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September 30, 2014

朝日に向って飛ぶシーン、

シンガポールからの夜行便は、早朝6時に羽田に着くフライトだった。

27日(土)朝5時過ぎに、高度1万メートルから見る東の空は、薄いみかん色に明けて行く空だった。

水平線の様な、横に広がった白い雲の上に、オレンジ色を徐々に増して行く空に、じっと見惚れていた。

スチューアーデスが、朝日が綺麗ですねと声をかけてくれた。

高度10820メートル、時速983キロ、外気温マイナス1℃、もうそこは伊豆沖だった。

"朝日に向って飛ぶ"、そんな神秘的な、神々しいシーンを、心の映像に刻んだ。

あの時の空は、何か、毎日が、過去とは裁断されていて、新たに始まることを想起させてくれる。

新たに生まれる新鮮な日、徐々に増して行くオレンジ色の空は、そんな気持にさせてくれる。(旅の想い出から)

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September 29, 2014

仏道との縁に導かれて、

土曜の朝、帰国後、すぐ出掛けたマンダラチャートフェステイバル(市ヶ谷私学会館)、自分の人生を視覚化する手法に、改めて、大きな気づきを感じた。真ん中に大日如来(目標・発心)、周りに、八方に各菩薩が、夫々の光で、日々の生き方を導く。改めて、自分の中の仏の声を、日々聴かねばならぬと想った。

7月末脳梗塞で倒れられた住職が、昨日、太極拳の表演会に、木更津に来られた時、私は、住職に会いに、夕方、東京から出掛けた。7月末病気で倒れられて以来、久しぶりの、以前の様に活動されてる姿に、そのご回復振りに、新たな境涯に入られた様に感じた。

私も、表演会後の懇親会に合流させて貰って、太極拳と禅を同じものとして学ぶ弟子の方々の中で、安らいだ。

"一指頭を立てる"ことと、"大極"は同じですとの住職の言葉が、清々しく、私に力を与えてくれた。

昨日は、1990年のアブダビ時代の同窓会も、昼、市ヶ谷私学会館でやり、湾岸戦争前後に中東にいた仲間達との、再会は、ただ会うだけで、お互いが励まされた。

今週から、又、新たな日々、"一指頭"の覚悟で、喫茶喫飯。

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September 28, 2014

旅心シンガポール、

昨日早朝、一週間のシンガポールへの出張から帰国し、通常の生活に戻った。

今回のシンガポールは、アラブから出張して来たアラブ人4人と現地で合流、毎日、顧客との面談や内部会議に明け暮れた。気心の知れた仲間達でもあり、日本人の私は、独特の日本人的文化の感覚で発言することが、寧ろ、彼らから求められ評価されたことで、フランクに意見が言えて、気持が好かった。

ホテルから、オフィスまで、シンガポールの中心繁華街オーチャード通りを一週間、毎日歩くのも、旅心が満足させられて、愉しかった。土産(Souvenirs)のことを、"潮人巧思"と云う漢字で書いてある看板を見つけて、潮の様に漂う旅人の巧い考え、それが土産と云う考えである、そんな表現に、何とも云えない旅のロマンを感じた。

金曜日の昼、一週間の顧客との交渉が全て無事終了し、金曜日の午後から夜のフライトまでの、やっと解放された自由な時間ができた。 そこで、私は、シンガポール在住の3人の友人に電話をしたら、ある船会社の友人は、急遽だったが、オフィスで約30分会え、ある商社の友人は、ホテルのロビーに約10分くらいの時間しかなかったが会いに来てくれた。 又ある欧米の石油トレーダー会社の友人は、電話で、又、次回是非会おうと約束した。

今回の、非日常の出張体験の中で、私は、何か、淡々と、仕事も、旅も、人間関係も、ただ、あるべき様に、サラサラと、流れて行く様に感じた。 私は、その流れに、ただ身を任せて心地好かった。

