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August 31, 2012

旅の出会い、遠藤周作と長崎、

作家・遠藤周作と三浦朱門が、二人で長崎を旅した時のことを、遠藤周作は、1972年、新聞のコラムに"ご縁"と題して書いている。

長崎のしゃれたレストランで、たまたま、店に居合わせた二人のお嬢さんに、長崎の土産物を聞いたこと、そして、土産物を買ったあとも、そのお嬢さんのお母さんから電話で、寿司屋さんまで紹介して貰った想い出を、旅の感動の想い出として綴っていた。

「私があの日、あのお嬢さんに会わず、そして田中さんご一家と知りあいにならなければ、私にとって長崎は、美しい可愛い街ではなかっただろう。だが、田中さんご一家と知りあったため、私は長崎が好きになり、長崎のキリシタンを勉強し、やがて、"沈黙"と云う小説を完成することが出来た」と。

私にも、旅のそんな、ほのぼのとする出会いがあることがわかる。 人生は縁に包まれている。 そして、その縁は、自分の魂が引き寄せている。

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August 30, 2012

長崎・JR浦上駅前の居酒屋の写真

先日の思い掛けない長崎出張の時、市電の車窓から、浦上駅前の居酒屋の写真を撮って、福岡・大牟田に住む姉に送ってやった。

長崎で、子供達が小さい頃、離婚して、子供達を手離した姉は、その後、故郷の大牟田へ帰り、子供達と会えなくなり、年を経て、子供達との再会を願う日々が続いている。元の主人は数年前、病気で他界したが、子供達は、幼いときに、母と別れたわだかまりか、再会を中々望んでいない。

その子供の一人の男の子が、数年前に開店した居酒屋が浦上駅前にある。浦上は、かつて姉達家族が住んでいた想い出の場所。

私は、長崎出張から帰って来てすぐ、その店の写真を大きく拡大したコピーを、姉に郵便で送った。

姉は、その写真を見て、泣いたと想う。

会えなくても、子供が成長して、立派に店を持ち、頑張って暮らしていることを想像して、一人泣いたと想う。

浦上駅前の居酒屋の写真、今回の私の長崎出張は、そんな大切な役割を果たせたことを想う。

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August 29, 2012

寂しさは、未熟さのバロメーターかも知れない、

寂しさは、人生を突き動かすエネルギーでもある。寂しさがあるから、愛し愛されることを求める。

だが寂しさの源は、自と他の区別に発する。

生労病死の生きるの苦しみとは、自と他の区別に発する。

自が際立てば、寂しさも際立つ。

寂しさは、自(エゴ)の度合いを測るバロメーターかも知れない。

寂しさは、未熟さのバロメーターかも知れない。

寂しさを感じない境地に、どれだけ近づけるか、これが修行の度合いも測れるバロメーターかも知れない。

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August 28, 2012

真っ白な無分別、

動物世界の無分別は、真っ黒な無分別。

仏の世界の、無分別は、真っ白な無分別。

先日の住職の法話の中で、そんなイメージを知った。

真っ黒な無分別世界(動物、子供っぽい我ままなエゴ)から、真っ白な無分別世界(自他一如)の世界へ向うのが修行。仏性とは、"無分別智"、分別なくして知るちからとも云う。

策を労しない動物、子供は傍目には、無邪気(無分別)で微笑ましいが、本人は、エゴの故に、何も幸せでも何でもなかろう。時にはその無分別、無邪気さは、苦しみや地獄にもなる。

