子供の国をのぞき見るように生きる、
世間を、子供達の国と想えば、慈悲の心が湧いて来る。大人と思うから、期待が大きく、失望や怒りも湧いて来る。
誰か、一所懸命な人を見ると、この子は、何かに取りつかれたようににと思え、その子の心の内をのぞき見る。
その、のぞき見る自分が、千の風のように、違う世界から見れれば、この世の全てが、愛おしい。
世間を、子供達の国と想えば、慈悲の心が湧いて来る。大人と思うから、期待が大きく、失望や怒りも湧いて来る。
誰か、一所懸命な人を見ると、この子は、何かに取りつかれたようににと思え、その子の心の内をのぞき見る。
その、のぞき見る自分が、千の風のように、違う世界から見れれば、この世の全てが、愛おしい。
昨日夜、インターコンチネンタルホテルでシェルのレセプションがあり、業界の人達との交流をした。
ステージで挨拶に立った英国人やフランス人のシェルの人達が、日本語で挨拶するのに驚いた。努力して、外国語をマスターするのは、周囲で見てても敬意を感じる。
私も、アラビア語、フランス語、イタリア語などへの憧れが増した。ヒッポクラブにも入っているのだから、もう少し頑張らねばと思う。
それから、昨日は、昼、業界の若手の人達と会食していたら、産油国との関係強化についての話題になり、数日前たまたま慶應大学・三田祭で紹介して貰った経済学部のゼミ(大久保ゼミ)の論文を思い出した。
産油国は、資源に恵まれて来たが故に、他の産業が発展しないと云う不利も蒙っていることを、"Resoruce Curse(資源の呪い)"と呼んで、その解決策など論じていた。早速、私は、その論文を、業界の若手の人達にも紹介した。
学ぶことは喜び、新しい世界への扉。
15年以上も前から、エネルギー業界中心に、私が幹事で、同郷の飲み会して、今でも、とても楽しい会になっている会がある。
昨日、八重洲のホテルで、約20名、立食パーテイーをやった。もう会社の経営陣になっている人も、そうでない人も、退職した人も、ただ、同郷にまつわる話題で盛り上がる。
何となく、年に一度、このような会も、日頃の仕事を、ちょっと、緊張を解いて、サラリーマン生活を客観的に見れる機会で好い。
その世話役の仕事は、私の趣味みたいなもの。人と人を繋げる場を、作る楽しさがある。人の笑顔を見るのが楽しい。
人生は、色々な、人の繋がりの層が、それぞれの人に、多層に重なって、それぞれの人生を形作る。
幸せな人、幸せそうな人は、既に幸せなのだから、誰も助けの手を差し伸べる気にならないと思う。不幸な、困っている人を、助けたいと思う。
他人と差をつけて幸せになろうとすればする程、益々孤独になって行く。出世も然り。
物理的な、表面的な理由で幸せと宣言すればするほど、近付いて来る人も表面的で、益々孤独になって行く。
幸せが呼び込む孤独の結末の滑稽さ。
不幸・悲しみ・苦しみには、他の人が手を差し伸べたくなる。不幸がもたらす人との絆は、表面的な幸せとの対極にある。
人との繋がりは安らぎのもと。思い通りにならないこと、不幸なことも、人生には、すごい恵みではないのかとさえ想える。
先日、市ヶ谷アルカデイアに、国際俳句協会の大会入選作の発表会に行ってみた。
俳句の持つ寂な安らぎ、人生の耀き、人生を眺望する茶店にでもいるかのように感じた。
「蜩(ひぐらし)の集まって来る無言館」。長野県・菅平にある戦没画学生達の遺作を集めた無言館。耀いた命に、安らかな眠りを願って、蜩の声が、お経のように聴こえて来る。
「不器用に生きて八十路や花茗荷」。花茗荷は、中が空洞になって食用にはならないらしい。人生の滑稽さ、可愛らしさを感じる。