それも、人生の、仄々とした1ページになった様に想う。

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September 27, 2014

端っこパン、パンの耳、

先日、スーパーのパン屋さんに、パンに耳が沢山入って70円で売っていたのを見た。

実は、私は、パンの端っこ(耳)の部分が大好きで、遂に買ってしまった。普通の人は、たぶん、ペット用に買って行くのだろうと、思いながら、ドキドキしながら買った。そう云えば、公園でハトなどにエサとして撒いてる人も、これかなと思ったりもした。

冷蔵庫・冷凍庫にいれて、何日にもかけて食べたが、結構美味しかった。

私にとっては、やわらかい部分のパンよりも、こちらの方が価値があり、しかも、ただ同然。

人間社会の価値観の面白さを想った。

世間の価値観と距離を置いて見ると、全く別世界が拡がっている。

(2014年9月21日の記)

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September 26, 2014

原発反対の宣伝を書いた自転車、

先日、私の元の会社の先輩が、メールをくれて、自説の原発反対を社会にアピールする為に、"原発反対"の垂れ幕を自分の自転車にかけて走っていると教えてくれた。

学生運動経験者の先輩は、色々な社会問題のことを、自分の家庭や健康の問題よりも、深刻にとらえるところが、心惹かれる。

時折、会って話す時も、社会問題に対する熱血振りは、印象に残る。

前の会社時代に、一緒に仕事した想い出よりも、退職されてからの、生き方の方が気になって、大変面白く感じる。たとえ主張する内容は違っても、密かな敬意を感じている。

(2014年9月21日の記)

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September 25, 2014

傘を無くした体験から、

先日の朝、曇り空の日、通勤電車の中で、不注意で、中目黒で電車を乗り換える時、ちょっと高級なステッキ傘を東急電車に忘れてしまった。

この半年、この傘をさすチャンスを楽しみにしていた自慢の傘だったので、気づいた時はショックだった。

それでも、その日の朝から、会社の忙しい業務のことを思うと、気分の切り換えが大事だと思い、スパッと、その失敗を忘れるようにした。又、これが傘でなく、カバンや財布だったらと思うと、人間の平常心の脆さも想った。

忘れ物を東急に問い合せても、先ず傘は見つかるまいと思った。運よく見つかっても、遠くの駅に取りに行かなければならないことなど、手続き、電話のやり取りなど考えると、やはりスパッと忘れて、新しい傘を買った方が賢い判断だと思った。

そして、傘を無くすと云う平凡な体験からも、私は、何を学ぶかを、考えてみる材料にしてみた。

形あるものは、いずれは消える。自分の持ち物も、いずれは消えて行くことも思った。気に入った傘を持っていたが故の落胆。本来、無一物なら苦は無い。

その傘を拾った人に対する想いが出て来た時に、心が軽くなることが出来た。傘を拾うくらいの人なら、先ず、金持ちではあるまいと思った。その高級な傘を手にした時、ラッキーと思って神に感謝したかも知れないと思った。そうなら、私は、その人に幸運を与えたことになる。

私は、その日、コンビニの簡易傘をさし、知らない人に自分の傘を施したのだ。これを、幸せと呼ぶのではないかとも想えて、傘を無くした体験が私を導いてくれた。

(2014年9月21日の記)

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September 24, 2014

マンダラ手帳、

マンダラ手帳は、私が長年使っている手帳。

仏教思想を仕事に融合させ、手帳を発案された人の特別な手帳。

発案者の松村さんの描いたマンガによる仏教思想解説はとても読みやすい。ビジネスマンでよく研究されたものだと驚く。

マンダラ手帳は、何か中心となる項目をマンダラの中心に置き、その周りの8個のマスにその実現の為に成すべきことを書いて整理すること。 そのマンダラが、日頃の自分のコーチングをしてくれる。

今週末27日(土)は、マンダラ手帳のフェステイバル。

今回の海外出張の直前、少し早目に会社へ向う通勤途上、会社近くで、マンダラ手帳の発案者の松村さんが散歩されているところで、偶然会って、言葉を交わした。

マンダラ手帳のフェステイバルに、帰国後すぐに顔を出せれば好いとも想う。

(2014年9月21日の記)


