人間・大久保利通、歴史研究家・福田嘉文氏講演、
昨日は、清々しい歴史研究家・福田嘉文さんの講演を、東京シテイーガイド協会の講演会(後楽園・戦没者慰霊苑会議室)で聴いた。
数々のエピソードで散りばめられた歴史の場面、人物像を描き出す、歴史研究の手法は、聴く人達に、鮮やかにイメージを膨らませ、歴史の勉強に興味をそそられる。
明治政府の中心人物、目的のためには私情を捨てて手段を選ばないマキャベリスト・大久保利光の馬車を引いていた御者は、中村太郎と云う20代の若者だった。彼も明治11年、大久保が、現在の東京・清水谷公園付近で、暗殺される時に、ともに殺されている。中村太郎とは、大久保が、みなしごを雇って、名前をつけてやって、彼の馬車の御者をやっていた人とのことであった。
西郷陸軍大臣は天皇陛下にも大変気に入られ、国民的人望もあったので、当時の政権内で、岩倉・大久保ラインと対立した西郷隆盛は、軍を動かし、政権を取る機会はいくらでもあったが、西郷はそれをやらなかった。西南の役の時、全国の不平士族に、反乱の檄を飛ばすこともなかった。西郷は、当時の旧勢力の士族の力が、明治の近代化を阻害することを感じていたのだと思う。彼は、西南の役を、これが国への"最後のご奉公"だと云って決起したと云う。西郷は旧勢力と心中したのだと云う歴史観に心打たれる。
大久保は、暗殺される時、紫の袱紗(ふくさ)に包んだ書状を携えていたと云う。それは、おさな馴染みの無二の親友西郷隆盛からの手紙であったと云う。
東京・青山の大久保利通の墓のそばには、一緒に、死んだ、御者・中村太郎の墓と、馬の墓もあると云う。
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