仏の無分別は、無我、自他不二であるが故に、何ものにも振りまわされない。それは、分別の生じる以前の安らぎ。

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August 27, 2012

心は自由自在、

自分が3歳の子に出合えば、3歳の頃の自分になり、自分がAKB48のTVをみれば10代後半くらいの気持になり、老人に会えば、老人の人の気持になる。

自分が自由自在に、気持が、飛び回っていることを実感する。肉体は時間を反映して変化して行くが、心は自由自在。

じっーと、どこかで、そばで、そんな自分をみている存在がいる。それは、時間も空間も超越しているような存在。

生まれもしない、死にもしない、そんな存在があることを感じる。

そんなことを想い出しながら、また心は自由自在に飛び回る。

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August 26, 2012

所有は苦しみ、

人は何か、所有を求めて努力する。何かを必死で獲得しようともがく。

だが所有は、安らぎを与えはしない。

所有はエゴの象徴。 私の妻、私の夫、私の子供、私の土地、私の給料、・・・・・。所有は、人を醜くさえしてしまう。

自然界には所有はない。自然界には、権利・義務などない。過失も責任もない。

ただ、のびのびと生きることを、風にも、小鳥達にも学べる。

自然は、何も所有してはいないが、全てがある。

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August 25, 2012

頼んでもいないのに、

頼んでもいないのに不幸になったら、他人のせい。 頼んでもいないのに幸せになったら、自分のせい。

人はそんな生き方をしがちなものだと思う。

頼んでもいないのに生まれて来て、頼んでもいないのに死んで行く。

そして、全てのことは、頼んでもいないものの集まりに気づく。頼んでもいないのに、大自然。

頼んでもいないのに、神様の手の平のうえ。

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August 24, 2012

踏絵、長崎の碧い海、

長崎を訪れた遠藤周作が目にした踏絵には、それを踏んだ人々の"黒ずんだ指の痕"があった。そこに、信仰を裏切った人々の声を聴いたことが、小説「沈黙」を書くきっかけになったと云う。

キリシタン迫害の時代、布教の夢に燃えてポルトガルから日本にやって来たロドリゴ司祭、その後、その夢のために多くの日本人の血が流されることを知り、遂に踏絵に足をかける。

それは、今まで、誰もしなかった一番辛い愛の行為であった。

「踏むがいい。私はお前達に踏まれるために、この世に生まれ、お前達の痛さを分かつために十字架を背負ったのだ。」

遠藤周作は、長崎を、"心の鍵が合う街"と呼んでいたと云う。

私の母が生まれ育った長崎、大きな愛に包まれる街。

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August 23, 2012

長崎との"えにし"、外海町、母子島(はこじま)

今回の、思い掛けない長崎への出張(21日22日)に感謝する。また20日(月)がラマダン明けの特別休暇であったことで、20日に長崎へ入り、母の故郷長崎の京泊への旅が出来たこと、その"えにし"に感謝する。

京泊は、外海(そとめ)町、から約20分くらい南にある、半農半漁の小さな村だった。今では、大規模な新長崎漁港となって、すっかり変わってしまった。今は長崎駅前からバスで約1時間。

私が子供の頃は、陸からは山が険しく近付けなく、長崎・大波止から大きな船で、京泊の沖合いまで行って、沖合いから艀(はしけ)で村に入った。母の実家には牛小屋もあって、家の前には、海の入り江が広がっていた。台所の横に石垣には、いつも赤い色の沢ガニがいた。山にはスイカの畑があった。

今回初めて、母の実家の裏山にある先祖の墓に参らせて貰った。母が育った海を見下ろす丘の上の母の先祖の墓に、その墓前に立ち、私は感激に涙した。

京泊から車で約20分の場所に外海町(そとめ)町はある。途中、隠れキリシタンの面影を今でも感じさせる黒崎教会が、今でも漁村の裏山に聳えている。

外海町の遠藤周作記念館は、どうしても私が行きたかった場所でもある。その丘の上の海の光景は、神々しい信仰の海のようでもあった。こんなに綺麗な壮大な海を私は、見たことがあっただろうかと想った。遠くに五島列島も見え、近くにも小さな島々が浮かんでいた。

