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January 31, 2015

アラブ人の意見、そして世界史的意味を想う、

昨日、会社のアラブ人に、イスラム過激派に関する意見を真剣に聴いてみた。

「キリスト教徒でも、KKKのように、人種差別で、黒人を同じ人間と思っていない集団がいる。 イスラム教徒でも、自分の信じる偏狭な解釈のみを、(オーム真理教のように)信じて、他の大勢のイスラム教徒を虫けら同然と思っている集団がいる。 蒙古帝国と同じように、残虐な手法で、恐怖を与えて勢力を拡大している自己利益追求型集団である。予言者ムハマッドは、ユダヤ人との融和も説いている。」と、云う主旨であった。

KKK、イスラム過激派、オーム真理教、ヘイトスピーチ集団と云った過激な思想(強烈な被害意識による洗脳)を持った集団が国を作ったと云う世界史的な意味が、私には衝撃的であった。

人々が気付かない裏で、それらの、社会から疎まれた集団が肥大化していたことに気付かされた。このように、徐々に社会に醸成されたエネルギーは、何百年単位で、このような激しい反応を起すだろうと私は察した。

人間の持つ業(煩悩)とは云え、"怒りと攻撃・殺戮"で理想を追うことと、"慈悲と感謝"で理想を追うことの差を想う。

理想に対する熱情には変りないが、怒りと殺戮では、余りにも憐れであると想う。


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January 30, 2015

"禅"の光景、人生街道、

今朝は、横浜も、今年初めての本格的な雪が降る朝だった。

昨日、読んだ禅の書籍から、禅の光景が浮かんだ。

「この哀しみを、よしと、うべなう時(もっともであると思う時)、そこにたちまち、光が生まれる」、八木重吉。

「苦しいことは、私は何も考えない。 美しいことがまだ残っているんだから」、アンネフランク。

「この秋は、雨か嵐か知らねども、今日の務めに田草取るなり」、二宮尊徳。

「もの持たぬ、袂は軽ろし、夕涼み」、白隠禅師。

「明日死ぬかの様に生きよ、永遠に生きるかの様に学べ」、マハトマガンジー。

人生の街道で、禅の光景に見惚れて、不図立ち止まる。

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January 29, 2015

"片手の音"、

ある友人が、白隠禅師の"片手の音"、と云う言葉を聴くだけで心がスーッと安まると云った。

目を閉じて、静かに、"片手の音"が聞えて来るかを想像して試る。

この言葉を住職から聴いたのは、もう数年も前。

"闇夜のカラス"が見えますか?とも住職に聞かれた。

そして、それは、また、"父母未生以前"の世界とも解説して貰った。

それは、虚空世界、永遠にして安らいでいる世界、仏性、神性、真理、宇宙意思、アートマン、ブラフマン、などイメージが湧いて来る。

胸の前に人差し指を一本スーッと立てて、目を閉じて観る世界。

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January 28, 2015

石油・商社、損失1兆円、原油安、在庫価値目減り、

題は、今朝の日経新聞の見出しである。

私は1兆円を他との比較で、イメージした。 日本のGDPは年間約500兆円、そして、日本のパチンコチェーンの年間売上げは約20兆円、1位のマルハンは約2兆円。

ユニクロの社長の資産は1.8兆円。それでも、2014年米紙フォーブスの世界長者番付45位である。

サウジの石油収入は年間40兆円から最近の下落した油価で20兆円に半減した。

世界が年間に生み出す価値は日本のGDPの約10倍、即ち5000兆円。少なくとも、その数十倍は、紙幣は発行されて、世界の株式や投機資金に回っている。即ち、幻のお金が世界を駆け巡っているだけ。

例えば自宅の畑の作物で生きる質素な生き方は、平穏で好い。 世界の幻のお金に振りまわされない生き方は好い。

世の中には、お金を稼ぐのが仕事と思っている人が圧倒的に多いが、私は、仕事とは、"人に役立つこと"と思っている。お金を稼いでいるかいないかは関係なく、人に役だっていれば、"立派な仕事"、イザと云う時は、必ず誰かが助けてくれる。

