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June 30, 2013

社長から平社員へ、

昨日、日経新聞朝刊の一面に、"大胆な変身、夢を諦めない"と云う囲み記事に、何だろうと思って読んでみたら、驚いた。

最高財務責任者から平社員へ、出口恭子氏(現在47歳)。業績を最優先することに違和感。顧客・社員を大事にする未経験の分野の会社の平社員へ(2002年)、と云う体験を持つ。

林恵子氏(現在54歳)は、40歳の時、当時の社長(米通販大手会社)を辞め、学生時代から夢の起業をした。その時の彼女曰く、「起業せずに死んで、棺桶に収まる自分を想像したら、我慢できなかった」。収入ゼロの不安も感じたが、消費者が喜ぶ顔がみたいと踏みだした。

私は、この記事に、共感を覚え、そうだ、そうだと、嬉しかった。

私も、大学卒業後入った会社を、副部長になったところで辞めた時、全く同じような境地だった。

人生に於いて、"そうしなければ、納まりのつかないこと"がある。それが、生きることの証し。

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June 29, 2013

貧富の差拡大、椅子取りゲームの喧騒、それが煩悩

人間社会は煩悩の強烈な力が動かすが故に、貧富の差を拡大させて行く。人間社会の椅子取りゲームの喧騒。喉の渇きを癒すように、煩悩の指令に従って行く。

皆が同じと感じれば、分かち合う気持が生まれ、貧しくても、苦しくても、安らぐのにと想う。たとえ煩悩が満たされ、自分だけが飛びぬけても、安らぎはない。

五感六識に振り廻される煩悩の、台風のような力を思う。制御出来なかったら、それは災害。

人間は煩悩の力で生きながらも、煩悩を制御できる。そんな人の崇高さを想う。それが修行なのだとも想う。また、寧ろ思い通りにならない人の幸運さえも想う。

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June 28, 2013

豪州の農業の講演会から、小さな驚きの数々、

昨日は、会社帰り、オーストラリア大使館・農務参事官の"オーストラリアの農業と日本"と云う講演を聴いた。私の食育に関する興味から、聴いてみたかった。

やはり、聴いてみると、沢山の驚きがあった。豪州は現在の人口2300万人で、その1/4が海外生まれの人(移民)とのこと。豪州でも現在、農業の後継者不足で悩んでいるとのこと。

農業の後継者不足の理由に、(1)農業の農地面積は確かに日本よりはるかに大きいが、単位当たり生産性は低いのだと云う。また、(2)土地が日本よりはるかに痩せていて、気候も予測できない旱魃と洪水の繰り返し、(3)豪州では、鉱業(石炭・鉄鉱石・石油・ガス)が給料がよく、農業は人気ない、(4)若者の都会での進学と都会志向、などであった。

豪州のオージービーフは、草で育った赤身肉で、豪州人は赤身肉を好み、日本の和牛(脂肪のサシの入った肉)とは、競合しない別の商品との説明だった。畜産用語で驚いたのは、"肥育"と云う言葉。子牛を買って来て、太らせて出荷すること。帰宅語、調べてみると、特別な飼料のほか、運動を制限するとか、書いてあり、また驚いて、参ったなーと思った。

食育に関する漠然とした興味から、たまたま聴いた豪州農業の講演会、色々な考える刺激を受けることができた。

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脳卒中・心臓発作を防ぐ食物、

今月の健康レポートは、脳卒中・心臓発作を防ぐ食物です。ちょっとした食物への関心が人生を救うとも想う。

―「脳卒中・心臓発作を防ぐ特効法」主婦と生活社から抜粋―

1.筋肉収縮のカルシウム、弛緩させるマグネシウムのバランスで心臓の鼓動を調整。カルシウム2~3 に対して、マグネシウム 1 のバランスが大事。カルシウムは、小魚から。 マグネシウムは、大豆・ひじき・アーモンド等から。

2.ビタミンはチームで戦う → ビタミンC や、 ベーターカロテイン、ビタミンE は、相乗効果で、悪玉コレステロール や、過酸化脂質と闘う。ビタミンE はアボガド等から。 ベーターカロテインは、ニンジン・青菜など緑黄色野菜から。

3.高血圧・動脈硬化予防に林檎・バナナも。林檎: エピアテキンは、中性脂肪減らし、ナトリウム(塩分)排出のカルウムが豊富。 バナナ: カリウムが豊富。 また精神を安定させるセロトニン合成にも寄与。

4.オリーブ油には、75%もの、オレイン酸(悪玉コレステロールを減らす)。動脈硬化予防、酸化に強く、加熱処理しても大丈夫。

5.血栓を防ぐ、玉ねぎ。切ってから15分放置すれば、有効成分が安定する。催涙物質・ジスルフィド類が、血栓を予防する。

6.干しシイタケ・コノコ は、コレステロールを低下、動脈硬化を防ぐ。血液サラサラ成分・エリタデニンが溶け込んでいる。

7.アブラナ科の野は、血液サラサラ成分。 辛味成分が、血流を促す。キャベツ、白菜、小松菜、ブロッコリー、カリフラワー、チンゲンサイ、大根、カブ、など。

8.トマト、赤い色は、サラサラの素。抗酸化成分・リコピンの宝庫。 血液・血管が若返る。

9.ヌメリ野菜で、ピチピチ血管。 粘りの正体は、ムチン。 血糖値・コレステロールを下げる。 以上

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June 27, 2013

朝の大手町、ボンヤリと心の旅景色、

昨日は経団連会館での中東関連のセミナー参加のため、朝9時過ぎに大手町を歩いた。朝の大手町は、大学を卒業して就職活動していた頃が、何十年も経っているのに、何故か想い出された。

