« February 2014 | Main | April 2014 »

March 31, 2014

孝道山の桜、朝日を浴びたベイブリッジ、

今朝、ヴェランダから見ると、東白楽・孝道山の桜が満開になっていた。

東の方は、遠くに、朝日を浴びたベイブリッジ、車が通る様子も小さく見える。

空気が気持好い。

新聞を見ると、東京の桜は昨日、満開になったとか、これから1週間、東京は桜の乱に撒き込まれる。

写真も撮って、海外の友人達にも送ろうと想う。

色々な想いを込めて、桜を眺める。

| | Comments (0)

March 30, 2014

これしかなかったと想う人生、そしてこれからは白紙、

昨日の不図した心境、今までの人生に心からこれしかなかったと思う。今の自分が不満足でも、他の生き方があったのだろうかと想う。

これからは白紙、そして新しい人生が拓ける。

幸せも不幸も、穏やかに、手玉に取るように味わえると想う。

ほどよく人生が醸成したのだろうか、ウイスキーやワインのように。

何年もののウイスキーとかワインとか云うように、経て来た人生のビンテージ。


| | Comments (0)

March 29, 2014

桜の頃、変化の時、寂しさと新しい世界への期待の時、

4月1日は、異動時期でもあり、退職される人もいて、昨日も異動・退職の挨拶で来社される人、挨拶メールをくれる人などが多かった。桜の頃は、新しく始まる時でもあり、お別れの時でもある。

新しい世界への入口と、今までの世界との別れの寂しさを、桜は想い出させる。

卒業の寂しさ、入学の期待、人生も、いつも、この二つが同居している。

卒業だけを見ることは寂しいこと。それは留まること。

"行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず"、変化して行くことが生命の証し。

無常は、無我に於いて、安らぎとなる。

| | Comments (0)

March 28, 2014

会社帰り、娘との夕食

最近、神戸から東京に転職して東京に帰って来た娘から、会社帰りに夕食しないかと、昨日、昼頃メールがあり、急遽、二人で夕食をした。

娘の希望で、愛宕森タワー42階のイタリアン、昨日は雨も上がり、東京湾を一望する夜景も綺麗だった。娘は、携帯で夜景をバチバチ写真に撮っていた。

大学(建築科)卒業後、キッチン設備などの営業職で、バリバリ働いている娘と、仕事や人生に就いて語り合った。

父と娘が、お互いにビジネスマンとして、会社帰りに会食する機会は、今の時代だからこそ実現したことかと、幸せに想った。

娘が、最近住み始めた目白のアパートにも、近々、見に行ってみたいと思う。

親の生き方は、夫婦としては反面教師として見れば好し、親子としては、子供の頃からふざけて遊んでいた頃の、楽しさのまま。

"人生に問題は何も無い、あるのは自己を学ぶ暗示のみ"とか、今の娘には、理解するのは難しいかも知れないが、私は、最近の私の人生観を発信し続けている。娘も、そのメッセージを受信して、穏やかに安らいで人生を送って欲しいと想う。

| | Comments (0)

March 27, 2014

江戸時代の浮世絵の中に、

元住吉に、いつも有線放送の演歌が流れる居酒屋がある。

私が時々一人ふらりと立ち寄る居酒屋。私は、カウンター席で焼酎のお湯割りを飲みながら、演歌を楽しむ。

カウンターの中のマスターは、無口な高倉健タイプ。客は、地元のサラリーマンや、地元の人達。

100年か200年後くらいになれば、将来の人から見れば、このような居酒屋の光景は、江戸時代の庶民の風景を描いた浮世絵のように見えるだろうと想い、嬉しくなる。私が、その浮世絵の中にいるのであるから。

その当時の庶民の暮らし振り、風物など、しげしげと、居酒屋の中を見回して見る。現実なのか、映画のセットの中なのか、浮世絵の中なのか、区別が薄れるところが好い。

ちょっとほろ酔いで、居酒屋を出る。江戸時代の庶民が、駅へ歩いて現実へ帰って行く。


| | Comments (0)

免疫力向上、若返りの栄養素、

今月は、免疫力向上、老化防止などについて、調べてみました。
1.免疫力の大敵達、
(1)加齢: 40過ぎたら年と共に低下、特に65歳頃から、要注意。 →放って置くと危ない。
(2)偏食・ダイエット・暴飲暴食、
(3)肥満: 脂肪細胞は過剰になると、免疫機能を乱し、アレルギーを引き起す。
(4)ストレス・睡眠不足、
(5)煙草・アルコール・紫外線、

2、 免疫力を良好に保つ栄養素、
(1)タンパク質 (免疫細胞・抗体などの構成成分になる) : 大豆食品など、
(2)ビタミン A・C・E・ポリフェノール、: 果物など
(3)食物繊維: 野菜・キノコ・大豆・海草・果実・穀類など、

