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April 30, 2012

釈迦と弟子プンナーの問答、

お釈迦様と10大弟子の一人、プンナーとお釈迦様の問答を、先日のマンダラ手帳のセミナーで知った。

貴方が村人から誹謗されたらどうするか? → 杖や石、手足を使って打たれないないだけいい人だと思います。

木石で打たれたらどうするか? → 刀で傷つけないだけ、立派な人だと思います。

刀で傷つけられたらどうする → 殺されなかっただけ、いい人だと思います。

殺されたらどうするか? → 自ら命を絶つ労を省いてくれたのだと思います。

お釈迦様は、プンナーに向って、大きく頷かれたと云う。

「私には、貴方にはもう何も云うことはない。法を広めて行きなさい」と。

どんな目にあっても、神の意思を受けとめる姿勢に、私の心も絶句するほどの感動であった。

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April 29, 2012

低年収ほど幸せの怪、

雑誌「プレジデント」(5月14日号)に、年収別幸せ実感調査が特集されていた。

300万円 : 毎日家族団欒できている。円満ファミリー。

500万円 : 仕事か家庭か悩み多くとも、相談できる人がいる。

800万円 : 教育費がずしりと重くのしかかる。

1000万円 : 同僚と妻に不満、もっと面白い仕事求める。

1500万円 : 2割が家族と会話なし、社会貢献がしたい。

「根源的な部分で、"お金=幸福"と云う方程式は成り立たない?」との結びであった。

好い気づき、とても好い気づきだと想う。

私のお金に対する哲学は、「お金は醤油に似ている」と云うこと。「料理(人生)には必ず無くてはならないものだが、料理にかけ過ぎると、品がない。料理を台無しにさえしてしまう。」 我ながら、痛快な発見だと思う。

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April 28, 2012

"死ぬのはガンに限る"、中村仁一医師著、驚嘆する新刊

最近の日経新聞の新刊広告に度肝を抜かれた。

「大往生したけりゃ医療とかかわるな」(幻冬舎新書)に、"死ぬのはガンに限る。但し治療はせずに。"と紹介してあった。

"死は苦でなく楽だった。""医療が穏かな死を邪魔している。" "出きるだけ手を尽くすは、出きるだけ苦しめる。"

"食べないから死ぬのではない。死に時が来たから食べないのだ。""ガンは完全に放置すれば痛まない。"

"ガンで死ぬんじゃない。ガンの治療で死ぬのだ。"

とにかく、"死ぬのは、ガンに限ると"いう表現はスゴイ。何故か、禅と繋がる思想も感じる。

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April 27, 2012

かなしみもみんなおぼしめし、宮沢賢治

雑誌「プレジデント」の最新号を開くと、思いがけず、宮沢賢治の言葉が載っていた。

「ただいちばんの幸いに至るために、いろいろのかなしみも、みんなおぼしめしです」

何故か、私は、最近、宮沢賢治に取り囲まれているように感じる。

銀河鉄道に乗っているのでもあろうかと想う。

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April 26, 2012

作務(作業)も、大切な修行、

"悲しみ"に"祈り"と"作務"で「解脱」へと導かれる"妙好人"の話を、時折想い出す。仏教を深く学んだ僧でなくても、普通の人でも、悟りへ導かれる例がある。それが"妙好人"と呼ばれる。

深い悲しみ・苦しみに遭遇した時、それが土台となって、強い祈りの心が湧き、それでも、やらねばならぬ作業(作務)がある。黙々と作業している内に、そんな時、悲しみ・祈り・作務が、入り混じって、エゴがドンドン、ドンドン薄くなって行く。

泣きながら、神に祈りながら、作業をする時、何時しか、新たな境地が醸成されて行く。

遂には、"自己の救済は望まず"との境地にまでも。 それは、もはや神の領域。

作務は好い、ただ黙々と掃除するも好い、農作業するも好い。作務も一つの大切な修行。 作務は解脱へのレシピ。

私は、連休前半3日間、伊豆天城の坐禅道場に、作務をしに行く予定。作務も安らぎへの道。

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April 25, 2012

"H2O"の粒が地球の中心へ、ロボット博士・森正弘先生の自在学

昨日、「頭の自遊自在学」(NHKプロモーション)と云う森正弘先生(ロボット博士)の著書を読んでいて、多くの心地好い驚きを発見した。

"自在学"を提唱されてる先生らしく、言葉をはずす練習に、雨を見ても雨と思わない。 「H2Oの粒が地球の真ん中へ移動している」と見る。これだけで、雨に関する自分の印象が自在に変わる。