大学時代に、社交ダンスのパーテイーで来たサンケイホールなどまで想い出すとは、仕事ドップリだった頃には、考えられないこと。そして、今、また私は、別人になって、大手町を、キョロキョロと歩く。

セミナーでは、NHKの解説委員や、日経新聞の論説委員などの人の講演を聴いた。ただ淡々と聴いた。会場には、働き盛りの熱血社員らしきビジネスマンもいて、何か、今の自分には違和感が生じていることに気づく。

もう、競争には、関心が薄れてしまったのだと思う。それ故に、また見えて来る景色も、新鮮で好い。

ただ淡々と、大手町でさえも、散策気分。

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June 26, 2013

もし犬猫だとしたら、今から一生が始まると考えても好し

犬は小型犬、中型犬の寿命が15年(大型犬は10年)、猫の寿命は15年くらいらしい。

もし、これから、私が15年生きるとしたら、犬・猫にとってみれば、全くの別の一生が始まることと同じ。

人間にとっても、これから生きる15年を、過去の延長の15年と考えず、全くの別人生が始まると思って生きる考えは心地よい。

前世からの修行の続きを、新たな今世で引き継いで行く。

今までの色々な試練や不幸は、全てが学びの素材だったことに気づく。

そして、新たな一日が、幕を開ける。

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June 25, 2013

「面白うて、やがて悲しき鵜舟かな」芭蕉の句との出会い、

昨日、会社帰り、大倉山で途中下車、行きつけのスーパーで、イワシのつみれや、ブルーベリーなど買って、次に、白楽の、行きつけのジャズ喫茶に立ち寄って帰った。

ジャズ喫茶のママさんとの世間話の中で、誰の作か知らないが、「面白うて、悲しき鵜飼かな」という句があることを教えて貰った。お客さんの中で、製造業で働くある若者が、安い賃金で深夜まで、長時間働かされている話から、「まるで鵜飼のように働かされて」と私が云った時の、ママさんからの反応だった。

鵜飼の風情も、鵜にしてみれば、あんなに辛いことはあるまいと想い、私は鵜の立場を表現した。

自宅へ帰り、調べてみると、それは芭蕉の句で、「面白うて、やがて悲しき鵜舟かな」と云う句であった。楽しみの極まりの後、寂しさを詠った句であった。 祭りの後の寂寥感かと、その解説に、ちょっと、期待が外れた。

強者には、祭りと寂しさが、鵜にとっては苦しみの過酷労働かと、そのコントラストを想った。私は、「面白うて、悲しき鵜飼かな」の方が、感動する。

<午後の懺悔>
そう云えば、鵜に食べられている魚もいたなーと、その後、通勤中の道すがらハッと気づいた。魚は鵜に食べられ、また、そのうわまえをはねる人間に食べられる。イワシをミンチにして食べる私にも気づく。生きていること自体も、懺悔だなーと今さらながら気づく。それなりの生き方をしなければ、自然界に顔向けが出来ないと想う。

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June 24, 2013

昼はアラブ衣装、夜は野生のホタルを求めて、

昨日は、昼、東神奈川の公会堂で、ヒッポクラブの新子安ファミリーの立ち上げパーテイーに応援出席し、アラブのヘッドギアを参加者の方々に紹介、その場で私が頭に被り、アラビア語で自己紹介もした。

"アッサラーム・アレイコム"、アラビア語は、ちょっと珍しく、アラブを紹介することは楽しい。ヒッポクラブは子供達が走り回っていて、その様子を見ることも、私にとっては楽しみ。

その後、夕方、日没を目指して、向ヶ丘遊園・生田緑地へ野生のホタルを鑑賞に出掛けた。 徐々に暗くなる、小川の流れる林の中で、待つ事約30分、19時20分頃、遂にホタルが、ふわふわと森の中を舞い始めた。昨日は100匹以上は、飛ぶのが見えたと想う。私の頭上10センチくらいのところまで、近付いてくれたホタルもいて感動だった。 また、湿地帯なので、カエルの鳴く声なども聞こえて来て、それは、素晴らしい大自然だった。

今年も野生のホタルと会うと云う、自分との約束が、昨日やっと実現し、それは、密かな達成感でもあった。

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June 23, 2013

NHK新潟ESS、田辺光宏アナウンサー講演、横須賀にて、

私が、最初に赴任した新潟で、1974年、NHK英会話のテキストの中の交流欄で、視聴者のESS(英語会)を呼びかけて発足した会がNHK新潟ESS。NHKの田辺アナウンサーもメンバーに加わり、NHKのスタジオで英会話をする社会人サークルだった。当時、20名くらいのメンバーがいて、週2回くらいの例会には、会社帰りに、常時5~10名くらい出席して、日本人どうしで英会話を楽しんでいた。