「昼顔や破船の舳(へさき)沖を指す」。壊れても尚、舟のへさきは沖を指す姿は好い。修行する人生は、今世だけではない、発心、誓願の凄さを連想させる。
「広重の絵が動き出す大夕立(おおゆだち)」。日々の営みにも潜む、人生の素晴らしさ・・・・・。
思いがけず出遭った句に、まるで、人生の峠の茶店から、人生を眺望しているかのような感覚にもなれた。
条件付きの幸せは、その条件がなくなると不幸になる。
自分を100%、委ねる世界もある。自分を100%委ねる世界にこそ、自由と安らぎがある。
自由を得た人からこそ、愛がほとばしり出て来る。
愛することは、苦痛を伴うものではない。
愛は利己の反対。
自由と安らぎは、他との一体感から生まれる。一体感を得た世界には、もう自由と安らぎへの渇望もない。
神の意思として働き、毎日を生き、そして、全ての結果は、神のもの。
昨日の住職の言葉。
昨日、横浜市歴史博物館に鎌倉時代の源頼朝側近の有力武将・畠山重忠に関する講演会(東大・五味文彦名誉教授)を聴きに出かけた。横浜・二俣川・万騎が原に散った武蔵野武士、畠山重忠は、その生涯がとても気になる歴史上の人物である。僅か134騎で、万騎が原に待ち伏せする雲霞の如き北条の大軍に挑んで行く気概に圧倒される。
先日、秩父龍勢祭りの農民ロケットの奉納者に、畠山重忠の名前を冠した保存会の名前があった。畠山重忠は、元来、秩父平氏の流れを組む武将だったのだと、その時に知った。
「吾妻鏡」を引用しながらの、五味先生の講義に、ちょっと大学時代のような、雰囲気も味わった。
帰りに、歴史博物館のある「センター北」(横浜市営地下鉄ブルーライン)と云う、このニュータウンの雰囲気を味わおうと、デパートの5階の回転寿司屋さんに入ってみた。カウンター席以外にテーブル席も多くある回転寿司屋さんで、30代の若い夫婦と5歳くらいの男の子が、近くのテーブルに坐って、穏かそうな休日の夕食の光景だった。新興のニュータウンらしく、そんな感じの若い夫婦の家族連れが多かった。私も、昔、そんな時代もあったなーと想い出した。
そこで、歴史講演会でも聴いて、一人、寿司と、酒を飲んでる私の姿が、客観的には、どう写っているのだろうかと、自問してみた。
若い時代は、ただ無我夢中で、幸せも不幸も余り実感がなく、ただ何かに追われて、慌しく生きて来ただけのようにも思えた。
昨日の朝、NHKで、絵本作家・こんのひとみさんの、「お母さんの子守り歌」が紹介されていた。
クマのお母さんが、ある嵐の日、巣穴から外に出て、人間につかまったのか、事故にあったのか、それっきり帰って来なかった。子供達は、不安で、身を寄せ合って泣いて暮らしていた。
その後、ある日、子供達の耳に、「お母さんの子守り歌♪」が聴こえて来た。子供達は、笑顔を取り戻す。
東日本震災で、お母さんを津波で亡くした、女の子、小野このみちゃん、のぞみちゃんの話をきっかけに、この絵本が生まれたのだと云う。
「お母さんの子守り歌」、その言葉の響きだけで、もう、母の声が聴こえて来るような気がする。
「抜き打ちテストを受けてみたい。」「掃除当番もしてみたい。」「山積みの宿題がしてみたい。」
こんな文章のポスターを、飯田橋の地下鉄の通路で見かけた。
あしなが育英会のポスターには、高校生の女の子の写真があった。
あしなが叔父さん。
タイガーマスクなど、想いは拡がる。
腸内細菌の標準形は、善玉菌20%、悪玉菌10%、日和見菌70%であると云う。
善玉菌を維持・増やす食べ物は、発酵食品・食物繊維。悪玉菌を増やすのが、動物性脂肪や砂糖類。
腸内では、日々、戦いが繰り広げられている。日和見菌は、善玉菌が20%を割って劣勢になると、俄然、勢いを増して勢力を伸ばして来る。そして病気。