先生はものを静止した状態ではなく、「流れ」でとらえる発想を提唱されている。例えば、健康と云えば西洋医学では"病気でないこと"、東洋医学では"病気にかかっていても、回復力さえあれば健康"と見る。東洋では「流れ」の中でとらえている。まさに諸行は無常なりの中でとらえている。

「離れて」ものを見ることの大切さを説いておられる。「離れる」と云う言葉の反対は「執着」。執着は認識を誤らせる。

「無」とは何も無いと云う訳ではない。持ってはいるんだけど、何でも入ると云う持ち方のこと。

哲学カフェで何回かお会いした先生が、こんな素晴らしい本も書いておられたとは、改めて驚いた。

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April 24, 2012

「飛び立つ鳥」からの気づき、「無我」を垣間見る、

禅の師と弟子の問答で、鳥を見て、鳥が飛び去った後、鳥「は何処へ行ったか?」と師が問う。弟子は、飛び去った方を指して、「あちらの方角へ飛び去りました。」と云う。

そこへ師の声が響く、「馬鹿者!」・・・・・、鳥は、「ここにおるではないか!」 ・・・・・。 そんな問答の話を、先日の哲学カフェで、横山紘一先生から聴いた。

確かに、心の中の映像に鳥はいる。自分が無我なら、自分はその鳥でもある。

私は、鳥を見ている人間でもあり、また飛び立った鳥でもある。共に私。視界から消えようがない。

「無我」は凄い。「自他一如」は凄い。永遠なる安らぎ。

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April 23, 2012

地元も旅、自宅も宿、銭湯の休日、

横浜は今日は雨、早朝のTVの音楽だけの番組のピアノの音。

昨日は、珍しく、毎日動き回る私が、食育関連の毎月の健康レポート作成に集中するため、自宅・地元に一日中留まった。そんな自宅・地元から動かない一日も、穏かな安らぎ、田舎の旅館にでも投宿したような気分にもなれることを発見した。そうだな、人生そのものが旅なのだから、自宅も宿。

健康レポートは昼頃までに完成した。それで、地元の銭湯に行ってみることにした。3時過ぎに銭湯へ行くと、大学時代に銭湯に行っていた生活を想い出した。浴室には、大好きな富士山の絵。天井には風呂桶の音が響く。浴室には、5人くらい入っていて、2人の刺青のおじさんに、ちょっとビビったが、銭湯にはよく見かけた光景。

帰りに、みさきマグロの魚屋さんで、いつもの鯵の開きの干物を買って、いつも、その店の大将の、キップのよさに、人間のエネルギーの手本のようなオーラを感じたり。火事から建て直しなった老舗の鰻屋さんに、おめでとうございますと声をかけ、鰻の蒲焼を買ったり、行きつけのJazz 喫茶でJazzを聴いたり。

夕方は、大好きなTV番組の"笑点"の大切り(17:40くらい)に間にあうように帰宅し、新しいギャグネタ情報を楽しんだ。そんな、一日も、十分、人生の旅の光景。

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April 22, 2012

生まれる前から始まっている、遺伝子の正体、

身体は遺伝子から生まれて来る。身体が先ではない。単純な真理。

遺伝子は、精神的経験・心的印象の総合計、即ちカルマのこと。

アヒルの子は、生まれてから、誰にも教わらずにも水に飛び込める。自分が気づかないだけで、全ては、生まれる前から始まっている。

肉体は滅しても、何億年かけて蓄積して来た印象・気分は滅しない。それが遺伝子。遺伝子の実体は、物質ではなく、精神的経験・心的印象であると、ビヴェーカナンダ師は見抜いていたことを、驚嘆しつつ住職から聴いた。

心は、特定の種類の身体にだけ適合しているので、その材料(身体)を得るまで待たねばならない。そして、特定の身体に宿る。そして、カルマとのつき合いの人生が始まる。カルマに翻弄されるのか、カルマから学ぶのか、それが、仏性を知る分れ道。