その田辺アナウンサーが、昨日、横須賀の国際交流の会で、江戸時代の支倉常長使節団を中心に、スペインと日本の交流の歴史に関する研究の講演をされると云うので、東京・横浜・新潟在住の懐かしい、元NHK新潟ESSのメンバー有志5人が、横須賀に集まった。

田辺アナウンサーの話は、NHK時代からの取材の経験からも、面白い視点で、国際交流を語ってくれて、私にとって、新たな歴史観への刺激にもなった。今でもスペインに残る沢山のハポン姓のスペイン人が、その支倉使節団の中で現地の人と結婚しスペインに残った人達の末裔であることも知った。何故伊達藩が遣欧使節団(1613年)を出したかは、謎であるが、当時地震・津波に見舞われた東北地方(慶長三陸地震1611年など)の経済復興に、南蛮との貿易を試みた伊達藩の目論見もあったのではないかと云う説も初めて耳にした。

また、1841年、土佐の漁師ジョン万次郎(1827年ー1898年)が遭難し米国で、学問をして、1852年土佐へ帰り、塾を開き、海外での見聞を語ったことが、土佐の坂本竜馬に多大の影響を与えたこと。15歳くらいの土佐の若い貧しい漁師が遭難したことが、日本の運命を変えたとも云える。

講演(2時~4時)のあと、皆(6人)で、日露戦争で活躍した戦艦"三笠"を展示する三笠公園を歩いて、その後、昔話をしながら、会食をした。当時、日本人どうしで、恥ずかしくもなく、よく英語で話し合ったものだと、笑った。

私が、1974年、何となく新潟で呼びかけたNHK新潟ESS、2013年に、横須賀の地で再会す。

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June 22, 2013

6月の軽井沢探訪、

ニューパラダイム研究会(通称カリスマ会)の研修会で、20日ー21日と軽井沢に滞在した。

朝夕の軽井沢の空気は、静かな森の、緑が溢れるような香りがして、何か遠い日の子供時代のキャンプの時に感じたような、すがすがしい気持になれた。

雲場池の周りを歩くと、その清らかさが、大分・湯布院で見た池の光景も想い出させた。

"鬼押出し"まで、車で出掛けると、浅間山が眼前にくっきりと見えた。天明の大飢饉のもととなった1783年の大噴火、遠くはその灰が季節風に乗り欧州まで不作をもたらし、フランス革命のもとにもなったとの説も想い出した。

その溶岩の道を歩くと、まるで、あの世の世界のようにも想えた。そこにも、溶岩の上に緑が、花が咲き、松まで、景観を飾っていた。溶岩の岩の間を覗くと、光ゴケと云う緑の光を放つコケもあった。

溶岩の中に建てられた浅間山観音堂には、天台宗の僧が描いた可愛い地蔵さまの墨絵に、「すべてを失った時、人間の本当の力がわかる」と、言葉が添えられていた。

東京から新幹線で1時間のところに、そんな異次元世界が存在していた。


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June 21, 2013

「座ってるだけ、昼寝付き、80才以上」、時給1000円

京都左京区、比叡山の西の入口のしば漬け屋さんの店先に掲げられている貼り紙が話題を呼んでいることを知り、痛快な気持ちになった。

店の方は云う。 お年寄りが、ただ着物を来て、そこに居てくれれば好いのです。若い人では意味がありません。商売はしなくていいのです。1時間でも、2時間でも、お年寄りは、寝ていても絵になります。

「元気の無い方、昼寝付き、時給1000円」などとも書かれていると云う。

八瀬比叡山口駅前、「又虎」と云う、しば漬けの店とのこと。

"ただ、居るだけで癒しになる存在"、年を取ることは、そんなオーラを生み出してくれることもあるんだと、改めて気づかされ、痛快な発見に苦笑。

(2013年6月20日の記)

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June 20, 2013

二本松・少年隊13~17才戦死の情景、

先日、戊辰戦争・二本松・少年隊の最後をTVで見て、13才の男子まで戦死した様子を知った。インターネットで調べてみると、13才~17才の隊士62名のリストが出ていた。戦死者14名。

自分の娘が13才だった頃の表情を想い出す。

社会の逃れられない運命に飲みこまれて行く子供達の姿が、すがり付きたいくらい愛おしい。

私の故郷・大牟田の暴力団の元幹部78才が、2年前、敵対する組の会長宅に、一人、手榴弾と機関銃で武装して乗り込んだ話が、週刊誌に出ていた。 映画で見る様なシーン。 80才近くになっても尚、任侠道を貫く老人にも、それぞれの人が生きて来た社会に飲みこまれて行く運命の姿を感じる。

抗することも出来ない、生きて来た社会の無言の圧力、教えられた道。

その生き方が、激しければ、激しい程、憐れで、人間が愛おしいと想う。

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June 19, 2013

92歳の時の感動、

一昨日、生前の母の写真コピーを渡した方から、メールが届いていた。

「帰宅は11時半頃で、母は寝ておりましたが、私が帰ってきたことに気づき、12時頃、起き出してきました。
あなたや弟さん、お母様、ご姉妹さんのことなど、お話ししてふと気付いたらほとんど1時になっていました。
母は、お母様の写真を見て、非常に懐かしがっておりました。」