人生に於いても、幸せ20%、どうでも好いこと70%、不幸が10%が標準形だと想う。自然界はうまく調和して、できているものだと想う。
幸せと云う善玉菌は、自分より他を優先することによって増えて行く。
不幸と云う悪玉菌は、自分のことばかりの考えで、増えて行く。
早朝、窓の外の東の空は、オレンジ色に染まる夜明け。
夜明けのオレンジ色も夕日のオレンジ色も同じ。
写真だけでは、朝日か夕日か見分けがつかない。始まりと終わりは、まるで同じ。
小鳥の声が加わると、朝日であることがわかる。江戸時代なら、「アサリ♪」とか、もの売りの声でも。
人生は、大きな舞台装置のようだ。
さー、今日は、どんな人物を演じるか。
大阪ユニバーサル・スタジオは女性の幅広い年齢層も大量に採用することで有名らしい。TVで、ある事例を紹介していた。
50歳くらいのお母さんが就職活動33連敗の末、やっと、ユニバーサル・スタジオの面接で採用合格した場面など放送されていた。家族連れのお客さんに、木目細かく対応できるのは、幅広い年齢層の女性が向いているとの経営者の発想とのこと。
その、お母さんは、やっと仕事が見つかり、その喜びはすごかった。中学生くらいの娘さんが、抱きついて来て、二人で飛び上がって喜んでいた。「これで貧乏から脱出できる」と、中学生の娘さんが云って、二人手をつないで、ユニバーサルスタジオを後にしていた。
最初はアルバイトで、レストランの中の勤務とのこと。時給800円なのだそうだ。日本の労働者の約35%が今や、非正規雇用労働者なのだと云う。
新聞では、巨人の投手が4年で14億円の提示とか、イチロー今年13億から大幅ダウンかとかの記事が並んでいた。
「たかが野球に、、、、、、」と、私は思った。
全てのものに、「~に似たもの」と云う呼称を付ける発想は、考え方を変える魔法の力を持っている。
そしてノートを見てノートに似たもの、蜜柑を見て蜜柑に似たもの、人間を見て人間に似たもの、など、手当たり次第に、「似たもの」と付けてみる。
そうすれば、実体は何かと考えれば、"名称と形態"が消えた存在へ導かれて行く。
"名称と形態"は、まやかし。
"名称と形態"のことを、「無知・無明」と云う。
昨日、住職から聴いた言葉。
「~に似たもの」、今朝は、納豆に似たものを食べて、お茶に似たものを飲んで、夜は、酒に似たものを飲んでみるか。 実体は全て同じものを、五感六識は、こうも、面白、可笑しく見させてくれているのかと想う。
先日、横浜・孝道山で開催された国際・仏教シンポジウムで、内観法の話も聴いた。
内観法とは、吉本伊信と云う僧が、「身調べ」という浄土真宗の修行法から宗教的な色合いを取り除いて作った心を見詰める方法とのこと。
身近な人との、人生の、色々な場面を想い出し、「して貰ったこと」を想い出す。そして、自分が「してあげたこと」も想い出す。そして「迷惑をかけたこと」も。
ハンマーで、頭を殴られたような気持になる。
何と、自分がしてあげたことが少ないことかと、悲しくなる。自分は、殿様かと、身勝手を恥じる。
そして、迷惑をかけたことなど想い出したら、もう罪人そのものであることに気づく。
懺悔と感謝に気づくことが、人生の耀き。神と自然の懐に抱かれる。
今月は、ビタミンについて、まとめてみた。 ―「ビタミン&ミネラル・バイブル」(辻村卓・女子栄養大学出版部)から抜粋― (ミネラルは来月掲載予定)
(1).ビタミンB1: 糖質代謝促進、アルコール多飲者必要 →米ぬか、ひまわりの種、干し海苔など、
(2.)ビタミンB2: 発ガン防止、アレルギー緩和 → シャケ、ヤツメウナギ、干し海苔など、