私は、心こそ、物質、即ち物的現象を現している根本であることを感し、衝撃が走った。心の修行の度合いが、全て、全ての世界を作り出していることを知った。

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April 21, 2012

"今を生きる"、それは気迫にも似て、

17日の横山紘一先生の哲学カフェで"死"について話し合った日の夜、マンダラ手帳の松村寧雄先生の事務所から、思い掛けなく、20日のセミナーの案内メールが来た。これも、まさに私の魂が引き寄せる縁かと思い、急遽、昨日午後半休を取り、参加してみることにした。

松村先生は、ビジネスの話が主であるにも関わらず、殆どの長い時間、仏教の話に時間を使う、仏教を深く学んだ、不思議な人である。 昨日は、仏陀の生涯の話を3時間くらい聴けた。

昨日、仏陀が、10大弟子の1人、マハーカッチャーナに云った教えを知った。

「過去を追うな。 未来を願うな。 過去は既に捨てられたものだ。 そして未来は未だ到来せず。

それ故、ただ現在のものを、それがあるところにおいて観察し、揺るぐことなく、動ずることなく、よく見極めて、実践せよ。 ただ今日なすべきことを、熱心になせ。」

"今を生きる"ことの深さ、永遠性が伝わる。今は、過去も未来も一つに包含している、因果一如の世界だと想う。

"今を生きる"とは、それは修行の気迫にも似ている。


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April 20, 2012

仏性に抱かれて、

昨日は、カリスマ会(ニューパラダイム研究会)で、作家の土居伸光さんの話を聴いた。奥さんをガンで亡くされた時の体験を書かれた「スマイル」を読んだ時の感動を想い出した。

その後の、「悪魔の宝もの」も読んだ。昨日は、最新作の、「光」と云う作品の話などを聴いた。何があっても、揺さぶられない4つのフィルターと云う副題。

その4つのフィルターとは、1蕃めは、「偶然はない」全ては必然で生じていると云うこと。2番めは、「未来の不安に生きない。今を生きる。」、3番めは、「被害者意識を持たない。」、4番めは、「自分の価値観をつかまない、囚われない。」であった。

即ち、それは、仏性だと、私はすぐ直感した。色々な道から、仏性を垣間見て、到達する道があることを想った。

2002年夏、私が会社を辞め、工学院大学の起業家セミナーに出た縁で、カリスマ会を知り、それが、講師として見えた住職との縁、禅との縁に繋がった。土居さんも、当時、起業家セミナーの講師だった。マンダラ手帳考案者の松村寧雄先生も、このカリスマ会の講演者だった。

私は、起業家セミナーに出ていながら、それは、全く予期せぬ、仏性を知る縁となった。これは、導かれている縁と云うものであろうか。

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April 19, 2012

A Cup of 幸せ、

昨日は、一昨日の終電・深夜帰宅を補うように、早目に帰宅して、早目に就寝した。お酒も飲まず休肝日とした。何事も、ほどほどに、極端は極端な結果を招く因果の法則、それが宇宙の理なのだから。

先日昼休み、会社の近く、虎ノ門界隈を歩いていたら、ある喫茶店の窓ガラスに、A Cup of Happiness と書いてあって、私の心の受信機が、ビビッと反応した。

一杯のコーヒー、お茶のように、"さらっと、日常のちっちゃな幸せ"。

煩悩を解放した、巨大な欲は、時に人間を、津波のようにさらってしまう。小さな波(欲)なら、波に飲み込まれることは無い。砂浜の波を可愛いとさえ想う。

それが、"A Cup of 幸せ"の意味するところ。

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April 18, 2012

新宿・哲学カフェで終電帰宅、それも精神の青春、

昨日は、終業後、新宿で毎月開催されている横山紘一先生の哲学カフェに出掛けた。昨日のテーマは「死」について。

顔馴染みの方々も多く、夫々の方々の生死観を聴くのも、刺激であった。

有機物と無機物の差は、炭素があるか無いか。生と死は同居していて、生と死のパーセントの問題ではないか。死とは、生まれる前に返ること、即ち、虚空世界に返ること。など、印象的な言葉も聴けた。

