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January 31, 2014

何もしてやれなくて、見返りは要らない、

親や兄弟、親友などから、「何もしてやれなくて・・・・」、と云われた時は、私は胸が一杯になる。

何か恩に感じているのに、「見返りは要らない」と、云われた時にも、私は胸が一杯になる。

愛情を注いでくれているのに、何もしてやれなくてと云う人。

そんな人がいて、そんな場面を想像するだけで、もう、人生は素晴らしかったと、いつでも云える。

無条件の愛情で育った子供は強いと云う。

私は、親から、条件付きで愛されたことは無かったとはっきり云えることが、幸せで目が潤んでくる。

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January 30, 2014

自分の乗った宇宙船の整備、

自分の身体も、魂を乗せた宇宙船と想えば面白い。 不調が起きたら、整備や修理が必要。

地球に宇宙船でやって来て、地球上を色々旅して、その間にも、時々、整備や修理をする。

身体を、宇宙船に見たてると、色々な部品の傷みなどが気になって、あたかも、自分が有能な整備士のように感じることもできる。

私も、整備や修理をする箇所を想う。

パッチを当てた機体でも、十分に整備して、また大空に飛び立つ。

映画"永遠のゼロ"のゼロ戦なども連想すると、イメージが湧いて好い。

それが健康管理と云うこと。

今日も、快調に大空を飛ぼうと想う。


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January 29, 2014

夫婦喧嘩が子育てに与える影響の記事、

昨日、インターネットの記事、夫婦喧嘩が子育てに与える影響に、娘のことを想い出し、詫びる気持で、胸が張り裂けそうであった。

「幼い頃というのは、両親が幸せでないと感じることが、そのまま自分も幸せでないと感じてしまうものです。子供の前でする夫婦喧嘩は、子育てに想像を絶する影響を与えます。」と書いてあった。

私は、娘が小学3年くらいの時、夫婦喧嘩をした時、幼い娘が、部屋に閉じこもって泣いていた情景を想い出す。

夫婦では、乗越えられなかった、どうしようもない人間関係の宿命。自然界の自然な成り行きで、仲好くなれない夫婦がいても、おかしくはない。ただ、その仲の悪い夫婦のもとに育った子供の心情を思うと、たまらなく辛い気持になる。

今では、成人して立派な社会人になった娘、その人格形成に、私は、どんな影響を与えたのだろうと思うと、懺悔の気持が増す。

それでも、全て学びの材料にして、私も娘も、前向きに生きて行けるように、娘と、ゆっくり話をしてみたいと想う。

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January 28, 2014

四季の訪れ、四季との別れ、

昨日、今月で閉店する行きつけのジャズ喫茶に、名残惜しく、また訪れた。もう1回閉店までに来れるか、いよいよ、お別れの時を感じながら。店内の写真や、店内でジャズを聴く自分の記念写真も撮った。

他のお客さんも、名残惜しそうに、寂しい気持で、訪れていた。

その時、私は、モンゴルのパオ(テント)は、時折、豊かな牧草地を求めて、人々が移動しながら生きていることを想った。牧草が無くなって来たら、他の場所へ行き、また、牧草が豊かになったら帰って来れば好い。

調べてみると、モンゴルの遊牧の人達は、大体、四季に年4回くらい移動していることを知った。

別れは、四季の訪れ。

去り行くものへの惜別の情は、四季の訪れとして、感じれば好い。

冬との別れは春の訪れ、春との別れは夏の訪れ。そして季節は廻る。私は、その季節のどの位置に居ても好いと想う。

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January 27, 2014

私にもオリンピックの励み、

昨日は観光通訳ガイドの協会の新年会に出席した。

会場は、オリンピックへ向けての意気込みが感じられ、そうだ、私も、オリンピックを励みに、研鑽しようと云う気持が湧いてきた。

日本の文化、日本について知って欲しいこと、スポーツのことなど、ネタ帳を充実させて行かねばと想う。日本への旅をして来る人の、日本の旅を、最高にする為の手伝いをする。