(3).ナイアシン: コレステロール・中性脂肪低下 → カツオ、米ぬか、干ししいたけ、酵母など、
(4).ビタミンB6: アレルギー症状、肌荒れ対策、→ 銀杏、ひまわりの種、にんにく、小麦胚芽など、
(5).パントテン酸: ストレス、風邪、口内炎対策、→ 納豆、キノコ、モトヘイアなど、
(6).ビオチン: 白髪禿げ予防、湿疹予防、→ 玉ねぎ、シャケ、イワシ、大豆、バナナ、ヨーグルトなど、
(7).葉酸: ウツ対策、貧血対策、ガン予防、→ ひまわりの種、モロヘイヤ、小豆など、
(8).ビタミンB12: 痴呆予防、無気力・記憶・集中力低下対策 → あさり、シジミ、干し海苔、シャケ、
(9).ビタミンC: ガン予防、あらゆる病気も風邪も予防→ 緑茶、パセリ、ブロッコリー、キャベツなど、
(10).ビタミンA: 心臓病、動脈硬化、ガン対応→ 干し海苔、ウナギ、アンコウ、アユ など、
(11).ビタミンD: ガン予防、骨粗鬆症対策→ きくらげ、干ししいたけ、イカ、アンコウ、ニシンなど、
(12).ビタミンE: 脳卒中予防、ガン予防、更年期障害対策→ アーモンド、ひまわりの種、緑茶など、
(13).ビタミンK: 抗生物質対策、鼻血対策、老化対策、→ 干し海苔、ワカメ、パセリ、納豆など、
(14).ビタミンP: 毛細血管を強固に、高血圧予防→ かんきつ類、そば粉、さくらんぼ、あんずなど、
(15).ビタミンQ: 細胞膜を守る、脳出血治療、→ カツオ、イワシ、マグロ、サバなど、
(16).ビタミンU: 別名キャベジン:消化管粘膜修復、→キャベツ、パセリ、青海苔、アスパラガスなど、
(17).PABA : 腸内有用菌の発生促進、→ 小麦胚芽、玄米など、
(18).イノシトール; 抗脂肪肝ビタミン → メロン、レモン、オレンジ、キャベツ、小麦胚芽、スイカなど、
(19).コリン; 痴呆予防、抗脂肪肝、→ 大豆、緑黄野菜、酵母、小麦胚芽、えんどう豆など、 以上
森光子さん逝去のニュースを、見ていると、母が、「放浪記」や、林芙美子の文学が大好きだったことを想い出す。
今想えば、母は、自分の人生との共感を覚えていたのだろうと想う。
その、林芙美子の文学の文字の一つ一つが、母が読み慣れだ文字だったのだろうと想う。
母が育った長崎・京泊、外海町の海の光景も想い出す。満洲・ハルピンなどの光景も。
一人の人間の一生として、母の人生を振りかえる。
森光子さん逝去のニュースに、そんなことを想うひととき。
煩悩は猛獣の子供に似ている。子供の間は、煩悩も可愛いもの。
いつの間にか、放置していると、飼い主の手に負えない猛獣となる。
猛獣を手玉に取るくらい、飼い慣らせば、人生も楽しい。理性は猛獣の飼育係り。
酒も、猛獣の子供のようなもの。煩悩も、ほろ酔いが一番好い。酒をコントロールしての、酒の楽しみ。
人間は生きてる以上、煩悩とともに生きている。煩悩があるからこそ生きている証。
但し、その生きるエネルギーの源泉の煩悩を、手なずけないと人生は破滅する。
人生は、動物園の猛獣の飼育係りのようなものと思えば面白い。
油断さえしなければ、猛獣も、時に、可愛く見えて来る。
先日、早朝、大手町の朝日生命ビルで開かれた、エネルギー関連セミナーの終了後、オフィスに向かう途中、東京駅の丸の内側で、久しぶりに靴磨きのおじさんを二人見かけた。
靴磨きは、何か、戦後の日本の苦しかった時代の町の光景を連想する。丸の内の靴磨きは、700円と書いてあったから、今は、それなりに、お客さえ何とか見つかれば、そこそこの収入になることも想像した。
また有楽町の地下鉄入り口付近では、いつものように、"ビッグイシュー"(ホームレスの人達への支援雑誌)が売られていた。雑誌代・300円のうち、160円が販売者の収入になるのだという。