今朝の日経の見出しの"損失1兆円"から、私の人生観を眺めた。

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January 27, 2015

100%肯定の生き方、"今ここ"の凄さ、禅、

禅の祖・達磨大師から数えて三代目・三祖大師信心銘の中に、"円(まどか)なること大虚に同じ、欠くること無し、余ること無し"と云う境地が詠われている。

白隠禅師坐禅和讃の中に、"行くも帰るも余所ならず、謡うも舞うも法(のり)の声"と云う境地が詠われている。

ただ、全ての事象は、"あるべくようにある"と見える境地、それは、揺るぎない平穏。

不満足や後悔に汚れず、100%肯定して全てを観ると、"今ここ"が、過去も未来とも裁断された永遠なものにも見えて来る。全てが新しく、そして全てが完了している。未完了なものなど存在しないことがわかる。

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アーユルヴェーダ、インド5000年の健康法

今月の"食と健康"の学びは、インド5000年の健康法、アーユルヴェーダを調べてみた。大自然の一部としての人体の仕組みが、宇宙と調和する方法を教えている。例えば、夜明け前、早朝に活動することのエネルギーの素晴らしさも教えてくれている。

―「癒しのアーユルヴェーダ(5000年の健康法)」、佐々木薫 著から抜粋―

1、 アーユルヴェーダは、インド・スリランカで醸成された5000年の歴史の健康法。
2、アーユル = 生命、 ヴェーダ= 科学、

3、万物は5つの元素で構成されている。「空」、「風」、「火」、「水」、「地」。
4、人間は3つのエネルギーに支配されている。
①空と風から「ヴァータ」→運動のエネルギー、活動の調節、秋・冬、乾燥期、寒さ、60才以上、
②火と水から「ピッタ」 → 火のエネルギー、消化や代謝、 夏、 暑さ、 壮年期、
③水と地から「カパ」 → 細胞の構成、維持、免疫力、 春、 湿気、 若年期、

5、 一日の中でのバランス、
①06:00~10:00、 18:00~22:00. 「カパ」の時間: 維持・免疫力の時間、
②10:00~14:00、 22:00~02:00 、 「ピッタ」の時間: 消化や代謝の時間、
③14:00~18:00、 02:00~06:00 、 「ヴァータ」の時間、活動の時間、

6、食事方法の教え、
アーユルヴェーダでは、食事は瞑想だと考えます。
清潔で落ち着いた雰囲気で、食べることだけに集中します。 怒ったり、沈んだり、気持ちが動揺している時は相応しくありません。 常に座って食べること、 喋り過ぎないこと、と説きます。
* 感謝の念、
* 空腹を感じた時だけ食べる、
* 胃の1/3、1/4 空けておく、(両手ですくえる位の量に留める)
* 疲れきってる時、入浴直後は避ける、
* 適度な早さで、ゆっくり32回噛む、
* 食事中白湯を飲む、
* 冷たいものは摂らない、
* 調理したものを食べる(生の食物は避ける)
* 土地で取れた旬のものを食べる、
* 食後、2~3 分は、静かに座っている、
以上

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January 26, 2015

心の目で観る、光を観る、

私は、"旅"と"人"が、驚きの源で、気付きの宝庫であると想って生きているが、光を観ると書く"観光"と云う字の凄さを想う。

見物は物を見ること、"見る"とは目で見る行為。 "観る"は"心の目"で見ること。

旅は遠くに行かなくとも、同じ場所、住んでる場所の近所でも、心の目が変れば、全く違う、新鮮な場所に見えて来る。

外の世界に驚く段階から、心の変化で、外の世界が変るのを楽しむことも出来る。

自在な心が、世界のどこにでも連れて行ってくれて、どんな人にも会わせてくれるとも想う。

旅は、此れまで生きて来た自分の生命への感謝、親への感謝、そして、神への感謝まで気付かせてくれる。

旅は、"光を観る"こと。そんな私なりの、密かな意味付けをして、観光と云う字を解釈して楽しんでいる。

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January 25, 2015

一休さんに救われる、

昨日の坐禅会で、住職から一休さんの言葉を聴いた時、何か改めて深く心に入って、救われた気がした。

「呼んでくれるな返事はせぬぞ。何処にも行かぬ、ここに居る。」、"今ここ"の永遠性を説く一休さんの言葉。

私が子供の頃、風邪とか病気で二階の部屋に寝かされている時、店をやっていた母は忙しく、時々しか、二階に上がって来てくれなく、母がいない時は、天上の木目をじっと眺めたり、寂しい想いをしていた。時々、母が二階に上がって来てくれる時間の、母がそばにいる時間の安心した、あの安らぎは今でも、私の心に刻まれ、今でも私を安らぎに導いてくれる。