通常、私は、会の後、懇親会には出ず帰宅するが、昨日は、横山先生と話がしたくなり、新宿で11時まで飲んでしまった。先生の精神のエネルギーは凄い。まるで、青春時代のような精神のエネルギーの勢いがある。

最近、「くじけない心をつくる禅の言葉」(日本文芸社)と云う本を出された田中治郎さんも見えていて懇親会で歓談した。 そばに座られた横山先生の友人の方が、「苦しみは、能力」とか、何気なく語られた言葉に、深い示唆を感じたり、私の心の受信機は絶好調であった。

帰りの電車で不図、寝込んで、結局、終電で帰宅することになり、我ながら、またやったかと苦笑したが、それも"精神の青春"の故かとも思った。 全ては、心地よい仏縁であった。

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April 17, 2012

感動の俳句、短歌、

昨日、俳句、短歌の本を読んでいて、心に沁みる歌があった。

「船の名の、月に読まるる港かな」、日野草城。 港で月灯りの元、停泊中の船の名を見る。

「雪国や、はつはつはつと時計生き」、森澄雄。 静寂に時計の音だけのひととき。

「ああ皐月、 フランスの野は火の色す、君もコクリコ、我もコクリコ」、与謝野晶子。全てが祝福の存在。

「信濃なる、千曲の川のさざれ石も、君し踏みてば、玉と拾はむ」、万葉集・東歌。心は、単なる小石も宝石に変える。

歌は、人生を深くする。一日が輝く。

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April 16, 2012

ジャラン、ジャラン、鎌倉流鏑馬(やぶさめ)、

インドネシア語でジャラン・ジャランとは、"旅"と云う意味だと聞いた。ジャランとは"歩く"と云う意味で、ジャラン・ジャランで旅行と云う意味になると云うのも童話的で愉しい。これで、旅行雑誌のジャランジャランの意味がわかった。

昨日は、インドネシアから政府間の研修制度で留学・来日中のインドネシアの若い女子大生のような官僚2人に流鏑馬を紹介する機会があり、大変愉しい鎌倉の一日となった。以前、港区国際交流イヴェントで谷中を一緒に散策した時に、鎌倉・鶴岡八幡の流鏑馬の情報を紹介したら、昨日見に来て、現地で、私に連絡してくれた。

流鏑馬自体は一緒に見れなかったが、流鏑馬の後、一緒にお好み屋さんへ行って、食事しながら、インドネシア語など教えて貰いながら愉しく歓談した。そのインドネシアからの留学生達は、近くに座った、日本人のお母さんと娘さんとも、仲良くなって、お互いに連絡先を交換するほど盛り上がっていた。お好み焼きとそっくりの食物がインドネシアにもあって、マルタバと云うらしい。マルハバならアラビア語でウェルカム(ようこそ)だから、似ててみんなで笑った。

私にとっても初めて見る流鏑馬の迫力、疾走する馬から弓を射る、その勇壮さ、かっこ好さに息をのんだ。武田流の馬術の射手さん達は、黒澤明監督の映画にも出て、世界にその馬術の凄さを見せた方々らしい。

13:00からの流鏑馬開始だったのに、練習を見るのも好い機会と、友人に聞いていたので、私は、もう朝10:00前から、馬場のそばの見物場所を確保して、射手の馬慣らしを見ながら、時間を待った。朝から、場所取りの人達が沢山来て、さながら、花見の場所取りのように、早い時間からシーとで埋まって行った。

遠くは中国の孔子の時代に起源を発し、日本では6世紀頃、九州・宇佐神宮から、五穀豊穣を祈願する神事として始まった流鏑馬。遠い昔の日本の文化を感じながら、鎌倉を味わった。流鏑馬にジャラン・ジャランの一日だった。