3、 心臓が、癌にならない理由、(「人体の地図帳」・青春出版社から)
(1)心臓は高温。 心臓は、体重の0.5%くらいの重さしかないのに、身体全体で作りだされる熱の10%以上を作りだし、温度は常に、40℃くらいに保たれている。 ← 熱に弱い癌細胞。
(1)脾臓も高温の為、癌になり難い。
(2)心臓は横紋筋 と云う筋肉から成り立ち、細胞分裂・増殖の能力の少ない細胞で構成。 ← 癌は異常増殖する細胞。

4、 筋肉を増やせば、老化は防げる( 「50 才から輝く人」 幻冬舎、戸澤明子著 から)。若返りの敵は、無重力。 重力のかかる生活こそ健康への近道。 筋肉は熱源。身体の左右均等に重力をかける。短時間の強めの運動で、ミトコンドリア(細胞の中のエネルギーを作りだす器官)を増やす。

5、 ビタミンAは、老化の進んだ肌を若返らせる効果もある。ビタミンA は、紫外線ダメージを修復する。緑黄野菜に多く含まれる

6、 ビタミンCは、肌のハリや弾力を保つコラーゲン・エラスチンの生成に不可欠。ビタミンCが不足すると、シワやたるみができやすくなる。

7、 GI 値(血糖指数)の低い食品は、老化を防ぐ。 過剰なインシュリンが、老化を招く。野菜の多くはGI低め食品: 青菜・大根・ブロッコリー・キャベツ・ピーマン・ナス・アボガドなど。納豆などネバネバ食品も、糖分吸収遅らせ、インスリンの出を抑える。以上、

| | Comments (0)

March 26, 2014

余命2 週間、 ミジンコの場合、それが一生、

先日、ジャズミュージシャンの坂田明さんの趣味・ミジンコの研究の映像を見ながらの講演で、ミジンコが生まれてから寿命が約2週間と聞いた。

人間の小腸の絨毛細胞の寿命は24時間、赤血球は120日など、想い出した。 人間は、平均寿命80数年など云うが、それは、人間の身体全体として見た場合の話。 60兆の細胞には、それぞれに細胞毎に寿命がある。

人間にとって、あと2週間の命とか云えば、凄い悲しみの印象であるが、ミジンコに取っては一生の長さ。

人間を構成する細胞(個別の生物)も、数日から骨で7年など、バラバラな寿命を持ち、それらが集まって、人間と云う個体の寿命を、また構成している。

そう考えると、余命1年とか、余命数カ月とか言葉の持つイメージが変わる。

私の赤ちゃん時代の細胞は、物理的には既に跡形もなく消えて、今の私は、何度も生まれ変わって来た自分であることを想う。 鏡の中には、自分にそっくりの似た人が、何回か造り換えられて来ている姿がある。

そのように、色々な長さの寿命の生命があり、長くても、短くても、「今」と云う瞬間に於いては平等。

「今」と云う一瞬の輝きが、永遠の輝きのようにも想えて来る。


| | Comments (0)

March 25, 2014

不幸は人生の勲章、

人は、不幸に於いて、他と繋がっている。世間で云う幸せを自慢する時、人は一人ぼっちになって行く。

世間で云う成功をしたとしても、人と繋がっていなければ、真の安らぎ、幸せを得たとは云えない。

それぞれの人の不幸は、寧ろ勲章のようにも思える。

不幸を共有した時、人は繋がる。その時の哀しさは、寧ろ切ないまでの安らぎとなる。

それは、世間で云う幸せ、を遥かに超越した真の幸せ。

皆とともにある安らぎ。自他一如の安らぎ。それは、もう神の世界。

宇宙は、神の世界は、自己犠牲(エゴの崩壊)で成り立っていると云う。

堂々と不幸を味わえばよいと想う。不幸は、人生の勲章、神の世界を垣間見る入り口。

| | Comments (0)

March 24, 2014

知の観光、ミジンコ、平家物語など、

昨日、思いがけず知ったこと、"知の観光"のように思った。

ジャズミュージシャンの坂田明さんの講演で、ミジンコの映像を見ながら、ミジンコが2週間の寿命で、脱皮する時、自分でクルクル周り、遠心力で自分の殻を脱ぎ捨てる様子。私の知らないところで、壮大に繰り広げられている生命の神秘を想った。坂田さんは、映像に映ったミジンコに清少納言とか茶目っ気のある名前を付けて、会場を笑わせたり。

また、坂田さんは、琵琶の平家物語に触発されて、自分で、アルトサックス・クラリネットを交えながら、自分のしゃがれ声で、「♪祇園精舎の鐘の音♪・・・」を吟じてみたり、自分の人生で見える光景を、自分流にのびのびと表現していた。「勝手に、ドサクサに紛れて、私は、木曾義仲の自害の時の叫び声を挿入しました」とか、その自由な表現振りに唖然。会場の子供達は、そのしゃがれ声に、ケラケラ笑う子もいたり、幼稚園の雰囲気もあり、可笑しかった。