母の体内から切り離され生まれた時から、人は、苦しみが始まる。あの一体感しかなかった親子が、自他と別れてしまうのだから。

そして、長年を経て、今、私は、海を見ても、山を見ても、木々草花を見ても、そこに母がいて、一緒に見ているような気持になることがある。

私は、子供ながら、母がまたそばから離れる時、いつも、「行かんで」(行かないで)とせがんでいた。

そして今、一休さんの言葉となって、母が帰って来たのだ。丸々頭の可愛い一休さんがそんな言葉を云っていたのだ。

切り離されたと想っていたのに、死別したと想っていたのに、いつも一緒だったのだ。

2月6日は私の母の誕生日、そして住職の誕生日でもある。 一休さんは、自他不二を教えてくれている。


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January 24, 2015

静かなる哀しみ、

明治の、深い憂愁の詩人・高橋元吉の詩に数日前に出会った。

「水のたたへの深ければ 表に騒ぐ波もなし、人も嘆きの深ければ、いよいよ表ぞ静かなる」

そして、戦時下で詠まれた昭和万葉集の中の歌に絶句する。

「己が子の戦死告げらるるに振り向かず、祖母は身固く縄ないていし」(杉山葉子)

ただ、縄を紡ぐ、母の後ろ姿を想う。

哀しみを背負いて生きることを想う。


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January 23, 2015

大学時代のジャズ喫茶、ジャズの励まし、

私は、若い頃から、人生の苦しい場面、哀しみの場面では、そこには、いつもジャズのメロデイーがあった。

ジャズは、米国の黒人社会の耐えられない哀しみ苦しみの中に芽生えた人生のメロデイー。

最近、桜木町の日本最古のジャズ喫茶と云われる"ちぐさ"で、古いジャズ雑誌の中で、心に留まる記事を見付けた。

山下洋輔のクレイと云う曲に感じたことを、あるジャズ・ファンが述懐していた。

この曲を聴くと、「お前自身を信じよと、何度も、俺の胸ぐらを掴みかかるように想えた」と、、、、。

ジャズには、そう云う優しさと励ましもあったなーと、私も想い出す。

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January 22, 2015

星空の銭湯、横浜野毛にあったと云う、

1945年終戦の年の5月29日、横浜大空襲があったと云う。

野毛で焼け出された銭湯で、一部施設が使える部分があり、空襲の後、暫くして、屋根のない露天の銭湯があったと云う記録を"野毛ストーリー"と云う本の中で見付けた。

空襲の後、銭湯の経営者の父親に、娘さんが言った言葉。 「父ちゃん、また風呂屋やろうよ。 何とかなるよ」、、、。

そして、周囲をトタンで囲み、屋根の無い銭湯は誕生した。

当時、一日の肉体労働を終えた男達が泥まみれになって働いた後、銭湯にも来たと云う。

日没後、遅い時間に閉店後に来た客にも、「大丈夫だよ。 ゆっくり暖まっていきな、今日も頑張ったんだから」と、云って励ましたと云う。

"星空の銭湯"、何と云う暖かい響きの言葉だろう。 野毛の星空を想う。

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January 21, 2015

心の壁紙、

人それぞれに、自分の心を映し出す壁紙がある。

人それぞれの縁で、体験を通して、色々な背景を得て、そして人生の各シーンが描かれ、その背景(壁紙)が心を支配して行く。

私は、人が持つ最高の背景は、神性・仏性だと想う。それは宇宙そのもの(自他不二の、自他一体の世界)。

そこには、全ての可能性が存在している。

住職は云う、世の中で何にも執着してはならないと云われるのは、何も執着出来るものがないからであるからと。そして、ただ一つを除いてはと。

ただ一つ執着していいもの、執着できるものは、仏性(自他不二・神性・宇宙の理)であると。

心の壁紙、私の人生の壁紙には、仏性の壁紙をと想う。

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January 20, 2015

神への憧れ、そして誓願の清らかさ、

先日、日曜日、たまたま見たTVでキリスト教の番組で、素晴らしい詩に出会った。それは、星野富弘さんと云う人の詩だった。

"逢いたい"と云う詩、神への憧れの歌なのだろうか。

「遠くて見えないのですか、 近すぎて見えないのですか、小さくて見えないのですか、大き過ぎて見えないのですか、 どうしたら、 何処へ行ったら あなたに会えますか。」


