとう"」、

長崎で被爆されたお母さんが42歳で亡くなられた時、16歳だった自分を想いだして綴られた詩を、"書"に表されている作品だった。

そこには、山頭火の句、「しみじみ生かされていることが ほころび縫うとき」、 八木重吉の「もくもくと雲のようにふるえていたい」と云う詩も書で描かれ、

「一鳥(イッチョウ)の声 聞かずして 冬木立」と云う自作の句も、飾られていた。

2月の快晴の日、ある休日にフラリと立ち寄った、長崎・原爆・母の詩・静寂であった。


|

February 11, 2015

世界で最も貧しい大統領の話、ウルグアイ・ムヒカ大統領の耀き、

南米の国・ウルグアイのホセ・ムヒカ大統領の記事を一昨日知り、私は、光の衝撃を受けたような感激だった。

彼は、資産の80%を寄付し、個人資産は、約18万円相当の1987年型フオルクスワーゲン・ビートルくらいなもので、郊外の質素な住宅に暮らしている。給与の大部分を財団や政府のプログラムなどに寄付し、月1000ドル(10万円)で生活する彼の姿は、世界中から関心を集めている。

彼は、リオの国際会議で、「貧乏な人とは、少ししか物を持っていない人のことではなく、いくら物があっても満足しない人のことである」と云っている。

ウルグアイは、人口300万の小国だが、1300万頭の牛がいて、山羊も800万頭~1000万頭もいる国だと云う。

世界の長者番付に載ることなどを目指す人々の対極に、私は、このような人を観て、宇宙のバランスを感じた。

彼は、燃え盛る森林火災の炎に立ち向かい、小さな水滴を運ぶ小さなハチドリ、それでも、私は、何匹もの健気な、ハチドリ達が見える気がする。

昨日、私は、会社帰りに立ち寄ったヒッポ・ファミリークラブ(多言語研修クラブ)に来ていたメンバー7人にも、ムヒカ大統領のことを話した。 そこにいた2人の小中学生の男の子も、いつかこの話が生きて来る日が必ず来る。

"無一物、無尽蔵"の圧倒的な安らぎの世界が耀いている。


|

February 10, 2015

ひかるような人、明治の詩人・八木重吉の世界、

「私をぬぐってしまいたい。そこのとこへ、ひかるような人をたたせたい」、昭和2年、29歳で夭逝した明治の詩人・八木重吉の詩である。

「人は人であり、草は草であり、松は松であり、おのおの栄えある姿を見せる。進歩と云う言葉にだまされない。懸命に無意識になる程、懸命に、各々自らを生きている。木と草と人と栄えを異にする。木と草は動かず、人間は動く、しかし、動かぬところへ行くために動くのだ。木と草には天国の面影がある。もう動かなくていいと云う。そのことだけでも天国の面影をあらわしているといえる。」

「春の水は雨に濡れて金色に流れる,新しい柳の芽は、うっとりと見ている。」

「この明るさの中へ、ひとつの素朴な琴をおけば、秋の美しさに耐えかねて、琴は静かに鳴りだすだろう。」

重吉は病床で亡くなる時、高熱の中、十字を切ったと云う。

私が、相模原・相原の八木重吉生家(記念館)を訪れたのは、田園風景に薄っすらと数日前の雪が残る2月1日、冬の朝であった。

その日は、シリアで後藤健二さんが、神に召されたと報道された哀しみの日だった。

「キリストが生きていなさると想うと、身体がおどりだす」、そんな日に、八木重吉の数々の詩に出逢った。

|

February 09, 2015

無自性、→無去来、→無所得、即ち"空"、金剛般若経、

始めも終りも無き世界を、一昨日、住職に教えて貰った。

「無自性」から感じる、ただ一点の仏性、「無去来」から感じる永遠性、「無所得」から感じる大海の安らぎ、私は、そんなイメージに浸った。

住職の師、原田湛玄老師は特攻隊の生き残りで、多くの死んで行った仲間達のことを、どこに行ったのですか?と、若い頃、老師の師・原田祖岳老師に尋ねられた時、祖岳老師曰く、「坐禅をすれば、すぐわかる」と云う答えだったと云う。

