泥水が澄む時、坐禅、
泥水が掻き混ぜられた状態から、静かにしていると、泥が沈殿して水と泥に別れるが、そのことを坐禅に例えてあるのを、今月の文芸春秋の中で読んだ。
泥と水が掻き混ぜられて、茶色の泥水の状態が日常、それを静かに坐禅をしている内に、泥は沈み、透明の水と別れる。泥は煩悩、水は仏性と想う。イメージでは、水の部分の方が多いのに安心する。
以前、私は、生きて来た人生は、洗濯機の中の渦潮に撒き込まれた"蟻ん子"のようなものだと思った。ただ、世間の規範通りに生きて来たように思って、自分の無さに愕然とした。洗濯機の渦潮が止むと、落ちついた水の中で、物につかまって這い出して来て、洗濯機の外の光景を見ると、今まで知らなかった光景が拡がっていた。
それが、2002年、会社を途中で辞めた時。
今、想う。外に拡がっている光景には、穏やかな大自然の美もあれば、嵐も、戦争もある。でも、それは、濁った泥水か、泥が沈殿した水の状態かのようなものだと想う。
坐禅によって、泥水(日常)を、水(仏性・宇宙の理)の視点で感じることが出来ると想う。
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