ロンドンの観光バスで聴いた英語のジョークなども、同じように云えるようになりたい。

色々な、やりたいこと、やらねばならないこと、頭の中を整理して、取りかかろうと想う。

そうか、私にも、オリンピックが励みになるのかと面白いことに気づいた。

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January 26, 2014

身体は太陽の光にコントロールされている、

今月の勉強では、脳内伝達物質と、太陽の光の神秘を知りました。人間も、光に支配されているところが、そんな生きものであることが、面白いと思います。

― 「脳と心を支配する物質(生田哲著)ソフトバンク・クリエイテイブ社発行」から抜粋―

1. メラトニン 対 セロトニン

(1) 光が遮断されると、真っ暗になると、脳の松果体からメラトニンが分泌され、体温が下がり眠くなる。 メラトニンは寝つきをよくする。 メラトニンは鬱を防ぐ。

(2) 明るくなって来ると、松果体は、メラトニンの生産を中止し、セロトニンを作り始める。目覚め気分がよくなる。

→ 身体は、太陽の光にコントロールされている。

(3) メラトニンを作るのは必須アミノ酸のトリプトファン。食べ物に含まれるトリプトファンが、セロトニンを経由してメラトニンになる。

(4) トリプトファンは、普通の食事にはごくわずかしか含まれていないため、特に不足しやすいアミノ酸。 多く含まれている食べ物は、ピーナッツ、バナナ、アーモンド、牛乳、チーズなどである。

2、 亜鉛不足で凶暴になる。(実験結果)

現代人の亜鉛不足の原因。
(1) 精製されたものを食べる習慣 ← 食品原料から、亜鉛が取り除かれてしまう。
(2) パン・小麦、インスタント食品中のフイチン酸は、亜鉛と結合して、亜鉛の吸収が妨げられる。

亜鉛不足にならないためには、カキ、玉子、豆類、ブラウンブレッド(未精製の小麦粉で作ったパン)など、食べると好い。 以上

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January 25, 2014

小野田少尉の生き方に魅せられて、

最近、92歳で亡くなられた小野田少尉、戦争終結後、29年目にして、1974年、フィリピン・ルバング島より帰還し大きな話題になった軍人。

小野田は、戦後約30年経っても 戦争当時の上官・谷口少佐から、直接、命令の解除を受けて、やっと、フィリッピン軍司令官に軍刀を渡して投降した。投降する前に、小野田は、当時の上官に、彼の今までの任務として、フィリッピンの最新レーダー基地等の報告をしている。

小野田の投降式には、マルコス大統領も出席、彼を軍人として讃えている。

彼は発見時、51才だったが、60才になったら、レーダー基地に決死の突入をして果てる覚悟だったと云う。

日本政府は、小野田帰国後、すぐに、100万円の見舞い金を贈呈するが、受け取りを拒否するも渡されたので、他の義捐金と共に靖国神社ヘ寄付している。

小野田の死に際して、ニューヨークタイムズは、「戦後の繁栄と物質主義の中で、日本人の多くが喪失していると感じていた誇りを喚起した」と評した。当時のフィリッピンのマルコス大統領に、投降の印として軍刀を手渡した時の光景を、古いサムライの様だったと論評した。

ワシントンポストも、「彼は、戦争が引き起こした破滅的状況から、経済大国へと移行する国家にとって、忍耐・恭順・犠牲と云った日本の戦前の価値を体現した人物であった」と論評した。

小野田少尉の写真には、張りつめた軍人の精神で覆われており、その後、ブラジルで農園を営まれたり、日本で講演活動をされている時の、別人の様な、やわらかな、安らぎの表情が、忘れられない。

人間の持つ使命感が、意思力の強さが、こんなに美しい形で見せられるとは、私の人生では、驚愕の事件であった。

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January 24, 2014

私の自画像、

九州佐賀出身で、元の会社時代の少し先輩で、とても親しかった友人(49才で10年以上前に病気で逝去)の家族の方々に呼ばれて会食をした。

私が、一緒に仕事していた頃は、まだ幼児だったご子息も今では、30代半ば、小っちゃな子供もいらっしゃる。

私を、父親の親しい友人として、幼児の目で見ていた筈なのに、今では、立派な社会人・ビジネスマンとして、私を、父親のことをもっと知る手がかりとして、見る境地になっていた。

ワインなど飲みながら、色々な、想い出話をしながら、談笑は約3時間以上も続いた。

その先輩の家族の方々にとっては、私は、まさに、父親をまざまざと想い出させる、人物だったのである。

その先輩は、佐賀のエリート高出身で、優秀で、私に、色々仕事をテキパキと教えてくれた。方言も同じだったので、我々の会話は、かっこつけても、いつも可笑しかった。酒も、ハチャメチャに飲んでいた。

