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April 30, 2013

苦が条件、苦が無ければ安らぎは無い、

昨日の住職の言葉は曰く、「法は、苦よりの解脱」を説きます。

苦が無ければ、解脱できない。

それは、「解脱には、苦が条件である」と云うことです。

順風満帆、世間で云う勝ち組には、解脱は程遠いと云うこと。

真の安らぎ(解脱)には、苦が不可欠と云うこと。

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April 29, 2013

横浜・野毛大道芸祭り、路上に座り、ジプシーの音楽、沖縄蛇皮線

昨日は、快晴の春の日、横浜・桜木町の"野毛の大道芸祭り"を久しぶりに覗いた。

早速、野毛柳通りに入ると、道路脇の露店で鰯(イワシ)を焼く匂い、生ビール・日本酒・ワインなどの貼紙に、早速ビールを確保。紙コップを片手に、露店の通りを歩いた。 道路の交差点付近で、大道芸が始まる前には、みんな道路に座りこみ、私も一番前の席に座りこんだ。道路に堂々と座り込むのは実に気持が好い。 久々に見る本格的な大道芸がうまいこと、うっとりする思いだった。

通りからジプシーの音楽のようなメロデイーが聞こえて来たり、アラブのベリーダンスの音楽やショーもあり、外国への旅気分にも浸れた。

酒屋さんの前で、椅子に坐り、沖縄の蛇皮線を演奏しながら飲んでる人もいた。酒屋さんの前にはビールケースをひっくり返した椅子や簡易テーブルがあり、ビールや泡盛(焼酎)飲む通行人の方々が数人、蛇皮線の音を楽しんでいた。私も、蛇皮線の音に惹かれて、その席に加わった。沖縄では、すぐみんな輪になって踊るのだそうだ。そばにいた、おばさんは、席に坐ったまま、両手を上にあげて、蛇皮線に合わせて、やわらかい手つきで踊った。まさに、沖縄の光景だと思った。

おばさんは、よっぽど気分が乗ったのだろうか、蛇皮線を弾く人に千円札をチップに渡した。すると、蛇皮線を弾く中年男性は、その千円札を器用に、折り紙のように折り、祝いの熨斗(のし)の形を作り、その中に百円玉を入れて、そのおばさんに、ありがとうと云って、お返しをした。 蛇皮線の男性が、余りにも、粋で、私はしびれた。

祭りは人を近付ける。人間を愛おしくさせる。みんなと繋がっていることを感じさせる。

波が集まると大海になる。大海とは"繋がっている安らぎ"。祭りは、波を大海に導くような魔法がある。

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April 28, 2013

「不生不滅」への糸口、"心"とは違う"霊性"への気づき、

私を"身体"と思う人には、"心"も"霊性"も見えない。

私を"心"だと思う人には、"身体"も"霊性"も見えない。"心"はロボットでも真似出来る、"物質的こころ"。それは、五感六識が分別する二元的世界。 そして、"心""と霊性"とは違う。

"身体"と"心"と"霊性"とは、一体のものとして、人間の中に存在している。それは人間の本性。

"霊性"とは、"神"、"仏"、"魂(たましい)"と呼んでもいい。

"霊性"を見ている人には、最早、"身体"も"心"も消えている。 即ち、個としての、"私"(身体と心)が消えている(一元世界)。 そこに、「不生不滅」の世界が広がっている。

"身体"と"心"は「波」、"霊性"は「大海」。

誰にでもある"魂"(霊性)。 昨日の住職の言葉から、「不生不滅」への糸口が輝く。

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April 27, 2013

食べ合わせ、メタボ対策食材、

今月の食と健康の勉強記事。ちょっとした知識と素直さで、人生は救われると思う。

「毒を出す、新・食べ合わせ法」(増尾清著、朝日新聞出版)より抜粋
1、悪い組み合わせ
(1)干物と漬物: 干物のジメチルアミン+漬物の亜硝酸→ニトロソアミン(発癌物質)
(2)砂糖と脂肪: 脂肪の蓄積。 メタボに大敵。
(3)即席麺と清涼飲料: ビタミンB1消耗し、精神不安定化。
(4)ポテトチップとコーラ: ポテトチップスにカルシウムは少なく、コーラのリン酸がカルシウムを奪い、極度のカルシウム不足を引き起こす。
(5)保存料(ソルビン酸)と発色剤(亜硝酸塩): 発癌性不安。