語学研修クラブ・ヒッポファミリークラブの本部(渋谷)での講演なので、会場は、小中学生・高校生・お母さん方の約100名くらい。 "音楽と言葉は友達"と云う、意味合いの講演、そしてミジンコの映像に生命を透けて見るような神秘を感じて貰うような企画。面白い、芸術的な企画だと思う。

帰りに、これから大学生になる男子高校生二人や、父兄の方と喫茶店で話をしたのも愉しかった。高校生時代の自分を想い出しながら、まるで、これから登山する人に、山の形状を知らせるかのように話をした感じだった。

帰りの電車で、その高校生のお父さんである友人が、電車マニアで、「東横線の電車は、目をつぶっていても、線路のポイントや、橋の上の音で、今、どこを走っているかわかります」と云う発言に、可笑しくて笑ってしまった。

ミジンコの一生、平家物語勝手版、電車の線路の音の判定マニア、これは、おもがけない世界を見せて貰ったと想った。ジャズの演奏のように自由に奏でられてる生命の世界を想った。それは、心地好い、驚きも交えた、知の観光でもあった。     


| | Comments (0)

March 23, 2014

神と我、一体感と相対感の同居、

故郷に帰った時の山々、街並み、自分が風景に溶け込んで自分が消える感覚。一方、自分が見ている懐かしい光景の相対感の同居と云う奇妙な調和。

私も、故郷も全て、神に包み込まれている感覚。

言葉では表せない、絶言絶慮の世界。

切ないまでの安らぎ、心のうずきのような安らぎ。

今年1月、住職が故郷・奈良の三輪に帰られた時の感覚を、そんな風に表現されていた。

エゴ無き世界の一体感の安らぎ、五感六識の感じる相対感の、共存を想った。

生きてもいない、死んでもいない世界。

一体感と相対感が自由自在ならば、確かに、絶対大丈夫の世界が拡がっている。

| | Comments (0)

March 22, 2014

卒業式、入学式、ピカピカの一年生、桜の頃、

昨日、横浜みなとみらいを歩くと、和服の卒業式姿の女性を多く見かけた。

そうか、卒業式シーズンかー、と感慨。

そばに、小さな坊主頭の男の子達も走っていた。その男の子の頭が、マルコメ味噌の宣伝みたいで、頭を触りたくなったり。♪ピカピカの一年生♪か。

桜の頃、人生のページをめくる。

サラサラと、サラサラと流れる人生の川。ととまらず流れるからこそ、みずみずしい人生。

全ての存在が我なら、無常は無我の安らぎ。無我は、無常を安らぎに変える。

| | Comments (0)

March 21, 2014

一言経典、"観光""Delight""Present"、

観光は、光を観ること、と考えて試ると、凄い言葉だと気づく。目で見える外界の事物に、その背後の光(神の館)を観ること。素晴らしい景色、情景に人は感動する。また、それを、光の姿、"光景"とも云う。

観光は、光を観ること、それは感動、生きている歓び、親から貰った命への感謝、延いては神への感謝、宇宙への感謝。

"Delight"は"歓び"の意味。英語で"De"と云う接頭語は、"脱"とか"否定"の意味を持つから、"Delight"とは、光が無い世界とも解釈され、何故Delightが歓びと云う意味か、私は長年の疑問だった。そして、禅の思想を学んで、凄い表現であろうと云う、自分なりの解釈に最近、到達した。「闇があるから光がある。光の中では、もう光は無い」、これは、住職に何度も聴いて来た言葉。 光の中では、もう光は消える、即ち、永遠にして安らいでいる世界であることと結び付いた。

"Present"は、"現在"と云う意味と、"贈り物"と云う意味がある。"今"が"贈り物"と想えば凄い言葉。まさに禅の"今ここ"を連想する。

観光・光景、Delight、Present、短い言葉でも、万巻の経典のような教えを感じる。

| | Comments (0)

March 20, 2014

94歳助産婦さんとの再会、

昨日、九州の弟が生まれた時の助産婦さん(現在94歳・相模原でご健在)と、50数年振りに再会した。東京に単身赴任中の弟とともに、会社を午後半休にして、相模原に出掛けた。

1年前三池高校の大同窓会で息子さんも見えていた時は、お互いに、故郷で近所の者どうしと、全く気づかない程、忘れてしまっていた。名前を聞き、同窓会が終わって、帰宅後夜になって、突然、亡くなった母が、親しくしていた、近所の助産婦さんの名前が閃き、再度連絡取りあってみると、お互いの母親どうしがとても仲良くしていたことも、私の弟が生まれる時にお世話になった助産婦さんであることもわかり、大感激であった。

母は、昭和36年、自宅前の助産婦さんの家に滞在して弟を生んだ。弟は、3600グラムの大きな元気な赤ちゃんで、安産であったこと、妹が毎日、赤ちゃんを覗きに来ていたこと、私も来ていたとのこと。

その助産婦さんの息子さんも、妹さんも見えて、私と弟と、5人で、夕方から夜8時くらいまで、時を忘れて話込んだ。互いの昭和30年代の日々の暮らしの模様が、次々と蘇った。まるで、日中離散家族の再会のようでもあった。