そのころの私、20代、30代の頃の私が、いつの間にか蘇る。

それは私の自画像。 先輩の家族の方にとっては、父親の風景の一部。

興味深く、私の当時の私の自画像を描きだす。

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January 23, 2014

行きつけのジャズ喫茶との別れ、今月末で閉店、

今月末、横浜・白楽の行きつけのジャズ喫茶が閉店する。駅のそば、家の近くで、この10年くらい、よく通った憩いの空間だった。

今月は名残を惜しんで、ちょっとでも時間が空けば、すぐ、訪問している。ピアノの山本剛さんトリオのライブの時、満席で、私が、カウンターの中で聴いてる写真も、ジャズ雑誌に出たこともある。

大きなスピ-カー、大量のLPレコード、アンテークの質素なシャンデリア、ジャズの本・雑誌、ヨットの舵などの備品など、室内の装飾も、まるでもう自分の部屋のように慣れ親しんだ空間だった。

コーヒーも天下一品の味だった。クリスチャンのママさんと、よく禅の世界の話などもした。私の、この10年の人生を、最も感じれる場所だった。

人生では、このような"寂しさ"は、幾度となく体験して来た。"変化こそ生命である"、"淀みなく流れることこそ生命"と、私は心の中で呟いている。掴んで、留まって、腰かけては、止まってしまっては、生命は続かない。

毎日・毎日、瞬間・瞬間に生まれ変わる生命の様に、私も流れて行こうと想う。私は、ママさんに、寂しさを隠す様に、"変化こそ、生命ですよ"と云って笑った。

まだ、数日、行ける日が残っている。 私のこの10年の隠れ家だったなーと、感謝して、心の中で手を振る。


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January 22, 2014

当事者ではなく、目撃者として人生を眺める

目撃者として、学ぶ者として、周りのあらゆることを観察する目は、素晴らしい境地に導く。

「自分の人生も、当事者として、その激流に巻き込まれるならば、摩擦(不幸・不運)を感じることが多くもあろうが、目撃者として、流れの外に身を置いているならば、あらゆるところに神の愛の発現を見いだすだろう。」

ヴィヴェーカナンダ師のパラ・バクテイー(愛の極致)の書に書かれている言葉を、住職の法話の中で学んだ。

自分の人生を当事者としてではなく、目撃者として観る目は、慣れていないが、何か、とても新鮮で好い。

エゴを観察して、愛おしくなる様な、その目は、もう神の目に近いのだろう。

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January 21, 2014

執着しても好い道もある、

執着を捨てて解脱する道、禅の道、非なりの道。 難行道。

執着をしても解脱する道もある。ただ、その場合は最高のものにだけ執着が許される。是なりの道。それは祈りの道。真理にのみ執着しても好いと云う道。キリストや仏陀と云った具体的な神への執着ではなく、キリストや仏陀を超えた世界、宇宙意思、真理になら執着しても好いと云う道。

最高のものに執着したら、もうその途中のものは、執着はする必要も無くなる。(1月18日、住職の言葉)

解脱、悟りに至るには、執着を排除する道もあれば、執着を極める道もある。

執着しても、しなくても、自分にあった道を選べば好い。

文字や、経典に拘ってはならないことを想う。

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January 20, 2014

桜は、光と水と土と、

桜の木の中をいくら捜しても、桜の花は現われない。

太陽の光が無ければ、水が無ければ、大地が無ければ、桜の花は無い。

桜の花は、光であり、水であり、大地でもある。どれ一つが欠けても桜の花は咲かない。

住職は、縁について、そう語った。

私は、"縁に於いて花は咲く"ことを想った。

それぞれの花の美しさは、縁と云う色の配合が生み出す美であることに気づいた。

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January 19, 2014

神殿は破壊されても、

神殿が破壊された時、ヴィヴェーカナンダは、私がいればこんなひどいことはさせなかったと怒ったエピソードを聴いた。怒りに覆いつくされている時、ヴィヴェーカナンダの脳裏に神の声がして来たと云う。