現在、92歳になられると云う、母の親しかった友人の方の様子に、私は感動した。

私は、何か、人生で、忘れていたものを取り戻すような力を感じた。平凡な日々の生活の中に埋もれていたエネルギーが、生きること自体が持つエネルギーが、瑞々しく蘇るように感じた。

そして、母とその方の会話が、今にも聴こえて来るような気がした。

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June 18, 2013

弟が生まれた時の助産婦さんの息子さん、思い掛けない再会、

今年5月末、三池高校の大同窓会で再会した人は、昭和36年・弟が生まれた時にお世話になった近所の助産婦さんの息子さんであった。母は、その方の家に、1週間くらいお世話になったらしい。私も微かに覚えている。

私は、現在の弟とのスナップ写真もお渡しした。母と親しかったその助産婦の友人の方は、私の母より、少し若い方で、今もお元気でらっしゃるとのことで、私の母の生前の写真、父の生前の写真なども渡した。 とても懐かしがってくださっていると聴いた。

昨日は、終業後、6時過ぎから10時くらいまで、喫茶店で、息子さんと、ずーっと話し込んで、時が経つのを忘れる程であった。近所の、昭和30年代・40年代の様子を、絵画のように想い出しながら。

東大の駒場の寮にいらっしゃったこと、寮費が月に100円だったとのこと、元の私が勤めた会社の友人も大学で知人だったことも聴いた。

今、相模原に住んでらっしゃって、私の好きな明治の詩人・八木重吉の記念館もそばにあることも聴いた。

何と云う出会いだったんだろうと、不思議な思い掛けない再会に感謝した。今朝、改めて、心の中で母へ報告し、母の写真を見詰める。

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June 17, 2013

昔の両親の写真を持って出勤する日、

昨日6月16日は父の日で、5月12日は母の日だった。

両親が亡くなって、はるか遠くなってから、今頃、そんな日の存在を意識している。

私の母親がとても親しくしていた、九州の実家の近くに住んでいたご家族の息子さんと、最近、高校の同窓会で会い、今日、二人で、会社帰りに、昔の写真を持参して会うことにした。

私が住んでいた昔の家、弟が描いたイラストも、家の前の八百屋さんのご夫婦の写真も、昔大牟田でよく見掛けた買い物かごの写真なども、色々、昨日捜し出した。

両親のその頃の生活が甦る。

夜、7時、新宿駅西口。 時期はホタルの頃、キラキラと想い出ばなしが光る。

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June 16, 2013

"身体と心"は私なのか、

人は、"身体と心"を私だと思って生きる。そして数々の人生の修行の果てに、"身体と心"は私ではない。私のものであると云う境地が生まれる。

身体と心の背後にある仏性は、執するこころを滅する。あって好し、無くて好しの境地をもたらす。生死解決、不生不滅の世界が広がる。

神が外にある世界が二元、神を自分の内に見出すのが一元の世界。

昨日の住職の法話から。

そして、禅の初祖である達磨大師の言葉、 「不立文字」「教外別伝」「直指人心」「見性成仏」も紹介して貰った。

「不立文字(ふりゅうもんじ)」、文字や言葉をこえた体験によって、はじめて本当の教えを体得できる。
「教外別伝(きょうげべつでん)」、教えは、「以心伝心」。
「直指人心(じきしにんしん)」、外ではなく、自分の心を見つめる。
「見性成仏(けんしょうじょうぶつ)」、全ての人は仏であることに気づく。

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June 15, 2013

来日の仏大統領とパートナー、両陛下と別れの挨拶

昨日、インターネットニュースに、「両陛下、仏大統領とパートナーに別れのあいさつ」の見出しを見付け、内容を読んでみて、驚いた。

「天皇皇后両陛下は、8日午前、国賓として来日したフランスのオランド大統領と、事実婚パートナー、バレリー・トリルベレールさんが宿泊していた迎賓館を訪れ、お別れのあいさつをされた」とあった。

国賓としての大統領とパートナー。

パートナーと云う響きに、結婚の持つ所有と云う概念が薄められて、寧ろ、本当に仲がいいのだろうなーと、ほのぼのとした気持になった。社会制度は、社会を維持する大切な規範であるが、その制度のひずみ(欠点)に対しては、例外的なものへの寛容さも求められる。

フランス大統領の来日よりも、国賓として、そのパートナーを認知する国際社会に、穏やかな小さな驚きを感じた。

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June 14, 2013

妹との時間、横浜みなとみらいにて、

小田原に住む妹が昨日、横浜・桜木町にあるミキ商事(ミキプルーン)の横浜支店で行われた営業所研修に参加した。私も、休暇を取って合流、妹と机を並べて、研修を受けた。約200名の参加者中、男性は、私を含めて2名だった。そのことも、ちょっとした体験である。

妹と二人だけになるのは、子供時代に返ったみたいに感じ、何故か楽しくてしょうがなかった。講義は聴くのが長くて大変だったけど、時折、お互いに隣を見るとメモをとったり、寝ていたり、可笑しかった。