貧しい時代だったが、ほのぼのとした時代だった。近所のコロッケ屋さん、豆腐屋さんのことも、住んでいた町内のおじさん・おばさんの性格なども、想い出せば、皆役者のよう。

おばさんは、別れ際に、94歳故か、別れを惜しんで涙を流された。弟も、私も、ジーンと来た。

今回、弟と、弟が生まれる時に取り上げて下さった助産婦さんとの再会の機会を作れたことは、私も兄として、また、母への供養としても、大変嬉しい日となった。

また、昨日の夜、天国の母へ、心の中で電話して、夢中で昨日のことを報告した。

| | Comments (0)

March 19, 2014

徹底的な無常観に打たれて、

今日は、住職が約50年前に高校卒業後すぐ、奈良の寺に出家された日。

幼少の頃の母との別れと云う徹底的な無常観に打たれて、若くして出家の道へ入られた日。

徹底的な無常観に導かれて、ここまで来られた。

無常観は、"どちらに転んでも好いと云う世界"を求めさせたと、住職はおっしゃる。条件付きの幸せでは駄目だと。

そして、あったんです。そんな世界があったんですと、力強くおっしゃる。

永遠にして、安らいでいる世界の光景を、仏法や、ヴェーダンダ哲学の言葉を交えながら、住職は、いつも語って下さる。

今日は、住職が出家された、奈良の慶田寺の光景を想う。

| | Comments (0)

March 18, 2014

横田早紀江さんの笑顔、

昨日、(拉致被害者の)横田早紀江さんが今まで見せたことの無かった笑顔の写真が報道されていて心が安らいだ。

モンゴル・ウランバートルで、3月10日~14日、めぐみさんの娘・キム・ウンギョさんと会えて、帰国、17日、川崎で記者会見された時の笑顔の写真だった。

横田早紀江さんは、「めぐみの面影を感じながら話しました」と、「夢のよう」と記者団に語った。

祖父母と孫として、静かに会いたいと思ったことが実現しましたと。

めぐみさんの安否について、滋さんは、「(ウンギョさんが)知っていたとしても、余り話せないと思う。触れることは無かった」、早紀江さんは、「政治的な話はしたくなかった。きっと元気でいるに違いないと自分で思うことにした。」と語った。

早紀江さんの、笑顔の写真は、何度見ても、合掌したくなる笑顔だと想う。

心の阿修羅を乗越えて、早紀江さんは、菩薩の境涯となられたのかも知れない。

| | Comments (0)

March 17, 2014

おびただしい数の施しを受けて、

自分に無いものは、普段いつも意識しているからこそ、人はいつも不幸になれる。

自分にあるものは、普段忘れているからこそ、人は、いつも幸せを、見落としている。

朝目覚めて、見る外の景色一つとっても、贅沢な景色、ただ(無料)である。多少病気であったとしても、60兆もの細胞が活動している人体。これも両親から貰ったもの、ただ(無料)である。暖かく寝る場所もある、誰か、私の労働にお金を払ってくれる人がいる。お金を払ってくれる人との出会いは、誰が計らってくれたのだろう?自分の持ち物は、数えてみると、おびただしい数字になると思う。平凡に生きていても、他から施して貰ったもので、もう億万長者並みである。

自分に無い物もおびただしいが、自分のあるものもおびただしい。

差を比べて見れば、大金持ちの人がいたとしても、それは、1兆円持った人と、1.1兆円持った人の差のようなもの。

大金持ちとの差は、人生には、全く影響に意味の無い差のように見える。

本来は無一物の私。私が、本来所有するものは何も無い。そして人は皆、本来、無一物。

自分に、今ある、おびただしい沢山の恵み、他からの施しの有難さを想う。

| | Comments (0)

March 16, 2014

ふるさと大牟田会、2014年春、新宿にて、

昨日午後、第4回・ふるさと大牟田会(勉強会)が新宿新宿区立産業会館(BIZ新宿)で開催され、私も、郷里の話を聴きに、心ウキウキしながら参加した。(88名と云う縁起の好い数字の参加者だったとのこと)

平安時代以来、日本の5剣の一つを造った有名な刀鍛冶(刀匠・三池典太)がいた話、飢饉の対策に1674年建造された眼鏡橋(水道橋)のことなどを勉強した。そして昨年の大牟田市の10大ニュースを、近況を交えて、大牟田市長(古賀市長)さんから、直接プレゼンテーションして頂いた。

全ての話が、ずーっと、子供時代、中学時代・高校時代の私が見て来た大牟田の情景が浮かんで来て、当時の両親・兄弟との時間が蘇って来る感じだった。

一番、今の大牟田で嬉しく、印象的だったのは、"安心して徘徊できる町"を目指している、可愛らしい町であったこと。徘徊高齢者を隣近所、タクシー、バス、郵便局、駅、ガス会社、薬局など、町ぐるみで愛情ネットワークで捜し出しサポートする、仕組みを作って、全国でも有名になりつつあること。徘徊模擬訓練までやっているとのことであった。