「貴方が私を守るのですか?、私が貴方を守るのですか?」と、、、、、、、、、、。

この言葉を、昨日、住職から紹介して貰った。

禅とは、全てが守られていることを知ること。外に見えていた自然界が、自分の内に見えて来ること。

虫や鳥の声、木の葉の揺れにも、祝福を感じること。


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January 18, 2014

万直し旅館、奈良・三輪

奈良・三輪には、"万直し(まんなおし)旅館"と云う名前の旅館がある。うどん屋・おでん屋さんでもある。昔、旅館の前には、芝居小屋もあったと云う話を住職から聴いた。

万直しの名前の由来が気になり、旅館の人に聞いてみると、「万」には、「運」とか「縁」の意味があるとのこと。万直し旅館に来て、運や縁を直すような意味もあるのだろう。

三輪は小さな町で、静かで、忘れかけていた日本の素朴さがあり、心が洗われる様な、暖かい気持ちになれる場所だった。

三輪駅近くの狭い道の両脇には、小さな八百屋さん、衣類屋さん、素麺屋さん、豆腐屋さんなどが並び、衣類屋さんでも"ぜんざいあります"とか、面白い組み合わせも発見。 入ってぜんざいを頼んでみると、ぜんざいは、七輪の上の鍋に入っていて、そばには、何と、大昔に見た"豆炭"。

太古の時代には大和王権の中心地が、今では、そんな、レトロな、訪れる人の人生の縁を正す(修理する)ような、安らぎの町になっていた。

(2014年1月11日ー13日、三輪の旅の想い出)


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慶田寺・故丸山英智老師ゆかりの"南部牛追い歌""新相馬節"

住職の親友の様な兄弟弟子、三輪・平等寺の丸子孝法老師がまだ若い頃、1975年、慶田寺の丸山英智老師が亡くなる1週間前にお会いになった時、丸子老師に、"南部牛追い歌"を歌ってくれと頼まれ、歌ったとおっしゃった。

丸子老師は、お母様が岩手出身で、子供の頃から、この南部牛追い歌には馴染んでいたとのこと。故・丸山老師のリクエスト通りに南部牛追い歌を歌ってあげましたと、想い出話をお聞きした。そして、丸山老師は"新相馬節"を丸子老師に歌ってあげられたとのこと。

住職が、筋金入りの声で、南部牛追い歌を時々歌ってくださるが、この歌は、兄弟弟子の丸子老師からの影響であったことを知った。 丸山老師が亡くなる時は、台湾に太極拳で行っていた住職は、丸山老師が、亡くなる前に、南部牛追い歌を歌ってくれと頼まれたことは、初めて聞かれたエピソードでもあった。

私が時々カラオケで歌う"望郷酒場"には、途中・南部牛追い歌のメロデイーが少し入っている。

"南部牛追い歌"も"新相馬節"も私にとっては歌うことは難しいが、歌えるようになりたいと想う。

その時は、丸山老師も、丸子老師も、南部牛追い歌のメロデイーに乗って、心の中で合流出来ると想う。

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January 17, 2014

マルコポーロ老師、 三輪・平等寺、16年の托鉢、

三輪・大神神社の隣の平等寺の住職は、丸子孝法老師で、ご自分でも、マルコポーロとか、ちびまることか、冗談でおっしゃっている。私の師事する住職の、親友の様な兄弟弟子の方でもある。

三輪・平等寺は、明治の廃仏毀釈で破壊された寺であったが、地元の篤志家の方々からの土地の提供で復活のスタートを切った。粗末な建物で再建されたが、今の立派な本堂の建設は、現・丸子孝法老師の16年に及ぶ托鉢の賜物であったと云う。

毎日毎日、朝から晩まで各地を托鉢される中で、ある時、ある人から、土地を売ってその代金(2億円)の提供の話があり驚かれたとのこと。 心が動いたが、よく話を聞いてみると、寺を支配されそうでもあったので、丸子老師は、何と、「また、托鉢を続けます」とおっしゃって、お断りされたと云うエピソードを聴いた。

少なくても、人々の想いのこもった浄財の集合体として、本堂の再建をすることに意義があったことも知った。1971年、師僧が他界される時、托鉢してでも本堂を再建せよの遺言通り、16年の托鉢の歳月を経て、色々な工夫もされて、遂に、見事に本堂を再建された。

