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June 30, 2014

泥水が澄む時、坐禅、

泥水が掻き混ぜられた状態から、静かにしていると、泥が沈殿して水と泥に別れるが、そのことを坐禅に例えてあるのを、今月の文芸春秋の中で読んだ。

泥と水が掻き混ぜられて、茶色の泥水の状態が日常、それを静かに坐禅をしている内に、泥は沈み、透明の水と別れる。泥は煩悩、水は仏性と想う。イメージでは、水の部分の方が多いのに安心する。

以前、私は、生きて来た人生は、洗濯機の中の渦潮に撒き込まれた"蟻ん子"のようなものだと思った。ただ、世間の規範通りに生きて来たように思って、自分の無さに愕然とした。洗濯機の渦潮が止むと、落ちついた水の中で、物につかまって這い出して来て、洗濯機の外の光景を見ると、今まで知らなかった光景が拡がっていた。

それが、2002年、会社を途中で辞めた時。

今、想う。外に拡がっている光景には、穏やかな大自然の美もあれば、嵐も、戦争もある。でも、それは、濁った泥水か、泥が沈殿した水の状態かのようなものだと想う。

坐禅によって、泥水(日常)を、水(仏性・宇宙の理)の視点で感じることが出来ると想う。

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June 29, 2014

兄貴みたいな先輩二人との再会Day、

週末金曜日会社が終わって、高校時代の風紀委員長だった先輩に久しぶりに会って会食した。私が、大学入試で上京する時なども、下宿に泊めてくれたり、世話してくれた先輩。JR御徒町駅の改札に、あの懐かしい顔を見付けた時、私は、(私には兄はいないが)、兄貴と呼びたいくらいだった。

郷里の友人達のこと、お互いの近況、話は尽きなかった。時折見せる、兄貴の優しさ、逞しさは昔と同じだった。自分のことは、波乱万丈の人生だったよ、と云っていた兄貴。妹さんは、埼玉で市会議員になられ、弟さんは、郷里・大牟田市の教育長になられているとのことだった。やはり、兄貴の兄弟は凄いなーと嬉しかった。

その御徒町での会食の為、地下鉄・銀座線で日比谷まで行く途中、電車の中で、元勤めていた石油会社の先輩に偶然出会った。数年前、副社長も退任されて、暫く会っていなかったが、その先輩も、情に厚く、兄貴のような先輩だった。アブダビ事務所設立の時、私をアラブ人に紹介して回ってくれた先輩。電車の中の数分の会話も、お互いの娘のことなど、ホロリとする話ばかり。

先週の金曜日は、会社が終わって6時~8時半くらいの短い間に、私は、人生の、兄貴二人に、連続して遭えて、狐につままれたようだった。

私は、その兄貴達の表情を想像するだけで、強く優しくなれる気がする。


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ガンにならない三つの提案、鉄分過剰摂取の防止も大事、

今月は、 「ガンにならない3つの食習慣」 、高橋弘 著、 ソフトバンク新書を読んでみた。 鉄分も過剰摂取もガンの大きな誘因であることも、学んだ。

1. ガン細胞は9年ほどかけて、目に見えるガンになる。
(1)ガンの引き金: 煙草、感染症、加工食品の発色剤・酸化防止剤・防カビ剤・紫外線・放射線・活性酸素など。
(2)ガンの促進: 煙草・活性酸素・熱い飲み物・アルコール・脂肪塩分の摂りすぎ、肥満など。

2.三つの提案
(1)ファイトケミカルを摂る、→ 植物の天然成分。
(2)GI値の低い食品を摂る、(GI=グリセノミック指数)、→例:玄米等。
(3)鉄分の過剰摂取を控える。

3. ファイトケミカルを含む食品を摂る。
ブルーベリー、紫イモ、赤ワイン、クランベリー、緑茶、ゴマ、ウコン、大豆、トマト、スイカ、柑橘類、キャベツ、バナナ、にんじん、ほうれん草、緑黄色野菜、白菜、玉ねぎ、ニンニク、など。

ファイトケミカルを含む野菜は過熱して食べる、→ 茹で汁は、生の搾り汁の数百倍の抗参加力あり。 スープにして食べる。 過熱処理で、食物繊維に閉じ込められていたファイトケミカルが溶けだす。 生のままの野菜では、ファイトケミカルは身体の中に取りこまれにくい。 生では、野菜は、カサが増えて、食べられない。

4 食後の血糖値の上昇が緩やかな食品(GI 値が低い食品)を選ぶ、
GI値が低いのは、そば・中華麺・パスタ、→ ごはんやパンより低い(精製度高く、白いもの)。未精製の玄米や、全粒粉のパンには、食物繊維が含まれていて、糖質の消化吸収が緩くなるので好い。 

