恩人の死を知らなかった自分の情けなさ、満洲への旅の想い出
12月5日、東北から横浜の自宅へ帰ると、国際貿易促進協会・中田慶雄先生の息子さんから喪中の挨拶状が届いていた。5月1日、脳腫瘍で逝去されていた(享年80歳)ことを知った。
最近、ご病気されてから、私は、見舞いにも行かず、年賀状で挨拶する程度しか、近況を知らなかったことを恥じ、悔いて、情け無かった。あんなに、恩のある方だったのに、と想い出が脳裏をよぎり、自分を責める気持と、別離の悲しみがドッと湧いて来た。
先生御自身が昭和20年、終戦の年に、14歳で満洲開拓団・少年義勇隊に行かれ、満洲引き揚げの悲惨さを体験された方だったからこそ、私を、満洲に案内して下さったのだと思う。インターネットで調べたら、5月13日、人民日報も、中田先生の死を悼み、訃報を伝えたとあった。日中交流一筋50年の、信念の人、そして、父親のように優しい人だった。
頻繁に行かれる中田先生の中国への経済ミッションに、ただ満洲の父母が住んだ場所を訪ねたい私を、特別に加えて頂き、2004年に大連近くの鳳城、2007年にハルピンへ連れて行って下さった。中田先生のおかげで、私は念願の、父の住んだ鳳城を見れ、母の住んだハルピンにも行けた。
中田先生は、「瑞雪」(ずいせつ)と云う本も書かれていた。"瑞(ずい)"とは、喜びの意味とのことだった。満洲から艱難辛苦の後、引き揚げて来られた後の、日本の雪が、ただ、喜びの雪だったことだろうと、私は、人生を表す感動の言葉だと感じた。私は、この本を沢山買って、姉、妹、弟にも配った。
満洲引き揚げ者の九州の姉と、一昨日も昨日も電話で、中田先生の死を悼んだ。姉は、一度お会いしたかったと悔やんだ。人民日報も、その死を悼み、伝えるほどの大人物だった方が、私の満洲訪問を手助けして下さったのだ。人生には、うっかりしていると、きちっと、お礼の挨拶もしないまま、逝ってしまわれる恩人の方もいる。今朝もしげしげと、インターネットに出ていた中田先生の写真を見る。
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