私は、町で、ビッグイシューの販売員の人を見かけると、必ず買うことにしている。
最新号には、日本には、100万人を超えるホームレスやホームレス予備軍の人が存在すると書いてあった。若年無業者60万人、引きこもり70万人なども書いてあった。
ちょっと、関連して、インターネットで、新聞配達の収入のことを調べてみたら、アルバイトで、毎日300軒で、月6万円~7万円とあった。改めて、大変な実情を知った。
丸の内で、たまたま見かけた靴磨きのおじさんの光景から、色々な社会問題のことを思った。
昨日は、日比谷公園で、全国の物産を集め、また子供達向けの農産物の勉強にもなるような催しがあり、初めて行ってみた。曇り空の中だったが、公園中の展示を見て回った。
みかんの皮で、どうして風船が割れるかと云うことを私は、初めて知った。みかんの皮の中に在る成分が、ゴムの分子を溶かすのだそうだ。みかんの皮を風船にこすりつけると風船は割れる。ヘーと新たな発見。
私は、子供達に混じって、ほうれん草、ニンジン、かぶの種を初めて、しげしげと眺めた。ほうれん草の種は、濃い灰色でトゲトゲがあるように見えた。種も、野菜も、同じものなのに、こうも形が違うものかと、改めて自然界の現象の不思議さを想う。
茨城県で、子供達だけで、作ったお米・玄米も写真入りで紹介してあり、販売していた。 私は、子供達だけで作った玄米を買った。子供達が育てた玄米の味は、たぶん市販の玄米より美味しく感じると想う。
会場で、チャンポンのコーナーで、横に座ってていた、7歳の女の子とお祖母ちゃんとたまたま話をした。女の子は、瑠子(るこ)ちゃんと云って、自分から誕生日が3月29日だとか、友達のリサちゃんが4月だとか、私に話してくれた。今までに貰った誕生日プレゼントの中で、トムソーヤの冒険のビデオが嬉しかったとかも。
そんな、ひとときが、とても新鮮で楽しかった。
昨日、家から歩いて15分くらいの孝道山の本仏殿で、International Engaged Buddhist(僧侶・テイクナット・ハーンが提唱して1989年に創設された仏教徒の国際ネットワーク)の国際シンポジウムが開催されていた。ヴェトナム戦争を体験したテイクナットハーンが、仏教徒も、仏教の深い思想で、社会で行動せねばならぬと立ち上げた国際組織であるとのことであった。
私は、数日前に知り、出席してみた。タイ・スリランカ・台湾・ヴェトナム・欧米などから僧侶・仏教関係者が集まり、講演・パネル・デイスカッション・行動宣言などのスケジュールであった。
日本に於いても、過去の戦争の時、仏教徒は声をあげずに、戦争を黙認、引きずられていった歴史への反省が、込められていた。大会宣言では、世界でも最も迫害を受けていると云われるミャンマーのイスラム教徒少数民族を廻る、仏教徒とイスラム教徒の争いの和解への希望を語った。また、原子力に頼らない社会実現への希望と行動を語った。
宗派を問わず、仏教徒としての行動への希望が語られていた。今回のシンポジウムのテーマは、「縁起の智恵と、幸せの教え」がシンポジウムのテーマであった。
「全ては個としては存在していない」と云う、自他一如の思想は、一貫して、この大会参加者の中に流れていて、仏陀の教えが浸透しているような安堵を感じた。
昨日は、思いがけずにも、社会に関わる仏教、行動する仏教、そんな光景を、まじかに見るご縁であった。
"不二・一元論"のインドの僧院(インド北部・マヤバテイー)に行って来られた住職に、昨日久しぶりに坐禅会でお会いした。