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April 15, 2012

宮沢賢治展、オスマントルコ歴史、武器よ去らば、ジャズ、

今朝の太陽は、何故か、最初にアブダビに赴任した時の朝のような新鮮な気持で眺めた。早朝からウグイスの声が、瑞々しい。

昨日は、私の、マグロ回遊型行動の真骨頂が表れたかも知れない。部屋の模様変えのように、会社生活の日常を、別次元に、切り替えるような行動。

朝、横浜そごうで開催中の宮沢賢治展に出掛けた。37歳で病死した宮沢賢治は、若くして"仏性"に気づいた童話作家だったんだなーと、改めて、そのメルヘンの世界に浸った。「雨にもまけず」の詩は、死後、手帳に書いてあるのが見つかったと云うのが、益々、その生き方の、内面の叫びが伝わる。住職も、人間の持つ仏性を説かれるとき、よく賢治の詩を引用される。

昼は、代々木上原の東京ジャーミー(イスラム寺院)で開催された、オスマントルコ史の講演(東大・鈴木薫教授)を聴いた。世界史では、そんなに目立たない教え方をされたが、実は、600年も続いた大帝国・オスマントルコについて、新たな視点を教えて貰った。アラブ駐在時代に一度だけ訪れたイスタンブールを想い出しながら、日頃、欧米中心の歴史観に偏って来たことを想った。

その後、夕方、神奈川・神大寺地区センターで、ヘミングウェーの"武器よ去らば"(1932年・ゲーリー・クーパー)の映画を鑑賞した。第一次世界大戦のイタリアを舞台にしたロマンと悲劇。80年も昔の映画も、何だか、母も見たのではないかと、想いながら、銀幕の世界に浸った。

最後は、地元白楽で、ジャズライブ、ミステイーの名演奏で有名なピアノの山本剛さんトリオ。昨日も、カウンターの中まで、立ち見席になるほどの満席だった。、大好きなジャズを聴きながら、私の、小さな驚きの日を締めくくった。

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April 14, 2012

桜が、「また来てね、わたし頑張ってるから」と告げていた、

小田原・山北の桜祭りは、4/1~4/14で、昨日はやはり、私にとって今年の桜の最後の鑑賞の機会となった。年休を取り、前日から妹の家に泊まり、山北へ出掛けた。

御殿場線の線路を下に見る、両サイドの丘の上の小路に咲き誇る桜並木を見ながら、妹と、妹の家の近所の方と歩いた。

山北町健康福祉センターの中の喫茶店は、ともしびショップ「さくら」と云う名前で、知的障害のある人なども働いていた。「ともしび」と云う名前の、福祉関連の同じ喫茶店は、横浜でも、何ヶ所か入ったことがあり、同じように経営されているのだろうと思った。

我々は、レモンスカッシュやコーヒーを注文して、障害のある女の子が運んで来てくれた。何とあり難いことかと、胸が熱くなった。

帰りぎわに、その女の子が、「また来て下さい。わたし、頑張ってるからね」と云った時、もう心の中では涙がどっと出る想いだった。

外は、桜祭り、山々の緑の斜面にも、菜の花の鮮やかな黄色が色を添え輝いて見えた。

散り始めた桜達も、「また来て下さい。わたし、頑張ってるからね」と云ってるようで、ともしびショップの女の子の声を、何度も想い出した。

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April 13, 2012

桜吹雪、桜の花びらで埋まる水面、桜への送別の辞、

東京の桜の送別の時期が近付いた。今期の私の最後の観桜は、妹と、小田原・山北の桜を見る予定。

通勤途上の道で見る桜、電車の中から見える桜、至るところに桜一色になる日本の光景。

桜が、もし、火の手だと考えると、圧倒的な火の手に、「もうダメだ」と観念する。

桜が、もし、祝福だとすると、圧倒的な祝福に、「もう不幸にはなれない」と想う。

桜吹雪に心奪われ、川の水面に一杯敷き詰められ流れ行く桜の花びらに、どれだけお礼を言いたいことか。

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April 12, 2012

"大死一番"、神の領域、

もう自分を死んだ人と想像すれば、別世界が広がる感じがする。

ただこの世を見れば好い。喜びも悲しみも、そのものが宇宙なのだから。

虚空世界から、その光景を、愛おしく見るだけの存在。

自分が個として存在していなく、自分が宇宙になっているようなもの。

それが、"大死一番"ではないのかと想像する。

禅で、「生きてもいない、死んでもいない」境地と云うが、何と惹かれる境地であることかと想う。

「生ぜず、滅せず」、永遠にして安らいでいる世界。

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April 11, 2012

10円玉の輝き、どんな大金よりも、

最近インターネットの記事で、"命をつないだ10円玉"の話に、心が揺さぶられた。「虐待を越えてタエコの40年」とか手記を書かれている島田妙子さんの兄妹の話が載っていた。小学2年~中学2年まで、義母と父から、一つ違いの兄と共に、虐待を受けて、恩師に助けられた話であった。