"花忍"と云う詩: 私は、決してゲストにはなりません、いつも誰かに仕える者ですと云う清らかな宣言の歌。

「あなたに会ってから、私は道の真ん中を歩かなくなった。 真ん中はあなたに、私は少し横を歩きます。」


私は、住職の師・原田堪玄老師の発心、「私は椅子になります(決して座る人ではなく)」を、すぐ想い出した。 神・仏性・真理に仕えることは、そんな境地かと想う。


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January 19, 2015

発心正しかざれば、万法むなし、

政治家になるも好し、芸術家になるも好し、成仏道の道を達成するが為ならば、全てはカルマヨーガ(働き)の世界である。真理探求の手段としてのものならば、全て好し。

但し、それ以外の為ならば、どんなことを志をしても落第である。

仏性に導かれたものか、否かが、分かれ目である。

此れは、住職の師のまた師、原田祖岳老師の言葉であることを聴いた。

仏性の光を想う。

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January 18, 2015

釈迦、何する者ぞ、

釈迦曰く、「私に近付こうとして、あらゆる努力をする人の中で、真の求道者の中で、私(釈迦)のことは、自分であったと気付く者は、何千人の中でも、たった1人くらいなものである。」

"釈迦に出来たことなら、私にも出来るはずだ"と想って、修行しなさいと、釈迦は励ましている。

修行した方の言葉を聴くだけで、私は修行したくないと云う人の何と多いことかと、住職は苦笑する。

「釈迦、何する者ぞ」と云う気概を持てと、住職は鼓舞する。

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January 17, 2015

流氷到着の報に感慨、オホーツクの旅を想い出しながら、

1月12日、北海道の気象台は、オホーツク海の流氷が肉眼で見える流氷初日を迎えたと発表した。

新聞には、網走沖に白く見える流氷の写真が掲載されていた。 昨年より、9日早い流氷の到着とのこと。流氷が接岸すると、船は航行できなくなる。 例年だと、2月2日位が、流氷接岸初日だと云う。

去年夏旅した、知床・網走の海の光景が目に浮かぶ。

オホーツク紋別空港そばの流氷公園で、夏のオホーツクの海をじっと眺めた。

アムール川の淡水が、この流氷をもたらすのだと云う。

流氷公園を散歩中の地元の男性とたまたま話した時に聴いた流氷の模様を想像する。

遠い、アイヌやオロッコ族の時代にまで、その風景は広がる。

夏に北海道・道東を旅したから、オホーツクの海を、とても身近に感じることができる。

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January 16, 2015

"生まれて来たのは親のせいと云う発想"

生まれて来たのは、親のせいで、親は、子供の面倒をみるべきだと云う発想は、子供側にとっては、ごく普通に、馴染んで来た考え方だろうと思う。

自分が生まれて来たのは、親のせいだとして、次にその親も同様に、親のせいと云って、ずーっと遡って行くと、人類の祖先、類人猿やアメーバーなど行き着くのであろうか。

そして、ついに、宇宙そのもののエネルギーの源、(神・仏性・真理)に行き着く。

出だしは、ひねくれて、親のせいにしても、結局、誰のせいでもない、私は、宇宙そのものであったと気づけば、それで好いと想う。

誰かの責任として責めたり、自分は無力と想ったり、無関心であるほど、力も可能性も、安らぎも、遠のいて行く。

私は全てであると云う発想は、誰にも責任を求めない。 だから自由で、安らいでいるのだと想う。

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January 15, 2015

高田敏子の詩、布良(めら)自然村で知る

房総・布良の自然村の正翠荘ホテルのロビーの壁に、高田敏子の詩が飾ってあった。 布良海岸と云う題の詩も有名で、高田敏子の足跡を偲んで、布良を訪れる人も多いのだと云う。