神、アートマン、仏性、大極、など呼び方は、色々あっても真理を知ることが解脱。キリストや仏陀も、真理を発明したり、作った人ではない。キリストや仏陀が凄いのではない。真理が凄いのだ。キリストや仏陀も、真理を発見した人に過ぎない。仏陀も、自分自身の中に神を見なさいと説いている。
自分の「我」の意識が強い人には、自分自身の対極として、人格神としての神(キリスト・仏陀)が必要。
そして、自分の「我」が一歩消えれば(神へ近づけば)、神も一歩近づいて来る。自分の我が消えて行くのと比例して、神(真理)と一体となる。
"不二・一元論"の世界を説いた、ヴィヴェーカナンダ師ゆかりの、インド・マヤバテイーの僧院。マヤバテイーの夕日や、草花の写真を見ると、その壮大な世界への入り口のようにも思える。
振り返れば、人生の色々な出来事を大失敗だったと考えてみると、それで今の状態なら、その大失敗に比べれば、まだよい方ではないかとも思い直す。
大成功なことも多かったと思えば、運だけで、助かって来た自分に、奇妙な程の神の恵みを感じる。
人生は、誰しも、大失敗にも大成功にも散りばめられてると想う。
さもなくば、みんな、あんなに真剣な顔をして生きてはいない。
さぞ、辛かろう。さぞ、嬉しかろう。
大失敗と大成功のリズムを繰り返しながら、どちらでも、好かったと云う境地へ高まって行く。
先日TVで、70歳の女性がマラソンを楽しんでいる様子の番組があった。
親の介護も終わり、主人も亡くなり、その後、ランニングを覚え、3000メートルを13分台で走り、年代別の日本の記録も持ってらっしゃるくらいになられたとのこと。
その女性が、毎日ランニングを楽しんでらっしゃって、インタービューに応じられていた。「全てから解放されていて、今が、素晴らしいです」とおっしゃっていた。
"全てから解放されて、河原や野道を走る"、そんな心境を想像して試る。
無一物、無尽蔵の境地にも似て、さぞ、心地よかろうと想う。
昨日は、通勤時間頃の強い雨で、雨合羽のズボンの部分だけはいて、オフィスへ向った。
雨合羽を身につけるのは、何故か幼児時代を想い出して心地よい。
もし、雨の日、雨合羽・ゴム長靴のフル装備をしたら楽しいだろうなと想像した。
♪ピッチ・ピッチ・チャップ・チャップ・らんらんらん♪
電線には、水玉坊やが、トコトコと旅をして行く。
たまには、雨の日も楽しい。雨の日も人生。
原子力施設のストレス・テストと云う言葉はよく聞くが、その原子力を動かす人間のメンタルな面のストレス・テストも大事なことを思う。
先日、ドキュメンタリー映画「三池」の映画終了後、熊谷博子監督と、内閣審議官を退官したばかりの下村健一氏(元TBS)の対談を聴いた。
震災の時、原子力発電の未曾有の危機に際して、日本に、誰一人、原子力のあの危機に対する、適切な対応能力を持った専門家がいなかったことが露見した。重要な場面では、何を聴いても、答えられない東電、何を聴いても、次に何をすべきか答えられない原子力専門家達。総理大臣から、アドバイスを求められても、目を逸らす専門家達。
唯一、原子力専門家と称せられる人達が云ったのは、「爆発は起きない」だった。爆発の模様をTVで見た専門家は、アーと云ってうずくまった。
日本には、能力的に原子力を扱える人も、組織もなかったのだと思う。
今から日本は、謙虚に人間の能力の現状と限界を想い出すべきではないかと思う。
今や、現実には原子力と共存している世界、未曾有の危機に瀕した時、社会には、特にリーダーには、ストレスに耐えて、適切に処理する力が求められている。
今や、原子力に関わる人間にも、一般の国民にも、ストレス・テストが必要であると思う。
昨日は、ドッキュメンタリー映画「三池」(熊谷博子監督・2006年封切)の再上映を東中野で見た。