炭鉱の町であったが、市の財政改革は進み、4年連続黒字に転換する堅実振りも、頼もしかった。私の子供の頃には無かった帝京大学の誘致と拡大、炭鉱の遺産の世界遺産登録申請なども。

今年は、大蛇山祭りの映画が封切られる予定とのことを、地元映画監督・港健二郎さんから聴いた。大津英敏画伯の多摩美術大学教授退職記念絵画展(4月7日~21日)の予定も知った。 作家の西村健さんは、吉川英治文学賞に続いて、最近「ヤマの疾風」で大藪春彦賞も取られたと云う。彼の大牟田弁のトークと、大牟田弁の分析に会場は大爆笑。

昨日は、ほんのりと、大牟田の空気に包まれて、天国の両親に電話したくなり、夜、妹や弟に電話した。そんな、大牟田の空気に抱かれた休日だった。

| | Comments (0)

March 15, 2014

「私はどうなってもいい」と云う仏性、震災の日生まれた赤ちゃん、

先日、震災の日(2011年3月11日)に生まれた赤ちゃんのその後のことがTVで報道されていた。今年で3歳の女の子。響桜(きょうか)ちゃん。

遊左友美さんは、震災の日、女の赤ちゃん(響桜ちゃん)を出産した。当時、シングルマザーとして決断の出産だった。地震の恐怖の中、「私はどうなってもいい」、「この子を守りたい」と想ったと云う。

「私はどうなってもいい」と云う境地を体験をする人は、人生最大の安らぎだと想う。それは、神の働き、宇宙そのものの働き。

「相手はどうなってもいい、私が好ければ」が、その正反対の地獄の苦しみ。ストーカーも然り。

エゴ、私が消える愛、そのような瞬間があれば、人生に確かな光が灯る。


| | Comments (0)

March 14, 2014

ヒットラーを止めること、これは仏性、 戦争と平和

大勢の人が虐殺されて行くならば、人の心は、それを傍観者として放置出来ない。

ヒットラーが肉親であれば、ヒットラーを殺さずに、大量に殺されて行く他人を放置出来るだろうか?

大勢の人を救うためには、たとえ肉親であっても、戦わねばならない時がある。

人が悪魔の本性を現した時(ヒットラーになった時)、肉親でも戦わねばならない時もある。

人には仏性があると同時に、悪魔の部分も同居している。

あらゆる人には仏性が備わっているが、その仏性が、悪魔の特性に厚く覆われてしまっている時、ヒットラーの様な現象を表す。

そんな悪魔の現象を体現した行為に対しては、仏性は、身を挺して戦うと想う。

こんなことに、気づかせてくれたのが、インドの古代の聖典 "Bhagavad Gita "である。

| | Comments (0)

March 13, 2014

"立ちあがれ、目覚めよ"、Swami Vivekananda の檄文、

肉親と他人を別けてるものは何か? 外国の災害が他人事で、自分の家族の災害との差を作っている正体は何か?

戦争の時、他人に対しては戦えて 、 肉親・友人・知人に対しては戦えないことの差の正体は何か?

このことに、インドの古代の聖典(神の詩)"Bhagavad Gita"は、力強い示唆を与えている。"私・私のもの"と、"他"との区別を乗り越える考えを持てるように、"Bhagavad Gita"は、読む人を励ましている。

インドの偉大な思想家、Swami Vivekananda 師(1863-1902) も、その差を、乗り越える考えを持てるように、"立ちあがれ、目覚めよ"(Arise 、Awake"と云う檄文を書いている。

共に、住職の法話の中で、何度も聴いてきた文章である。

自分の家族でなくても、他人でも区別なく、生きとし生けるもの全て、また全ての存在を、我、我子の様に、見えなくては、(エゴの放棄なくしては)、安らぎは無い。そのために、女々しさにたじろくな、それは(仏性である)貴方らしくないと、Vivekanada 師は、人々を鼓舞している。

愛する家族が、宇宙いっぱいに広がる時、人間として、自分としてやるべきことが、決まる。


| | Comments (0)

March 12, 2014

ビートたけしの境涯に驚嘆、 3.11に寄せて、

昨日の朝、この記事を読んで、彼の凄い境涯に驚いた。 ビートたけしさんが、震災直後に語った「悲しみの本質と被害の重み」NEWS ポストセブン 3月11日(火)7時6分配信。 思いがけなく、彼から、心に残る法話を聴いた想いになった。

 よく「被災地にも笑いを」なんて言うヤツがいるけれど、今まさに苦しみの渦中にある人を笑いで励まそうなんてのは、戯れ言でしかない。しっかりメシが食えて、安らかに眠れる場所があって、人間は初めて心から笑えるんだ。悲しいけど、目の前に死がチラついてる時には、芸術や演芸なんてのはどうだっていいんだよ。オイラたち芸人にできることがあるとすれば、震災が落ち着いてからだね。悲しみを乗り越えてこれから立ち上がろうって時に、「笑い」が役に立つかもしれない。早く、そんな日がくればいいね。