私は、その後、高田敏子のことを調べてみたら、心に染みる詩に出会った。

それは、"日々"と云う題。

「小鳥がいて、黒猫の親子がいて、庭には犬がいて、

夕方の買い物は、小鳥の為の青菜と、猫のための小鯵と、犬のための肉と、それにカレーライスを三杯もお代わりする息子がいた。

あの頃の買い物籠の重かったこと。

今は、籠も持たずに表通りに出て、パン一斤を求めて帰って来たりする。 みんな時の向こうに流れ去ったのだ。

パン一斤の軽さを抱えて、夕日の赤さに見惚れている。」

この詩に対して、高田敏子をよく知るお弟子さんの一人は、"一人残されて生きる哀しみを通り越した、透明な安らぎ"を表していると想いますとコメントしてあった。

高田敏子の詩との出会いも、私の旅の"小さな驚き"であった。


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January 14, 2015

1904年夏休み、房総布良(めら)海岸、夭逝の画家・青木繁の青春

高校の教科書にも出て来る、青木繁の「海の幸」は、荒々しい裸の漁師達がサメを吊るして、砂浜を抱えて歩く姿で有名な絵である。 1904年の夏、東京美術学校を卒業したばかりの青木繁(福岡・久留米出身)は、画友の坂本繁二郎、森田恒友、恋人の福田たねと共に、布良に写生旅行にやって来た。 布良の漁師・小谷家に、8月末まで、約2カ月、滞在して、この絵の着想を得たと云う。

28才で結核で亡くなった青木繁の書き残したものに、当時の布良の様子、小谷家の様子、当時の漁村や海、山、人々の様子を想像して、感慨で一杯になる。 今も布良は余り大きく変わっていないところもあり、また私の母の実家の長崎の漁村の様子を想い出させる。

「海の幸」の中にでてくる裸の漁師達の中に、一人だけこちらを振り向いている若い女性の顔が、描き換えられている。その描き換えられた作品こそが、名作の秘話として有名なのである。

そして、描き換えられた顔、その人物は、恋人の福田たねであると云われている。

今となっては、青木繁の真意は、わからないが、私は想う。 自分の絵画の人生の最高傑作に、恋人の姿を残し、永遠のものにしたかったのではないかと。

「海の幸」は、その年の白馬会第9回展に出品され、一躍、青木繁の名を世間に轟かせたと云う。

今回も私が坐禅会の住職を訪ねた布良の自然村・能忍寺は、その青木繁が投宿した小谷家、海の幸の舞台となった海岸(記念碑)のすぐ近くにある。

青春時代の青木繁が見たであろう海、夕日、水平線に浮かぶ大島・式根島、そして富士、近くの布良崎神社など、、、。

今回の布良の旅では、私は、じっくりと、青木繁の足跡を辿って散策しできたことも、密かな旅の安らぎでもあった。

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January 13, 2015

大海原を眼下に、夕日を見送る、房総・布良の海岸

一昨日夕方、布良の能忍寺の山の上から、壮大な大海原を眼下に、沈む夕日をじっーと、住職以下10名くらいのメンバーで太極拳をしながら見送った。

水平線、伊豆の大島などの島々の黒い山の稜線に、目玉焼き色の太陽が、ジワリジワリと沈んで行く様子を、一部始終を見守った。何百年前の風景と何一つ変らないような、近代的な構築物が何一つない、ただ大海原と島の風景にも酔いしれながら。

約15分~20分だったのであろうか、あっと云うまに、太陽が遠くの海を隔てた山の稜線に沈んで行った。

遠い昔、子供の頃、九州の故郷の裏山の岩山の上で、母や姉とかと、何度、夕日を見送ったことだろう。

此れからも、人生では、たまには、そんな時間を持てたら、さぞ、豊かな人生だろうと想った。子供の時のように。

太陽が沈みながら、見送る私達が寂しい想いをしないように、"明日また出勤します"と云ったのではと思い、自分のユーモアに笑い、そして慰められた。

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January 12, 2015

バランスを取る人、宇宙の理にかなって、

自信一杯な人には、貴方は危ないと云うことを知らせてあげたくなる。自信の無い人には、貴方は大丈夫であることを知らせてあげたくなる。

自分が不幸だと考えている人には、そんな人生にも同時に、幸せも一緒に混在していることを知らせてあげたくなる。

自分が幸せだと思っている人には、そんな人生にも同時に、不幸も一緒に混在していることを知らせてあげたくなる。

笑ってばかりの人には、哀しみを知らせてあげたくなる。哀しみばかりの人には、笑いを教えてあげたくなる。

私は、へそ曲がりであるのかと思ったら、違うことに気付いた。

それは、宇宙の理、矛盾を統一する力だと気付いた。

堂々と、そんな気持で人に接しても大丈夫だとも想った。

(2015年1月10日の記)