2. メタボ対策食材、
(1) コレステロール対策にトリプトファンとビタミンB6 、
トリプトファン: 大豆、ゴマ、アジ、イワシ、カツオ、わかめ など。
ビタミンB6 : 大豆、ピーナツ、ジャガイモ、サツマイモ、アボガド、シャケ、サバ、マグロなど。

(2) 肥満防止に、ビタミンB1 と硫化アリル、
ビタミンB1 : 胚芽、にんにく、ニラ、ねぎ など、
硫化アリル: 玉ねぎ、ねぎ、にんにく など、

(3) 塩の害を防ぐカリウムとマグネシウム、
マグネシウム:海藻・豆類・ゴマ・小松菜等血管を広げて血行改善
カリウム: ワカメのカリウムは、ナトリウムの害を防ぐ
以上

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April 26, 2013

乙武洋匡さんと云う神様、

4月21日(日) 、乙武洋匡さんが台湾のプロ野球の始球式に登場し、台湾中が感動の渦に包まれたと、インターネットニュースは伝えていた。

乙武さんは日本の震災に台湾が多額の支援(100億円)をしてくれたことに,お礼のスピーチをして、車椅子から降り、大観衆の前、手も足も無い、障害のある身体を、マウンドに曝け出し、中国語で「謝謝台湾!」 と叫びながら、ボールを投げたと云う。

会場は静まり返り、歓声と、拍手と、涙が溢れたと云う。 このシーンに出会った観客の人々のコメントが紹介してあった。

「鳥肌が立った 。乙武さんが台湾に来てくれて光栄に思う」、

「何だよ、涙が止まらないじゃないか」、

「日本人は、本当に恩を大切にし、礼儀正しい。見返りを求めて支援した訳じゃないけど、嬉しい」

日本は、日本での震災一周年追悼式典で、中国との外交関係への配慮から、台湾代表の指名献花を外すと云う非礼な行為が、マスコミで話題になった。 私も、民主党政権の対応に憤慨していた。 それも、今回の乙武さんの台湾訪問で、打ち消されたことが、大変嬉しかった。

乙武さんは、自分を忘れて他のために働くことの出来る人。 即ち、神様だと想う。

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April 25, 2013

「人間は100%死ぬ」、そして医療を考える

「人間は100%死ぬ」。 先日、"禅と医療"の講演会で、統合医療の先生の言葉だった。

「人間の致死率は100%」と云うことは、動かし難い真理である。

私は、改めて、"禅と医療"の接点を考えて試た。 大学時代によく使った言葉、"一考察"かと思いながら。

医療は病気を治せるか、治せないか?、二元的に見がちであるが、行き着くところ、人間は、100才も過ぎれば、どんな医療を施しても、100%死ぬと云う真理には抗し難い。

病気をして、生死問題に遭遇した時、二元的な医療の分野に留まって、一喜一憂するか、一元的な世界の安らぎを知り、身を任せるか、それが、究極的には、人生観として問われる。

形あるものは変化を免れない。 無常であるならば、医療は、その人間の変化の態様を多少調整することに過ぎない。 一元世界には、個としての肉体の存在はない。 肉体と云う"もの"を扱う医療。 出来ることは、限られている。 人間の真の安らぎにはほど遠い。

人間が、ひどい苦しみに遭遇した時、救われるのは、五感六識を超えた世界、一元世界の静寂、安らぎであろうと想う。 そこに、一元世界の存在を説く"禅"が、二元世界に留まりがちな医療に対して貢献出来る世界が、広大に、広がっているのではないかと感じる。