遠藤周作の「沈黙」の一節が、碑に刻まれている。「人間がこんなにも哀しいのに、主よ、海があまりにも碧いのです」

遠くに見えるのが、母子島(はこじま)と云うことを知った。私は、ここに来る"えにし"があったのだと想った。

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August 22, 2012

生きても死んでも変わらないもの、人間の七識・八識、

通常云う人間の死とは、五感六識の崩壊を云う。

生きても死んでも変わらないものがあると云う。それが、人間の持つ(潜在意識)七識・八識。 それは光を求める。
そこに、修行をする所以がある。

私の気分が薄くなって行く度に、外の世界が一歩一歩、私に近付いて来る。"自他一如"の世界に向って行く。

生きても死んでも、びくともしないものがあると知ることは、安らぎ。修行の励み。

生まれ代わり、死に代わり、清々とした修行の道のり。

(8月17日ー19日、天城坐禅合宿の時の学び、気づきの記録、8月19日の記録)

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August 21, 2012

大極、中道、のイメージに浸る

吸う息は、既に吐く息が始まっている。吐く息には、既に吸う息が始まっている

その吸う息、吐く息の間に一瞬、止まった瞬間がある。それが大極。それが中道。

父母未生以前の世界。陰陽が生じる以前の世界。幸・不幸以前の世界。

それが、永遠にして安らいでいる世界かと、イメージすると、気持がピリッとして心地よい。

こだわりが無くなり、どちらでも好いと云う気持が広がって行く。

(8月17日ー19日、天城坐禅合宿にて学んだこと、感じたこと、8月19日の記録)

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August 20, 2012

今日から長崎、母の故郷へ、

昨日は、天城坐禅合宿から横浜へ帰宅した。早朝、天城山の森の中の禅堂へ差し込む朝日の情景が今でも、心に、残像として浮かぶ。新たな、日々新たな一日が始まることを思う。

そして昨日は、イスラム世界のラマダン(断食)明けの日でもあった。イスラム社会は、お正月のようなお祭りの週が始まった。

今日は、私にとって、全くめづらしい、長崎への出張の日。日頃、考えてもみなかった長崎出張。 関係先の新造船の命名式が22日、長崎であり、今日から2泊で、長崎へ行くこととなった。

長崎は、私にとって特別な場所、母の故郷がある場所。 このような、予期せぬ出張も、母の魂との縁と考え、嬉しく想う。 ただ、自然の展開に、身を任せ、漂うように、人生を愛でる。

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August 19, 2012

蝉を助け、ミミズを助け、安らぐひととき

先日、駅から自宅へ帰る道の脇で、猫が、路上で仰向けに羽をばたつかせている蝉を、前足でつついて遊んでいる光景に出遭った。 私は、たまらず、猫を離し、蝉を拾いあげ、胸に抱いて、自宅の玄関そばの茂みまで運んで、そっと木の枝につかまらせてあげた。

もう、長くは生きれないだろうが、最後に安らいで逝って欲しいと想った。私は、蝉をからかった猫でもあり、からかわれた蝉でもあると思う。共に私自身であることが、愛おしく、哀しい。

同じ日の昼、雨上がりだったからだろうか、会社の近くの舗道に、道路脇の茂みの土から、間違って出て来たミミズが、まさに死への旅路に出ようとする動きであった。歩行者に踏まれるか、干からびて死ぬか。 こんな光景を見ると、私は、必ず、小枝を見付けて、ミミズを引っ掛けて、また近くの土へ返してやることにしている。その日も2匹のミミズを救った。

死に掛けたミミズに延命の機会を与え、死に掛けた蝉に穏かな死をと思うだけでも、私は、大自然の一部としての、私の役割が全うできたかと心が安らぐ気がするのです。(2012年・8/16 記)