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January 11, 2015

凧と糸、人生に擬えて、

自分を凧と擬えて見たら、新たな気づきに出会った。

最初は、凧の糸を引っ張ってもらって、凧は空に揚がることができる。 その糸は、両親が育ててくれた縁。

成人した時、また親が亡くなった時、その糸が切れて、大空に一人舞い上がる。

大空の気持ち好さと、心細さが同居する。

たとえ結婚していても、子供がいても、 個としての五感六識を持った人間としては、一人で生きて行く孤独は、逃れれようもない。 大空に、糸の切れた凧が飛ぶ。

凧は、凧自体で飛んではいない。 凧の糸(両親)が、空に持ち上げてくれて、後は、空気の気流(他人との縁)が飛ばしてくれる。

そして、人生の終わりに、結局、凧の糸は切れていなかったと気づく。

全て、両親の縁に見守られ、他との関わりの縁の力で空を舞う。

自分も凧になったり、子供に対して糸になったり、そして気流と云う大海の中で遊ぶ魚の様なものだと想う。

(2015年1月10日の記)


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January 10, 2015

桶の底を抜く、

"桶の底を抜く"とは、素晴らしい修行の境地を表していると想う。

江戸初期の盤珪禅師(ばんけい禅師 1622-1693)は、長年の苦行難行の末、ある日「古桶の底抜け果てて、三界に、一円相の輪があらばこそ」と、詠ったと云う。

"桶の底が抜ける"とは、境目がなくなることとも云われる。住職の云う、大海。 波が大海に気づく境地かと想う。

桶の底が抜ければ、何も滞らず、ただサラサラと清々しく流れる。

盤珪禅師は、雨乞いの百姓達に、"うす引き歌"と云う仏性の歌を作って与えたと云う。

「不生不滅の本心なれば、地水火風は仮の宿」、仏性が宿るこの身体は、四大元素から成る仮の宿の様なものだ。

「生まれ来りしいにしえ問えば、何も思わぬこの心」、何も思わない無念無想の清浄本源心と共に誕生した。煩悩は、その後に身に付けたもので、元々は無かった。

「悟り悟りと、この頃せねば、朝の寝覚めも気が軽い」。

桶の底を抜いたイメージは、ただ想い浮かべるだけでも、心地よい。

今日から、週末は、館山の能忍寺へ向かう。

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January 09, 2015

今年もあっこちゃんのヴァイオリン・リサイタル、神楽坂にて、

今年も娘の幼馴染のあっこちゃん(米国在住)のヴァイオリン・リサイタルが、昨日、神楽坂・音楽の友ホールであり、会社帰りに出掛けた。今年で4回目、毎年お正月の頃、このコンサートに出るのを楽しみにしている。

娘(目白で一人暮らし)は、昨日、福岡への日帰り出張を終え、途中からコンサート会場に駆けつけた。

澄んだヴァイオリンの音色を聴きながら、あっこちゃんと娘が武蔵小杉の社宅の公園で遊んでいた頃や、あっこちゃんがシンガポールにいた頃、シンガポールに遊びに行って、動物園っぽいところへ行って、あっこちゃんが猿を恐がった想い出も、また微笑ましく想い出した。

あっこちゃん家族がたまたま休暇でデンマーク・コペンハーゲンに行った時、コペンハーゲンの空港で、アブダビから旅行中の私達家族と、偶然に会って、お互いに大びっくり。そんな偶然も、あっこちゃん家族とのすごい縁だったと想う。