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April 24, 2013

川面に垂れ下がる,木の枝と葉の芸術

先日、哲学カフェに来ていた人との、懇親の席で、川面や斜面に垂れ下がる木の枝や葉は、伸びて行く過程で、それぞれの細胞が、計算をして、全体としてのバランスをとっているとの説を聴いて驚いた。

全体を司る、指揮者的なものはなく、それぞれの末端の細胞が、自分の全体の中に於ける位置づけを考えながら成長して行くとの説であった。 根と枝や葉のネットワーク。 見えない何かで交信をしているのだろうか。

一つの葉の細胞の中で、自分がどう振る舞うべきかを考えながら生きている。

重力に逆らって立つ木、垂れ下がる葉は、凄い計算をしながら生きているのだろうか。

"他があって私"そして、いつしか"全体"が成り立つ。

川面に垂れ下がる木の枝からも、真理は、顔を覗かせている。

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April 23, 2013

弱肉強食か、命の紡ぎ合いか、自然界の新陳代謝か、

先日の禅と医療の講演会に四国から上京した私の親友が曰く、「畑の土の中でさえ、色々な生きものが、生命の営みを繰り返している。これは、弱肉強食とも見れる。命の紡ぎ合いとも見れる。単なる自然界の新陳代謝とも見れる」と。

彼は、これらの考え方を、絶えず、行ったり来たりしているとのことであった。

このことを住職に問うたとのことであった。

その後、彼は、これらの考え方を、行ったり来たりし続けることに、何か、大きな意義を噛み締めてる様子だった。

私は、彼の云う、これらの3つの心のメガネが、自在に見えるレンズを、絶えず持ち続けたいとも想った。

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April 22, 2013

病気の愛おしさ、涙したコメント、気づき、

一昨日、住職も講演される"禅と医療"というテーマの講演会が東京・本郷であり、私は何人かの友人を誘った。

昨日の朝、コメントのメールが届いて、私は心の琴線を刺激されて涙した。

「隣に座っていた友人と、病気に対する医者の治療で、最高のものは無治療観察であるというところで二人とも納得しました。治療しないで見守っていてくれる、"医者でなく親"のような診かたがいいねえ。病いというプロセスは進行しひとつひとつの症状にこだわることなく進行させればぬけていって人を成長させる。その人その人の成長として総合的に見てくれる医療を自分で選択していける時代の到来も近いことを感じさせるものでした。ご縁は人を救うし救われる、実感しました。」

私は、子供の頃、病気になりたかったことを、バーッと想い出した。母親に優しくして貰えるから。母親との二人っきりの時間を貰えたから。

病気で入院している時は、病室に入って来る人の一瞬の空気で心が安らぐ。「親のように見守ってくれる医療」という響きに安らぎを感じた。

「入り口はどこからでも好い。全ては繋がっている」、講演された統合医療の先生の言葉であった。入り口は、病気からでも好い、光に導かれて真理に向うならば、病気も恐くはない。病気に合掌さえ出来る。


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April 21, 2013

「の」返し、とは、子供のあやし方、

先日、新宿・哲学カフェで、子供のあやし方に、"「の」返し"と云う言葉を初めて聴いた。

泣いてる子供、ダダをこねてる子供には、「・・・・・なの」と、その子が要求してる気持ちを、先ず、受けとめてあげないと、泣きやまないとのこと。

「・・・・なの?」 と、疑問符があっては好くない。 ただ「・・・・したいのネ」と、先ず気持ちを素直に、受けとめてやらないと、穏やかにならないと云う。

それは、凄い哲理を含んでいると想う。

今まで、私は、他人に、どれだけ、"「の」返し"が出来て来ただろうかと自問する。

自分が先にあっては、"「の」返し"は出来ない。

"「の」返し"が出来るかは、修行のバロメーターかも知れない。


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April 20, 2013

俳優・佐藤浩市さんの涙、

「戒名は要らない、散骨して、誰にも知らせるな」と云っていたと云う三国連太郎さん。

3番目の奥さんの子供、息子の佐藤浩市さんは、出棺の時、「本日、三国連太郎、佐藤政雄、両名の葬儀、告別式を無事、取り行うことが出来ました。ありがとうございます」と、涙ぐんだと云う。