また丸子老師は、大変研究熱心で器用な方で自身で赤門を再建、また、素晴らしい釈迦像まで描かれている。 かつては三輪山・大御輪寺の本尊であった十一面観音、その十一面観音を、樹齢1500年の檜の一木を用いて再現、本堂に納められていた。

その本堂の前で、1月13日・まだ暗い朝6時過ぎに、住職以下約30人で太極拳を奉納した。丸子老師がお経を唱えられる前で、住職と弟子達の太極拳の光景は、忘れえぬシーンとなった。

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January 16, 2014

妙好人(みょうこうにん)誕生の現場を往く、奈良・三輪への旅

住職が、奈良・三輪で出家(慶田寺)した頃の話で、米山爺さんと云う"妙好人"に出逢われた話をよく聴いていた。"妙好人"とは経典を読めなくても、解脱・悟りの境涯に達した人のことを云う。

米山爺さんは、孫が継母に苛められる耐え難い苦しみ・悲しみから、平等寺の裏の滝でよく滝に打たれていたと云う。その後、米山爺さんは、慶田寺の本堂の前の方の席で、毎日泣きながら祈っていた姿をよく見たと云う。

そして、ある日、寺の外で墓の掃除(作務)などをしていた時、仏様のような笑みで、高僧のようなことをべらべらとしゃべり出したと云う。

「耐え難き苦しみ」が土台にあり、そこに「深い信仰」と、今ここに打ちこむ「無私の行為(作務)」の3つの要素が、ついに、エゴの崩壊を促したのです。 米山・妙好人の誕生の瞬間だったのです。

悲しみの涙の行きつくところまで行き、遂にエゴを崩壊させ、幼児の様な神への甘えの世界に入ったのです。住職は、「悲しみは、エゴそのものだったのです」と、数年前、その話を聴いた時に解説してくれた。

私は、妙好人・米山爺さんが滝に打たれていた場所も、毎日泣いて祈った場所も、解脱された場所も、みんな、その現場を見ることができ感動であった。

三輪の最終日の昼食(万直し旅館)の時、ある人が、小学生の子供の単純な作文に感動した話をしてくれた。 "僕は歩く、テクテク、テクテク、テクテク、テクテク、・・・・・・・ "

私も、深い哀しみの中にあっても、毎日の神への祈り、そして、やるべき仕事(作務)を毎日毎日コツコツコツとやろうと思う。"私は歩く、テクテク、テクテク、テクテク、テクテク、・・・・・・・ "、光へ続く道を。

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January 15, 2014

3人のお母さん、住職の故郷・奈良・三輪への旅

今回の三輪への旅で、住職には、3人の素晴らしいお母さんがいらっしゃったことを知った。

今、80代の育てのお母さんは、綺麗で矍鑠(かくしゃく)とされて、三輪訪問初日に見学先の酒蔵で、我々を迎えて下さった。懇親会の場にも、住職の妹さん、弟さん達と一緒に出て下さって、直接お話もする機会も頂いた。住職によると、住職が子供の頃、托鉢僧に憧れ、近所の恵比寿神社の縁の下に籠って坐禅していた時、いつも迎えに来てくれたこと、うどん屋さん(万直し旅館)の前の芝居小屋で芝居を見て、よくうどんを食べて帰ったことなどの想い出を聴いた。遠足の日までにセーターを夜なべして編んでくれたことも。

住職が高校を出てすぐ出家された慶田寺の師匠の奥様は、今92才で、この方も元気で、綺麗で、そこはかとない気品が漂うお母さんであった。御詠歌の師匠でもおられるので、呼吸が整ってらっしゃるところも、お元気なことの秘訣の様だった。 35年以上前に56才で亡くなられた丸山英智老師は、住職に大変厳しい修行を課された立派な老師様で、自分が厳しくする分を奥さんには、出家したばかりの若き日の住職に優しくしてやってくれとおっしゃっていたと云う。約45年を経て、また同じ慶田寺で、住職と、寺のお母さんとの対談のシーンは、私にとっても感無量であった。 丸山老師が亡くなって、その後、その墓に、五体投地する住職の姿を今でも、鮮明に想い出しますとおっしゃっていた。