中学の担任の先生が、身体の傷から、虐待に気づき、「もうあかんと思ったら、電話してくるんやで、」と云って渡してくれた10円玉が10枚。

パチンコにはまっていた義母が家の金40万円持ち出し、父と口論になった時、自分に罪を擦り付けて、遂にその日がやって来た。家を飛び出し、先生の家の方角を目指していたと云う。先生に教えて貰った電話番号に電話した時、辺りは真っ暗だったと云う。「もしもし」と言ったっきり言葉が出ない。「今、どこや」と勢い込む先生。その日は、先生の家に泊めて貰い、フカフカのベッドに「お嬢様」になったような気持になりながら、寝付けなかったと云う。

それから、児童相談所へ行き、虐待の生活とは決別したと云う。中学卒業後、工場勤務を経て、22歳で結婚、今では、映像製作会社の社長をしていると云う島田妙子さん。

一緒に虐待されていたお兄さんと一緒に家出して、二人ですすったインスタントラーメンの想い出。お兄さんはその後、白血病で亡くなられた時、妹へと手紙が見つかったと云う。「全然兄貴らしいことしてやれなくゴメンよ。妙子には、本当にいつもパワーを貰いました。妹やけど、お前のこと、心から尊敬しています。今までありがとう」と書いてあったと云う。

色んなことが織り成す人生模様と、感動の輝き。ちっぽけな10円玉は、その象徴のように想う。以前聴いたことがある。お母さんと逢いたい子供にとって、500円や1000円札より、公衆電話からお母さんに電話出来る10円玉が、どれだけ価値があるか。その子供の気持が、私は痛い程わかる。10円玉には、優しさが一杯詰っている。そして、お金の価値を、逆転させてくれる魔法ももっている10円玉。

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April 10, 2012

アラブ産のワイン、モロッコのワインに遭遇、

先日、アラブ大使夫人の会主催のアラブ・チャリテイー・バザーで、モロッコ産のワインが販売されていて、大変驚いた。

サウジアラビアの店舗の横にモロッコの店舗があり、あのアルコールを厳罰に処すサウジの真横で、堂々とアルコールを販売している光景に、全く、想定外の奇異な光景に、頭の中が混乱した。

アラブでは、酒と豚は原則禁止と理解していた私には、衝撃的な現実の光景であった。

珍しさの余り、買った赤ワインのラベルには、アルコール度12%、原産国モロッコと確かに書いてある。"Zniber"と云う名前の赤ワイン750ミリリットル、1500円。これは、記念になると想った。

モロッコは、スペインと地中海を隔てたすぐそばの国、"日の没する地の果ての国"の国と云う意味らしい。何かエキゾチックな漂いのある国。映画の名作"カサブランカ"の場所。

新しい知的な好奇心を刺激されたことと、買ったワインを、いつ、どう飲むか、ちょっとした楽しみが増えた出来事だった。

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April 09, 2012

銀河鉄道の夜、釈迦生誕祭、

昨日は、4月8日はお釈迦様が生まれた日。東京は桜が満開の真只中の"ピンクの世界"の日、釈迦生誕祭(愛宕・青松寺・観音聖堂)で、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」の音楽劇を観る縁に触れた。

布・糸・ビーズやクリスタルで織り成す宇宙に、幻想的に天へ向って弧をなすように走る汽車。東京では、夜、飯田橋の運河沿いを走る中央線を、運河に浮かぶ喫茶店から観ると、ちょっと、銀河鉄道のようにも見えたことも想い出した。

宮沢賢治は、人間の持つ、心の中の宝石を謳い上げている。人間の心の洞窟の奥に眠る自己犠牲と云う名の宝石。仏性は、自己犠牲。それは永遠。宇宙の真理。

住職は云う、人間の苦しみのもとは、変化するものに執着するからだと。ただ、人間が執着していいものが一つだけある。それは、真理、宇宙の法則、仏と呼んでも、神と呼んでもよいもの。その本質は、自己犠牲なのだと。