「僕と彼との間は、一般的な親子ではない。それは、ひどい父だった」と、涙をこぼすまいと天を仰いだと云う。

俳優・佐藤浩市は、壬生義士伝では、新撰組の冷徹な剣豪・斎藤一を演じた。彼の演技は、尊敬する程の迫力だった。流石、三国連太郎の息子だと、今さらながら思う。

三国連太郎さん(本名佐藤政雄さん)は、幼い頃から貧しい母子家庭で、部落出身の養父に育てられたことを自ら語っている。 壮絶な人生体験だったことだろうと思う。

自ら監督をした、「親鸞・白い道」は、1987年のカンヌ映画祭・審査員賞をとったと云う。 若い人気俳優を配役したヒット狙いの恋愛映画などの対極にある映画人であった。

"三国連太郎"、"佐藤浩市"に、私は、哀しいまでに、不器用に、真面目に生きる迫力を見た気がした。辛さに耐えて、そんな生き方を私は、内心、尊敬している。

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April 19, 2013

躁(そう)と、鬱(うつ)の交互に来るバランスが大自然か、

交換神経と副交換神経の日内変動は、日中、特に午前中は交換神経が優位の時、夕方や寝てる時は、副交換神経が優位の時。

自然の法則から見れば、午前中は頑張れる時、午後はちょっとリラックスに入る時。

バランスを取っていないと、病気になる。

交換神経が活発でないと、頑張れない、戦えない。

副交換神経が活発でないと、リラックスしないと、免疫力の要、腸のぜん動運動は活発にならない、身体が整わない。

そこで、私は、大胆に飛躍した推測をして試た。

大なり小なり、躁(そう)も、鬱(うつ)も、交互に来るから、正常に生きて行ける。

躁だけでは異常。 鬱だけでも異常。 躁と鬱がバランスとれてこそ、大自然。

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April 18, 2013

今日は誰かの命日であり、誰かの誕生日、

今日は、誰かの命日。 また、誰かの誕生日。

「おめでとう」と云ったり、「ご秋霜さまです」と云ったり。

喜んで、悲しんで、バランスを取る。 貸借対照表みたい。

資産の部、負債の部、左右でプラス・マイナスでゼロ。

人間の五感には、そのバランスが見えないだけ。

片方しか見えないのか、見ようとする余裕がないのか。

神様から見れば、滑稽極まりないことかも知れない。

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April 17, 2013

ぎこちない親子も大自然、

親子も、"ぎこちない人間関係"に陥ることは多い。 家族間も、夫婦も、ぎこちない人間関係に陥ることが多い。

居心地が悪く、二人っきりになれない人間関係。二人っきりになるのを、少なくとも片方が避ける人間関係。

親しいと思い込んで、エゴがぶつかり合った結果の姿。 ぎこちない人間関係は、傲慢さの哀しい痕跡。

もう今世では、修復不能なことも多い。

それでも、何故か、大自然の造形のように、調和しているようにも思える。

四度も結婚・離婚を繰り返した三国連太郎さんの三番目の奥さんの子供だった俳優・佐藤浩一さん。佐藤浩一さんは、父親の俳優としての三国連太郎さんを尊敬しているが、父の死に、涙は出なかったと云う。

