不動明王、故郷の裏山 、恐さと優しさも見えて、
私の故郷・実家の裏山の小さな広場でよく遊んでいたが、その場所は"ふどさん"と呼ばれていた。 その言葉の由来は、不動明王であった。小さな広場は、今では住宅が建ち、随分小さくなってしまったが、子供の頃、恐い顔で見つめていた不動明王が今でも、同じ場所にあり大変懐かしい。
先日、京都で仏像美術館に入ったら、そんな、子供時代から、慣れ親しんだ不動明王が何故か、如来や菩薩像と対比して、心に大変訴えるものがあることを初めて感じた。
如来や菩薩の優しい柔和な顔ばかりでは、人間は導けないことも、何故か、思った。
人間の真っ黒な煩悩の部分、真っ白な仏性の部分は、如何なる人にも同居している。
時には、不動明王に睨まれ、恐い思いになるのも、好い修行の内だと想う。 どんな人にも仏性がある、だが仏性を見せて日常を生きている人は稀である。
だからこそ、人間には、五感六識に振り廻された煩悩の闇は、(暴力をも使いそうな)不動明王の力で、退治しなければならないのだと想う。
そうやって、不動明王を見ると、父であったり、母であったり、また自分の中の仏性がそんな表情をしていたりする。
そして、もはや、不動明王は恐くはなく、優しい導きの顔にも見える。 懐かしい不動明王に心の中で合掌する。
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