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January 10, 2012

命日と云う緊張の日の存在、

人は、自分の命日を知らず、意識せずに生きていることが不思議に思う。

誕生日は十分意識して生きて来て、命日は、死ぬまで知らずに生きるのは、何か中途半端で、落ちつかない気もする。身体の寿命の完結する日としての命日。何か完結する日が決まってスッキリするような気がする。

毎年、自分の命日であろう日を知らずに、意識せずに、淡々と平凡に過ごし、その日を素通りさせてしまう、その大胆不敵さ、無神経振りにも驚く。

その誕生日も、命日も、それを眺めているもう一人の自分もいるような感じもする。身体と云う"波"が、"大海"と云う仏性(宇宙意思)に返る日が命日かと思えば、確かに、淡々と返れば、それで好しとも思う。

自然の理、バイオリズムでは、人は、誕生日の半年後くらいが命日になることが多いと云う。私の場合は、年末が誕生日だから、私の命日は、夏頃かと、ふふーんと夏の情景を想像する。

自分の命日を想像して、生きることは、人生の充実には大切なことだとも思う。

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