1時間の昼休みは、ビルの下にあるコンビニでおにぎりやアンパンを買って、コンビニ前のべンチに二人座って食べた。妹は、こしあんや、栗あん、ウグイスあんなど小さなアンパンが5個入ったのを買っていた。多過ぎるので、それぞれのアンパンを半分にちぎって、二人で食べた。妹が好きな栗アンの時は、半分にしたパンを咄嗟にまた、取り返そうとしてみて、私が、すばやくまたかすめ取ったり、子供時代の兄妹ゲンカの再現振りに、二人大笑いした。

研修が終わって、みなとみらいの光景を見下ろすレストランで、二人、早目の夕食をして、あれこれ、兄妹の話もできた。ミキプルーンは、昭和47年発売の地味な、健康食品であるが、おばさん方に絶大な人気と実績に裏付けられている。ミキは、創業者の社長から、ミキ食品を通して人間を磨いて、心から心へ、人間の温かみを繋げる仕事をしてくださいという理念を、厳格に朴訥に続けている。

私に取っては、身体はミキで、精神は禅で、この両輪で、私の人生を切り拓いている。


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June 13, 2013

「文芸春秋」最新号、父への手紙、母への手紙、

「文芸春秋」7月・最新号の父への手紙、母への手紙は、書いた人の人生が垣間見えて、人生を愛おしく想った。

遠藤周作さんが息子さんへ云っていた言葉、「会社勤めは舗装道路を歩くようなものだ。舗装道路は歩くのは楽だが、足跡が残らない。俺は足跡の残る砂浜を歩いて来た」。遠藤周作さんが苦しんで歩いて来た道を想う。

森進一さんのお母さんの言葉、集団就職した息子への手紙に「土を掘っても最初は泥、もっと掘れば泥水になり、堀り続ければ、やがて綺麗な水が泉のように湧いて来る」とあったと云う。集団就職で鹿児島から上京する汽車に、線路脇で営業するラーメン屋さんで働いていたお母さんが、汽車が店の前を通る時間を覚えていて、白い前掛けを外して、その前掛けを振りながら汽車を追いかけるように見送ってくれたこと、、、、、。

コシノヒロコさんから、NHKのカーネーションで有名になった母親・小篠綾子さんへ、「お母ちゃんが買ってくれたクレパス嬉しかったで、ヒロコ、よう頑張ったなあと云うてや」との手紙。

安藤美姫さんは8歳の時、お父さんを交通事故でなくしている。パパがソファーに横になって金曜ロードショーを見る時はいつもそばにくっついていたと云う美姫さん。「辛いことがあったら、美姫はいつも空を見上げます。大事な人がそこにはいるから」と綴っている。

佐藤優さんは久米島出身、お母さんが亡くなる一週間前、「私の骨の一部は、久米島の丘の上に埋めてくれ。大原・北原の海がよく見えるところが好い。青い海をクジラの親子が泳いで行く様子を見たい。夕陽が沈むのが見える場所がいい。朝陽の昇る場所じゃないからね」と云ったとのこと。 お母さんが云った条件に合致するのは、実家があった西銘とその周辺しかなかったとのこと。

全てが、私の母、父との会話のようで、私も、心の中で、いつしか両親と会話していた。


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June 12, 2013

どこからともなく、"夕焼けこやけ"のメロデイー

童謡に「♪夕やけこやけで日が暮れて、山のお寺の鐘がなる。お手手つないで皆帰ろ。カラスと一緒に帰りましょ。♪」

そう云えば、このメロデイーが、外のどこかの拡声器から、私の勤務する愛宕のOffice にも、毎日、夕方5時に聴こえて来る。

どこから聴こえて来るのか、Officeの女性に聴いてみたら、港区役所からですよと云う。近所の学校からではなく、役所からとは粋だなーと感心した。まるで田舎の村役場だなーと、都心にいるのを忘れる。 時折、西の空には、夕焼けの富士も見える。

「♪子供が帰ったあとからは、まあるい大きなお月様。小鳥が夢を見る頃は、空にはきらきら銀の星♪」

私が退社した後、高層ビルのOffice にも、キラキラ銀の星か。

そうだなー、そうだなーと、人生を想い直す。

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June 11, 2013

ホタル祭りの後の静けさ、生き残りのホタル、神田川

昨日、会社帰りに、寄り道をして井の頭線・久我山駅に降り立つと、神田川沿いに、ホタル祭りへの商店街の寄付者名簿がまだ掲示されていた。8日(土)、9日(日)は大勢の客と屋台などで混雑していたらしい。

去年も、ホタル祭りの数日後に来て、ホタルの生き残りを捜して、その後、居酒屋に入った。今年は、まだ7時前だったので、同じ居酒屋を想い出し、吸い込まれるようにその居酒屋に入った。店の宇都宮出身の女将さんは、私が1年前にも、ホタル祭りの数日後、横浜からホタルを見に来たことを覚えていてくれた。昨日、店はガランとして、店に入ると、客は誰もいなく、「ホタル祭りの後は、こうだよ」と、笑っていた。

今年は、ホタル祭りの客は、かなり増え、川沿いの道の交通整理が大変で、客のマナーも悪いのが多くなったと女将さんは嘆いていた。混雑振りは、フランクフルトが70万円も売れた屋台の話なども聴いた。今年は、「ホタルが見えないぞ」と、主催者にどやしつけてる客もいたとか。放流したホタルが、子供の服の周りに沢山まとわりつた話などしてくれた。祭りの日、放流された(約2000匹の飼育された)ホタルは、みるみる内に、こうもりのエサになってしまうのだと云う。