昨日は、銀河鉄道の音楽劇の鑑賞の日に、住職ともお会いできた。外は桜が満開だった。釈迦生誕祭の日の光に包まれる。

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April 08, 2012

何宗でも好し、易行道、難行道、

祈りの道は、易行道(いぎょうどう)と云って、神の前に、エゴを捨て易いが、冷静さを欠き、他の神との戦いを起し易い難点があると云う。究極的には、一神教の神も、私になり、そして一切が神であること行きつけば、祈りの道も好し。ゆっくりと少しづつ山に登って行くようなプロセスだと云う。

禅の道は、難行道(なんぎょうどう)と云って、急な坂道を一気にかけ上がる困難な道であると云う。自分一人の救済は許さない道だと云う。"大死一番"の道。

行きつくところは同じ。

住職は、曹洞でも、臨済でも、仏教徒でなくても好し、ヒンドウーでも好し、キリスト教でも好し、イスラム教でも好し、とおっしゃる。大海(神・仏・真理)がわかれば、どの道からでも好しと。

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April 07, 2012

"桜の乱"、武蔵の国に広がる、

東京では、ぱっと、一気に桜が開花した。電車からも桜が見え、桜の街路樹を歩いて通勤。昼休みも、街では、携帯で、桜の写真を撮る人も多い。

目黒川にも、愛宕神社にも、増上寺にも、芝公園にも、サクラ、サクラ。燎原の火の如く、一気に、サクラの乱が、武蔵の国に広がった。

昨日は、関係の会社の方々の、夜の野外の観桜会に招待して貰った。芝公園内の丸山古墳辺りの丘の上。多くのサラリーマン・OL達が、夜桜の下、懇親会を楽しんでいた。沢山のシートが敷きつめられて、約10名、輪になって、野外の桜の宴を愉しんだ。九州の実家の町内会で、裏山の不動尊の前で、夜サクラの宴会を、大人達が愉しんでいた情景を想い出した。

薄いピンクのサクラの花びらに敷きつめられたような空を見上げて、日本酒。私は、得意のギャグも絶好調だった。

これから、数日、私は、サクラの乱に心乱されるが、その鎮圧される様まで見届けようと想う。

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April 06, 2012

機内はサハラ砂漠以上の乾燥、1時間80CCの水分蒸発、

旅行医学の本を見ていたら、驚いた。

飛行機の機内は湿度が5%~15%と極めて低い状態で、サハラ砂漠よりも乾燥した過酷な状態であると云う。

1時間に80CCの水分が蒸発して行く(不感蒸散)、5時間のフライトで400CC、10時間なら800CCも。

湿度が50%を下まわると、風邪などのウイルスが活性化して、機内では、風邪がすぐ移ってしまう環境だと云う。

機内の気圧は、0.8気圧。これは、海抜2500メートルの山(富士山の5合目)と同じ。心臓や肺機能に負担が大きいと云う。

身近な人でも、海外旅行中で、体調を崩してしまう人が多い理由がわかる。

海外出張、海外旅行もそんな過酷な環境だったことに、改めて驚いた。

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April 05, 2012

仏像の前でブツブツ?

昨日、昼休み、書店でパラっとめくった本に、面白いことが書いてあって、思わずメモした。

斉藤茂太著(ロング新書)、"生きるのが楽になる魔法の言葉66"と云う表題の本で、「仏像の前でブツブツ自分のことをつぶやいてみると、自分の小ささがわかる」と書いてあった。

人が、仏像の前で、独り言を、あれこれ、つぶやいてている光景を思い浮かべると、つい笑ってしまった。

確かに、面白そう。

もう一つは、「自分に手紙を書いて、実際に封筒に入れ、切手を貼って、郵便ポストに投函して、郵便を受け取って読んでみる。」と云うことを書いてあった。

これも、実際やるのは、バカバカしくて、と思うが、やってみたら、凄い境地を発見するかも知れない。

ちょっと、バカバカしいが、心惹かれる提案でもあると思う。


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April 04, 2012

地球の洗濯、大嵐後の快晴、諸行は無常なり、

昨日昼、夜の暴風雨懸念から、東京都も企業に早期退社を勧告し、多くの会社が早期退社を実施していることを知った。早速、アラブ人代表に話し、会社を早目に終わるように進言して、オフィスのスタッフは皆、16:00頃退社した。お陰さまで、東横線がまだ動いている間に、スムーズに家まで辿りつけた。

