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September 30, 2012

涙飯(なみだ・めし)、

以前飛行機の中で、涙飯と云うタイトルのビデオを見た。

人生で、想い出に残る食事のこと。

確かにある。

高校2年生の夏、肺浸潤で約一ヶ月入院した時、退院まじか、大牟田市立病院のそばの"しま屋"で、母と一緒に食べた天丼。

大晦日の誕生日にいつも、家族で一緒に食べたすき焼き、肉は少なかったが、"金鉱掘り当て"と云って、兄弟姉妹で肉を捜し当てて食べていた想い出。

母がよく作ってくれた呉汁(大豆の味噌汁)など・・・・、想い出すだけで暖かい気持になれる食事の想い出。

また、自分の涙飯は、何だったかと、考えてみたいと想う。もっと、もっと、あったと想う。

(2012年9月29日の記)

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September 29, 2012

今日からロンドン、

今日朝7時半に自宅を出て成田へ向う。今日の夜は、ロンドン。

昨日、気温を調べると、9℃から13℃とのこと。もう、コートがいるようだ。

1週間の非日常の旅、新たな刺激を受けて来ようと思う。

飛行機の中で、音楽を聴いて、思索に耽るも好い。

ちょっとした、節目にしたいと想う。 2012年9月29日早朝


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September 28, 2012

風に向かって両手を広げる、

明日の朝からロンドン出張(10月7日まで)なので、昨日の朝8時頃、出勤前に近所の洗濯屋さんへワイシャツを受け取りに行った。

顔見知りの町内会のおじさんが、通学児童の交通安全係りをやっていて、挨拶の言葉を交わした。その立ち話が楽しい。

洗濯屋さんへ行くと、ワイシャツを取りだして、3着でしたと渡してくれた。 「3着でした」、・・・・、私は、子供時代の運動会の駆けっこを咄嗟に想い出して、3着か、悪くないな、と反応した。

朝の通りには、秋の風が心地よく吹いていた。通りはまだ人もいなく、風に向かって、両手を広げてみたくなり、広げてみた。鳥は、こうしているのかと思って、面白く感じた。私に鳥時代の遺伝子があるかのように感じた。

風に向かって両手を広げる、鳥みたいで楽しいと思う。それは、自然と戯れるひとときをくれる。

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September 27, 2012

少食の充実、

最近、何故か少食の充実を感じるようになった。

好きなものを十分、食べた時の満足感と、自分の生き方に何か違和感を感じるようになった。

十分に食べた時のけだるさは、何か怠惰さのようにも感じる。自然に反して生きているような違和感。食べ物への軽視のようなものも感じる。自分中心の、肥大化した煩悩のようなものも感じる。

他の生命を犠牲にして生きる存在ならば、最低限の質素さがなければその証にはならない。

最小限を食した後の、ちょっとした空腹感の継続は、精神をきりっと引き締める。

食物に真に感謝するならば、満腹でけだるくなる程には、食べる気にはなれない。

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September 26, 2012

経済的視点、それは闇を論じることに似ている、

世間から見て、より少ない報酬で、不満もなく、一生懸命に働く人は、凄い人格者だと思う。

経済的価値に心を奪われ、経済的視点で、物事を論じることに慣れてしまった社会に、そんな人は、堂々と人間の尊厳を説いている。仏性の光を放っていると思う。

経済的視点で見れば、搾取する人と搾取される人がいる。搾取される人は益々窮乏化して行くような、怒りも芽生える。世の中を、経済的価値を個としての人間が奪いあう視点で見ることは、哀しいこと。

経済的視点?、それが人生に於いて何なのかと思う。それは、頭の中が一杯になってしまう程、大事なことなのか?と思う。

最小限で生きる時の自然との一体感、自分が貰わなかった分は他が貰っていると云う奉仕の喜び、それは、経済的価値の対極に位置するような安心、安らぎでもある。

質素に生きる喜びは、宇宙から与えられた安らぎ。生きて行くことが、祝福された存在。

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September 25, 2012

サウジ・ナショナルデイ・レセプション、

昨日夜、サウジアラビアのナショナルデイのレセプションがホテル・オークラであった。私は、毎年参加しているので、また今年も、何となく、恒例行事のように出かけた。

サウジに関係する各社の社長・役員なども多く、また政界など、色々な人と会って、仕事の話などするのも楽しかったが、今年は、何故だか、私の心の中に、偉い人と話すことが、ちょっと軽く、ミーハー的で、あまり興味が無くなっていると思った。