私の故郷で、子供時代に起きていた日本の歴史に残る最大の労働争議・三池争議のドキュメンタリを見て、今までの自分の無知を、再び恥じる想いだった。命がけの労使の闘いが繰り広げられていた大牟田で、私は育った。
炭鉱労働者の婦人会も闘った。まるで象の足に、蟻が噛み付くような、闘いであったが、婦人達も闘った。
11月9日は、大量の死者と一酸化炭素中毒患者を生んだ炭鉱爆発の日。今年はその50周年に当たると云う。
今でも、CO中毒で、別人のようになってしまった患者達、家族達が苦しんでいる。
私は、そのような過酷な環境の中で生きる人達のそばで、平然と生きて来た存在でもあることが哀しい。
よく動物の生態を調査のため、動物に発信器をつけ、その行動範囲を観察することがTVなどである。
昨日は、自分に発信器をつけていたら、面白かっただろうと思うような一日だった。
近所の洗濯屋さん、桜木町(ミキ横浜支店)、神奈川大学学園祭、向ヶ丘遊園・民家園の民話を聴く会、神田・神保町・古本祭り、三軒茶屋・昭和女子大(コーラス演奏会)、尾山台(居酒屋)。
いつも泳いでいるマグロの回遊みたいな一日に、ちょっと、待てよとも思う。
ひらめ型は、じっとしていること。
ひらめにはなれないが、今日は、少し、ゆっくりと泳いで、過ごしたいと思う。
週刊誌に、"絶景・日本遺産・秋たけなわ紅葉の峡谷と天空の里"として、長野県飯田市の、南アルプスと伊那山地に挟まれた峡谷の里の秋の光景の写真が載っていて、魅入ってしまった。
長野県・伊那郡は、私の母が、戦後、満洲から引き揚げて来て、満洲で子供が亡くなったことを、結核療養所で死の床にあった夫に報告に行った場所。そこは、死別した夫の故郷であった。終戦直前に病気療養のため内地に返された夫と離れて、満洲にまだ残っていた母と子供は、満洲で終戦の混乱に撒き込まれてしまった。
引き揚げ後、九州から長野まで、汽車の席もないままで、母は長野へ行ったと云う。長い旅の末、やっと療養所で、夫と再会、満洲の収容所で子供が亡くなったことの報告をする時、泣き崩れただろうと思う。子供を死なせてしまったことを夫に詫びたと云う。
その長野県・伊那郡は、私はいつも気になっていた場所。
その、"日本のチロル"のような秋の絶景の写真に、見惚れてしまったのは、そんな私の心の背景の理由。
母が、病床にあった夫との今生の別れをした場所、そして再生の場所。
まるで、その絶景は、哀しさと、生きる力を、共に携えたような、人生の絶景のようにも見えた。
先日、TVで作家・伊集院静氏の対談の番組で、彼が、厳格な父に育てられた経歴も振り返り、「人は、理不尽なものでないと学べない」と云う感想を述べていた。
「人は、理不尽なことがないと学べない」
これは、人生に於いて珠玉の言葉だと想う。
苦しい人生を愛おしくさえ想える言葉。
理不尽なことからも、何かの神からのメッセージを聴こうとする生き方は安らぎ。
東経139度38分、北緯35度26分、私が住んでるいる場所、横浜の位置。
「どこに住んでいますか?」と、聞かれて、こう答えたら、さぞ可笑しかろうと思う。
先日、兵庫・明石に行って、明石が子午線の町であることを知った。日本標準時の基準となる東経135度の町。明石には、子午線交番とか、子午線のつく面白い看板をよく見かける。
子午線は英語で調べたら、"Meridian Line"とあり、ホテルのメリデイアンと同じ名前に気づいた。
明石には、シゴセンジャーとか云う子供向けのキャラクターもいて、面白かった。
"子午線"なんて、私の人生には何の関係があるのか、大して意識してもいなかったが、明石を訪問して、初めて子午線に関心を持った。日本時間の中心、子午線の町・明石。