 常々オイラは考えてるんだけど、こういう大変な時に一番大事なのは「想像力」じゃないかって思う。テレビや新聞でも、見出しになるのは死者と行方不明者の数ばっかりだ。だけど、この震災を「2万人が死んだ一つの事件」と考えると、被害者のことをまったく理解できないんだよ。 じゃあ、8万人以上が死んだ中国の四川大地震と比べたらマシだったのか、そんな風に数字でしか考えられなくなっちまう。人の命は、2万分の1でも8万分の1でもない。そうじゃなくて、そこには「1人が死んだ事件が2万件あった」ってことなんだよ。本来「悲しみ」っていうのはすごく個人的なものだからね。被災地のインタビューを見たって、みんな最初に口をついて出てくるのは「妻が」「子供が」だろ。

 一個人にとっては、他人が何万人も死ぬことよりも、自分の子供や身内が一人死ぬことのほうがずっと辛いし、深い傷になる。残酷な言い方をすれば、自分の大事な人が生きていれば、10万人死んでも100万人死んでもいいと思ってしまうのが人間なんだよ。そう考えれば、震災被害の本当の「重み」がわかると思う。2万通りの死に、それぞれ身を引き裂かれる思いを感じている人たちがいて、その悲しみに今も耐えてるんだから。

 逆に言えば、それは普段日本人がいかに「死」を見て見ぬふりしてきたかという証拠だよ。海の向こうで内戦やテロが起こってどんなに人が死んだって、国内で毎年3万人の自殺者が出ていたって、ほとんどの人は深く考えもしないし、悲しまなかった。「当事者」になって死と恐怖を実感して初めて、心からその重さがわかるんだよ。

 人はいずれ死ぬんだ。それが長いか、短いかでしかない。どんなに長く生きたいと思ったって、そうは生きられやしないんだ。「あきらめ」とか「覚悟」とまでは言わないけど、それを受け入れると、何かが変わっていく気がするんだよ。オイラはバイク事故(1994年)で死を覚悟してから、その前とその後の人生が丸っきり変わっちまった。

 

| | Comments (0)

March 11, 2014

坐禅・警策(きょうさく)、頑張れと云う宇宙からの声、

まだ1メートル程の道路脇の雪が残る、伊豆・天城山の坐禅道場へ、先週土曜日早朝から昨日まで行って来た。

早朝、4時起床、4時20分からの40分間坐り、また、20分休憩の後、5時20分から40分坐ると云うパターンを繰り返して行く坐禅のスケジュールである。

日曜日、4時の坐禅、5時の坐禅の時、住職のお弟子さんへの警策(きょうさく:肩への打撃)の音が、いつになく、私には、そのお弟子さんの修行への意気込みを感じて、胸が熱くなった。

私は、もう何年も坐禅はしているものの、警策は、1度体験しただけであったが、同じように警策を受けてみたくなった。

中学時代、理科の先生(松尾先生と云う男の先生)が、宿題をできなかった生徒数人と共に、私も頭をゴツンと殴られた体験があるが、その時の松尾先生の生徒への、真剣な励ましの愛情を何故か想い出した。

5時20分からの坐禅中、合掌して前傾する合図で、私も住職から警策を受けた。バシツーと云う音、その瞬間は痛いが、すぐに痛みは消える。右肩2回、左肩2回の警策を、思いがけず、自ら進んで体験した。

住職からの日頃聴く学びを、身体に刻みたかったから。それは、頑張れと云う"母の声"でもあった。それは、頑張れと云う"宇宙の声"でもあった。


| | Comments (0)

March 10, 2014

シリアに、ウクライナに、ネルソンマンデラは居ないのか?

シリア内戦の泥沼化、ウクライナの内戦の危機、対立する相手を許容できない民衆の共倒れの悲劇を世界は見ている。

汝の敵でさえも許容し、和解を呼びかけ続けた、南アフリカの偉大な指導者・ネルソン・マンデラ師のことを想う。

世界を救えるのは、"霊性"(精神)の向上しかないと喝破したスワミ・ヴィヴェーカナンダ師の言葉を想い出す。

シリアにも、ウクライナにも、マンデラはいないのか、早く共存の道を探って欲しい。

(3月8日の記)


| | Comments (0)

March 09, 2014

ワニを丸呑みするニシキヘビのニュース、

数日前、オーストラリアだったか、ワニを締め上げ、丸呑みにするニシキヘビのニュースと写真を見て、びっくり仰天した。

関連ニュースでは、ワニが、反対にニシキヘビを食べる場合もあるとのこと。

強烈な強者は、また強烈な強者によって滅ぼされることが、何か、自然界の、作用と反作用を表しているようで、因果を感じた。

マイナス5はプラス5で調和しゼロを形成する。

万物はゼロへ返る運動(矛盾の統一)である。そのエネルギーを神(真理)と云う。 住職から日頃聴く法話と、このニュースが、不思議とリンクして、脳裏に浮かんで来た。

ワニも強そう、ニシキヘビも強そう、それはそれで、彼らなりの宿命を背負っていることを想った。

(3月8日の記)


| | Comments (0)