「無去来」、人の死、別離にあっては、「無去来」の響きに救われる。

住職が述懐されていた祖岳老師の言葉に、「真理(仏性)を知ることは誰にでも簡単に出来る。だが、それを人格化(体現)した人は、仏陀くらいしかいない」と。

学びは、理論だけでは、人生の何の助けにもならない。証(実践)せざれば、安らぎに到達することは出来ないことを、改めて想う。


|

February 08, 2015

一条の光、

不幸な打撃衝撃に対して、自分の反応が、仏性から来る反応か否かを見極めるものは、愚痴(怒り)であるか、学びであるかであると住職は、昨日、力強くおっしゃった。

私はすぐ、イスラム過激派に対する世界の反応、世間の反応のことを想った。

統治する側にとっては大きな怒りの的、過激な行動の根絶を誓う。

反逆する側にとっては、大きな怒りの帰結(報復)、相手に苦しみがわかるまでは、怒りの行動はおさまらない。

怒りの応酬は暫く続く、お互いが疲れ果てるまで。

統治する側には、懺悔が必要。反逆する側には感謝が必要。

統治する側は、今まで、どれだけ気付かない間に、苦しい人々を放置、無視して来たか、その人々の上に、自分の豊かさを築いて来たかを知る機会。

反逆する側は、今まで、社会的な不利や差別から、怒りに翻弄され、人々を傷つけ、一体何かに感謝することがあったかを想い出して欲しい。どんな状態に於いても、自分が感謝出来ること何かがあることに気付いて欲しい。感謝する力が仏性。

仏性は、決して、怒りに翻弄されることはない。

殺す側も私、殺される側も私、私が私を傷つけている。仏性の目は、全てが私、全てが我が子。

それは、暗闇の中の"一条の光"だと想う。

|

February 07, 2015

シリア難民キャンプの高校の先生の証言に衝撃、

インターネットニュースでシリア難民キャンプの高校の先生の証言に、気づかされ、ショックを受けた。

シリアと国境を接するトルコ南部キリスの難民キャンプには1万人が暮らし、小中高の3高があり、児童生徒数は、3,500人。 高校1年生も2年生の男子生徒の9割の各約100人は、いつの間にか、シリアに戻り、武装組織に参加していると、高校の教諭は云う。また、避難所では、誰もが、安全に暮らしていることにうしろめたさを感じていると云う。

高校の教諭が、子供達の気持ちを語ってくれた記事があった。

「なぜ欧米は、多数の市民を殺すアサド政権を攻撃せず、アサド政権より、信頼のあるIS を攻撃するのか?」 と、怒りを口にして、ISはその残虐性で知られるが、彼らが信じるイスラム法を守り、敵対しない市民には危害を加えないため理想化する若者も多いと云う。

若者世代は、シリアで2011年に始まった反体制運動に対するアサド政権の弾圧や市民殺害に怒りを抱いている。米軍主導の有志連合の空爆が、アサド政権でなく、IS のみに向けられ、失望したり、反発したりしている。」 と、、、、。

2月5日配信の毎日新聞の記事である。

若者達の精神、心を想うと、私の心は狼狽した。

国際政治の利害の渦に、純真な子供達の心が壊れて行く様子が見え、耐えられない気持ちになる。

そんな体験をしながら、学んで行かねばならない若者が世界にいる。

|

February 06, 2015

弟へ、子供の頃を想い出しながら、

イスラム過激派に殺害された後藤健二さんのお兄さんの手記の一部が、週刊誌の宣伝に書かれていた。

「今でも8歳下の弟が生まれた時の喜びを想い出します。 健二の中学時代からは、私と妹が親代わりで、面倒をみました。

米国留学でジャーナリズムに目覚め、聖書片手に紛争地を取材。

生きて帰って、自身の軽率さ日本の皆さんに詫びて欲しかった。 そして、もういちど、一緒に酒を飲んで、叱りつけてやりたかった。」

私にも、年の離れた弟がいて、そんな兄の気持ちが、痛いほどわかる。

弟と、また飲みたくなった。

|

February 05, 2015

日本書記の海柘榴市(つばいち)の祭りが始まる頃 、奈良・三輪の初市、

日本最古の市場・海柘榴市(つばいち)の模様は、日本書記(720年、古代の歴史書)にも出て来ると云う。

江戸時代までは、全国から一流の商人達が詰めかけ、前夜から篝火を炊いて、市を立て、神託によって諸物価を定め、2月6日(旧正月の6日)未明に初市祭を行って、結果を全国に配布したと云う。今でもこの時に、この年の三輪ソーメンの価格が決められると、恵比寿神社の境内の説明に書かれていた。

毎年、2月5日~7日には、恵比寿神社の境内・参道には、露店が立ち並び、7日の後宴祭には、神楽舞・献湯・御供撒きなども行われると云う。

三輪は、住職が育った故郷で、恵比寿神社の境内の縁の下は、住職が子供の頃、修行の真似事をした場所。そして、2月6日初市祭の日は、何と、住職の誕生日でもある。そして、また、私の母の誕生日でもある。