政治家も多く、鳩山由紀夫氏、枝野大臣、公明党党首など、何故か、デヴィ夫人も見かけた。ミーハーの人が、ツーショットの記念写真など撮ってると、私は、下を向いてしまいたくなる境地だった。

恒例の大使、政治家の挨拶を聴き、ちょっとアラブ音楽に、アブダビ駐在時代を想い出し、今年は、早目に会場を後にした。

ちょっと、第三者的に眺めると、このようなレセプションも、人間の表面的な、部分が際立ち、滑稽にも見える。

人間の内面とともに、外の景色は変わる。

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September 24, 2012

はやぶさの様に地球へ、仏性へ帰る、

はやぶさは、地球帰還の時、帰路の困難さから、宇宙で消息を絶った。

単なる、宇宙の塵になるところであった。

機体と管制塔の懸命の連携で、ボロボロになりながらも、地球への奇跡の帰還を果たした。

地球は仏性。

人生は"はやぶさ"。

気の遠くなるような、遥かな遠くを探索し、もう地球と云う仏性には帰れそうもない距離。

それでも、地球への帰還を目指す。仏性への帰還を目指す。それが人生。数々の探査機が、迷って宇宙を彷徨う。

それでも、私は"はやぶさ"。

今朝の朝日も、地球への帰還を励ます。

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September 23, 2012

朝日と野菜、穏かな心、

今月の健康の勉強は、セロトニン、メラトニンのこと、精神の安定の生活習慣・食物の話を学びました。―"神経伝達物質の働き"、野口哲典著、ソフトバンククリエイテイブ社から抜粋―

1. “セロトニン”と”メラトニン”は睡眠に必要
日中は”セロトニン”が分泌され、精神を安定化させる。
夜が近づくに連れて、”セロトニン”の分泌が減少し、”メラトニン”が分泌される。

2.“メラトニン” が、脳の興奮を鎮め、リラックスさせる。 → 体温を下げ、睡眠を誘発する。 “メラトニン”には、抗酸化作用、抗ガン作用のある成長ホルモンも 睡眠中に分泌され、免疫力がアップする。

3.朝日を浴びると、セロトニンが分泌され、脳を覚醒させる。

4. “メラトニン”は、昼間に生成された”セラトニン”から生成される。
“セロトニン”から、睡眠ホルモンと呼ばれる”メラトニン”が作られる。
昼間の”セロトニン”の分泌が少ないと、”メラトニン”の分泌も少ない。

5.“メラトニン”が少ないと、なかなか眠れない。→ウツになって行くリスク。

6. “セロトニン”を増やす方法、
(1)“セロトニン” は、必須アミノ酸のトリプトファンから作られる。
(2)トリプトファンは、納豆・アーモンド・乳製品などの食品に多く含まれる。
(3)ビタミン類(特にビタミンB6)も同時に摂取すると効率よく”セロトニン”が生成される。
(4)朝日を浴びることで、”セロトニン”の分泌が開始される。セロトニン神経の活性化には日の光が必要。

7.葉酸の摂取は、ウツのリスク を減らす。
ウツの患者は葉酸不足が臨床データで発見されている。2012.9.12 NHK 報道)、葉酸の多い食物: 野菜類、豆類、藻類、種実類 など、

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September 22, 2012

フィリピンから日本へ、介護の仕事に輝く

先日、フィリピンから日本の介護施設で働きに来ている若い女性が、とても一生懸命に働く姿が、朝のTVで放映されていた。

優しい笑顔で、介護される人達にも慕われ人気者になって、素晴らしいことだと思った。彼女は、フィリピンの貧しい母親などに仕送りをすることと、もう一つの密かな目標があって来日したと云う。

それは、日本人の父親に会うことだった。

無事、父親にも会えて、彼女は涙したと云う。別の家庭をもっている父親は、娘に、「頑張って下さい」と励ましてくれたと云う。

フィリピンの娘は、"人生の朝日"を、 日本人の父親は、"人生の夕日"を感じたことだろう。

そして、朝日でもなく、夕日でもない、何か人間の輝きが、遠くに見える。

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September 21, 2012

同窓会のエネルギー、その示唆するもの

満洲で子供時代を過ごされた方が、年に一度の満洲の同窓会は、私の生きがいでもありますと、おっしゃっていたことを不図想い出す。

同窓会には、そんな力があることを、神秘的に思う。

当時の自分の、人生の光景をを想い出すのだろうか?