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September 23, 2014

書道の先生だったと云う父、

最近、九州の子供時代の幼馴染(愛知県・春日井市在住)と久しぶりに会った時に、私の父に書道を習っていたと云う話を初めて聴いた。

確かに、父は筆は上手だったが、近所の子供達まで教えていたとは、私は覚えていなかった。その幼馴染は、母どうしも親しかったから、私の父に、書道を習わせていたのだろうと思った。

そして、何と、私の父から 8級の資格まで貰ったのだと云う。 私も、その幼馴染と二人机を並べて、書道を習ったこともあるとも、想い出話を聴かせてくれた。まるで、寺子屋みたいに。

その話は、早速、姉達にも報告した。幼馴染から、又、私の両親の、とても好いエピソードが聴けて、仄々とした気持になった。

(2014年 9月21日の記)

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September 22, 2014

全てを受けいれる覚悟、そして一指頭、

先週・土曜日、住職の休養休み期間中の自主坐禅の会が、世田谷と綱島で行われ 私はハシゴで両方に参加した。

坐禅の後、それぞれの人の色々な気づきの話の交流が、又、新鮮で、好い刺激を受けた。

イザと云う時にも、丹田に気を落とし、堂々と、全てを受けいれる覚悟で、一本の指を立て、"大丈夫"の世界に入る。

住職に長年学んで来た人達は、そう云う生き方を知り、憧れ、修行し、実践もしているように想えた。

自分の人生を、"ハイ"と云って、受けいれる気持にもなれる。

胸の前に、スーッと立てた一本の指に、絶対大丈夫の声が返って来る。

(2014年9月21日の記)


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September 21, 2014

空港のラウンジで飲むワイン、

私が昔、1990年代、アブダビ駐在時代、中東諸国をいつも飛び回っていた私の静かな時間は、空港のラウンジだった。パスポートが一杯になり、増刷が必要になる程の出張だった。

色々な国の空港の景色を想い出す。そして今、たまに海外出張する時の楽しみは、空港のラウンジで、窓の外を見ながら飲むワイン。

それは、日常生活に流されている時の、ピリッとしたアクセントの時間になる。

今度、この出張から帰って来た時は、何をしようかと、日頃のやり残した大事なことなどを、ラウンジで、離発着する飛行機を見ながら想い出す。

空の上から、日頃の私を眺めるような、そんな気分。

今日からシンガポールへ。

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September 20, 2014

権利・所有の苦しみ、

"本来、私のもの"と云う考えが、人間の苦しみ・悲しみ・執着の元凶であると思う。

そんなことを最近思ったきっかけは、何と、スコットランド独立問題であった。

北海油田と云う財産に恵まれている地域だと知った時、他に搾取されてる気持が増す。無ければ、心は揺れない。

人間関係も、財産も、権利も、本来、私のものと思った時、他と戦う臨戦体制になる。

本来、私のものと云えるものが何も無いと思った時の安らぎ。

全ては自然界から、神から恵んで貰っているのに、人は、色々なものを、本来自分のものと言い始める。

本来、私のものなど何も無いことに気づくのが、修行であり、成熟であると想う。

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September 19, 2014

古民家で人形浄瑠璃、愛宕神社・出世階段祭り、野毛大道芸祭り、

来週9月23日(祭日)は、向ヶ丘遊園駅、生田緑地の民家園・工藤家(麦藁屋根・古民家)で、人形浄瑠璃があり、前から意識して、とても行きたかったイヴェント。

その23日の夜は、東京・愛宕神社の、出世階段祭り、神輿が、86段の急階段を駆け上がる勇壮な祭り。

20日・21日は、横浜・野毛の大道芸祭り。

9月末は、そんな祭りが、ひしめき合うようにあって、外人観光客が見れば、さぞ楽しめることだろうと想う。

いずれ、私は、そんな場面のガイドをしたいと想う。

来週、私は、日本に居なくても、日本の祭りの気分は、もう私の、想像力のままに自由自在。

そんなシーンを想像しながら、国外から、日本の秋を想うことだろう。


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September 18, 2014

修学院離宮や紀元前ペルシャ帝国、

昨日、深夜帰宅して、TVをつけると、丁度、歴史ヒストリアとか云う番組で、修学院離宮のことをやっていて、去年、旅した修学院離宮の場面が映し出されていた。自然への憧れから、田園風景や多様な池の光景まで造った後水尾天皇の庭園。