共に、生き方が不器用な親子の場合、そのような情景も当たり前で、よくわかる。

それでも、魂は、お互いの抗し難い業を想い、いつしか、手を取りあって号泣しているように私は想う。

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April 16, 2013

"再現できない運命的なもの"、三國連太郎さんのメモ

三國連太郎さんの死去のニュースで、作品・「飢餓海峡」という言葉を久しぶりに聴いた。 三國さんが、殺人犯の男を熱演した「飢餓海峡」。 母から、「飢餓海峡」という映画のことは聴いた記憶がある。

すさましい映画だったのだろう。

三國さんの遺されたメモの中に、日常を、"再現できない運命的なもの"と捉えている生き方が記録されていた。

人生は、どんな平凡な日々でも、"再現できない運命的なもの"。

真剣に生きる、気迫が出て来る。

漱石が問う、「貴方は真面目ですか」と云う人生に対する気迫を感じる。

"再現できない運命的なもの"に囲まれて、泣いたり、笑ったり。

それでも、"雨の一粒一粒も、落ちるべきところに落ちる"安らぎがある。

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April 15, 2013

粒子と波動の人生観の安らぎ、

現象世界を粒子の世界と見て、虚空世界を波動の世界と見る見かたがある。

人間の五感六識で見える世界には、"名称と形態"が付く。

即ち粒子のメガネを通して現象世界が展開し、波動のメガネを通して虚空世界が広がる。

生は、粒子のメガネで見た時のこと。死は、波動のメガネで見た時のこと。

"メガネを変えるだけのこと"を、"生き死にの差"ととらえたら、それは、"千の風になって"の歌。

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April 14, 2013

"名前と形"の恐さ、執着の正体

五感六識は、常に、"名前と形"で周りをとらえて生きている。

昨日、住職は云う。 「"名前と形"が消えたら、現象世界は消える。」

"執着"とは、"名前と形"のこと。

"名前と形"が消えた時、それが"解脱"。

今朝、日経新聞の特集に西行の記事と、"山にかかる月"の写真が載っていた。

その幽玄な写真を眺めながら、月も山も空気も区別の無い世界、月が山、月が空気、空気が月、空気が山、ただ一個の有機体を見る世界かとも想った。

大都会の光景も、大自然の光景も、区別の正体を考えてみる。微かに、区別無き世界の光が差し込む。区別無き世界の安らぎ。

"名称と形態が消えて行く過程"を修行と云う。 昨日の住職の言葉は結んだ。

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April 13, 2013

回転寿司での小さな驚き、恐いおじさんの優しさ、

先日、回転寿司のカウンターで、私の後に、恐そうなおじさんが、一つおいた隣の席に座って来た。

新たに二人連れの客が来たので、中国人の女性従業員が、その恐そうなおじさんに、「一つ詰めてもいいですか?」と、不完全な日本語で、席を詰めて貰えないか頼んだ。

すると、その恐いおじさんが、意外と、「いいですよ」と、快くすぐ、席を譲って、私の隣の席についた。

ちらっと、隣の厳めしい横顔を見ると、やはり恐そうだが、恐さ故に、その優しさが倍に見える思いだった。

その間、私は、サバばっかり食べていて、我ながら、サバの天敵かと思いながら、安堵して微笑んだ。

新橋の回転寿司での小さな驚き。

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April 12, 2013

日々は小さな不幸だらけ、大きな幸せに気づかず、

先日、自宅に通勤定期を忘れて、会社まで電車代、片道400円、往復800円を支払った日、日々の生活の"小さな不幸"の例だなと感じた。

初めて入ったレストランの昼食がまずかった時、これも小さな不幸。

考えてみれば、日々の不幸も、枚挙にいとまがない。

一方、その日は、定期券がどうでも、健康で無事に仕事出来たし、幸運な一日でもあったと思う。

戦争もなく、自然災害もなくなど考えたら、もう大きな幸せには際限が無い。

日常生活では、小さな不幸に敏感で、大きな幸せに気づいていないと思う。 大きな幸せに気づくと、小さな不幸はどうでも好いこと。 日々の不幸でさえ、平和で、愛おしくさえなる。

