"他力の禅"の境地、
住職の入院中の間、坐禅会の参加者どうしの話合いの時間ができ、先日も、禅と人生のかかわりなど、とても真剣な話ができた。
"他力の禅"の境地を語る人もいて凄いと想った。道元と親鸞が、統一されている境地。禅は自力門と云われるが、自力とは入口に過ぎない。自力も究極的には全て委ねて行く境地に向う。
富士で云えば、五合目までが、色々な道や景色があるが、五合目を越えれば、同じ頂きを見るものだと想う。住職からそう教えて頂いた。禅からでも好し、念仏からでも好し、太極拳からでも好し、キリスト教からでも好し、ヴェーダンダ哲学からでも好し。
また、その後のメールで、親鸞の"正信偈"を、まるでミンミン蝉が大樹をジリジリよじ登るがごとく一句一字ずつ噛みしめながら日々読み進めていますと云う人もいた。
そして、今日も、蝉の声が、心地よい読経の声のようにも聞えて来る。
2014年・盛夏の候。
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