5. 鉄分の過剰摂取は活性酸素を発生させる。
要注意: 鉄分が多く、避けたい食品 : レバー、貝類、赤みの肉や魚介類、(シジミのうまみ成分のタウリンの溶けだしたシジミ汁を飲んで、鉄分の多い身の部分は避けた方が好い。)
玄米や野菜の鉄分は、気にしなくて好い。 → 玄米の鉄分は体内に吸収されない。 以上

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June 28, 2014

イスラム 断食月 始まる、

「ラマダン・ムバラク」 , 「断食おめでとう」 世界中のイスラム教徒で、そんな挨拶が、交わされる日。

ラマダンはその土地土地で、三日月が現れたのを確認してから始まり、同じような三日月が確認される頃に終了します。月観測委員会が聖月の始まりと終わりを決定するので、正確な日程は事前には決定できません。(日本の場合はマレーシアの月観測委員会が代行とのこと)。 2014年は、ラマダンは6月28または29日頃に始まり、29日から30日間続く予定です。ラマダンはイスラム暦の影響で、毎年10日~11日早まって行く。イスラム歴(ヒジュラ歴)は622年を起点とするため、今年は、1435年。数字は、何だか、室町時代みたいに感じて可笑しい。

私の勤務する会社のアラブ人もこれから1カ月の断食に入る。 アラブの本社も。 仕事は、当然停滞気味になる。 昨日、私も、アラブの友人達には、「ラマダン・ムバラク」と挨拶のメールを発信した。

こんな時、イラクや、シリアの内戦はどうなるのだろうと思う。 腹が減っては、内戦も下火になるのだろうと、期待する。

ラマダンの効用を、色々考えてみると、多少は、私もつきあってもいいかとも想う。 ラマダンは、日中だけの断食だから、日の出、日没の時間に対しても、感覚が鋭敏になると想う。因みに今日の日の出は04;27 、日没は19:01とのこと。

早朝、日の出前の朝食、大変そうだ。 1ヶ月間の昼食抜き。日没後の食事、これなら何とかなりそうだ。そんなことを想いながら、ちょっと想像で、イスラム教徒の気持を味わってみる。

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June 27, 2014

勝敗に拘わらず、ワールドサッカー、

ブラジルW杯で、日本は1次リーグで敗退となってしまったが、今回のW杯には、勝敗に拘らないエピソードが、私は感銘を受けた。

コートジボアールの主将ドログバ選手は、国民的英雄で、2002年から続いていた南部・北部の内戦を止めた男であった。 反乱軍・前大統領派が北部(イスラム教徒) 、政府軍・現大統領派が南部(キリスト教徒)で、激しい内戦が続いていた。

内戦のさなか、彼の活躍によって、コートジボワールは2005年、ワールドカップの出場権を手にします。 ドログバ選手は、チームメイトと共にカメラの前で跪き、 国民に訴えました。 「私たちは共通の目的に向かって、 様々な民族が共存してプレーできることが証明されました。 人々は団結できます。どうかお願いです。武器を捨てて、選挙をしましょう」. それがきっかけになって、一週間以内に、戦闘が止んだと云う。

旧日本代表監督のオシム氏がまとめあげて、今ブラジル大会に初出場をしたボスニア・ヘルツゴビナのチーム。90年代の民族紛争で死者20万人を経て、国内では今も根深い対立が続く。かつて敵だった者どうしが、協力してゴールを目指した。

サッカーが、こんなにも、民族の悲惨な対立の融和を助ける力にもなっていることに、私は驚いた。

勝敗は、ベストを尽くしたのなら、どちらでも好い。

平和な国で、ビールを飲みながらの勝敗への拘り、熱狂の裏に、そんなシーンがあったことが、私には、何百倍も印象的に想う。

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June 26, 2014

神へ向かわせてくれるか否か?

ヴィヴェーカナンダの書籍、"最高の愛"に、印象深い一節があった。

「この世は、私達を完成させてくれる手段である限り善である。 妻子、夫、お金、知識は、それが私達を前進させるのに役立つ限りは良い。 しかし、そうでなくなった時、それらは、悪以外の何ものでもない。

妻は、私達を、神に向けて進むのを助けてくれる限り、良い妻だ。 夫や子供についても同じだ。 お金は、他人に良いことをするのに役立つ限り、少しは価値がある。 しかし、そうでなければ、悪の塊に過ぎない。 一刻も早く捨てた方が良い。」

ヴィヴェーカンダは、夫婦が仲が良い悪いを論じても無意味だと云っている。取り繕って、夫婦が仲良くしても無意味だと。 神に向かわせてくれるなら、仲が良くても、悪くても、どちらでも良いのだと。

人生の羅針盤は、光。 それは神へ向わせる力。


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June 25, 2014

横浜、艀(はしけ)改造の船劇場、そこにも宮沢賢治、

先日、初めて、横浜ボートシアターなる荷役船改造の小劇場に行って、仮面劇と三味線語りの口承文芸を鑑賞した。

横浜・石川町の川や、横浜港の港湾作業場の近くの船溜りで、ダルマ船と云う作業船の荷台を改造して小劇場を作り、仮面劇・人形劇を、もう1981年から続けている芸術家たちがいたことを、私は、最近初めて知った。