コンサートが終って、娘と神楽坂通りを歩いて、その後、飯田橋の運河の上にある、キャナルカフェで夕食をしながら、父と娘の会話をした。

清らかなヴァイオリンの調べを聴きながら、娘の人生を想ったり、私の人生を想ったり、あっこちゃんのリサイタルに感謝。

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January 08, 2015

業界の賀詞交換会、新年の楽しみ、

私は、毎年、石油連盟、LPガス協会の賀詞交換会に出席して、友人知人と会い、談笑するのを楽しみにしている。今年も6日と7日の昼、連続して経団連会館・第一ホテルで、そんな賀詞交換会に出席した。

政治家の方々も演説されに来るし、ミーチャンハーチャン気分で、政治家を眺めるのも楽しい。今回は、そばに、野田税調会長もいらっしていたので、茶目っ気を出して、話かけてみた。ただそれだけのことだが、自分の茶目っ気に苦笑。

何と云っても楽しいのは、久しぶりに会う後輩達で、新しい名刺を貰って、今度ぜひ、居酒屋へ行こうと誘ったり。当時、後輩のくせに、特に生意気だった奴なんか、丸くなって、妙にかわいい。

生々しい出世競争の真只中にいる人達の会話は、実に滑稽で、酒の肴になる。

ただ、自然界は、あるべくようにある。 どちらに転んでも好い境地など、そんなビジネスマン達には、わかるべくもない話だろうなーと考えたり、それでも、そんなアンバランスが、また面白い。

今年も、賀詞交換会も終えて、久しぶりに飲みたくなった後輩達の名刺を眺める。

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January 07, 2015

高校時代の友人、当時を振り返り、私の母のラーメンに感謝、

私の高校時代、仲の好かった友人と、年末、郷里で一杯飲んだ時、友人が、公立高校の授業料でさえ払うのが、貧しく苦しかった時代、飲食店を営む私の家によく、自転車で遊びに来て、私の母が、いつも、美味しいラーメンを食べさせてくれたと想い出を語ってくれた。

私の母は、私の友人に、そんなことをしていとは、私は余り覚えていなかったので、ジーンときた。

お母さんのいない近所の子の家が、遠足などの時は、弁当も作っていたと云う。姉から聴いた。

私の友人も、私の母のラーメンの味を知っているのかと想うと、たまらなく嬉しい。

高校生の私を見詰めていた母の目には、私はどんなに見えていたのだろう。どんな生きものに見えていたのだろう。当時の母の気持を、あれこれ想う。

人生は、愉しくもあり、哀しくもあり。それでも、やっぱり、人生は素晴らしいと想う。

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January 06, 2015

故郷の裏山、不動明王のいる小さな広場、

九州の故郷の裏山に、昔から、不動明王を祭る小さな広場があった。今では、その広場は更に小さくなり、住宅が建ってしまったが、その当時の不動明王は、まだ、その小さな敷地の中で、同じ表情で立っている。その場所は、昔から、"不動山"(ふどさん)と呼ばれていた。

今でも、その不動明王の表情を見ると、幼児の頃の私を想い出す。 当時の私にとっては、怖い顔に見えたが、今では、私を労ってくれている様な、優しささえも感じる。 当時の、元気な両親の声も想い出させてくれる。

今回の年末の帰省の時、その不動明王の写真を撮りに、裏山に登ったら、母と親友だったおばさんの息子さんが、家の外に出ていて、私は、思わず、「節生さんですね」と、声をかけた。「あぁ、ひろちゃん、、、、、」。 その息子さんは、年は10才位上だが、お互いに顔はよく覚えていた。

母どうしが親友だった、息子どうしが、今度は、同じ裏山の不動山で、夕暮れに、話に花が咲く姿、こんな穏やかなシーンを、私は、今迄、想像だにしなかった。

暫く、まるでお互いの母親が会話しているかの様な、安らいだ言葉のやりとりに、ほんのりとした。

横浜に帰ってから、その不動山と節生さんの写真を見る度に、母親達と4人で、そこにいる様な気がする。

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January 05, 2015

所縁(ゆかり)の地の旅、

人生で、深い関わりのあった人の所縁の地には、自然と行ってみたくなるものである。その地に立つことで、その空気を吸い、その人の人生を、身体で感じられるような親しさが湧く。

両親が人生の重要な、苦難の時代を過ごした旧満洲の地に立った時、両親の人生の全容が繋がって見えて来たような気がして、両親と気持が一体化したような安らぎを覚えた。両親の故郷、満洲、そして私が記憶に残る両親と過ごした時間の場所、どんな気持でどんな生き方をしてどんなに一生を送ったのか、輪郭がわかる気がして、私には、無言の、示唆を与えてくれている。それは優しさと、生きるエネルギー。