March 08, 2014

指差呼称 安全確認、 電車ごっご、

先日、電車のホームに人が殆ど、居ない時、30代半くらいのサラリーマン風の男性が、ホームの端で、指差呼称・安全確認の動作をしていたところに出くわした。

私に、見つかって、バツが悪そうに、何事もなかったかのように、その場から立ち去った。

たぶん、駅員さんや、電車の車掌さんの真似をしたかったんだろうと思って、可笑しくなった。

意味は無いが、無性に興味あることは、意外と多いものだと想う。

人間の遊び心、あるいは、ちょっと頭の可笑しな人。

どっちだって、まーいっか、とそれ以上考えるのは止めた。

| | Comments (0)

March 07, 2014

世界に"顔施"、笑顔の施し

昨日、アラブから出張来日中の10数名の若手ビジネスマン達に、日本のビジネスマナーについてプレゼンテーションをする機会があった。

日本がほぼ99%の単一民族であること、自然災害(台風・地震)などの環境の中、稲作に根ざした家族共同体的社会を形成して来たことなどから、今の日本人の精神構造、それが延いては、色々なビジネスマナーにも影響を与えて来た旨も紹介した。日本人の、個人より集団(組織)の和を大事にする精神を話した。まるで、滝川クリステルさんのオリンピック招致プレゼンテーションのような内容も。

その中で、日本人が特に理由も無く、独特の微笑みをすることに就いて、それは世間(他者)への施しである旨も紹介した。仏教的な云い方では"顔施"と云う言葉を、私は、熱っぽく話していた。

イスラム教徒のアラブの若者達が、その話を、真摯に聴いてくれて、プレゼンのあと、握手やお辞儀をしてくれたり、近くのスターバックスで買って来たフラペチーノなどをご馳走してくれたりしたことも、大変嬉しかった。

昨日は、また東京プリンスホテルで、毎年恒例の国際LPガスセミナーの日でもあった。日本も含め、世界中から、約600人内外の関係者が集まった。私も、年に一度、このセミナーでしか会えない友人達にも、再会を喜んで、挨拶して回った。 欧米人はハグをして来る人も、韓国の古い友人も、国や政治で対立しているが故に益々仲良くしたい気持にもなった。

昨日は、ささやかながら、世界に"顔施"を伝えた日。顔が晴れて"顔晴る"(頑張る)、この言葉は素晴らしい生き方を表していると想う。

| | Comments (0)

March 06, 2014

道元禅師・「修証義」の響き、心の中にこだまして、

「菩提心を発すと云うは、己れ未だ度(わた)らざる前に一切衆生を度(わた)さんと発願し営むなり」、自分のことは後回しにして、他が救われればと云う考え方。

「若し、菩提心を発(おこ)して後、六趣四生(ろくしゅししょう)に輪転すと雖も、其の輪転の、因縁、皆、菩提の行願(ぎょうがん)となるなり」、若し菩提心を起したならば、例え色々な生き方を繰り返したとしても、悟りへの修行の道となる。

「たとえ、六趣四生に輪転すると雖も、」と云うくだりが、もう絶対大丈夫の世界に足を踏み入れたような感覚になる。

六趣:地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上、
四生: 胎生(哺乳類)・卵生(鳥・爬虫類・魚)・湿生(昆虫)・化生(幻覚・幽霊)、

修: 学ぶこと、
証: 実践すること、

道元禅師は、人それぞれの持つ"仏性"は、「修(しゅう)せざれば現われず、証(しょう)せざれば得ること無し」と云われた。

| | Comments (0)

March 05, 2014

通勤時の"父と子の姿"、

先日、通勤時に、4歳くらいの幼児の女の子が、30代半ばの若いお父さんと手をつないで、駅へ歩く姿を見た。

お父さんが、女の子に、「カレーばっかり食べてるじゃん」とか云うと、女の子はケラケラ笑っていた。女の子の、安心しきった表情、楽しそうな表情が、傍から見れば、人生における親子の幸せのひとときのシーンそのもののように感じた。

女の子は、その時そのものを生きていて、まだ将来への不安や心配事をあれこれ考えることの無い、ただ"今"そのものを生きているように感じた。

お父さんは、そんな幸せそうな表情と云う訳でもなく、ただ坦々とした日常の風景のように感じた。これから会社へ行って、やらねばならぬ仕事もこと、将来のことなど、漠然とした不安を抱えて、通勤している普通の人の心境のように感じた。

女の子は、お父さんと手をつないで一緒に歩いて安心しきっている姿においては、お父さんは神様。お父さんは、神様と思われてるのに、気づかないで、ただ坦々と、普通に不安も抱えながら生活している。そのコントラストが、面白く感じた。何か、気づきの材料に感じた。