今回は、山下公園の端っこから、更に外れた場所にある「波止場食堂」の先に、その作業船改造の小劇場(第7金星丸)は停泊していた。その会場へのアクセスは、まさかと思う様な、けもの道のような小路。また、到着した艀(はしけ)の内部の劇場空間は、作業船の内部を感じさせ、もう既に劇場そのものが芸術と云うほどの驚きの空間だった。

そこで、見たのは、宮沢賢治の"土神と狐"と云う作品の仮面劇と、三味線弾き語り(古典・小栗判官一代記)であった。"土神と狐"では、人間も持つ煩悩の苦しみと結末は、宮沢賢治の仏性の世界を暗示させていて、見た後に、じわっーと、心に訴えるものがあった。仮面は、見る人の想像力の世界に訴える分、生身の人間の顔よりも、寧ろ表現力があるとも実感した。

三味線弾き語りは、江戸時代の口承文芸とのことで、初めて知った。江戸時代の庶民の楽しみであった様子が想像できた。

そんな不思議な体験も縁が成せる業、宮沢賢治の世界も縁が成せる業であったかと想う。

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June 24, 2014

シンガポール、喜入、関内、酒田、心の旅、

昨日、シンガポールに駐在の友人にメールしたら、近況を詳しく教えてくれた。シンガポールに蝉もいることなど、私の質問に答えてくれて。そして、共通の友人が横浜関内で開いている居酒屋を来月で閉店するようだと云う情報も教えてくれた。

鹿児島・喜入の友人は、昨日メールで、今月末、退職して、今まで夢だった、欧州や北海道など夫婦で旅したり、子供家族の手伝いをしたいとの希望を語ってくれた。

昨日は、友人が居酒屋を閉店、また別の友人が会社を退職する情報を知った。それは、終わりと始まりの情報として聴けた。これが無常、全ては変化している。

早速、急遽、昨日は会社帰りに、関内の友人の居酒屋に、久しぶりに訪ねてみた。脱サラをして、奥さんと二人三脚で、10数年、よく頑張って来たと思う。子供たちも、独立し、これからは、私とも、ゆっくり飲める機会もあるようだった。忙しかった店の仕事からの解放の穏やかな歓びが夫婦の表情から読み取れた。

友人の店の閉店予定のニュース伝えようと、先輩に電話すると、彼は、東北・酒田へ旅行中で、温泉に入り、夜だからほろ酔いだった。仕事をリタイヤして、時折、友人達と旅行を楽しんでいる先輩の様子が浮かんだ。関内の店の閉店までに是非、一緒に行こうと約束した。

無常は、サラサラと流れて行くこと、センチメンタルでもあるが、流れて行く先にも、耀きがある。 無常だからこそ、生命の証し。

留まりのない川に流れを、空から眺める気持になった。 シンガポール・喜入・関内・酒田の上空に、その時、私はいた。

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June 23, 2014

家族愛は利己的愛、それは単なる入り口、

家族愛は利己的愛、ヴィヴェーカンンダの著書"最高の愛"の中に、"家族への愛は、動物の愛"と書かれていたことに衝撃を受けた。

人は家族を愛することから、徐々に愛の能力を訓練して行く。

人に対する極端な執着が生じると、人は自分自身を見失ってしまう。私達を極端に利己的にする。その結果、愛する人に善を行う為に、他者を傷つけようとさえする。この世の悪の大部分は、特定の人に対する執着から成される。

最初は、家族や恋人を愛することから始まる。それは自我に対する小さな愛、初歩の愛、動物の愛。

自我が無限になった時、一面に耀く光の炎がやってくる。無限の愛、神の愛、最高の愛に溶け込む。

星々は小さな愛、一つの一つの星は光る。最後に、太陽が昇ると、小さな光は全部消えてしまう。

神の愛に到達するには、小さな愛を経て行かねばならないのだ。

愛するものと、愛されるものは、一つであった。それを、ヴィヴェーカンダは、"最高の愛"と呼ぶ。

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June 22, 2014

無我から観れば、生老病死も百花繚乱、

無常は、残念至極、愚痴のもとである間は苦しいが、無常観は涅槃に至る入り口となる。

無我は、"私"を全否定する。無我から無常を見た時、一切が歓びとなる。

消滅は誤解、消滅と観るのは無我性ではない。

無常が、無我と一致した時、涅槃となる。

涅槃に於いては、絶対的なる自由、生老病死も百花繚乱、全てが完全に咲き乱れる世界。

無常を征する者こそ、世界一の勇者である。

昨日の住職の、無常に対する讃歌である。 無常は入り口、無我に繋がり、涅槃に導く。

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June 21, 2014

テイクナット・ハーン、ベトナムの禅僧の書籍、

先日、住職に、テイクナット・ハーンの著書、"死もなく、怖れもなく"(春秋社)を、紹介され、読んでみた。

テイクナット・ハーンの名前や、いくつかの言葉は、聴いたことはあったが、彼が、住職の師の師、原田祖岳老師の米国人の弟子カプロさんと、禅の繋がりがあったことを、最近、住職から聴いて初めて知った。