住職が幼児の頃、生みのお母さんとの別れが、住職の無常観の原点だろうと想像しますが、生みのお母さんは、別れの時、桜井駅のホームで、泣いて近づく幼児の頃の住職に、鬼の形相で追い退け、そして、親戚の人に連れられて行く住職の姿を、ホームの陰で、じーっと見続けていたと云うお母さんだったことを聴いていた。このシーンが、住職にとっては、その後の人生の修行の原点となられたと想う。生みのお母さんにとっても、三輪は、その後、我が子が住んだ愛おしい町、たとえ遭うことはできなくとも、密かに何度か三輪を彷徨われたことだろう。もうずっと昔に亡くなられた生みのお母さん、住職はその後、遺骨を抱いて、四国のご遍路参りをされたと云う。

住職には、3人のお母さんがいて、そしてそのお母さんが、今では、宇宙一杯に広がって、いつもお母さんと一緒におられると想う。そんなことに、想いを馳せる三輪の旅でもあった。


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January 14, 2014

すっぽりと三輪の世界、光の世界、

10日(金)の深夜バスで、住職ほか10名くらいで、住職の故郷・奈良・三輪の旅へ向った。バスはカーテンを締めて、夜通し走り、明け方カーテンが開いた時には、もうそこは、明日香の里が広がっていた。

現地で合流した方々、と総勢約35名の太極拳・坐禅会のメンバーで、すっぽりと三輪の世界に入って行った。

第10代・崇神天皇の皇居跡の寂れた神社、仏教伝来の地、巨大な鳥居の大神(おおみわ)神社、神の山・三輪山、聖徳太子ゆかりの平等寺は住職の親友・兄弟弟子の丸子幸法老師がおられる寺、慶田寺は住職が出家された寺、三輪の小さな町は、何か、特別な空気が流れていた。

JR三輪駅は無人の小さな駅、町にはコンビニも無い、素麺屋さん、小さな八百屋さん、豆腐屋さんなどがひっそりと並び、大神神社の参道には出店、甘酒屋さんなどが立ち並ぶ。

住職が育った三輪は、何か、初めて訪れる人でも、誰しもが郷愁を感じるような、静かな温かい光りに溢れていた。

今日から、数回に分けて、三輪の世界を綴ってみようと想う。

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January 13, 2014

田舎のバスの光景、

先日、福山・鞆の浦の船の乗り場に、地元の子供達の俳句が紹介されていて、メモした。

"眼で合図、心合せて、走るバス"

運転手さんと、地元の人の光景、海が、山が、村の光景が広がる。

そんなバスに、旅人の私が乗った。

(2014年1月10日の記)

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January 12, 2014

自宅で干し柿作りのアイデア、

先日、元の会社の同期の友人達数人と新年会をした。その時、干し柿作りをしている友人の話に、大きな刺激を受けた。

インタ一ネットで、渋柿を買い、それを自宅で剥いて、ベランダで干し柿にすると云う。剥いた柿の皮は、乾かして、お茶のように飲めば好いとも聞いた。

渋柿は安く、その方法で、干し柿を安く自宅で作ることが出来る。干し柿は、食物繊維の宝庫の健康食品。

干し柿が大好きな私には、大変、画期的なアイデア。

是非、トライしてみたいと思う。

(2014年1月10日の記)

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January 11, 2014

場面は飛鳥へ、

10日(金)の新宿発の深夜夜行バスで奈良・桜井へ。 数年前、夜行バスで、東京から高知にも行ったことがある私は、バスの旅も一向に苦にはならない。

ヴァイオリンコンサートを終えた10日の晩、一晩明けたら、場面は、飛鳥の都へ。

住職の故郷・三輪の、仏縁をめぐる旅。今回は、太極拳や坐禅の人達、約35名での旅。

2012年末、私は、一人、住職の故郷・三輪を旅した。

今回は、その住職のご案内で、三輪を味わう。

住職が出家を決意した場所、神社、寺、山々、川の景色。

住職と一緒に、そんな旅が、やっと実現。

(2014年1月10日の記)