すぐその後、2500年前、アケメネス朝・ペルシャ帝国時代に、ペルセポリスの断崖に刻まれたダリウス1世の彫刻の番組であった。私は、1990年代、中東駐在時代、何度か訪れたペルセポリスの情景を想い出した。

街の道路には、ホメニイ師の大きな看板があったこと、ホテルの水道には泥水が出て、トイレットペーパー持参で行かねばならなかったこと、ペルシャ帝国の壮大な遺跡は、ロバを連れた人が歩く、のどかな田園風景の小高い丘の上にあったことなど、鮮明に想い出した。

旅は、自分の人生の、それぞれの時の心理までも、引き出しから出してくれる。

寝る前の、ほんの30分くらいの間に、そんな旅を想い出を巡らせてくれた。

週末から出張で行くシンガポールは、何度も訪れたビジネスの街。それでも、合間を見つけて、何か新しい発見をしてみたいと想う。

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September 17, 2014

ザブロー、風の又三郎、

風の又三郎の歌♪、北風小僧の寒太郎、ヒュルルー、ヒュリュルー、ルルル♪。

私が、幼児の頃の娘によく歌って聴かせた曲、妹の子供達にも、弟の子供達にも。

宮沢賢治の風の又三郎の歌、童話のロマン溢れるメロデイー。

そして、子供達の名前にザブローと接尾語のように付けて、言葉遊びもしていた。ももザブロー、ゆうザブロー、まなザブローとか。

それで、今でも、子供達は、私をあだ名で、ザブローと呼ぶ。

ザブローは、私のニックネーム。

子供達の中では、私は、今でも、ずーっと、ザブロー。

時折、心の中で、風の又三郎♪の曲を口ずさむと、私は、いつでも、ふんわりとした気持になれる。

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September 16, 2014

下り坂の心地よさ、サイクリング、

週末のサイクリングは、浜名湖一周・70数キロ。道端の草むらに、バッタの声を聴きながら、海の光景、湖の光景、田園風景、ちょっとした山の光景など。

発見は緩い下り坂が最高と云うこと。力をも費やさず、ただ、車輪に身を任せる。

登り坂には力が要る。景色を楽しむ余裕が無い。人生にダブらせる。

登りと下りは、きちっとバランスして成り立つところが、当たり前だが、小さな気づき。

一緒に走った人が、"下り坂最高"と云う言葉が、とても好かった。

ただ身を任せて、重力のままに、その自然の動力で走る。

自分の力でペダルを漕ぐのが半分、後の半分は、自然の重力に任せて走る。自分の力と自然の力が調和する。

人生にも、そんなリズムのバランスを感じながら走れたら好いと想う。


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September 15, 2014

吉田昌郎・福島第一原発所長、男のロマン、

最近、故吉田昌郎・福島第一原発所長の調書が明かになった。

官邸や東電本社の指示を無視して、海水注入を絶対に止めるなと指揮した吉田所長は、死ぬ覚悟で現場を指揮したと思う。

原子炉を冷やすには無限大にあるのは海水しかない。格納容器の圧力を何とかして下げたい。そして原子炉に何とかして水を入れ続けなければならない。これだけだったと、吉田所長は述懐している。

国のトップでありながら、慌ててパニックを起こして、怒りまくっていた管総理とは、危機に際しての人物が全く違うと思った。

現場では、彼に従って、何とかして大惨事を防ごうと命を捨ててもいいと思って働いた人たちが大勢いたことを知った。他の為に、社会の為に、命を捨てる場面は、まさに男の本懐と思う。人生で、中々そんな場面に出くわすことはない。