書籍には、ヴィヴェーカナンダの表現力に劣らないくらいの禅の思想が、散りばめられていた。

「無常は、私たちが変容し、癒され、解放される為の道具である。一粒のトウモロコシも無常でなければ、トウモロコシの茎はできない。トウモロコシの茎が無常でなければ、私たちが食べるトウモロコシの穂はできない、貴方の娘が無常でなければ、成長して女性になれない」

「愛は、無常と共に、生きのびる」。

「誕生の瞬間は、貴方の継続の日に過ぎない。」「生も死も、永遠の変容」。

シェークスピアは、「生きるか、死ぬか、それが問題だ」と云った。仏陀なら、「生きるか死ぬか、それは問題ではない」と云っただろうと、"生ぜず滅せず"の世界を、色々な言葉で説いている。

道元禅師、白隠禅師、ヴィヴェーカナンダ、テクナット・ハーンと、色々な言葉で、頂きを眺める。

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June 20, 2014

神を感じること、うずきにも似て、

先日、4日連続で住職にお会いした時、4日目の坐禅会の時、住職から、神に対して、どのように感じていますか? と質問された。

私は、咄嗟に、戸惑いながら、漠然と、"宇宙、虚空世界の様なもの"を感じますと答えた。

すると、住職は、神を想って、うずきませんか? と云われた。

神は、即ち"自己犠牲"、その苦しみの姿を想うと、うずきが生ずることが、何となくわかった。

キリストの十字架の苦しみの姿、両親が私のために苦しんで来た人生の姿を想った。

私は、普段、そのような気持ちは忘れて、知らないままで生きている。

色々な自己犠牲が、今の私を生かせているのに。

神を感じることは、うずきを感じることに似ていることを初めて知った。


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June 19, 2014

今の輝き、

若い頃は、体力や時間は十分にあるが、将来の進学・就職・家庭・出世など、不安を抱えて、余裕なく、安らげず、周りは輝いて見えることなどは余り無い。

年を経て来ると、若い頃の価値観が大したことじゃなかったことニ気づき、また時間は限られていて、残された時間は十分ではないことに気づく。体力も衰えを感じる。

だが、年を経て来ると、時間は十分ではないが、体力も十分ではないが、周りが輝いて見えることが多くなる。人生の味わいを感じるセンサーの感度が、若い頃と違うのだ。人生の味わいのマグニチュードが違うのだ。

時間を浪費して失って来たが故に、発達して来た人生の新たなセンサーが作動して来るのだと想う。 些細なことまで、何気ない日常でさえも愛おしくなることもある。

結局、いつでも、人生は、素晴らしさに於いて、バランスがとれていることに気づく。

若さは(精神は暗いが)、物理的な輝き。

年を経ることは、今の輝きが増すこと、精神的な輝きが増すこと。

若くても、年を経ても、それぞれの、旬の時なのだと想う。

「春は花、夏ホトトギス、秋は月、冬雪冴えて涼しかりけり」、 道元禅師の句が浮かぶ。


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June 18, 2014

別人のように優しくなっていたお父さん、

昨日、朝、通勤途上、道で、優しいお父さんの声が、「ゆうな」、「ゆうな」 と、そばでしゃがみ込んで、寄り道しているちっちゃな女の子に呼びかけている声がした。

女の子は、道端の小さな花を触ったり、拾った石ころの匂いを嗅いだり、まるで子犬の様に、自由に、お父さんのそばで、遊びながら駅方面に歩いていた。

お父さんの顔を見ると、先日(6月2日)、パニックで泣きじゃくる女の子を、恐い顔で叱りつけていたお父さんだった。
私は、その女の子の、痙攣するような余りの泣き方の激しさに、たまらず、お父さんに近づいて、もう、何も云わず、抱きしめてやってくださいと、通行人なのに、アドバイスをした、そのお父さんだった。

昨日は、あの優しい、「ゆうな」、「ゆうな」、「早く来なさい」 と、優しく呼びかける声は、仲のいい、親子そのものの安らぎの光景だった。

その親子は、私には、気づかなかったが、私は、胸がジーンと熱くなった。

何にも増して、私の心は、清々しく、和んだ出来事だった。

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June 17, 2014

懺悔と歓喜、懺悔が歓喜に変るとき、

懺悔は、自分を客観的に見る力が無ければできないと、住職は云う。

人間の逃れられない三毒、即ち、貪・瞋・癡(とん・じん・ち):貪り・怒り・愚痴が、懺悔の材料。

懺悔をして、心が、暗いところへ行ったのでは、真の懺悔ではない。

本当の懺悔をすれば、神の懐に飛び込むことができる。

それは、小さい子供が母に甘えるように、神へ甘えるような気持になると云う。ごめんなさい、ごめんなさいと、泣きながら、全てを委ねてしまう。それを、神は全て受け留める。やがて、大きな安心が覆う。

