「面白うて、やがて悲しき鵜舟かな」芭蕉の句との出会い、
昨日、会社帰り、大倉山で途中下車、行きつけのスーパーで、イワシのつみれや、ブルーベリーなど買って、次に、白楽の、行きつけのジャズ喫茶に立ち寄って帰った。
ジャズ喫茶のママさんとの世間話の中で、誰の作か知らないが、「面白うて、悲しき鵜飼かな」という句があることを教えて貰った。お客さんの中で、製造業で働くある若者が、安い賃金で深夜まで、長時間働かされている話から、「まるで鵜飼のように働かされて」と私が云った時の、ママさんからの反応だった。
鵜飼の風情も、鵜にしてみれば、あんなに辛いことはあるまいと想い、私は鵜の立場を表現した。
自宅へ帰り、調べてみると、それは芭蕉の句で、「面白うて、やがて悲しき鵜舟かな」と云う句であった。楽しみの極まりの後、寂しさを詠った句であった。 祭りの後の寂寥感かと、その解説に、ちょっと、期待が外れた。
強者には、祭りと寂しさが、鵜にとっては苦しみの過酷労働かと、そのコントラストを想った。私は、「面白うて、悲しき鵜飼かな」の方が、感動する。
<午後の懺悔>
そう云えば、鵜に食べられている魚もいたなーと、その後、通勤中の道すがらハッと気づいた。魚は鵜に食べられ、また、そのうわまえをはねる人間に食べられる。イワシをミンチにして食べる私にも気づく。生きていること自体も、懺悔だなーと今さらながら気づく。それなりの生き方をしなければ、自然界に顔向けが出来ないと想う。
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