家に帰ってから、大急ぎで、家の雨戸を閉めて、全ての部屋の雨戸が閉まっている確認をして、自分の部屋に篭った。ちょっとした、冬眠にでも入る気持。

雨戸を叩く雨とすさましい風の音に、自然の凄さ、自然の様々な形態のことを想った。嵐は時々来る。台風も、地震も、穏かな小春日よりもある。 まるで、人生も同じだと苦笑したくなる。

子供の頃は、嵐の時、外の雨風を観察したりするのも珍しくって、愉しかった。雨上がりの、赤茶けた粘土の露出した裏山の山道で、指で粘土を掘ったり、愉しかった。

ただ待てば、場面は変わる。諸行は無常なり。嵐の時こそ、諸行は無常なりと云って嵐を見送れば好い。

台風にも、「今度、何時来るの?」とか冷やかしてもいいくらい。台風は、病気を媒介する蚊の発生を抑えてくれるそうだから、たまに来て貰わないと困る。台風も地球の洗濯くらいに思えば好い。今度、台風が来たら、お茶でも出してやればいい。

自然の手の内は、大体わかっているのだから。今日は快晴。

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April 03, 2012

命綱に助けられ、人生は曲芸、

何かが欠けていると思うからこそ行動が生まれる。苦しみは、行動のエネルギー。

そして、行動は、時に危険を伴う。振り返れば、私は、何度も落下し、命綱にぶら下がって生きて来たように思う。

人生は、曲芸のようにも感じる。

命綱は、両親だったり、姉妹だったり、恩師だったりする。

そして、今は、孫悟空のように、飛んでも飛んでも、仏さまの手の平の上。

もう、命綱なしでも、空中ブランコや綱渡りも出来るような気もする。

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April 02, 2012

新たな自分への入学式、朝日が祝う、桜が祝う、

今日から新学期。学生でもないのに、そんな気持で鮮やかなオレンジ色に輝く朝日を見た。

桜の舞う季節の入学式。丸っきり新しいことが、始まるような、そんな気持になれる。

夕日は西の空に沈み、また朝になると、東の空に顔を出し昇る。まるで、「いないいない、バー」と、人間をからかうように。

今まで、学んで来たことは夕日の中で卒業式。これから学んで行くことは、朝日の中で入学式。

桜は、卒業式も、入学式も、ピンクで飾ってくれる。

大自然の、茶目っ気一杯の優しさを感じて、私も、今日は、新たな自分への入学式。

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April 01, 2012

禅とキリスト教の出会い、世田谷・龍運寺(東京禅センター)

昨日、午前中は、鎌倉散策の行事が中止となり、白楽商店街の模擬店フェステイバルに顔を出した。商店街に縁のある若い女性達か、何と小雨の中、フラダンスを披露してくれた。常磐ハワイアンセンターの映画を想い出し、商店街を盛り上げようと、頑張ってる女の子達の姿にジーンと来た。

午後は、本格的に降り始めた雨の中、世田谷の龍運寺の講演を聴きに出掛けた。立教大学・文学部・キリスト教学科・教授の佐藤研(みがく)先生の話は、凄かった。長いキリスト教人生の果てに、禅の目指す頂きと、同じような境地になっておられることが、言葉の端々にすぐわかった。

住職がよく云っておられる言葉を、現実に体現されてる人を見る想いだった。宗教は便法として、入り口として必要だが、誰しも、最後に、その神をも、捨てねばならぬことが難しいと、よく住職から聴いていた。

禅の持つ、すさましい、見事な、神秘的な静寂は、人間の観念構築物を越えている。

講演の後、偶然会場で、久しぶりに会った友人(アブダビ勤務時代の友人)など6人で、喫茶店に入り、禅を語り合った。東京禅センターとの縁で、また私の世界も拡がる。

今日から4月、外に鶯が鳴く声が清々しい。

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