そして、懺悔は、遂に歓喜となる。宇宙の本質・無我・自己犠牲の覚悟ができる。

修行者には、そのような懺悔ができるか、どうかが問われている。

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June 16, 2014

部分を見たり、全体を見たり、

部分的に見る時、善悪も、幸・不幸も、老いも病気も現われる。

全体的に見る時、善悪も、幸・不幸も、老いも病気も消える。

生きることは、部分的に見ていること。喜んだり、悲しんだり。勝ったり、負けたり。

全体になれば、無我になれば、勝っても負けても、どちらでも好い。

時に部分をみて、悲しんだり、喜んだり。

時に、全体をみて、安らいだり。

生きたり、死んだり、自由自在は素晴らしい。

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June 15, 2014

神と人間を行ったり来たり、

人間は、自分の利益を追求する自利の要素と、他の為に働く利他の要素をもっている。

人間が、利他の時には神になっている。

自利の時は"つかむ"時、利他の時は"手放す"時。

自利の時は、黒の世界。利他の時は白の世界。

真っ白の世界は、永遠なる安らぎ、自由がある、全てがイエスキリストの世界、菩提心の世界。自己犠牲を歓びとする世界。

人間は、白と黒の混ざった存在、真っ黒の世界には安らぎも自由も無いことに気づいた人は、精進して、真っ白の世界を目指す。

昨日の住職の言葉を読みかえしながら、快晴の6月の朝。

ワールドサッカーもあれば、イラクでも、ウクライナでも内戦激化。真っ黒の世界に、光をと想う。


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June 14, 2014

うなだれ、今にも気絶しそうな、死刑囚の母の写真、イラン

今年4月中旬のことだったと云う。イランで公開処刑の直前の刑場で、観衆の最前列で、うなだれて立ちあがれない、処刑される囚人の母親の写真を、昨日、インターネットで見た。

喧嘩相手の男性を殺した囚人は、怯えた様子で、刑場で、黒い目隠しをされ、絞首台にかけられる直前、被害者の母親は、群衆に向かって語りかけた。

母親は、殺された息子のことを思ってどんなに苦しかったかを語った。また、最近、殺された息子が、夢に現れ、あの世で、安らいでいると云う夢を見たと。

さまざまな心の葛藤を経た上で、被害者の両親は、処刑の直前、その囚人を赦し、処刑は中止された。

被害者の母親は、囚人を、平手打ちして、両親で、囚人の首からロープを外した。

うなだれて気絶しそうだった囚人の母が、赦してくれた被害者の母を、泣きながら、抱きしめる姿の写真もあった。

もう、言葉は,何も要らない。

万巻の経典にもまして、多くの感動と学びを与えてくれるシーンでもあった。

http://photo.sankei.jp.msn.com/kodawari/data/2014/04/18iran/


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June 13, 2014

世界史の中に、

今朝、TVをつけるとブラジル・ワールドカップの開幕戦、ブラジル対クロアテイアの試合をやっていて、ブラジルのネイマールの2点目、オスカルの3点目のゴールを見た。ブラジルは逆転で3:1、ブラジルが湧いていた。

日経新聞の一面には、「クルド・油田都市掌握、武装組織攻勢の間隙つく」と、イラクの三つ巴の内戦劇化の様子を報じていた。「スンニー派武装勢力は、バグダッドの南90キロにある街を制圧」ともある。

2011年12月の米国の撤退後、イラクは、治安を維持できず、分裂・内戦に向っているように見える。米国の力による民主化も、限界があったことがわかる。シリアも内戦状態が常態化している。 ウクライナも分裂・抗争が続いている。 人間の中の闇のように、社会にも、どうしようもない闇があることを想う。

世界には、同時並行して、色々な社会や、人間の生き方が展開している。

2014年、6月、私は、世界史の中に、現実として、生きていることを想った。

スワミ・ヴィヴェーカナンダ師の言葉を想い出す。「私は、改革を信じない。霊性(徳)の向上を信じる。」

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June 12, 2014

不幸の安らぎ、

人は皆、色々な苦しみ、不幸を抱えて生きている。 思い通りにならないことの中、幸せを求めて生きている。

そんな人生で、自分だけ、順風満帆で、幸せ一杯で、安らげるだろうか?、

多くの人の苦しみの中、自分の幸せを謳歌出来るだろうか?