大きな幸せを感じるには、たまには、大自然と向き合ってみれば、わかる様に想う。

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April 11, 2013

路上の猫の、朝夕の挨拶に感動、

昨日の朝、8時くらい、会社へ行く時、自宅近くの道の脇に猫がいて、歩いている私に近づいて来て、小さく"ニヤアーオ"と猫語で、私に声をかけて来た。

私は、人間語の日本語で、「どうしたの?」と云って、手を差し延べてみた。

何も、食物を出してもいない私に、猫は、「あっそう」と、失望したかのように、そっぽを向いて、離れて行った。

そして、昨日の夜、飲んで帰る23時くらいの、自宅そばで、また、"ニヤーオ"と、同じ猫が挨拶して近づいて来た。

朝、出掛ける時に、挨拶してくれて、帰って来る時にもまた、挨拶してくれて、私の日々生活にはあり得ない、暖か過ぎる場面だった。

道路で見掛ける猫が、朝夕挨拶してくれて、そんなことまでしてくれて、そんな人生のメルヘン振りに感動。

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April 10, 2013

100才の大学生、意地と優しさと、

昨日、大阪の100才の大学生の記事に、私の人生は、猛烈に鼓舞され、そして安らいだ。

今年12月に100才を迎える村川信勝さんは、大阪市・東成区から和泉市桃山学院大学に、片道2時間半かけて通う大学生とのこと。

尋常小学校を出て、すぐ働き、勉強への憧れを持ち続け、ついに93才の時に、大学の聴講生になれたのだと云う。夜間学校なら進学させて貰えるかと思い独学で勉強し、商業学校の編入試験に合格したが、父親は認めてくれなかった過去。

太平洋戦争では、ビルマ戦線に、衛生兵として送られ、オタマジャクシも蛇も食べ、やっと生き延びたとそうだ。戦後は、紳士服の縫製工場で働き、退職後も技術指導など続けて来て、85才でリタイヤ。 93才の時、ついに子供の頃の夢が実現したのだと云う。

日本史・世界史・国際法を学ぶのは、戦争を回避するため。彼は云う「戦争が終わった時、子供達は、真っ黒の顔をして、地面にへたり込んでいた」と。

平成10年に妻を亡くしてから、今は一人暮らし。 子や孫もいるが、「一人の方が気楽でええ」 とのこと。料理も自分でする。戦地のことを思ったら、何でも美味しい。 趣味はカメラ。 大阪湾に沈む夕日を狙う。 「世の中には、いろんな知らないことがあるもんな」と云う村川さん。