同窓会は、お互いを見て、お互いに、生きて来た感慨と、変わらぬ内面の存在に元気が出て来るのだろう。

幼稚園の同窓会は余り聞かない、赤ちゃん時代の同窓会も聞かない。それでも、意識が発達する前の時代も、本来ならば、懐かしく、エネルギーを与えてくれるものだろうと思う。

幼稚園、保育園、赤ちゃん時代、そして生まれる前の時代の同窓会を想像してみる。ずーっと、ずーっと、前に遡って行けば、色々な生きものさえも懐かしく想える。

住職は、あるとき、「死は、母の元に帰るだけです」と、おっしゃったことを想い出す。

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September 20, 2012

病院の待ち合い室にも、「ブッダの言葉」が、

先日、会社の近く(虎ノ門)の眼科のクリニックに、初めて行った時、待ち合い室で、たまたま手にした雑誌が、徳間書店の「ブッダの言葉」と云う完全保存版(700円)の雑誌で゙あった。

ブッダのことが特集されていて、待ち合い室で、のめりこむようにその雑誌に目を通した。

早速、書店で、注文して、取り寄せ、今、私の手元に、一冊の「ブッダの言葉(完全保存版)」がある。

私の、意図しない日常の行動、行為にも、お釈迦さまの手の平の上にいることを感じた。

今朝、不図、雑誌をめくると、次のような言葉があった。

「他人が怒ったのを知って、それについて自ら静かにしているならば、その人は、自分と他人と両者のためになることを行なっているのである」

「汚れのない心で、一つの生きものさえも慈しむならば、それによって善が生じるであろう。生きとし生きるもの全てを、心で慈しむならば、多くの功徳を積むことになる」

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September 19, 2012

何が神に転じたのか、

何が神に転じたのか?と云う疑問は心地好い。

神と云う存在(法則・真理・宇宙意思)を認識した知性はどこから来たのか?

アメーバー、魚、猿など進化している過程で、ある程度、知性が発達した段階で、知性は、"神と云う存在"を認識した。

知性は進化していると思うと、今生で私が修行することは、やりがいがある。私の遠い遠い祖先から、生きてる間に学んだことが、私の遺伝子の中に伝えられている。そして、今生で私が学ぶことが、来世に伝えられて行く。

種子と樹木の繰り返しが宇宙の法則。樹木は種子(死)に返る。種子は新たな樹木を生む。そしてまた種子に返る。

私は、今、樹木。種子に返る時期が来る。その種子は、樹木の時代に進化した知性が宿る。だから、今、私が精進する意義がある。

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September 18, 2012

"コアラのマーチ"を、インドネシアの小学1年生にあげた感動、

インドネシアへの帰国直前のインドネシアの政府職員の女性留学生の一人の家族(小学1年生の女の子とご主人)が数日前、日本に迎えに来て、昨日昼、念願の向ヶ丘遊園のドラエモン博物館を家族で見学した。

私は、その家族に一目会いたくて、午前中、向ヶ丘遊園駅に、数分だけでも会おうと、横浜から会いに出かけた。午後の藤沢の坐禅会には珍しく、若干遅れてしまった。インドネシアの彼女達も少し遅れて到着し、私も午後の藤沢の坐禅会には遅れたくないし、会えたのはほんの10分くらいだったが、インドネシアの小学生1年生の女の子と会話して、直前に買った"コアラのマーチ"と云うお菓子をあげた。駅前のドラエモンの小さな像の前で、想い出のシーンも、立派にカメラに収まった。女の子は恥ずかしがり屋で、両親の陰にすぐ隠れたりして、とても可愛らしかった。

私は、"コアラのマーチ"を白楽の駅で、買った時からもう、そのちっちゃな女の子と会話しながら向ヶ丘遊園に向った。"コアラのマーチ"と云う言葉自体、もう私には、感動だった。私の娘が目を耀かせて"コアラのマーチ"と云っていた時代も想い出した。