久我山駅から、富士見が丘駅までの神田川沿いの、木々が多いエリアに、まだ生き残ったホタルがいるかも知れないので、行ってみれば好いとのアドバイスだった。

人影も疎らな細い川沿いの遊歩道、静かな、薄暗い道は、時折ランニングする人、自転車で通り過ぎる人がいる程度で、前日に祭りで混んだ道とは思えない静けさだった。 途中、家族連れの3人などが川を覗き込んでる箇所に、私も立ち止まり、川を覗くと、やわらかなな光が、ポツン・ポツンと川の上の茂みや木々に舞っていた。それは数匹、それでも、生き残ったホタルに感謝した。

ホタルは、寂しげに、ほのかな灯りで飛ぶのが好い。ホタルは祭りには向かないと想った。放流されたホタルは、こうもり達の襲われて、パニック状態で死んで行ったことだろう。そして、祭りの後、僅か生き残ったホタルが、ひっそりと、仲間を弔うかのように、神田川に舞う。

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June 10, 2013

"喫茶去(きっさこ)"、平林寺にて、心の旅

昨日は、一日、この世を離れていたのかも知れない。今朝、起きてみると、"喫茶去"と書いた茶室に飾る小さな掛軸の書、黄色い薔薇の写真など、昨日の心の旅のなごりが目に留まった。昨日は、私は、朝から夜まで、心の旅をしていた。

朝、横浜・磯子の葬儀場に、会社時代に親しかった友人の告別式に参列した。友人には二人の娘さんがいて、彼の歩んで来た人生のスナップ写真が飾られていた。外国からのゲストを連れて、一緒に、鹿児島の石油基地や大阪の製油所に案内出張した時の想い出。お互いに英語の資料を作ったり、一緒に多くの仕事をした時の想い出が蘇る。その当時の彼の私生活の部分を今、知る。遺されたウクレレ。告別式で聴くハワイアンのメロデイー。彼らしい笑顔の遺影、彼との会話に浸る。初めて会う娘さん達が、彼の面影を遺している。

そして、その後、私の魂は、空を一気にとんで、埼玉・平林寺総門へ。武蔵野の大自然の中、禅修行の専門道場を持つ関東の名刹、平林寺。約35名の方々とのグループで、見学させて頂いた。

母が好きだった国木田独歩が描いた武蔵野の香り、そこは野火止用水が流れていた。玉川上水の水を江戸に七分、川越に三分と云われた野火止用水。

平林寺は1375年開山、松平家の霊廟となり、1663年に岩槻から、松平信綱の遺言により、現在の野火止の地に移築されたと云う。寺の裏手に、松平伊豆守信綱の墓も訪ねた。そばには、信綱が平定した島原の乱の供養塔もあり、この地で島原の乱との縁と出合うとは、驚いた。信綱は一揆軍の3倍に当たる12万の軍勢を率いて、一揆軍を全滅させた。私の母は隠れキリシタンの地・長崎の出身。これも、一つの縁だったのだろうと想う。

短くやった坐禅では、若い雲水の方に、想い出にと、警策(きょうさく)をいれて頂いた。寺からのお土産に、"喫茶去"と書いた細い小さな掛軸を頂いた。その後調べてみると、"喫茶去"とは、「お茶でも飲んで行きなさい」と云う意味で、特にお茶を飲んで去りなさいと云う意味ではないと云う。分別をいれず、ただ、お茶でも飲んで行きなさいと云う意味、まさに。「今 ここ」の言葉であった。

参加された人が、懇親会の席で、自分が撮った黄色い薔薇の写真を何枚か配ってくれた。その写真が、私の昨日の心の旅の、締めくくりのお土産であった。

私の魂は、風にのって、昨日は磯子から埼玉方面に,漂っていた。

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June 09, 2013

私を眺める、私の一日を眺める、私の写しだしているもの、

見るものがあるから目がある。聴くものがあるから耳がある。外の条件で私が作られている。

外の条件の変化で、身体も、いずれ消えねばならぬ。

そして、それを、見ている私がいる。じっと、私の変化を見ている、変化しない私を感じる。

久しぶりに、昨日、住職の講話(スワミ・ヴィヴェーカナンダのバクテイーヨーガ)を聴いた。

今日は、インド大使館では、スワミ・ヴィヴェーカナンダ生誕150周年祝賀会の日。

今日の午前中は、私の友人の二人の告別式が磯子と浦和で同時に行われる日。

そして、私は、今日、午後、埼玉の平林寺を初めて訪ねる。

私は、私の人生で、何を写し出しているのだろうと不図思う。

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June 08, 2013

電車の失敗の光景、それも一つの物語

昨日、通勤途上、朝9時前、白楽駅のホームのベンチに座っていたら、隣に座る若い女性が途方にくれて携帯電話をしていた。

通勤特急に乗って横浜まで行っちゃって、試験、間に合わなくて、引き返しているもよう。一応会場に来てくださいと云われているから、行ってみるとかの声。 力なく、うなだれて電話していた。