凄い意地、凄い優しさ。 これぞ、私の両親の生き方だった。

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April 09, 2013

お風呂で背泳ぎ、幼児のほっぺ、

先日、ヒッポファミリークラブの合宿研修で、横浜・金沢八景の野島青少年研修センターに泊まった。

子供達・父兄を入れて合計約160名が、ガヤガヤと、研修センター中を走りまわって、別世界だった。

子供達は、無邪気で、可愛くて、まるで人間じゃない別の生き物の様な新鮮さだった。

ちっちゃい子は、廊下で会うと、何も云わなくても、人慣つっぽく、指で示しながら、3才とか4才とか、すぐ教えてくれる。

そんな幼児のほっぺを、小学生や中学生のお姉ちゃん達が、ぽにゃぽにゃと触って、笑って挨拶したりするのだそうだ。

食堂で食事の時、お母さんが、うちの子は、お風呂が大きいと、お風呂で背泳ぎするんだからとか、周りを笑わせていた。

中高校生が泊まる様な、二段ベットの部屋で、遠い昔のことを想い出しながら、異次元世界の空気に浸った。


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April 08, 2013

お釈迦さまの誕生日に、

今日は、お釈迦様の誕生日。朝5時半の日の出を感慨深く眺めた。

昨日、夕方、東京・愛宕の青松寺の"花祭り"の帰りに、6時過ぎ、横浜で自宅そばの坂道で、富士山の方角に、茜色に染まる夕日の空を、立ち止まって眺めた。

夕日が沈んだ後も、朝日が昇る前も、見分けがつかない茜色。山の稜線が、貼り絵のように美しい。

始まりと終わりは同じであることを想う。夕日には、寂しさよりも、懐かしさの方が勝る。

"日の出が誕生、日の入りが肉体の死"、"日中が人生、夜が休息"、魂は、生々世々(しょうしょうせせ)、生まれ変わり死に変わり、循環して行く。"種子から大木、大木から種子"と、前の生を引継ぎながら、少しづつ進化しながら、循環して行く。

お釈迦さまの日の出は4月8日、日の入り(入滅)は3月15日。また、次の日にも、次の日にも、日は昇っている。気づかないだけで、多くの人々の中に、お釈迦さまの魂が、小さい水玉のように、バラバラになって散りばめられている。

だからこそ、お釈迦さまの教えが、今でも伝わっている。夕日に感じる懐かしさは、安らぎは、その証でもあると想う。

人それぞれに日の出、日の入りがあり、お釈迦さまからも、その前からも続く、永遠の宇宙の営み。起きたり、休んだり。

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April 07, 2013

一人暮らしが夢だった頃、

昭和30年代の高度成長期の日本では、"一人暮らし"が夢だった。 それが、今思えば、現代の"孤独死"に通じる夢だったのか? と皮肉にも感じる。

夢の裏切りは、洞察力の欠如の結果だったのかと思う。 夢も、実現すると、その杜撰な設計ぶりで、落胆が訪れることが多い。

もう今さら、昔に返れないし、現代に生きる以上、一人暮らしだっていいところを見つけて味わえば好いと思う。 "孤独死"とか言葉を作って、わざわざ寂しさを増幅させなくてよいと思う。

そもそも、自然界で、生き物は、仲間に看取られて死ぬのかな?、と云う疑問も湧く。

危険が迫ると、群れを作り、危険が去ると、一匹で行動する、小魚みたいに思うと可笑しい。

人間も、一人暮らしに憧れてみたり、孤独死を恐がってみたり、よく調節して生きてるものだと想う。自然界に生きる身の人間も、小魚の群れの生き方とちょっと似ていると思う。

(4月6日の朝)


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April 06, 2013

姉の敬礼姿、

遠い昔、九州から上京し大学生になって以来、長年、大牟田へは、年末・お盆など帰省して来た。

いつも、帰省の終わりの日、また、東京へ旅立つ日、両親は言葉少なく、寂しそうな表情であった。

家の前からバスに手を振る両親の姿。家の前の電信柱の横で、手を振っていた姿を想い出す。

両親亡き後は、帰省の度に一人暮らし姉のところに泊まると、今は、姉が、私に手を振ってくれる。

帰省の終わりの日、東京へ帰る時、姉は、哀しさを隠すように、笑顔で敬礼のポーズを取る。

姉の敬礼姿も、いつか、忘れ得ぬ人生のシーンになることだろう。

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April 05, 2013

クウェートが、三陸鉄道の復旧に貢献、

昨日、クウェートからの400億円の義捐金の一部で三陸鉄道復旧のニュースを知った。

三陸鉄道は4月3日、震災で不通となっていた南リアス線の、岩手県大船渡市の盛−吉浜間(21.6キロ)で2年ぶりに運行を再開させた。

三陸鉄道では、流失した線路を敷設し直すとともに、クウェートから寄付された原油の売却代金で3両の車両を建造したとのこと。

私は、クウェートと、三陸鉄道の復旧の縁に歓喜した。

震災の前、2006年頃、旅したことのある三陸鉄道。コトコトコトと海岸を走る。

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April 04, 2013

黙々と働く光景 、父母の働く光景、

オフィス街のランチで行く大きめな和食の店に、時折、カウンターの中で,料理人ではない年配の男性が、ごはんを盛り付けたり、配膳のお盆に小皿を乗せたりする係りで、黙々と働いてらっしゃる姿を見かける。