それから、昨日は、もう一つの驚きがあった。坐禅会に遅れて参加する途中、鵠沼海岸駅で、1980年代に私が働いていた職場の女性と偶然、バッタリと会った。もうお互いにびっくり。 ほんの5分程度、懐かしく話したが、今後、また同窓会の楽しみができたように思う。

1日には、たった10分や5分でも、色々な想い出のシーンがあることを想った。

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September 17, 2012

鎌倉流鏑馬、幼児達との会話、

昨日、秋の、鎌倉流鏑馬があり、9時くらいから場所取りで、早く出かけた。流鏑馬は13時から神事が始まり、14時くらいから実際の流鏑馬は始まる。

会社の人(4人)の分も考え、畳3畳くらいのスペースを、的の横の絶好の場所に確保した。途中、11時頃、何と雨で、スペースのビニール・シーツもびしょ濡れ、暫く傘をさす始末。中には、今日の見物断念で、帰り出す人もいた。

濡れた場所を何とか、最小のスペースに縮小し(畳1畳くらい)会社の人もその後来れなくなった人もいて、2人に減ったので、小さなスペースで見ることにした。

近くに小さな子供連れの親子もいたので、子供達を2人を一番好い席に、坐らせてあげた。別の家族の 5歳の男の子、女の子を、最前列に坐らせてあげた。 子供達は、馬や射手の侍を見て喜び、興奮すること。時々、目の前で、馬がおしっこをしたり、馬糞をしたら、みんなで大笑い。

5歳の女の子は、私に懐いて来て、時折、団扇の先で、私の足をつついたり、自分の誕生日のことを話たり、公園の滑り台のことを話してくれたり、私もとても愉しかった。

秋の流鏑馬は小笠原流、春の流鏑馬は武田流。今年は、両方を堪能することができた。そばには、長野県の中学校に勤務する米国人の英語教師の女性も見物していて、時折、愉しく会話して一緒に見物した。また一つ、流鏑馬の想い出。

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September 16, 2012

万法(真理)と私、

道元禅師は曰く。私を進めて、万法(真理)を究めようとしても無駄であると。

万法(真理)に身を委ねて、自己を究めよと。

「"私が"、の想いが先にある間は、修行にならぬ。」と。

坐禅とは形ではない。 坐禅とは苦からの解脱のこと。坐禅とは!私!からの解放のこと。

波(私)が底を貫いて、大海を知る。

私が、助かっていることに気づくのが悟り。

昨日の住職の話。

さて、今日の私は、朝日に目覚め、モゴモゴと、カブトムシのように動き出す。

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September 15, 2012

母の想い出が一杯詰った缶詰のような人、

昨日、会社を休んで、昭和30年代以来の懐かしい、いとこと、藤沢で昼、会食した。小田原の妹も合流した。

昭和30年代、時折、私の母が、私を連れて大牟田から長崎の実家に帰る時、実家に住む、母の弟の長女(私より一つ上)が、その後、看護婦さんとなり、ずーっと横浜に住んでいたと云うのに、お互いに、連絡もせず、子供時代以来、その後会う機会はなかった。お互いに、自分の人生を生きるのに精一杯だったのだ。疎かになっていた親戚の繋がり。40代始めに離婚し、今は看護婦さんも退職し、子供二人も自立し、一人暮らしをされてるとのことだった。

いとこは、母の弟の長女でもあり、母の面影を感じた。彼女の表情は、子供時代に見た表情に相違なかった。当時の、長崎の田舎の光景までもが、彼女の表情から浮かんで来る。牛小屋、海、畑、石垣の赤い蟹(カニ)も。

母の想い出が一杯詰った缶詰のような人が、この横浜にいたことを知り、感動に包まれた。

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September 14, 2012

最大の聖戦は自分との戦い、

昨日、アラビア語の授業なのに、仏道を学ぶような刺激を受けた。

「ジハード(聖戦)とは、ジュフド(努力)の強調された言葉で、イスラムでは、最大の聖戦(ジハード)は自分との戦いです」と、アラビア語の先生が云った。

イスラムで禁止されたこと(ハラーム)は、皆さんの考え方では、どう捉えますか? 例えば、"地雷注意"の立札を見た時、貴方は、立札に感謝しますか?それとも怒りますか?

