自己犠牲の象徴、無我を唱える安らぎ、
先日、住職から、交通事故で子供を亡くされた、あるご両親は、仏像を拝む気持ちにはなれなかったが、ある時、教会でキリスト像を見て、初めて安らぎ、信仰心に目覚められたと云う話を聴いた。
痛ましい十字架のキリスト像には、自己犠牲の象徴がある。
また、住職が若い頃、寺で修行されてる頃、近所の犬が道路で交通事故で死に、その死体を、可愛そうで抱いて運べなかった時、「南無阿弥陀仏」と唱えたら、安らかに運べる気持ちになれたと云う話も聴いた。
"一即一切、一切即一"、宇宙は全て縁により、関わりあっている点では"無我"。
また、宇宙は"自己犠牲"で成り立っているとも云える。
仏教は"無我"を説く、キリストは"自己犠牲"を説く、言葉は違っても、共に同じ頂上(真理)を見ていると想う。
それぞれの人の五感が、違う言葉を使って表現しているのだと想う。
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