若い人は、配膳の係りで、オーダーを受け、料理人にわかる様に声を出し、テキパキと配膳している。その中でも、モタモタしている新人の人は、料理長の親方に、時折どやしつけられている。 怒られながらも、健気に頑張ってる姿が、痛々しく、愛おしい。

年配の男性が黙々と働く姿に、私は突然、父を想いだして、何故か、土下座したくなる想いになった。 父は、55才で会社定年後も、私が大学に上京していたこともあり、自営の飲食店の出前や、タクシーの会社の電話連絡係り、集金の仕事なども色々して、70代まで働いていた。

私の大学時代、父母は、田舎で、一体どんな生活をしていたか、あれこれ想像する。 ただ黙々と、ごはんの盛り付けなどして働く年配の男性に、何故か父を想像して、目頭が熱くなる。

その時、食べた"サバ味噌"は、母が作った料理の味がした。 日常の単なる平凡なランチ風景なのに、突然、父母の想い出に取り囲まれて、涙した。

黙々と働く人の姿に、思わず合掌したくなった。


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April 03, 2013

いずれ興味深々の過去となる、

平安時代、鎌倉時代、室町時代、江戸時代など、もし実際に覗けたら、見てみたい。それは、それは、面白そうで、ワクワクする。

それは、自分が、傍観者として、見ている視点であるからだろうとすぐに気づく。

同じように、自分の人生を、幼少時代、小学生時代、中学生時代、高校生時代、大学生時代、20代、30代、40代・・・と、区切り、覗いてみると、面白い気分になる。他人ごとのように・・・。

今と云う瞬間も、いずれ、そのような過去・自分の歴史となる。

この人は、一体どんな人なのだろうと、自分に苦笑する。

黙々と生きる動物のように、生きものとしての自分を眺める。

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April 02, 2013

究極の絶望がもたらす静寂、

本当の絶望、究極の絶望の時、人は諦める。

そこには、怒り、愚痴はもう、存在する隙間も無い。

絶望の果て、怒りも、愚痴も、無くなってしまった時に、何とその瞬間、安らぐ。 抵抗するから苦しかったのだ。

先日の住職の言葉が、耳に残る。

絶望の果てに、突然、訪れる静けさに驚く。

全てが、懐かしく、愛おしくなる。

絶望の果てに訪れる静寂は、それは、エゴの放棄という大事業を成し遂げた瞬間。

究極の絶望は、無我への道でもあったことに気づく。絶望でさえも、仏性への道に繋がっていたことに気づく喜び。

「人間がこんなに哀しいのに、主よ、海があまりにも碧いのです」、不図、母の実家・長崎の外海町の大海原を見下ろす丘にある遠藤周作記念館の碑に刻まれた言葉を想い出す。そこは、隠れキリシタンの悲劇の地でもあった。

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April 01, 2013

安らぎと自由を求めながら、善悪の道が分かれる、

人は、お腹がすいた時、空腹を満たすと云う自由と安らぎを得るために、パンを食べる。

働いて稼いでパンを購入する者。盗んでパンを食べる者もいる。 パンを食べて安らぎたいと云う動機は同じ。 ただ、手段に於いて善悪が分かれる。 それは、先日、住職に気づかされたこと。

盗んだ者は、罰しなければ、社会は成り立たない。 ただ、その時、その盗まれたコンビニが、盗んだ子供の、自分の家の店だったら、善悪の気持は薄れる。盗んだ子供が、自分の息子だったら、、、、 親は、その息子の行動を哀れみ、涙するだろう。

自分が全てだと感じた時、自分が神であったなら、善悪の糾弾より、哀れみ、愛おしさの方が勝る。

悪に対しても、哀れみと愛おしさを感じられたら、それは宇宙に近付いていること、それは永遠なる安らぎに近付いていることだと想う。

それは、一元論への入り口。

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