何百年に亘り、宗教上禁止されたことは、仏教にも、キリスト教にも、イスラム教にも共通することがある。その教えは、行く先の道に、掲げられた"地雷注意"の立札のように、私は感じた。"地雷注意"の立札に、私は感謝する。

多くの人は、立札を軽視して、多くの怪我をしたことがあると思う。大怪我をした人もいる。

地雷の位置を知り尽くしている人にとっては、その場所に立ち入っても、地雷を避ける術を身につけているかも知れない。それでも、地雷注意の立札からの啓示と、立札への感謝を忘れてはいけないと思う。

「納得(満足)は、朽ちることの無い宝」、「アルカナーアトウ(納得)、カンズン ラー ヤフナー(朽ちない宝)」、即ち、「"少欲知足"のことです」と、アラビア語の先生は、アラビア語の諺まで紹介してくれた。

私は、アラビア語の勉強に行ったつもりでも、仏さまの手の平の上にいることを思う。

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September 13, 2012

姿で訴える、

今朝、陸前高田の津波に堪えた海岸の1本松が土壌の塩分のため、伐採せざるをえなくなって伐採された話が報道されていた。

涙を流してカメラに収める人達の姿もあった。

何も云わずに、ただ存在するだけで、その姿で訴えることはすごいと思う。

そんな生きものも、そんな植物も、そんな自然の光景もある。

ただ無邪気に遊ぶ子供にも、ただ黙々と働く親の姿にも、そんな訴えるものがある。

誰に頼まれた訳じゃない。

ただ、あるべくようにあることが、何と調和して、力強いものかと思う。

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September 12, 2012

インドネシア留学生送別会、小さな旅の想い出、

今月下旬、1年の日本留学を終えてインドネシアへ帰国する留学生2人の送別の会食を昨日夜、新宿でやった。

今年の春の鎌倉の流鏑馬に同行したり、その後、大洗水族館、牛久大仏、向ヶ丘遊園プラネタリウムなど連れて行った彼女達も、遂にお別れの時が来た。

流鏑馬の時に偶然知りあった、日本の母娘さんの二人や、彼女達と一緒に富士山に登ってくれた日本の友達も、同席しての会食だった。

私が、8月末、長崎出張の時、早朝羽田を飛び立った飛行機から富士山が見え、上空から撮った富士山の写真も彼女達の想い出に手渡した。丁度その頃、彼女達は、富士山に登り、山頂から日の出を眺めていた。

インドネシアと日本、遠い日本で、数々の想い出と、学びや気づきをした時のことを彼女達は、将来、人生のシーンとして想い出すことだろう。

私は、彼女達の先生のように、彼女達の日本見学に付き添った。

彼女達の日本の旅のことを想うと、日曜日の朝のNHKの、「小さな旅」のメロデイー♪が聴こえて来るような気がする。

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September 11, 2012

「誕生・維持・破壊」、永遠の本質、

全ては、誕生・維持・破壊の一形態、しかもそれが連携して、同時に起きている。

誕生ばかり見る人は好奇心に満ちて、前向きで、おっちょこちょいで、ちょっとしたお馬鹿さん。

破壊ばかり見る人は、感傷的で、後ろ向きで、慎重で、暗い、人生の勘違い屋さん。

維持ばかり見る人は、自分中心で、深く考えない、現実主義のトンチンカン。

誕生も維持も破壊も、同時に見れる人は、永遠性を見ている。

私の人生で、昨日誕生したものは何か? 昨日破壊したものは何か?

