教育係りだった私、毎日のマラソン、消灯点呼、新潟の想い出、
昨日、大阪・宝塚在住の元の会社の後輩と、久しぶりに、宝塚で会い、宝塚劇場や武庫川を見下ろすホテルのレストランで昼食を食べた。
1970年代後半、私が、新潟の工場で、高卒の新入社員の入社試験問題を作ったり、新入社員約30人の教育係りをしていた時のことを、彼は話してくれて、私の遠い記憶が蘇った。
新潟で採用の高卒の約30人が、入社後、約3ヶ月の間、会社の通常のアパートを寮代わりにして集団で、各アパートに5人ずつくらい住んで、毎朝、私が、ランニングを指揮したり、朝食に独身寮の食堂まで引率し、食事後、歩いて、工場に通うと云う日常だった。
夜は、10時くらいの門限・消灯で、私が、各部屋を毎晩、点検して、点呼して回っていた。「みんな、いるか?」と玄関で声をかけると、「ハイ、います。」と声が返って来て、「よし」で、終わり。本当に、その時、全員いたか、定かではない。
私は勤労課だったので、よく職場懇談会で、酒を飲んで、酔って帰って来る時などは、それを、彼らは知っていて、その日は、点呼が多少遅れるとか、いい加減だから大丈夫だとか、読んでいたのだと云う。
その、後輩と、大昔を想い出しながら、お互いに、よく元気に生きて来たもんだと笑った。
当時の私の生活の一部ながら、私自身より、刻銘に覚えてくれている後輩の存在が、愉しい驚きだった。
そして、新潟駅、万代橋、信濃川、古町、など、新潟の街の姿が、いつまでも、私の20代のシーンとして心の奥に、残っている。