どこで、どんな試験を受けるのか、わからないが、それは大変なショックだろうと思った。それでも、もう済んだことは仕方ないとの、諦めの安らぎの雰囲気もあった。

そんな私も、数日前、白楽からの通勤電車で座れて、朝でもウトウトとすることがあるが、中目黒で乗り換えのところ、目が覚めたら、耳慣れない「北参道」と云う駅。「渋谷」を越え、「明治神宮前」、そして「北参道」だったのだ。副都心線が東横線に乗りいれてから、横浜からも和光市行きとか、川越行きとか、耳慣れない駅行きが多い。

朝の通勤時の、間違いは、時間の余裕がない時が多いので要注意だが、その日、私は運よく、早目に家を出ていたので、出社時間の10時には間に合った。 だから、通勤前に、「北参道」駅を視察したくらいに思い直せ苦笑した。

電車の失敗は、忘れ物の経験などもあり、誰しも、人知れず、大なり小なり、持っていると思う。すぐ忘れてしまうような出来事でもあり、忘れられない出来事でもある。 昨日のあの女の子は、立ち直れただろうかなどと、想像してみる。

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June 07, 2013

紫陽花は友を送る花、

昨日、同じ日に、友人の訃報が2件届いた。 亡くなった友人と、最後に会った数年前の表情や会話を想い出す。

紫陽花の頃。異母兄弟の姉達も、母親が亡くなった6月は、紫陽花が知らせてくれると云っていた。

私の母が満洲で、亡くした子供も紫陽花の頃だったと云う。

そして、昨日、紫陽花は友を送る花になった。

今度の土日は、神田川・久我山でホタル祭りがあると云う。生田緑地では、14日~30日、野生のホタルが飛ぶと云う。

紫陽花を見て、ホタルの灯りを見て、そして人生を想う。


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June 06, 2013

道元禅師の見たホタル、6月はホタルの季節、

昨日昼休み、会社のそばの愛宕・青松寺の前を通ると、いつものように、門に、道元禅師の歌が飾られていた。

今月は、「峰の色、谷の響きも、みなながら、我が釈迦牟尼の声と姿と」、

よく住職からも聴く、私も大好きな句。

道元禅師の"傘松道詠集"とインターネットで調べてみると、道元禅師が詠んだホタルの光景の句も出て来た。

「山の端の、ほのめくよひの、月影に、光も薄く、飛ぶホタルかな」。

今は6月、旅行ポスターのように、「そうだ、ホタルを見に行こう」という気持になる。

梅雨の季節、小雨に煙る林の中に、サラサラと流れる綺麗な小川、その周りに見付ける野生のホタル。

雨の鎌倉、雨の紫陽花、のように、小雨が似あうホタル。

始まったばかりの6月、野生のホタルの情報を追う。

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June 05, 2013

近所の小学校の運動会の放送、小鳥の声 : カメリンピックの記録

5月25日・土曜日は快晴だった、今日のように、小鳥の声が聴こえ、朝日が眩しかった。

朝、9時くらいから、近所の浦島小学校からの放送が始まって、まるで田舎の村内放送みたいに。それは運動会のような様子がすぐにわかった。同じヒッポクラブのメンバーの家族が、そう云えば、その日は運動会だと云うことを云っていたことを想い出した。

その日の午後は、高校の大同窓会がある日、咄嗟に朝、30分でもその運動会を見に行きたくなり、浦島小学校に出掛けた。浦島小学校は、娘が卒業した小学校。運動場も教室も懐かしい。父兄参観で行った教室も。

赤と白の帽子をつけた子供達が、並んで、もうその光景だけで、ジーンとして来る。そのヒッポクラブの家族の姿を捜してみたが見当たらず、それでも、運動場を、ゆっくりと運動会の雰囲気を楽しむようにゆっくりと歩いて一周してみた。

近所の、娘と同級生だった女の子が、声をかけて来て、懐かしかった。その子は、町内会の夏祭りでは、神輿の上に乗せて、我々が担いでいたこともあった女の子。4歳と2歳との子供さんを連れて見学に来たのだと云っていた。私のカメラにその様子を収めた。

そのヒッポクラブのメンバーの家族は広島からお婆ちゃんが出て来て運動会を見学して帰られたと、後日談で聴いた。メンバーの男の子は、駆けっこで2着だったこと、"亀の子タイフーン"と云う、棒を持って4~5人で走る競技に出たとのことだった。

浦島伝説のある地域に因んで、この小学校の運動会は「カメリンピック」と命名されている。遠くは、山下清が訪れて、トンボや昆虫の絵を子供達の目の前で描いて、それが保存されているとも紹介されている。

小学校から流れて来る放送に惹かれて、たった30分の運動会見学だったが、それでも、その日を、ほのぼのとさせる、体験だった。

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June 04, 2013

ベリーダンス公演、ジャズにも似て、

昨日、会社帰りに、文京シビックセンターに、ベリーダンスの公演を見に行った。

日本におけるベリーダンスのパイオニアと云われる海老原美代子さんを中心とした、日本人の舞姫達の共演に、改めて、ベリーダンスの耀きを見る想いだった。アラブ音楽の打楽器の響きに反応し、即興的に、身体で表現する内面のエネルギー。私は、ジャズの演奏にも似た、高揚を感じた。