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August 18, 2012

不幸でなければならぬ、

私は、最近、「安らぎを得るためには、ある程度、不幸でなければならぬ」と、思うようになった。

全体のことを思うと、ある程度、自分も不幸でなければ、申し訳が無い。私も、応分の不幸を背負わなければ、落ち着けない気持が芽生えて来た。

自分だけの幸せ、自分の肉親・家族だけの幸せを得たところで、何と落ちつかない、後ろめたい気持かとも思う。

「私は、不幸でなければならぬ」と思う。 私も不幸であることによって、初めて一切になれる。自他一如になれると思う。自他一如の世界を見た時には、もうその時は、幸とか不幸を越えて、ただ安らいで、調和している世界であろうとも思う。 (2012年8/16 記)

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August 17, 2012

天城山・坐禅道場、ヴィヴェーカナンダ師の写真,

今日から2泊3日で、毎年恒例の夏の天城山・坐禅合宿に出かける。私は、また、しばらく、別人になると思う。

坐禅道場・"一灯禅林"の入り口には、ヴィヴェーカンダ師の写真が飾ってある。ヴィヴェーカナンダ師(1863-1902)のことは、数年前に私が、禅に興味を持った時から、住職から教えて貰った。インド哲学・ヴェーダンダ哲学が全て、禅に入ったことを証明してくれた人。

ヴィヴェーカナンダ師の1893年、米国・シカゴの世界宗教会議でのスピーチは、世界の宗教界に感動の衝撃を与えたと云う。

彼のことをインターネットでも調べていたら、また彼の言葉が強く印象に残った。真の宗教者たるかどうかのテストは、"利己心の無さ"と、"他人への愛"だと。

仏陀、道元禅師、白隠禅師、ヴィヴェーカナンダ師、など想い浮かべるだけで、もう大海(自他一如)への扉が開ける気がする。住職の待つ天城山へ、修行の足どりは軽い。

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August 16, 2012

麹と健康、麹の力は凄い、

最近、「麹(こうじ)のちから」、山元正博著(風雲社)と云う本を読んだ。麹の力の素晴らしさを改めて感じる。

1. 麹、酵母、酵素、
(1) 麹: 微生物、大量の酵素を生産する。人間の身体で必要な酵素の7割は、麹が作る。あらゆる生物が酵素を生産はするが、大概の生物はその酵素を体内に留めて外に出さない。ところが麹は、出し惜しみせずに外に酵素を分泌する特性が好い。

(2) 酵素: 生き物ではない。触媒の役割。 ハサミの様な役割。食べ物を分解して、吸収する手助けの役割。

(3) 酵母: 微生物、パンやアルコールを作る時に必要。

2. 麹のちから、
(1)酸化防止、老化防止、
(2)免疫力強化、
(3)消化促進、
(4)アレルギー症状軽減、
(5)腸内菌を健全化、
(6)がんの成長抑制、(焼酎杜氏はがんにならないと云われる)
(7)花粉症退治、
(8)メタボ改善、
(9)放射能洗浄、
(10)家畜の成長促進、
(11)人間・動物のストレス軽減、

3. 麹菌で、危険な弁当を見分けることも。
2004年3月西日本新聞に、賞味期限切れのコンビニ弁当を食べた母豚から奇形の子豚が生まれた記事が出た。 筆者は、期限切れのコンビニ弁当を麹菌で発酵させて家畜の飼料にしようと試みた。 ところが、麹菌が、全く生育することができなかったことに驚いたと云う。 犯人は、防腐剤だったのでしょうとの分析。今のコンビニ 弁当は、その事件後、改善され、大丈夫とのこと。 以上

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August 15, 2012

来年は、東京のど真中・神谷町界隈の祭りに参加するか、

昨日の夜、飲んで帰る時間帯、顔馴染みの神谷町の個人経営の書店の主人と、駅のホームで偶然会った。

消防団の荷物を持って、地元の祭りの催しに関する活動だったらしい。神谷町の長年住んだ土地と世田谷の土地を森ビルと交換し、神谷町の土地にビルを建て、その一部で書店を経営されているとのことだった。だから、毎日、世田谷の家から通勤で自分の書店をみに来る生活らしい。

