寂れた郷里も味わい、大牟田
昔、三池炭鉱で栄えた大牟田は、人口20数万人以上だったのが、今ではその半分になり、デパートも閉店、商店街もシャッター街に変わった。街行く人も年寄りが目につく、まさに寂れた街の様相に、往時を知る人は寂しさを感じる。
それでも、着実に、変化の流れは続いているのだから、それぞれの時期を味わえばよいと想う。朝日の勢いもあれば、夕日も味わいも深い。
その流れは、一時たりとも、止まってはいない。繁栄する前の大牟田は荒涼としていたかも知れない。繁栄して、また寂れて、また繁栄に向う、そしてまた寂れる。私は、その、流れを、一場面を見ているに過ぎない。全ては作用と反作用の調和の過程。
お正月の2日の昼前、大牟田の寂れた商店街の一角で、地元の高校生くらいの女性のグループが、音楽のライブをやっていた。私が通りかかった時、観客ゼロだったので、私は、約1時間くらい立ち止まって、その音楽を聴き応援した。通りかかる人は多少いるが、おじちゃんやおばちゃんは、余り立ち止まらなかった。演奏する目の前を自転車の叔父さんが通りかかったり、その光景も田舎らしく、可笑しくも思った。
歌は、キンキキッズのホワイトスワン、ボーカロイドのマグネットなどとか云う曲で、結構いいものだと、孤軍ながら、拍手した。
純朴な田舎の高校生くらいの若者達が、寂れた商店街の一角で、歌ってる姿も、私にとっては、思いがけない、新鮮な旅の光景だった。
私が育った頃の喧騒の大牟田も、ちょっと寂れた今の大牟田も、流れ行く。 それぞれの味わい。
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