人は、不幸でなければ、仲間になれない。 不幸であることは、仲間の印。

皆が、同じように不幸なら、理解しあって、助けあって生きていける。

思い通りにならないことがあっても、不幸であることは安らぎでもあると思う。

多少の不幸は、船の安定のための重しの様なもの。 重しのおかげで、風に吹かれても大丈夫。

今の私は、自分に似あった、ちょうど好い不幸をまとっているのだと想う。 それで、よし。

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June 11, 2014

か細い声で、「パパ、パパ」と呼んでいた"りくちゃん"5才の餓死、

5才の仏さまの話を知った。

神奈川県・厚木市のアパートで斎藤りくちゃん(11年前、当時5才)が白骨化した死体が発見された。

トラック運転手の父親は、週に1日、2日しか帰らず、"りくちゃん"は、ガリガリに痩せてしまったと云う。

父親(現在36才)の供述によると、死亡に気づく一週間前、「立ちあがることも出来ず、か細い声で、"パパ、パパ"と呼んでいた。 その場にいるのが恐くなり、1時間も一緒に居られず、家を出た」とのことが書かれていた。

私は、その声を、想像すると、いたたまれなくなった。

悲惨な人の中に神はいると、住職からも何度も聴いて来た。 人間の醜さ、罪を一身に受けいれて逝った りくちゃんのことを想った。 イエスキリストの悲惨な姿も想った。

"りくちゃん"は、薄れて行く意識の中で、「パパ、パパ」と、呼べただけでも、幸せだったかも知れない。

人は、気づかないだけで、それぞれに罪がいっぱい溢れている。

それを、優しいお父さんだと思って、「パパ、パパ」と呼びながら死んで逝った"りくちゃん"は、仏さまだったと想う。

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June 10, 2014

今年も神田川のホタル、

今年も、昨日、会社帰りに、井の頭線・久我山の神田川へホタルを見に行った。

気づくと、この3年、毎年、ホタル祭りの終わった翌日の月曜日に、会社帰りに立ち寄るようになった。立ち寄る、駅前の居酒屋さんも同じ。今年も、元気のいい女将さんが、覚えていてくれた。1年振りに、店に入ると、女将さんは、TVのBSの操作に難航していて、いきなり、私に、端末操作を手伝ってくれとの気さくさ。祭りの翌日だから、店は静かで、お客さんは、最初私一人だけ、暫くして、また去年と同じお客さんが入って来て、毎年、同じパターンに、思わず笑った。

お酒を軽く飲み、ほろ酔いで、小雨の中、傘をさして、神田川沿いの小路を歩いた。人影はまばら、1日前の祭りなど全く無かったかのような静けさ。 神田川に沿って続く、暗い小路を歩いていると、時折、ふわり、ふわりと、神田川にホタルが舞った。そして、川を覗き込んでいたら、一匹のホタルが、私の直前まで近付いてくれた。

今年も小雨の中、神田川のホタルを無事に見れたこと、あぁ6月だなぁーって感じた。

そんなことだけでも、人生の安らぎ。

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June 09, 2014

アナと雪の女王、愛は離れてもよい覚悟、

昨日は、また雨警報で急遽予定変更、映画・アカデミー賞受賞作、「アナと雪の女王」を、世間で騒がれる意味を確かめる為に見てみた。

デズニーの持つファンタジーはやっぱり凄い、私自身も子供時代に、うっとりしたが、私の娘も同じだった。娘が子供時代に、よくビデオとかでも見ていたデズニーの世界を想い出した。

私は、映画の中で、時折、強烈な、仏さまのような言葉に、一気に感動の渦に撒き込まれる想いだった。

女王の妹・アナを雪の中で助けた、山男が、魔法でアナの心に刺さった氷の針を溶かすには"真実の愛"でしか溶かせないと聞き、急いで、トナカイの馬車で城で待つ許婚のもとに送り届けて、城をあとに山へ帰って行った。

「愛とは、自分より他の人のことを想うことだよ!」、ゆきだるまの精が云った。
真実の愛なら、自分はしゃしゃり出てこない。愛する人が幸せなら、離れて行く覚悟はできている。

結局、城で待っていた許婚は、真実の愛ではなく、皇女の地位を狙った政略的愛であったことに、アナは気づく。

ゆきだるまの精は、氷ついたアナの身体を、暖炉の火で暖めようとすると、アナは火から離れてと雪だるまの精に云うが、「私は溶けてもいいです、(アナが幸せなら)」と云う。

デズニー映画の中にも、キラキラ耀く、仏性のような世界が、散りばめられていたことに気づいた。エゴの消滅は愛、それが宇宙の意思、それが神の世界。


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June 08, 2014

雨の中、明治・大正・昭和の街を歩く、江戸東京たてもの園、

昨日は、当初予定していた、埼玉在住の高校時代の先輩との約束が関東地方の大雨警報で延期になり、武蔵小金井にある江戸東京たてもの園を初めて訪れてみた。

"千と千尋"の映画に出てくるような街並みや建物があり、2・26事件で襲撃された高橋是清邸も移築されていた。青年将校達が、踏み込んで来た部屋や階段の様子が、現場を見るような想いにもなった。