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January 10, 2014

今年も、今日、あっこちゃんのヴァイオリンコンサート、

今年も、娘の幼馴染みのあっこちゃんが、アメリカから一時帰国して、年始に東京(神楽坂)でヴァイオリンコンサートをやる。今夜がその日。会社帰りに立ち寄る予定。

今年で3回目、私は毎年聴きに行くのを楽しみにしている。

娘は、今は神戸だから、今年も来れないけど、私が娘の代理でもある。

二人とも、成人しても、子供の時代のあどけない表情を想いだす。ママゴト遊び、動物園のサルを恐がったことなど、可笑しく想いだす。

澄みきったヴァイオリンの音に、人生を乗せて空に漂うような気持になれる。


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January 09, 2014

冬眠しているカメ、

先日、小田原の妹の家に行った時、いつも玄関先でゴソゴソ音を立てていたカメが、静かなことに気づいた。

聞くと、冬眠中とのことで、そっと覗き込むと、静かに甲羅だけが見えた。

妹の家では、昔、妹の子供達が祭りで買って来た小さなカメが、成長して、いつも玄関先の容器に入って、ゴソゴソしていた。

そう云えば、冬眠の季節か。

正月に訪れた、広島・鞆の浦・仙酔島でも、よく狸が出る島だが、今は冬眠中で見掛けませんと云っていた。

"冬眠"と云う響きは、おとぎ話のような、メルヘンのような響き。

最小限のエネルギ一で生きる時期、生きてるのか、死んでるのかわからないのが、可笑しい。

生きてもいない、死んでもいない。正に、禅の高僧の境地。 私も、"冬眠"の境地を味わってみたいなど思う。

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January 08, 2014

賀詞交換会にアラブ人を紹介、

昨日は、経団連会館に石油連盟主催の賀詞交換会に、日本に着任したばかりのアラブ人を連れて出席した。

レセプション会場で、石油業界・商社などのトップマネジメントの方々に、次々と数分づつ、そのアラブ人を紹介して回り、彼にとっては、丁度好い挨拶回りの機会になった。私も、何か、そんなことだけでも、意外と達成感を感じた。それも、今、産油国の石油会社で働く私の仕事であることも再確認。

各社のトップマネジメントの方々も、まだ係長・課長時代から知ってる人達も多く、私にとっては、懐かしい人達との会話でもあった。

各社では、年頭の挨拶とかをする人達だから、ちょっとピリッと引き締まった空気も感じた。

そんな年頭らしい雰囲気を味わいながら、私も、心の中で、私の人生の今年の年頭の挨拶でもしてみようかなど思った。60兆の細胞に、今年も頑張ろう(顔晴ろう)と、感謝と激励のMessage。

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January 07, 2014

亡き先輩の子供との語らい、

年賀状の時期に、人は今年は実現したいことなど、よく考える。

約15年くらい前に病気で他界した会社の先輩(2年先輩)の息子さんから、数日前に電話で、久しぶりに会って、亡くなった父親のことなど聴きたいとの希望であった。

その先輩も九州出身で、私の元の会社時代は、とても親しく家族のようにつきあっていた。 息子さんの幼児、子供時代のことも私は、よく知っていた。

先輩は優秀で仕事はテキパキ、酒飲みで、面白くて、ハチャメチャなところが、何か魅力の大人物だった。酒の飲み方がたたり、若くして病に倒れ帰らぬ人となった。

一緒に、仕事した想い出、一緒に飲み回った想い出、よく家にお邪魔した時の想い出など、成人して、子供の父となった息子さんに語る機会を、思いがけず、近々設定することになった。

親の友人から親の人物像を聴くことは、誰しも興味深々で、親のことを改めて知ることでもある。親を客観的に観る視点も得て、自分の人生も改めて見えて来るような、人生の探検のようなものだと想う。

私も両親の友人の方々と、そんな機会があったら好かったのになぁと想う。

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January 06, 2014

結果は神の領域、

風無きところに炎の揺らぐこと無し。発心が正しければ、心の揺らぐこと無し。結果は神のもの。

迷いには、邪魔にせず、相手にもせず。

煩悩も菩提も素材は同じと云う安らぎ。素材を料理するのが発心。

坐禅会、新年に当たっての気づきを反芻する。

そして、今日から出勤。

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January 05, 2014

妹とTV体操、小田原の田園風景、

昨日は、一昨日から泊まった小田原・開成の妹の家で、早朝、妹に促されて一緒にTV体操をした。妹と二人並んで体操とは、子供の時以来かと何か照れくさく、可笑しかった。妹が、私に強く薦めて、一緒に童心に返った気持で体操をした。それは楽しい感動だった。

その後、私のお気に入りの開成の早朝の田園風景を散歩を楽しんだ。寒い冬の畑には白菜、ネギ。私は、半分くらい畑から身を乗りだしたような大根を見ると、思わず肩まで畑に押し込んでやりたくなる。