私は、通勤途上、電車から降りて、この書店で、雑誌を買うことがしばしば、よく、声を交わす顔見知りでもあった。

電車の中で、神谷町界隈の祭りの話に及び、来年、神輿担ぎにでも来ませんかとの誘いも受けた。地元の人が少なくなって、余所から祭りの応援が必要なのだと云う。

「そうか、来年は、東京のど真中の神谷町の神輿でも担ぐか、」と考えたら、白いハッピの、祭り装束の自分が、脳裏に浮かんで来て、「よし、やるかー」と云う気になって楽しく思った。 東京のど真中の町内会、ちょっと、好奇心を刺激される、昨日の出来事であった。

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August 14, 2012

四大元素、四大分離、四大不調、

「集まったものは崩壊する」。人間の身体も60兆の細胞の集まり。

肉体の崩壊・死のことを、"四大分離"と云い、病気のことを"四大不調"と云う話を、先日住職に聴いた。

人間の生死は、人間を構成する四大元素の存在の仕方に過ぎない。

集まって、離散し、また集まって、離散する、循環の姿に、永遠なるものを感じる。

「1も10も同じ」とおっしゃる住職の言葉の意味が、わかる気がする。

1に10を見れば、10に1を見れば、過去も現在も未来も同時であり、且つ永遠である。

この様な、安らぎがあろうとは、今まで、感じたことことはなかった。

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August 13, 2012

庄屋さんの家で民話を聴く、

藁葺き屋根の古民家の囲炉裏のそばで、昔話の語りを聴く、こんな機会を、何年も、捜して来て、昨日午後、やっとそれが実現した。

向ヶ丘遊園の民家園の中の古民家・菅原家、それは山形県から移築された、江戸時代の庄屋さんの家だと云う。その藁葺き屋根の家の囲炉裏に上がり、日本民話の会の方々の昔話の語りを昨日、初めて聴くことができた。

昨日は"子育て幽霊"、河童の話、怠け猫の話、など、中には津軽弁で話して下さる語り手の方も。

聴く人達も、親子連れ、子供達、20代の若者、中年、年輩者など、民話を愛する様々な年代。

時折、私は、そばで聴いてる小学生の顔を見たら、口をポカンと明けて真剣に聴く様子が、何とも、可愛らしかった。私も、遠い遠い昔、昔話を聴いたことを想い出す。

民話の世界は、何だか、人間がみんな、親や親戚のように、あったかく感じてしまう。人間社会が、好奇心に溢れていて、恐かったり、楽しかったり、そこで生きる自分が冒険をしてるような愉しさがある。

民話は、人生の原点を想い出させてくれるような、まるで音楽のコンサートのようにも感じた。

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August 12, 2012

波が大海に気づくまで、

毎年、夏に聴く蝉の声、その蝉は、一週間で死んでしまうとは思えないように、永遠を歌いあげているかのようにも聴こえる。まるで読経の声のようにも聴こえる。

蝉は、誕生・維持・破壊の一巡のサイクルが人間より短いだけ。蝉の一生は、短いけど、永遠性を奏でるのは何故だろうと想う。

誕生、維持、破壊と云う姿・形は違っても、情報は同じ。変化しているように見えるが、それは幻。

変化しないものには、過去・現在・未来もない。幻は真実を見ると消える。

波は生じて滅する。大海は生じたり滅したりしない。"樹木と種子"、"波と大海"。即ち、種子と大海は同じ。

そんなことを、昨日の住職の話を聴きながら、メモした。

そして、意外な言葉を聴いて、大海のすごさを直感した。

「大海とは、哀しみの心です」と。大海は波に対して哀しく想う。放っておけない。大海は、一切の波が、大海に気づくまで、哀しく想う。それを"菩提心"と云う。


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August 11, 2012

弟家族の横浜観光の一日、東京滞在のシーン、

昨日、夕方、弟家族は、5日間の東京滞在を経て、九州へ帰った。

一昨日、桜木町で待ち合わせて、みなとみらい、赤レンガ倉庫、大桟橋、山下公園、中華街、元町、港の見える丘公園、エリスマン邸、と、一日のんびりと歩いて案内した。かなり長い距離を歩いたことになる。