広大な小金井公園の中にある、様々な昔の建物の展示のことを、私が、今まで知らなかったことが驚きだった。大学時代、親友が慶應大学の小金井の寮に住んでいて、小金井にはよく来たが、寮と駅前の居酒屋しか見ていなかった。近くには玉川上水が流れ、静かな、緑溢れる場所だったことを、今になって知った。

昨日は雨の日だったから、"たてもの園"を訪れる人も少なく、私1人に、ボランテイア・ガイドの方が、2人も連いて、建物を約2時間に亘って案内して下さった。ガイドさんの1人は、昨日が初めてガイドする日だったそうで、私が最初のお客さんだったとのこと。3人で回ったので、私も、時折ジョークを飛ばしながら、色々な説明が聴けた。

大正や昭和初期の商店や居酒屋なども、何か心安らぐ光景だった。醤油の秤売りの様子も再現されていた。

私は、いつも観光地ではするように、英語のパンフレットを貰い、将来、英語ガイドで外人を連れてくる日の為に、勉強する材料にした。 名古屋の明治村、東京の生田緑地の民家園、それとこの江戸東京たてもの園は、建築に関心ある人には、とても印象に残る場所だと想う。

昨日は、東京オリンピックへ向けて、観光ガイドの勉強への意欲を新たにした一日でもあった。

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June 07, 2014

悪人はどこに、自分が悪人と気づくことの偉大さ、

世間で誤解の多い、"悪人正機説"(悪人こそが救われ易い)に就いて、親鸞上人の真意を調べていたら、ハッとする気づきに出会った。

どんな小さな悪も見逃さない仏の眼からみれば、全ての人は悪人である。

自分の善行によって往生しようとする行為は、どんな悪人でも救済すると云う阿弥陀の力を疑うものである。

善と思い行った行為が、縁によっては、善果をもたらすこともあれば、悪果をもたらすこともある。どの様な結果を生むかわからないのも「悪」である。

阿弥陀の光明に照らされた時、自らは、まことの善は、何一つ出来ない悪人であることに気づかされる。

そんなことを読みながら、私は、 悪人は自分の外にイメージしていたが、自分の愚かさを痛み知った。

悪人が、こんなに自分の内面に、身近につきまとっていたことを知り、愕然とした。

「あざみ草 我が身の棘 を 知らずして 花と思いし 今日の今日まで」、母から教えて貰った句を想い出す。

先ず、悪人を自覚することから、光ヘの道は始まる。
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June 06, 2014

2003年から満洲に8回行った人の話、

先日、満洲の会で、2003年から11年間に8回も満洲・鳳城に行かれた人のことを知った。

その人は、満洲・鳳城で生まれ、生まれて3日後、お父さん(警察官)が、鳳城の付近の鉄道の事故で亡くなられたと云う。 長年、その事故現場を探してこられやっと、最近探しあて、その現場付近に花を供え、両親の写真を飾り、供養されて来た写真を見せて貰った。

当時、警察官なども、列車の来ない間、鉄道の線路を利用して、小さな荷台の車で移動していて、運悪く、通りかかった列車に巻き込まれて殉職されたのだと云う。

北朝鮮国境近くの安東から38キロ、鳳城から28キロ くらいの鉄道のカーブしている場所だったと云う。

父親と一緒に生きた人生は、たった3日だけだった方が、終戦から69年を経て、やっと、亡くなられた現場を探しあて、合掌されてる姿は、強烈に印象に残った。

亡くなったお父さんの霊は、息子が、よくぞ、こんな苦労して、場所を探して、供養に来てくれたと想ったに違いない。

私と弟は、その写真を、暫く見ていました。


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June 05, 2014

不忍池、 さようなら満洲の会、

昨日は、上野・不忍池の畔にある鴎外荘から出社した。

一昨日の夜、満洲の会・鳳城会が、鴎外荘で最後の宴を開催し、私も、宴に参加し、鳳城の縁者の方々と、鴎外荘に宿泊した。

戦後、引き揚げて来た私の親の世代が、長年続けて来た鳳城会が、最近、もう高齢化で、全国から人が集まらず、今年の会を以て最後とする趣旨の会だった。(今回は13名の参加であった_)

それでも、雰囲気は全然沈んでおらず、やはり、戦争を経て来た人達の、人生の処し方・覚悟は違うなーと関心した。次回は、(鳳城会を)"偲ぶ会"に切り替えだ、とか冗談も飛ばして酒を飲んでいた。

九州から参加した先輩は、"満洲娘"をみんなの前で歌わせてくれと自分でリクエストして、歌ってくれた。 勿論、私も父が歌っていたのを聴いたことがある懐かしいメロデイーだった。