私は、吉田所長が存命の間、一目でも会ってみたかった。彼の、覚悟を決めた表情は、素晴らしい表情をしている。

もし、私が、福島第一原発で働いていたら、吉田さんに、決死隊となって一緒に死のうと云われたら死ねると思う。そんな、男のロマンを感じさせてくれた人物だった。

そんな人が、政治家でもなく、財界人でもなく、会社の社長でもなく、普段は、埋もれていることも想う。

(2014年9月13日の記)


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September 14, 2014

淋しさは波、安らぎは大海、

私にしか見えていない世界がある。

それぞれの人に、そんな独自の世界があって、それが淋しさの根源でもある。

でも、その世界が、他の世界と違うものではなく、同じようなものに見えて来ることが成熟だと思う。

今までの淋しさに覆われていた世界観が、徐々に、その淋しさが、安らぎに吸収されて行く。

全ての波は、調和して、大海に吸収されて行く。

(2014年9月13日の記)


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September 13, 2014

秋の野外活動、浜名湖サイクリング、

今日から、連休を利用して、運動も目的に、秋の野外活動、浜名湖サイクリングの行事に参加して来る予定。

数年前に参加した、琵琶湖サイクリングも好かった。その時、初めて琵琶湖に4つの島があり、島に源氏の落人伝説がある事も知った。(平治の乱、保元の乱では、源氏にも落人が出たことも知った)

秋空、快晴の日、広大な湖を見ながら、風を切って自転車で走る。

ただ、大自然の空気を、肌で感じるだけで、精神をリセット出来る。

仕事も、私生活も、思い通りにならなくても、それでいいじゃないかとも思う。そんな時こそ、自然が教えてくれる、どちらでもいいことだよと。ただ、生きていれば、その事だけでも、日常、色々な幸せが見つかるじゃないかと。

とにかく、湖を見ながら、ペダルをこぐ。

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September 12, 2014

心の中の拍手、

一昨日、元の会社の後輩達と6人で、築地で懇親会をした。

私の、10年くらい前の部下達や、会社の若手社員だった後輩達と、何となく有志で集まった会食。何も特別に喋らなくても、お互いに顔を見合わせて安らいだ。

夫々に、逞しくなったように見え、また人生観に於いても円熟して来たように見えた。

昔、一緒に仕事して来た想い出も、今の仕事のことも、そして今の人生観なども、全て、お互いが家族のような雰囲気で語った。全てはどちらでも好い、この暖かさがあればと、私は想った。

後輩達にも、今まで、色々、好い展開も、悪い展開もあっただろうが、私は、ただ、心の中で、拍手を送りたい気持だった。

当時からギャグ好きだった私は、今でも、何かギャグが飛んで来ることが期待されている。期待に応えて、多少ギャグも披露したが、今の私の、禅的思想も、チラット話してみたら、後輩達も、頷いて聴いていた。後輩達も、夫々に、苦労したんだなーと想った。

後輩達を、一人一人、想い出しながら、心の中で拍手したい。


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September 11, 2014

シルバー川柳の笑い、

新聞で見た"シルバー川柳"なる作品の数々に、思わず笑い。ギャグ好きな私は、メモする始末。


補聴器をはめた途端に嫁、無口。

恐妻を天使に変えた、認知症。

どこで見る東京五輪、天か地か。

暑いのでリモコン入れると、テレビつく。

女子会のメインテーマは、関節炎。

孫からの贈り物だが、着払い。

孝行をされ書き直す、遺言書。


人生の"泣き笑い"が、絡まって、まさに、絶妙な味わい。 生老病死をも、茶化して笑い飛ばしているところが好い。


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September 10, 2014

クスリになる食べ物、

医学の祖・ヒポクラテスは云った。手術よりも、薬よりも、最高の医療は食べ物で治すことだと。身体は食べ物で出来ている。

今月は、クスリになる食べ物と云う本を読んでみた。

― 「クスリになる食べ物」・伊藤翠著・主婦と生活社 より抜粋 -
1. 動脈硬化症;
*タンパク質不足は血管を脆くするので、大豆食品を摂る。
*毛細血管を強くするルチンが多く含まれるソバ。
*血栓を溶かす玉ねぎ。
*コレステロールを下げる昆布、しいたけ、こんにゃく、ゴマ、青魚など。