途中、みなとみらいから赤レンガ倉庫までは"シーバス"、港が見える丘公園からの帰りは、観光循環バス"赤い靴号"にも乗った。

弟と、のんびりと一日中、つき合うことは、子供時代以来ではなかったかと思う。今後、いろんな横浜のシーンを歩く度に、弟家族と歩いたことを、想い出すことだろうと思う。

昨日終業後、六本木から大江戸線で、新宿都庁前に坐禅に向う途中、何気ない六本木の雑踏にも、数日前に弟家族と歩いた六本木だなーと感慨深く想い出した。

想い出のシーンは、人生にエネルギーをくれる。

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August 10, 2012

明るく前向きはもろいもの、そんな気づき、

帯津病院の帯津良一先生の著書に、明るく前向きな人が治療成績が良い訳ではないことに気づかれたことが書いてあった。

「明るく前向きな心を持ち続けること自体が患者にとってストレスになります。人間は明るく前向きにはできていないのです。人間は本来、哀しくて寂しい存在なのだと、最初に決めてしまえばよいのです。

最初から、哀しくて寂しい人は、もうこれ以上、落ちようがない。哀しさ、寂しさから出発していれば、人間はいつまでもそんな状態でいられないから、放っておいても、明るく前向きになるのです。私達は、心の循環をしながら、大いなる命の駒を進めているのです。

無理に明るく前向きにと云うほど、もろいものはありません。」

本との出会いも、不思議な出会いである。

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August 09, 2012

道に寝そべっている猫からの示唆、

昨日は、多少飲みすぎたと反省しながら、今朝、7月の円覚寺・夏季講座で購入して来た書籍(法話集)に目を通していたら、好い文章に出会った。

「縁側に猫がゴロンと横になって日向ぼっこをしている。別段、人に何かしようと云う気はさらさらない。しかし、火の側に近づけば自然と暖かくなるように、水の側に行けば涼しくなるように、何の計らいのない"無心・無我"のはたらきによって、人は自ら穏かになっていくのであります。」

人それぞれに、何も云わずとも、メッセージを発していることを思う。そのことに気づくからこそ、落ちつかなっかたり、安らいだりする。

道に寝そべっている猫。よく見かける光景。

そんな光景からも、大きな示唆があることを想う。

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August 08, 2012

外国語も一種の方言、

昨日、ヒッポクラブ(語学クラブ)で、言葉の持つ面白い側面を紹介して貰った。

例えば、砂糖と云う言葉の、ヨーロッパでの類似振りが面白い。

Zucchero(イタリア語) ずっけーろ。

Azucarero(スペイン語) あずかれーろ。

Zucker(ドイツ語) ずっかー。

Sucre(フランス語) しゅくる。

Suger (英語) しゅがー 。

これを、言葉のグラデーションとか呼んで、ヒッポクラブでは、面白がっていた。外国語も、単なる方言かと思えば可笑しく感じる。


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August 07, 2012

九州の弟家族、東京出勤に九州から同行の旅、

九州から東京単身赴任で毎週・月曜・福岡から飛行機出勤の弟に、昨日、夏休みで家族が東京について来た。

金曜日に弟がまた福岡に帰るまで、東京見物の予定。弟の嫁と高校生の娘の東京見物を、どこに連れて行こうかと、兄としては、あれこれアイデアを考え、提示した。ドラエモン・ミュージアムは没だったが、高校生になった弟の娘との会話が面白い。

