横浜・日吉、5キロに及ぶ広大な地下要塞の街、
一昨日、日吉地下壕保存の会の方々の主催で、太平洋戦争末期、日本海軍の司令部が置かれた、地下の大要塞の一部に、私は、初めて入った。
それは、私が、慣れ親しんだ、慶應大学のキャンパスのマムシ谷と云われる坂の下のテニスコートのすぐそばに入り口があった。 保存会が見学会をやりはじめたのは24年前とのことで、私が大学生の頃には、この広大な地下要塞は、先生達から聞いたこともなく、世に知られていなかった。私は、当時、全く知らずに、日吉に住み、日吉で学んだ。
地下約30メートルに、幅4メートル・高さ3メートルの、道路みたいな要塞が延々と張り巡らされ、海軍の数々の中枢機能が、ここに置かれていたことがわかった。司令長官室は当時、和室に作られていたと云う。
通信兵も約200名がいて、数々の情報・戦況を受信し、また、戦艦大和への最後の出撃命令もここから発信されたのだと云う。トンツー、トンツーと云う無線の発信音が絶えなかったことだろう。終戦の頃は、特攻機が、「我、今、突撃す」と遺してトンツー・トンツーの音が、「ツーー」と云って消えて行く悲しみを幾度となく聴いていた場所。大和が沖縄・徳之島沖で、約300機の航空機の空襲を受け、沈む時、大和が傾いて行く様子を、傾斜10度、傾斜15度と、刻々と受信し、涙で大和の沈没を見送った様子がわかった。
私が、大学時代、走り回ったり、戯れた陸上競技場は、学徒出陣壮行会が行われた場所であった。
何故、教えてくれなかったのだろう。何故、私は知る機会がなかったのだろう。と今でも、不思議に思う。人生には、身近に、自分の知らない世界がいっぱいに広がっていることを思う。受信機を磨かなければ、それを知らないままで人生を終えることになる。 そして、自分の五感六識では計り知れない世界が、そばにも展開していることを思った。
日吉地下壕のことは、私は、最近、区役所の催しもののパンフレットで知った。今頃、私に訪れた、戦争を知る縁。地下壕の壁(40cmの厚さ)のコンクリートを触り、65年前の戦争を、今、触っている感じがした。
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