今回、大晦日は、私は、奈良・三輪の万直し旅館に泊まり、大神神社の御神火を見ながら年越しをした。住職の育った故郷に、もう3回、足を運んだ。 三輪を知ることで、住職の話が、色々な場面が、映像として浮かんで来るようになった。

私は、これからも、色々な、私の人生の所縁の地の旅を続けることで、自他不二の世界を拓いて行きたいと想う。

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January 04, 2015

別れのカーテンコール、 帰省の時のシーン、

今度の九州帰省の時、姉(昭和9年生まれ)の家に泊まり、帰る時は、手を振って家かげに消える時、二度三度、再び顔を戻し、姉を驚かしてやろうと思っていた。

私が、横浜へ帰る時、まるで今生の別れのように、見送る姉に、何か寂しさを紛らわせたいと希望していた。

そして、今回、いつもの別れの家かげのところで、"別れのカーテンコール"実行した時、姉の寂しさを私のユーモアで紛らわせることが出来たと想い、達成感に包まれた。

その後、駅まで歩く道すがら、今度は、私の胸が一杯になってしまった。

母が生きている時、父が生きている時にも、別れのカーテンコールをすれば好かったなーとも、その時のシーンを想い出す。

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January 03, 2015

漁港の岸壁、フグの子供を助ける、

年末に私が初めて訪れた対馬は、釜山から50キロも無いほど韓国に近い島だった。

厳原(いずはら)港の岸壁の係留策を留めるコンクリートの丸い杭(確かボラードとか云う)に腰かけ、暫く夕暮れの漁港を眺めていた。

岸壁の端に、突然、小さな何か魚らしいものが跳ねるのが見えて、私は、近寄ってみたら、それは、フグの子供だった。岸壁の上に、誰か捨てて行ったのだろう、陸上で苦しそうに横たわっていた。

私は、尻尾をそっと掴んで、海にポチャーンと投げこんでやったら、何と、メチャクチャ元気に、海の中に泳いで消えて行った。

その元気な泳ぎぶりに、ビックリしたが、何とも、助け甲斐のある、フグの子供だった。

写真に撮っておけば好かったなーとも、後で、そのことは、少し残念に想った。 それでも、フグが横たわっていた岸壁の写真を撮って、その光景の想い出とした。

ただ、それだけのことなのに、旅の強烈な、心地よい想い出となった。

1274年文永の役、1281年弘安の役で、蒙古軍に、島民が大量虐殺された対馬、壱岐。

私と云う旅人が、誰もいない対馬の漁港の岸壁で、一匹の小さなフグを救った話、これも旅の安らぎであった。


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January 02, 2015

努力も好し、精進も好し、2015年の始まり、

年末の九州帰省の旅を終え、正月元旦に横浜へ帰って来た。

恒例の九州に帰る旅に新たな小さな旅を付け加え、旅からまた、人生への新たな啓示を受けれたようにも想う。

福岡空港から対馬へ向う空港の書店で、PHP文庫、「学校では教えてくれない宗教の授業"(ひろさちや著)」と出遭った。

「思い通りにしようとすることを"努力"と云う。思い通りにならないことを、思い通りにしようとしないことを"精進"と云う。」と書いてあることに、さーっと、心がすっきりする想いだった。

「濁らず、退かず」と云う"精進"の意味と、何ら矛盾なく、心の中に、納まった。

不図した、何気ない書籍との出遭いでも、私の心の受信機は、人生への励ましのメッセージを捉えていた。

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January 01, 2015

2015年元旦、行く川の流れに想う、

2015年の到来、おめでとうございます。

私は、新年の年賀状で、行く川の流れの、その流れ行く川の水に溶け込んで、サラサラと流れて行きたいと書きました。

川の流れを見送る立場で、人生を見ると、寂しさが出る。

流れる川の水そのものになる心境は、心地好い。

流れ行く川を眺めれば無常、そして無常は、流れ行く川の水そのものになりきれば、無我。

無我は、時空を超越して永遠の安らぎ。 "無常、即ち無我"の気付き。

2015年元旦、

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