木曜日は会社を休んで、横浜みなとみらい・元町・外人墓地など案内して、夜は六本木の、お笑い系のショーに案内することが有力となった。

昨日は会社終業後、品川で、母娘の旅の上京初日の歓迎の夕食をした。弟は、仕事が長引き、会食には遅れて合流した。普段、大牟田でしかイメージが湧かない弟の家族が、今、目の前に、品川で、一緒に会食しているのかと思うと、面白くて、楽しくて、しょうがなかった。私は、その時、亡くなった母や父の気持になっているように感じた。

私の目を通して、父も母も、弟家族を、微笑ましく眺めていた。

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August 06, 2012

古利根川流灯祭り、燈籠と花火の共演、

昨日は、午前中、東京シテイーガイド協会の英語グループの英語の防災研修に出席、英語の紙芝居「稲村の火」を聴いた。紙芝居の英語版って云うのも、面白いなーって感じた。 紙芝居の持つ、日本的なノスタルジアと、英語の国際性との合体。いつか、自分も、何か、英語の紙芝居を作ってみたくなった。

午後は、友人の住む東武動物公園の自宅に誘われて、杉戸(東武動物公園)の古利根川・流灯祭りを、見物した。夕方からワインを飲み、ほぼ、できあがった気分で、駅へ続くお祭りの道を歩いた。

約1キロにもわたると云う、幻想的に川面に浮かぶ燈籠の灯りと花火の共演。これは、風情がある。都内の混雑した大きな祭りとは違って、地方の香りを一杯に感じ、穏かなな気持にさせてくれる夏祭りだと思った。

祭りは、のんびりと、そぞろ歩きができるくらいだと、味わいが増す。川から打ち上げる花火も、余り大きくないところがこの祭りには似合っていて、何故か遠い昔に見たような、日本の祭りの原風景を感じた。

今週は、夏祭り気分がいっぱいの週末だった。

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August 05, 2012

初めて見る神奈川区民ミュージカル、

昨日午後、横浜の私の住む街の子供達が主体で演じる、初の市民ミュージカル、「新京浜浦島伝説」を、神奈川公会堂で見た。

浜(ハマ)の子達が、横浜の子安浜でとれたアナゴを使った弁当をつくって、感動的にまとまって行く様子を描いたストリーだった。

もう、とにかく、小学生、中学生の子供達が可愛いこと・・・・・。台詞もよく覚えて、歌や踊りも、素敵だった。ちょっと初々しいところが、プロより、素晴らしいと感じた。

小学生の女の子が演じてる姿が、私の娘が幼稚園の発表会で、"ウサギのダンス"を踊った時の姿とダブって、遠い日が目の前に再現したようで、目頭が熱くなった。

市民の手作りのミュージカルは、素晴らしい。 今後やみつきになりそうだ。田舎で行われる村・歌舞伎なども、是非見てみたいと、益々想った。

夜は、町内会の盆踊り会場で、模擬店のフランクフルト屋さんとなって、昨日は、地元の交流に浸る一日となった。今朝、郵便受けの新聞を取りに玄関を開けると、近所のネコが、涼を求めて、道の真ん中に、寝そべっていた。快晴の夏の日の日曜日の朝。

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August 04, 2012

黄金虫救出の通行人、夏の日の朝の光景、

先日、朝、通勤途上、私が歩く舗道の上に、黄金虫が仰向けに転がって、足をバタバタして、起き上がれなくて困っている場面に遭遇した。

その様子が、滑稽で、可笑しくなったが、そっと、ひっくり返して助けてやった。黄金虫は、何事もなかったかのように、舗道の脇で、体勢を整え、じっと黄金虫らしい格好で、静かに、動きだそうと考えているようだった。

そして、私は、その様子を、微笑ましく、確かめて、その場を去った。

黄金虫が転倒している場面は、子供時代から何度か見かけて来た。「黄金虫が転倒してどうする。そりあ、天道虫じゃないか。」その光景は、考えると、やはり可笑しい。

天道虫は、小さくてオレンジ色の点があったり、英語で、"Lady Beetle"とか、"Ladybird Beetle"と云うらしい。黄金虫は"Gold Beetle"、これらの可愛いらしい英語表現を粋に感じる。