私は、中東でも日本でも、アラブ・レストランでしかベリーダンスを見たことが無かったので、ステージでショーとしてベリーダンスを見るのは初めてであった。

遠く、私の人生での、アラブ世界との出会いの頃も想い出した。1989年、アブダビのシャラトンホテルで初めてベリーダンスを見た時のことも。砂漠とラクダ、暑さとオアシスの涼しさ、モスクとコーランの音、そして石油と私、そんな時代が私にあったことまで、アラブの音楽は誘ってくれる。

そして、ベリーダンスは、ジャズの演奏にも似ていることを改めて感じた日だった。

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June 03, 2013

ミニ遣唐使的な新たな風、

台湾に於ける大きな道教寺院・龍山寺を訪問した時に、龍の門(向って右、東)から入り、虎の門(向って左、西)から出ると云うことを現地ガイドさんから聴いた。

そうか、北は玄武門、南は朱雀門とか、歴史で習った遣隋使・遣唐使が持ち帰った都作りの構図や意味を、改めて、勉強てみたくなった。東京の虎ノ門近くで働く私は、江戸城の西の門に位置していることを想う。

道教寺院では、人々は、貝殻のような小さな木片の2個のセットを、同時に地面に投げて、その表裏の出方で吉兆を占っていた。表と裏が出れば陰陽円満で吉、吉の確率は3分の1。 .裏と裏は凶、表と表も凶。 私は、表を幸福、裏を不幸と解釈しても面白いと思った。 思い通りばかりでも凶、思い通りになることと思い通りにならぬことが相半ばしてこそ、自然界の調和、"吉"。

また、道教寺院では、死者の安楽を願って、あの世に送金するために、紙幣を模した札束を燃やす風習がある。その為の札束と焼却炉があった。三途の川の渡し賃の六文銭の延長のような発想かと想う。死者のためにお金を焼いて、あの世に送金すると云う発想は、おとぎ話っぽくて、ジーンと来る。

今回の台湾出張で、こんな文化を持ち帰った私は、私の人生の中では、十分、遣唐使だなと内心微笑んだ。


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June 02, 2013

例えば徳川家康の懐中時計の時代考証、台湾訪問の刺激から、

今回の台湾訪問の驚きを振り返ると、昨日、観光で訪れた故宮博物院も凄い。まるで大英博物館のように巨大で、文化遺産が素晴らしかった。 遠い紀元前の殷や周の時代からの青銅器なども、眼前に現われると、やはり、何か不思議な空気に包まれる。

1662年~1722年、清の康熙帝が使った、丸い小さな懐中時計。1600年代に、徳川家康が懐中時計を見る姿など考えられないが、考えると、その知的発見に気持が高ぶる。

台湾は別名(Formosa)フォルモーサとも呼ばれるが、1544年頃、台湾付近の海域を航行中のポルトガル船員が、緑したたる美しい島影を目のあたりにして、「 Ilha Formosa!(イラ・フォルモサ!)」と感嘆の声をあげたことに始まると云う。

街で見掛けた看板の「影城」がCinema(映画館)、地下鉄の席に「博愛座」とあるのはPriority Seat (優先席)、ガソリンスタンドには「自己為自己加油」(Self Service)のサインに笑った。

旅をしてみると、人生は、まるで壮大な映画のセットの中にでもいるように、見慣れない、驚きに満ちてもいることを想った。

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June 01, 2013

Taipei Scenery at night and in the morning.

Yesterday evening I finished my business smoothly , so I could join Taipei night tour . It was amazing to see real , very old downtown night market street of Taiwan, Hwahsi Street , where I was surprised to find snake restaurant , turtle restaurant, sugar cane juice stall etc . But it was very hot and humid out there at night . It was located famous Lungshan Temple , Dragon Mountain Temple .

I thought this is a kind of atomoshere which my mother might experience in China when she was young .

This morning at 06;00 , I went Sun Yat-Sen, Sonbun Memorial Hall station from the Hotel , City Hall station for enjoying morning walk aound the city . Subway called MRT , metropolitan rapid transportation start operation from 06;00 , very late as comparered with subway in Japan.

I will fully explore the city until my departure flight this evening , thanking to my encounter with unseen world and scenery , thanking to a small surprise surrounding me .

2013 , June 1 , AM in Taipei .

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姉の親友、そして母の親友の息子さんとの再会、

先日、三池高校の大同窓会では、亡くなった姉の親しかった友人の方と会えて、大変、感激した。

その後、二次会で初めて会った先輩、どこかで会った人と漠然と想いながら、数日が過ぎ、"故郷で、元住んでいらっしゃった場所"を尋ねてみたら、何と家のすぐ近くにいらっしゃった、母の親友みたいに親しかった方(現在93歳で健在)の息子さんだったことがわかって、仰天した。

母がよくその方の家に行ったり来たりして、とても親しくしていた。お互いの子供もことも、沢山、話をしていたことだろう。その方の息子さんの優秀な話を、私は母からよく聞かされていた。

その方と、こんな再会をしようとは、母に導かれたのではないかとさえ想い、暫く、絶句した。

その方と会うのは、私にとって、母と会うことと同じ。 人生は、凄い縁に導かれていることを想う。

(2013年5月30日の記)

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