恵比寿神社では、6月30日と12月31日、日々の生活で知らずの内に犯してしまった罪や穢れを祓い除ける神事(茅輪くぐり)も行われる。三輪にある"万直し旅館"の"万"とは、運命とか縁と云う意味と聞いた。

私は、この2年で、もう3回も訪れた三輪。三輪の初市の賑わいの模様も、古代の海柘榴市(つばいち)の模様も、想い浮かべることができる。

人生も"万直し"、そして今日からお祭りが始まる。

|

February 04, 2015

例えば年齢、気付かない幸せ、

もし10年後に、今を振り返れば、10歳若かった頃の自分がどれだけ羨ましいかと想像する。

10年後から見れば、可能性に満ちた日々であったことかと振り返るだろう。

今は、ずっと将来から見れば、いつも可能性に祝福された時である。

今、そこにいるのは、光のような人でもある。

日常の今の中に潜む、中々気付かない幸せ。

|

February 03, 2015

裁きは神の領域、

"裁きは神の領域"、これは、殺害された後藤健二さんのツイッターに書かれていた言葉である。

彼は、ただ戦争に苦しむ人々の実態を世界に伝えたいと、イスラム国に入った。

ただ、自分の内面の神性に従って行動するのみ、結果は神の領域。

彼は、燃え盛る森林火災に、小さなハチ鳥のように水を運んだ。

いつかは、多くの生きもの達が水を運び、雨も降り注ぎ、火災は消える。

|

February 02, 2015

赤ちゃんの寝顔が心に浮かんだ日、

昨日、早朝、ブログを書き終わった後、イスラム国人質の後藤健二さん殺害のニュースを知った。交渉の経緯から、私はその事態を覚悟していた。

今朝、奥さん、お母さんのコメントがニュースに出ていた。「彼は素晴らしい二人の子供の父親であり、世界中の人々の友人であり、愛する私の夫でした」と、お母さんは、「健二は旅立ちました。憎悪の連鎖にならないように祈ります」と。

生まれて3ヶ月の女の子の赤ちゃんの寝顔を、たぶん見て出発しただろうことを、私は想った。もう一人は2歳の男の子。たぶん抱っこしながら、話かけ、逞しく育つように願ったことだろう。

世界には、苛立ち、怒りのエネルギーに押し流された人々も時折生まれる。ヒットラーとナチスドイツ、連合赤軍、オーム真理教、白人至上主義(KKK)なども。最近のヘイトスピーチも同じエネルギー。

人間の三毒(怒り、貪り、無知)は、放置されて肥大化すると、極端な悲劇をもたらす。その三毒に対抗するのが修行・精進であると私は想う。「本来、人は仏であるのに、何故そんな酷い行動をしてしまうのか?」が、修行のテーマであることを、住職から度々聴いて来た。

ヒットラーは必ず反作用を受ける。ヒットラーがもし我が子なら、抱きしめて殺すか、一緒に串刺しになって死ぬか、それが修行するもののテーマであると想う。

それでも、台風が勢力を弱めて行くように、怒りのエネルギーが消え去ってしまう日が必ず来る。

後藤健二さんは、ナイフを当てられた時、静かに目を閉じたと云う。彼は、日本にいる時、よく太田区の田園調布教会に通っていたことも後で知った。キリスト、マザーテレサ、ガンジー、ネルソンマンデラなどを想い出した日でもあった。


|

February 01, 2015

二十四節句、七十二候、

"二十四節句"とは、太陽の運行をもとに、1年を24に分けた季節の指標と云うことを知った。農作業や行事のもとになったと云う。

そして"七十二候"とは、その"二十四節句"を更に5日毎に分けた、云わば季節の告知板、昔の人々が、細やかに自然の変化を感じながら、皆で共有しながら暮らしていたことが感じられる。

2月4日~18日はもう立春、春一番は、立春以降に吹く強い南風のこと。八十八夜や、二百十日は、立春から数えて暦に書いて、農作業の目安とされたと云う。

七十二候では、まず、東から暖かい風が氷を溶かし(東風解氷)、ホーホケキョーの声(鶯の初音)、川の魚が割れた氷の下の清流から飛び出す(魚上氷)と記されている。

伊豆では、まだ下田・爪木崎の300万本の清楚な水仙が揺れている頃、次は2月中旬、湯河原の相模湾に迫る幕山の斜面を覆い尽くす4000本の、薄紅と白の梅林。そして、次は2月下旬、河津川沿いに4キロにも亘る早咲きの桜並木の候。

もう私には、伊豆の2月の美しさが、十分に眼前に迫って感じることが出来る。

|

« January 2015 | Main | March 2015 »