2. 心臓病;
*良質タンパク(大豆)と、食物繊維。 狭心症には、”らっきょ”。
*にんじんを摩り下ろした汁。 蓮根の搾り汁 など。

3.肝臓病:
*肝臓に詰まった脂肪を排出して、肝機能高めるイシトールが豊富な、麦・玄米。
*黒ごま、クコの実。 シジミ。
*肝臓の解毒促す大根・キャベツ・にんにく・玉ねぎ・フノリ・生姜・ゴマ油など。

4.腎臓病:
*小豆・かぼちゃ。 大根・大根葉・にんじん・ごぼう・昆布・黒豆。 ハトムギ、クルミなど。

5. 高血圧症:
*大豆食品。 血管を柔軟にするかぼちゃの種、ひまわりの種。

6.胃潰瘍・十二指腸潰瘍:
*玄米スープ、葛練りなどは、胃に負担がかからない。 大根・かぶ・山芋・納豆は、消化を助ける。

7. 糖尿病:
*玄米・雑穀にはインスリンの働きを強める亜鉛・クロムが入っている。
*かぼちゃの種・ひまわりの種・松の実にも、亜鉛が多く含まれている。
*炒ったピーナツ(1日10粒程度)膵臓の機能高める。炒った大豆も同様。
*かぼちゃ・小豆、は、膵臓機能を強化する。 玉ねぎは、糖質の代謝を促進する。
*レモン・カボスのクエン酸も糖質の代謝を促進する。
*水溶性食物繊維(糖の吸収を遅らせる)、いんげん・こんにゃく・昆布・ワカメ・なめこ・山芋。
*トウモロコシのひげ茶は血糖値降下作用。 以上、

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September 09, 2014

"一念をもって万念を制す"、

人は、一日に六万もの想念(思い)が脳裡に浮かんで来るものだと云う。

その六万もの想念をも、発心の一念をもって制する力量を持つのが修行だと想う。

それが、自他一如の念なら、素晴らしかろうと想う。

そんなことは、まだ難しくとも、私は、"仄々とした想い出"の力で、他の念を脱落させることなら出来る気がする。

涅槃のような、仄々(ほのぼの)とした想い出は、時に、万念も制することも出来る。


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September 08, 2014

兄弟家族とのひととき、両親を感じながら、

昨日、九州から上京して来た弟夫妻と大学生の娘と私の4人で、品川で夕食をした。

弟の大学生の娘は、九州帰省の度に、私が、よく遊んでやった女の子で、今でも、私によく慣ついていて、私も、会話が愉しくてしかたなかった。

"お馬パカパカ"は、私四つん這いになって背中に乗せて歩くこと。"飛行機ブン"は、私が仰向けに寝て、両手両足て、娘を飛行機のように持ち上げて遊ぶこと。自分の娘も、弟の娘とも同じ遊びをしていた。

お互いに、そのことを想い出して、懐かしくて笑った。

弟は、私も、子供の頃、プロレス技をかけたりして遊んでいた。今でも、すぐちょっかい出したくなる。そんな弟と、酒を飲みながら、安らいだ。

弟の嫁は、弟のことを、いつも君づけで呼んでいるが、ちょっと、おっとりしていて、私のギャグの恰好のターゲットになって、笑っていた。

そんな情景に、亡き両親の存在も感じながら、兄弟家族とのひとときに、ドップリと浸かった一日だった。昨日は、そんな、穏やかな日のプレゼントだった。

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September 07, 2014

それぞれの気づき、住職との縁から、

日頃やっていた住職との坐禅会は、住職の静養中の間、住職欠席もままであるが、昨日、坐禅の会のメンバーで、住職のもと禅を学んで来たことの、人生に於ける大きな気づきは何であったかを話し合ってみた。