昨日は夏、今日は秋、四季を味わうのは宇宙と云う自分。

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September 10, 2012

不幸は勲章、

自分が成功したら、誰かが不遇になるとしよう。自分が幸福だったら、誰かが不幸になったとしよう。自分が金持ちになったら、誰かが貧乏になったとしよう。

オリンピックのメダルのように、誰かが取ったら、誰かが取れないことは世の中に沢山ある。一人占めのための努力と、泣き笑いの人生。

自分が不幸になったら、その分、誰かが幸せになっていると考えれば、これに優る喜びはなかろう。

特攻隊も、同じだったろうと思う。故郷の山河に別れを告げ、自らを滅した後の、故郷の人々を守った姿を描いて、飛び立って逝ったことだろう。

堂々と自らの不幸を味わえばよい。不幸にもがくことはない。不幸は、神に褒めて貰える勲章でもある。

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September 09, 2012

真理を求め餓鬼禅、そして真理を求めずただ坐る世界へ、

真理を求めるのは、真理と私が別れている証拠。

自分に欲求がある間は、それは餓鬼禅。

私の受け皿のある坐禅は、餓鬼禅、素人の禅、方便の禅。

真理と私が一体化していれば、もはや真理も求める必要も無い。

真の坐禅は、私なき坐禅。

昨日、住職から、三祖大師・信心銘、太田洞水老師の話から、真の坐禅の境涯を教えて貰った。

ただ、修行の行きつく境地の、圧倒的ちからに、驚嘆する。

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September 08, 2012

草の中のバッタを触ったのは、何十年振りだろう、

先日の遠野への旅で、ふるさと村を訪ねた時、草むらにバッタを見付けた。童心に返り、バッタを追って、手に触れてみた。長い間、バッタのことを忘れていた人生を思った。バッタのことなど、関心を失っていた人生を思った。

人は忙しい時、色んなことが疎かになる。人間関係も、生きものや、虫たちとの関係も。

気づくと、小さなトンボも飛びかい、白い蝶々も、黄色の蝶々も、草むらの上を舞っていた。

忙しさにかっこよさを感じる時代もあったけど、忙しくても、何かに取り付かれたような人生って病的だなと今は思う。

よく見れば、人生には、私が思っていたのとは、全く違うシーンが広がっていて、安らいでいる。

飛蝗(バッタ)、蜻蛉(とんぼ)、何か、神の使いのような神々しい昆虫たち。

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September 07, 2012

ボンヤリとしている時間、その背後

喜びと引き換えに時間を失う。 悲しみと引き換えに悲しみが削られる。 人生は、自然界は、結構バランスが取れているものだとも思う。

喜びでもなく、悲しみでもない時間。 それは、ボンヤリとしている時間。 それは素晴らしい宝石のような時間かも知れない。

例えば、会社の帰りに、ただ、トボトボと駅から家への夜道を何も考えずに歩く。 そんな時間は、時間も空間も超越しているようにも思えて、私にとっては、ちょっとした気づきだった。

幸せとか不幸とか、そんなギラギラした執着は意識にものぼらず、ただボンヤリと、景色を眺める時。そんなボーとした、大切な意味など無い、合間のような時間がよくある。

縦でも無い、横でも無い、上がる訳でも無い、下る訳でも無い、そんな中間の境地は、永遠に通じるものだと思う。

吐く息と、吸う息の交わる境界の領域の永遠性。何か崇高な、領域を感じる。

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September 06, 2012

昔あったずもな♪、河童の淵の光景、

遠野の民話は、「昔あったずもな♪」で始まる。その優しい響きは、何とも云えない。

座敷童子、河童、オシラサマ(養蚕の神様)の話など、遠野には約800余の民話が伝承されているとのこと。

"河童の淵"は道路脇のポールに英語でも案内されていて、"Kappa Pool"。行く前から、もう笑顔になってしまった。ひまわりやコスモスに囲まれた小路を通り、無人の農作物販売所の小屋があって、牛の匂いがして、"河童の淵"は、曹洞宗・常堅寺の境内から入る淵だった。

川には、丁度、女の子が2人、川に釣り糸を垂れていた。のどかな光景に、ぼんやりと近付いて行くと、私は大笑いを堪え切れなかった。女の子達は、釣り糸の先に、大きな長いきゅうりを結んでいたのだ。後ろには、見守るお婆ちゃんが椅子に坐って見ていた。

私は、暫くその光景にくぎづけになった。子供達は、飽きもせず、河童が釣り糸にかかるのを、竿をあっちやり、こっちやりしながら待っている。

この土地は、確かに、座敷童子もいるところだと想えて、ほんわかとした気持になった。

東北の豪族・安倍一族の館跡も近くにある常堅寺は、遠くは、安倍一族の菩提寺でもあったと云われる。その安倍一族の子孫の方が、この河童の淵を守っておられる。寺には、本堂の賽銭箱の両脇に、狛犬のように、河童が祭られていた。河童の淵の入り口付近の寺の畑には、色とりどりのマリーゴールドが咲き乱れていた。