少し水仙の花も咲いていた。水路の水の音もサラサラと心地好かった。刈り取った稲穂の束の残る田んぼには白い霜。木には柿の実の橙色が映えていた。

妹の子供達も皆、自分の子供のように感じる。私は、いつも、ふざけて、笑いをとる。それが、遠い日の家族の安らぎを想い出させてくれる。

そして、今朝も、一人自分の部屋でTV体操をした。たぶん、妹もしてるはず。小田原と横浜で、兄妹がTVの前で体操の光景。


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January 04, 2014

汐待ちの港、人生の港、

東西の潮流がぶつかり遭う場所、広島県・鞆の浦、そこは石と石がぶつかって火が出るように、"火打ち灘"とも呼ばれているとのこと。正月の初日の出ので案内してくれた人は、村上水軍の末裔の人でもあった。そこは、 約3000の島から成る瀬戸内海の丁度真ん中地点。

いにしえから、この港で、汐の流れの変化を待って、船を出していたと云う。

人生にも、汐待ちの港が必要なことを想う。

大変な不幸に見まわれた時は、じっとその不幸が過ぎ去るのを待つ。それは海の嵐のようなもの。

汐の流れが変わったと思った時は、船をそっと漕ぎ出す。また流れが変わったら、近くの港で待機する。

力づくで航海しては危ない。自然に身を委ねて柔らかく、丁度好い風が吹く時に帆を張る。

有明海の干潟のムツゴロウも時々潮が引いたら、穴を出て来て、干潟を飛び回る。蟹の潮招きは、片手の大きな爪で潮を招いているような滑稽な風情。

私も、一人、人生の汐待ち気分で、海を見る。そんな静かな正月気分。


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January 03, 2014

アラブへ、サンタさんか?

昨日、娘と食事した時、いくつまでサンタさんが来ると信じていたかを聞いてみた。

アブダビの小学1年生の時までは信じていたとのこと。アラブにサンタさんが来ると思ったのかを聞いてみると、"そう、来てくれると思っていた"との回答に、思わず笑った。

アラブ首長国連邦(娘は、"アラブしゅちょ一これんぽ"と云っていた)にサンタさんが来るのか? と思うと、また可笑しくて想い出し笑い。

ケロッピ一の筆箱とか、あげていたのかな? 、楽しい想い出。

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January 02, 2014

鞆の浦、初日の出、7時16分、

元旦の早朝、まだ暗い時間、少し薄灯りがさして来る時間、海岸の波打ち際の夜明けの光景に、幼児の頃見た光景のような、懐かしさを感じて胸が一杯になった。

母の実家の長崎の田舎の海辺とだぶったのだろうと想った。打ち寄せる波の音、静かな海に浮かぶ島影。人生が始まった頃に見た、私の人生の原風景なのではないかと想った。

仙酔島の夜空は、プラネタリウムのような満天の星だった。

仙酔島から早朝 6時40分、船で初日の出を見に出航、参加者は約40名。

そして、瀬戸内海に昇って来る神々しい初日の出を見ることができた。 7時16分。海が緑に見え、目玉焼きのような太陽から、船に向かって一直線に光が延びていた。思わず合掌する。

今年は、たまたま、初日の出を拝むことができた。 人生に於ける節目の光景。


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January 01, 2014

瀬戸内海の初日の出、鞆の浦、ポニョの島、

新年、明けまして、おめでとうございます。

今年は、正月の初日の出を、九州から横浜への帰路に、立ち寄った広島・鞆の浦の仙酔島で迎えることにしました。

数年前に帰省の途中、ふらりと途中下車した福山駅、それが鞆の浦との縁になった。宮崎駿監督が、2005年2ヶ月間滞在して、ポニョの映画の構想を練ったと云う、瀬戸内海のメルヘンのような漁村の町。

路線バスの運転手さんも、乗客の地元の人に、降りる時、"風邪ひくなよ"とか声をかけていた。仙酔島では、砂浜で凧揚げをする子供もいた。美しい瀬戸内海の島々、そして夕日。

この島に来ると、何故か、ここから、今から、また人生が始まるような、爽やかな気分になれる。

お正月の海の日の出、今年は、私の人生は、鞆の浦から始まる。 2014年の始まり。

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