ある人は、"不生不滅"の世界の安らぎを云った。有って無くて、無くて有る世界。般若心経の世界。生死を越えた世界の存在を、捉えてらっしゃることに驚いた。

またある人は、"本具仏性"の気づきの衝撃を語った。クリスチャンだったことから神と我は対峙するものであったのが、私が神であったことの気づき。

またある人は、絶対大丈夫の世界""どちらに転んでも大丈夫の世界"の体験を語ってくれた。ネパールだったか、熟年夫婦で海外登山の時、夫が病気で倒れた時の衝撃、その時、"絶対大丈夫と唱える住職の姿"がはっきりと浮かびましたと云う体験だった。"絶対大丈夫"と云うその浮かんだ住職の姿に、ハッと我を取り戻し、冷静な処置を取り、夫は一命を取りとめましたとのことだった。

参加した一部の人の体験で、これだけの、気づきがあったことに、私は、改めて住職の仏法を説く力の凄さを想った。

全ては縁に於いて存在する。 私も、住職との縁に於いて、今日の展開がある。全ては神の領域。

新たな気づきを感じながら、今日が始まる。

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September 06, 2014

季節、自然、それぞれの受信機、

虫の音と、揺れるすすきと月の光景、そんな季節が廻って来る。

蝉は、まだまだ、夏ですよと云って鳴いていると感じる人もいる。私には、蝉は、もうそろそろ失礼しますと、暇乞いをしているような声に聴こえる。

田んぼの畦道では、蛙の鳴く声が、トロンボーンの音色に感じるとか云う人もいる。 そう云えば、虫達の声を、オーケストラと感じることは、それも深い人生の味わい。

時折、鳥の声も。

耳を澄ませば、人生は、音楽会の中ではないかとも想える。

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September 05, 2014

"今"の耀きを観る、

道元禅師は、薪は灰になって行く仮の姿ではないと云う。また、薪と云う不変なものがある訳ではないとも。

薪と灰は、前後、際断されているのだ。

四季も同じ。

それを、踏まえた上で、道元禅師は"春は花、夏ホトトギス、秋は月、冬雪さえて涼しかりけり"と詠っている。

過去とか未来とかの概念をも脱落させて、"今"の耀きを観る。

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September 04, 2014

道元禅師・"修証義"の中の懺悔の句、

道元禅師の"修証義"の中に曰く、

"我昔所造諸悪行(がしゃくしょぞう、しょあくごう)、

皆由無始貪瞋痴(かいゆむし、とんじんち)、

従身口意之所生(じゅうしんくい、ししょしょう)、

一切我今皆懺悔(いっさいがこん、かいざんげ)"

意味するところは、

私が、かつて作った所の多くの悪しき心と行為の縁は、皆、初めを知らない程に深い貪りと、怒りと、愚かさによります。 それは、私の体と口と心で作りだしたものです。それら全てを私は今ことごとく懺悔致します。

道元禅師は、自分でも自覚出来ない諸悪業の懺悔を説いている。

何も悪いことをしたことがないと云う思い、私が何を悪いことをしたと云うの?と云う",思いあがり"を戒めている。

人間には全て、貪瞋痴(とんじんち)と云う三毒(貪り・怒り・愚痴)が備わっていることに対して、懺悔できなければ、安らぎは来ないと道元禅師は説いている。

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September 03, 2014

「顔の傷」と云う手記、誰しも大きな無知を恥じる衝撃、

昨日、「顔の傷」と云う手記を、どんな内容か知らないまま、たまたま読んだら、それは、仏性へ目覚める様な、衝撃の手記だった。 このような手記に出会って、私は、奮い立つ想いに成れた。

[私は母の顔がすごく嫌いでした。何故なら大きな火傷の跡があるからです。よそのお母さんはあんなに綺麗なのに何で私のお母さんは・・・とか、何でこの人が母親なんだろうとさえ思ったことがありました。