黄金虫が転倒して、死に掛けて、窮地を救って、私は、その場を颯爽と去って、会社へ急ぐ。黄金虫は、せめてお名前をと、去り行く私の後姿を眺める。 「名乗る程の者じゃございません」

夏の青い空、白い雲、蝉の声。そんな夏の日の朝。

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August 03, 2012

8月2日と云う日、8月2日の風景

昨日、8月2日、職場のアラブ人が、1990年も8月2日は同じ木曜日だったと語った。私は、イラクのクウェート侵攻の日から22年が経ったことを想った。

当時アブダビにいた私は、それから、数日後、避難劇が始まった日々を想い出した。侵攻から1週間後、アブダビ空港に家族を送り出した時の安堵感は、男として、誇らしかった。当時、あどけなかった小学生の娘は、覚えているだろうか。

また、8月2日と3日は、長岡の花火大会の日でもある。1945年、8月2日は長岡が大空襲にあった日。原爆と同じサイズの模擬原爆を、B29は長岡に投下している。数日後に、広島・長崎の悲劇が迫る大空襲。長岡は、この長岡の大空襲の犠牲者の慰霊のために、長岡の花火大会を、曜日にかかわりなく、8月2日・3日に行う。去年は、前日の大雨で一部市内も浸水する程の被害が出たにもかかわらず、市民は、この日に花火を打ち上げることが大事と、夜を徹して突貫工事で、河川敷の花火会場を設営した。その感動の模様は、映画にもなった。

私は、去年8月3日、この河川敷で長岡の花火を見た。

8月2日は、私の父の命日でもある。父の自転車の後ろに乗り、故郷・大牟田で、街へ行き、夏祭りの花火を見たことも想い出す。今では、私にとって、8月2日は、特別な日となった。

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August 02, 2012

昨日は、駅で職務質問、そしてジャズ的に懇親会、

昨日、会社の帰り、神谷町の地下鉄入り口の階段で、横須賀在住のパソコンの会の友人を偶然見かけ、思わず声をかけた。

横須賀から、はるばる、日本酒を飲む10人くらいの懇親会に、近くの日本料理屋に行く途中であった。私は、これは、面白そうと思い、その会に入れて貰えないか聞くと、幹事に電話確認、即OK。

会社を出る時には、全然予期せぬ懇親会に、30分後には出席して、秋田の酒を飲んでる始末。メンバーに、お酒屋さんもいて、数種のお奨めの日本酒が3升。毎月、色んな場所で日本酒の会をしてらっしゃるとのこと。

全く、縁と、おっちょこちょいの私の、奏でるジャズ的展開に、我ながら苦笑。

その友人は、横須賀から東京へ懇親会に出て来て、偶然、駅で私に声をかけられ、まるで警察に職務質問されるような感じだったと云う。「ハイ、間違いありません」と云う感じで、まるで潜伏していたオーム真理教・指名手配者が刑事に捕まる時のように思えて、また想い出し笑い。

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August 01, 2012

判決、「娘を失ったのが、貴方への罰」、

「娘を失ったのが貴方への罰」、昨日、このインターネットの記事に、私は、何のことなのか一瞬戸惑った。

85歳の母親は、重度の身体障害の娘62歳を長年介護し続け、力尽きて、首をタオルで締めて殺害した。老々介護の果ての悲劇に、7月6日、奈良地裁は懲役3年、執行猶予5年の判決を下した。

検察の懲役5年の求刑に対し、酌量を求めた近所住民達の嘆願署名は数千人にも上ったと云う。

「長女を亡くしたことが、貴方への罰。娘さんの冥福を祈って下さい」と云うのが裁判長の言葉であったと云う。

母も泣き、娘さんも泣き、裁判長も泣いたであろう人生のシーン。

私は、気づかない内に、世の中の こんなシーンの中で、私も、生きていることを想う。

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