私も、神様を感じて、安心しきって生きる瞬間の大切さを想った。

ある時は、お父さんの心境になったり、ある時は、その女の子の心境になったり。


| | Comments (0)

March 04, 2014

"風の電話"、岩手県・大槌町、

岩手県・大槌町の佐々木格(いたる)さんが自宅の庭に設置した電話ボックスは、海が一望できる高台にあると云う。 電話の線は繋がっていない。声が届かなくても会話するボックス。電話ボックスのノートには、一人一人の胸の内が綴られている。

「母さん、どこにいるの? 親孝行できずにゴメンね。会いたいよ。」

ボックスには、大半の人が一人入って行くと云う。名前は"風の電話"。大切な人への思いを風に乗せて伝えると云う意味を込めて。

突然会えなくなった人と、せめて最後の一言を交わしたい人がいるのでは、と風の電話が完成したのは、震災から1ヶ月後だったと云う。時間が止まったままの人がいる。

こんな記事が、3月3日、インターネットの記事(毎日新聞)に載っていた。

一人、その電話ボックスに入り、黙ってしまう人もいることを想うと、息が詰ってしまう。 それでも、"風の電話"は、救いの電話ボックスだと想う。

| | Comments (0)

March 03, 2014

それぞれの朝、それぞれの夕暮れ、

色々な生命が、自分の知らないところで、幸せに、あるいは一所懸命に生きてる姿を想うことは、安らぎに繋がる。

自分には見ない微生物、深海の生物、森の奥の動物、嫌いな虫でさえも。

知らない人も、もう会えないかも知れない人も。

自分の五感で感じられる範囲は、余りにも狭い。

自分が、それぞれの生命の幸せを、自分の目で確認することはできない。

それぞれの、朝が来て、それぞれの夕暮れ、眠りに就き、また朝を迎えている。それが同じであることは、みんな一緒に生きていること。

| | Comments (0)

March 02, 2014

"自由と安らぎ"を求めて、その手段とは?

"自由と安らぎ"を、誰しも求める。

その手段への考え方で、修行度合いがわかるのだろうと思う。

子供でも、どんな未熟な人でも、"富と権力"が、わかりやすい手段になると思うからこそ、大勢の人が、人生で富と権力を求めて、あくせくとして、結局は、予期せぬ失望に終わってしまう。

富と権力を得ても、自由と安らぎは得られないことにいずれ気づく。 また、富と権力が得られなければ、渇望したまま、勘違いのままの人生を終わってしまう。

例えば、住職は、禅の中に、"自由と安らぎ"があると直感したから、若くして出家されたと云う。

禅の世界を究めて行けば、"対象が無くなる"と云う。"名前と形"が消える世界。"他"とは、実は、"名前と形"のこと。

自他が一如であれば、エゴが放棄されれば、自由と安らぎの門が拓かれる。"富と権力"と、"エゴの放棄"とは、まるで正反対の概念。

人生に於いて、富と権力では自由と安らぎは得られないことに気づくか否か、また、いつ気づくかが、充実した人生になるかの分かれ目で、また、精神の成熟度合いを示していると思う。

| | Comments (0)

March 01, 2014

サラリーマン、人事異動の季節、

今、各社では、人事異動の発表が相次ぐ季節、サラリーマンの友人・知人の異動を毎日、目にして、私も以前のサラリーマン時代を想い出す。

昇格、左遷、遠くへの引越し、憧れの海外など、それは、内心、一番感情がぶれる頃。サラリーマンの人事異動は、成績発表みたいなもので、学校時代の時のように、好かったり辛かったり。組織が決めるから、まるで江戸時代の大奥のような、人間関係のストレスにも悩まされる。

一方、役職など変化の雑音の無い職業(医者・弁護士・芸能人など)は、自らの仕事の質次第で、サラリーマンの人事異動のようなストレスは無い。だが、仕事の質を維持しないと、仕事の不安定さが、厳しくのしかかる。

私は、前の会社のサラリーマンを辞めてから、アドバイザー的仕事になり人事異動のストレスが消え、人事異動は傍観者として見れることが、精神的には大変好かったと思う。

私は、関係する会社の人事異動を、本国に伝える度に、その役職の各社独特の神秘的英訳にも苦笑する。一般社会では通用しないような英語の使い方に、滑稽さをこらえきれない時もある。

全く外の世界から見れば、一定の給料を貰って、偉くなっても、ならなくても、好いじゃないかとも思う。役職はせいぜい数年の一過性のものでもある。サラリーマンは、会社に於いて、自分が社会によかれと思うことを、坦々とやれば好いと思う。

偉いとか偉く無いとか、社会では、そんなに大した問題じゃ無いのにと想う。自分がやるべき、良心のある人なら、そちらの人の方が、うんと耀いて見える。そのことにサラリーマンも気づいて欲しいと思う。


| | Comments (0)

« February 2014 | Main | April 2014 »