そんなある日のこと。その日の学校の四時限目に、私は急いで廊下に出てみると、何と、母が忘れた課題を学校まで届けに来ていたのです。「なんで学校にきてるのよ!取りに帰ろうと思ってたのに!」と息を立てて問い詰めると、『でも、めぐみちゃん夕べ、頑張ってやってたから・・・』と云いました。

私は、「お化けみたいな顔して学校来ないでよ、バカ!」と言って母から課題をひったくるように取り上げるとすたすたと教室に入っていきました。自分の母親があんな顔をしていることを友人達に知られてしまったことで、私は顔から火が出る思いでした。

その日の夕飯後のこと。私は父親に呼ばれました。昼間のことで怒られるのだろうな・・・と思いました。すると父親は予想に反してこんな話をはじめました。お前がまだ生まれて数ヶ月の頃隣の家で火事があってな。その火が燃え広がって、うちの家まで火事になったことがあったんだよ。

そのときに二階で寝ていたお前を助けようと、母さんが煙に巻かれながらも火の中に飛び込んでいった時に、顔に火傷を負ってしまったんだよ。今、お前の顔が綺麗なのは、母さんが火の中に飛び込んでいってお前を助けたからだよ。

私はそんなことは、初めて聞きました。そう云えば今まで火傷の理由を母から聞いても、あやふやな答えしか返ってきたことはありませんでした。「なんで今まで黙ってたの?」私は涙ながらに母親に聞くと、『めぐみちゃんが気にすると思ってずっと黙ってようと思ってたんだけど・・・』と云いました。

私は母への感謝の気持ちと、今まで自分が母親に取ってきた態度への後悔の念とで、胸が張り裂けそうになり、お母さ~んと言って母の膝の上でずっと泣いていました。今では自分の母の顔のことが誇りにさえ思えるようになりました。家族を、私を守ってくれた母のこの顔の傷のことを・・・。]

私は、この手記を読んで、道元禅師の"修証義"の懺悔の句を読みたい気持ちになった。

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September 02, 2014

私と云うレンズ、何を拡大するか?

時に人は、人それぞれに、レンズみたいなものだと思う。

光や闇が、そのレンズを通り抜ける時、光を拡大するか、真っ黒い闇を拡大するか?、それが、人生の行末を決定すると思う。

光(仏性)も、闇(煩悩)も、どんなレンズにも、縁に触れて、必ず当たる。

そして、人生に於ける修行が、その人のレンズが、どんなレンズになるのかを決めている。

光を拡大するレンズを作るのが修すること、そして、そのレンズを常に磨き保つのが(実践)、証することと想う。

「修せざれば表れず、証せざれば、得ることなし」(正法眼蔵)の光に導かれて。

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September 01, 2014

全てが懐かしい境地、天城坐禅合宿にて、

8月29日~31日、伊豆・天城"一灯禅林"で恒例の坐禅合宿に参加した。

住職も、1ヶ月前に、緊急入院された日から、退院回復され、いつも通りの坐禅や法話をされることに、一同(約10名)大変安心と、元気な気持になれた。

法話も、人は、大変な危機を体験した後には、全てが懐かしい気持になりますと云う境地も、語って下さった。

存在と非存在を越えたところに無常があり、無常は、生きるか死ぬかを問題にしない。無常とは、全てが愛おしいこと。 このような境地を、教えて頂きながら、住職と、またこのようにしてお会い出来るご縁に一同感謝した。

天城山は、29日の大雨の後、30日は、雨上がりの緑が映えていた。

人生にも、雨があったり、嵐があったり、全ては調和する力の成せる現象。

早朝、4時起床、夜明け前の坐禅に、何か"新たな始まり"の気配と、また、全てが懐かしいような、神秘的な時間を味わった。

正法眼蔵に曰く、「修せざれば表れず、証せざれば得ること無し」。

「証」、即ち、如何に実践するかが問われている、、"私が"や"私のもの"を捨てる瞬間が如何に持てるかが問われている。

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