遠野から帰った後も、「昔あったずもな♪」、「どんどはれ♪」(おしまい)、を呟いてみたくなる。

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September 05, 2012

釜石を歩く、

昨日の朝、09:00岩手・遠野駅でサイクリングの会は解散となり、私は、横浜へ帰る前に、1時間ほど離れた釜石へ向った。釜石駅前から海岸まで、被災から1年半の街を、歩いてみた。復興への足取りも感じるが、まだ、全てが、仮の応急の手当てのような感じもして、震災の深い爪あとを思った。隣町に大槌町があり、宮古へ続く山田線はまだ閉鎖されたままだった。

バス停には、・・・仮設、・・・・仮設と云う行き先の標示、街の至るところにある空地。ビルの壊れたままの姿もまだ。ガラスの割れたままのビル、窓に「かんば」の文字も。

街なかに、"みんなの家、かだって"と云う仮設の休憩施設があり、冷えた麦茶がサービスされていた。若い女性が、パソコンの前で、にこやかにどうぞと、炎天下に歩く私に、挨拶してくれた。沢山の釜石の写真が展示されていて、震災以外の釜石の情景の写真もあった。それらの写真は、見る人を力づけるようにも思った。

釜石港へ続く道の脇には、山もあり、津波避難場所の標示があった。登って見ると、TVの映像で、避難された住民の方々が、この丘の上から、ビデオを撮られていたのだなーとも思った。私は、今その場所に立ち、釜石の復興の様子を見ていることがわかった。

釜石駅へ帰りながら、私は何度も、何度も合掌しながら歩いた。

釜石線は、釜石から花巻へ約2時間のローカル線、夫々の駅には、宮沢賢治に因んで銀河鉄道のエスペラントの名前も付いている。釜石は「ラオツエアーノ(大洋)」、遠野は「フォルクローロ(民話)」、花巻は「チェールアルコ(虹)」、とかである。トコトコトコと走る2輌編成の電車の車窓の田園風景・山々を見ながら、私は、釜石を心に刻んだ。

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September 04, 2012

風呂上がりのシッカロール(天花粉)

私は、家に居る時は、毎朝シャワーを浴びることを日課としている。

夏の日、シャワーや、入浴の後の、シッカロール(天花粉)が、私は、たまらなく好きだ。

子供時代に、バンザイして、天花粉を塗って貰っていたことをいつも、ほのぼのと想い出す。

子供時代の、穏やかな、湯上りの、清々しさが、天花粉には、込められている。

そこには、母の姿も見える。

(2012年8月31日の記)

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September 03, 2012

どちらでも好い、それは凄い境地だと思う、

「どちらでも好い」と云う気持ちは凄いと思う。

条件に振り廻されないところは、もうそれは、"神の領域"だと思う。

いろんな周りの出来事に、「どちらでも好い」と思えたら、個としての自分はない。五感六識を持った個としての自分は無いと思う。

宇宙と自分の一体化に於いては、何の条件がいるだろうか。 全てが私なのだから。

(2012年8月31日の記)

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September 02, 2012

喜びと悲しみを同時に見る、

喜び過ぎても、悲しくなる。 宴はいずれ終わる。

悲しみ過ぎても、悲しみに押し潰される必要はない。 悲しみを巨大化させて見ている自分の勘違い。

喜びの中に、同時に悲しみを見ると、淡々と喜べる気がする。

悲しみの中に、光を見出すと、淡々と悲しめる気がする。

喜びと悲しみを分けるから、苦しさが増す。 

喜びも悲しみも、共に、同時に裏を見れば好い。

(2012年8月31日の記)

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September 01, 2012

岩手・遠野、民話の里、 サイクリングの旅、

今日は、久しぶりにJRの割引・大人の休日クラブ を利用して岩手・遠野へサイクリングのイヴェントに参加することにした。 朝07:16 の東京駅発・新幹線に乗る私も、朝に強いなーと 我ながら苦笑する。朝10:00には、新幹線は新花巻に到着する。

もう、午後には、昨日までとの会社時間とはうって変わって、遠野時間に入る。河童が居そうな川や、山里の風景を想い描く。 遠野は民話の故郷、是非一度行きたいと希望していた場所。

どんなところだったか、私は、私の心の中の両親に話すだろう。

生きて来たからこそ、こんな素晴らしい境地を味わえるのだから、両親へ報告するのは当たり前。

両親と云うより、もう宇宙の意思の様な、神の様な、普遍的な存在が近いとも思う。

神も微笑む、私も微笑む。

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