早朝、夜が明けて、静かな旅館の4人の部屋で目覚めると、そばに寝ている先輩達の姿に、父親の時代が現実に帰って来たようで、愛おしく感じた。

ある先輩は、子供の頃、鳳城で川遊びをしている夢を見たと云った。

朝、不忍池の畔、鴎外が舞姫を発表した住居跡から、出勤のため、上野駅まで向かう気分は、満洲の時代や、鴎外の時代を想起させてくれて、遠い世界に旅したようだった。


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June 04, 2014

ネルソン・マンデラと云う"菩薩"、 キラキラと輝いて、

"ネルソン・マンデラ、自由への長い道"と云う映画を見た人からの感想を聴き、また、マンデラ(1918年~2013年)の凄さに圧倒された。

南アフリカの人種隔離政策に反抗する運動で、1964年から終身刑で、ケープタウン沖合いの孤島の刑務所で、石炭採掘など重労働をさせられていたマンデラ受刑者は言ったと云う。「獄中で白人警官が時折、善意のかけらを見せることがありました。実を云うと、自分達は、そうした善意の一瞬の輝きに励まされ、その後の苦しみに耐えられたのです。」

1990年釈放、1994年、全人種参加の選挙で、第8代大統領に就任、南アで黒人初の大統領となった。

「人は、他人のために行動を起こした時にこそ、本当の人間になれる」と彼は云っている。

マンデラは、復讐はしないと云いきった。「 人は、憎むことを覚える。 ならば、愛することを、学べるはずだ。 その方が、人の心には、ずっと自然だから。」

彼は、大統領になって2年後、政界から引退した。彼は、同一人物が、続けてトップにいることの弊害を、一番よく認識していた。

彼を描いた映画にも、彼も欠点だらけの人間であった過去を、彼はわざと描かせようとし、そうさせていると云う。彼は、賞賛一辺倒の人間で描かれて、人生を終えたくはなかったと云う。

私は、"菩薩"とは、この様な人のことだと直感し、合掌したくなった。

(2014年6月3日の記)

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June 03, 2014

パニックで泣きじゃくる幼児の女の子、出勤途上の小道で、

昨日の朝、駅への小道で、遠くから、道に座りこんで、足をバタバタして、激しく泣きじゃくる女の子が見えた。 その先に、距離を置いて、若いお父さんが、怒った顔をして、女の子の方を見ていた。

泣き止んで、云うことを聞いて、お父さんの方に近づいて行くかなーと私も、祈っていたら、お父さんが更に泣き止まない女の子をその場に置いて、背中を向けて駅の方に歩きだした。 女の子は、お父さんから置いて行かれる余りの恐さで、地面から一度立ちあがり、またその場で、パニックで痙攣する様に、激しく泣き出した。

私は、もういたたまれず、お父さんに近づいて話しかけた。

「このままだと、この子の世界は、真っ黒になってしまいます。 今はただ抱きしめてやってください。」と、目頭を熱くしながら、語りかけた。 沈黙の後、恐かったお父さんの顔が、少しやわらかくなったことを確認して、私はまた、駅ヘ向かって歩き出した。

暫くすると、後ろの方で、女の子の泣き声がしなくなっていた。 お父さんに、また抱っこして貰ったのだと確信した。

私は、もう、今日一日を十分、生きたと感じ、嬉しかった。

女の子、お父さんに、優しさが返って来るお手伝いをしたのだと想った。 そんな、知らない親子との出逢いも、縁だったのだろうか。

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June 02, 2014

船に予め取り入れる海水・バラスト水の安定、人生航路

最近の海難事故、韓国のフェリー・セオール号は、船の重心を低く安定させる為の海水の取り入れ(バラスト水と云う)を少なくして、荷物を上の方に多く積んでいた為、重心が高く、傾斜した時にバランスを崩し、制御不能に陥って沈没した。

私は、この船の航海技術と人生が似ていることを想う。 安定の為に船の中にわざと海水をいれて、船をある程度沈めて安定させる技術のことを。

人生のバラスト水とは、"思い通りにならないこと""不幸"。

バラスト水が無いと、人生航路も、風に煽られた時、大きく舵を切った時に、復元力を失い制御不能になる。

船を沈めてしまう海水も、多からず、少なからず、取り入れてこそ、船は安定して、すいすいと大海原を進む。

今日も、私の人生のバラスト水は十分にあるかチェックしてみよう。ちょっと十分過ぎる気もするが。

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June 01, 2014

清々しい"一期一会"、

淋しさからくる"一期一会"なら闇、 もう死んでもいいと云う気持からくる"一期一会"なら光。

今までの人生への感謝の気持から、もう死んでもいいと云う気持になって、その後の"一期一会"は、淋しさが消えている。

サラサラと、耀いて流れる小川の流れのような瑞瑞しさを感じる。それは、エゴ無き世界。

流れそのものが、永遠を現している。

それを、私は、"清々しい一期一会"と想う。


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