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April 01, 2012

禅とキリスト教の出会い、世田谷・龍運寺(東京禅センター)

昨日、午前中は、鎌倉散策の行事が中止となり、白楽商店街の模擬店フェステイバルに顔を出した。商店街に縁のある若い女性達か、何と小雨の中、フラダンスを披露してくれた。常磐ハワイアンセンターの映画を想い出し、商店街を盛り上げようと、頑張ってる女の子達の姿にジーンと来た。

午後は、本格的に降り始めた雨の中、世田谷の龍運寺の講演を聴きに出掛けた。立教大学・文学部・キリスト教学科・教授の佐藤研(みがく)先生の話は、凄かった。長いキリスト教人生の果てに、禅の目指す頂きと、同じような境地になっておられることが、言葉の端々にすぐわかった。

住職がよく云っておられる言葉を、現実に体現されてる人を見る想いだった。宗教は便法として、入り口として必要だが、誰しも、最後に、その神をも、捨てねばならぬことが難しいと、よく住職から聴いていた。

禅の持つ、すさましい、見事な、神秘的な静寂は、人間の観念構築物を越えている。

講演の後、偶然会場で、久しぶりに会った友人(アブダビ勤務時代の友人)など6人で、喫茶店に入り、禅を語り合った。東京禅センターとの縁で、また私の世界も拡がる。

今日から4月、外に鶯が鳴く声が清々しい。

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