全ては"生きている証拠"、そして「さて、死ぬか」の境地、
昨日は、午前中、在家仏教協会の講演会(大手町)で、横山紘一先生の講演を聴いた。ビジネスばかりのイメージの大手町のビルの会議室で、仏法の話が聴けるとは、これも、私が導かれた縁であったのかと想う。
「雨が降っても、風が吹いても、この嬉しさよ」、生命への讃歌を聴いた。寒くても、暑くても、それは"生きている証拠"。
私の母親は子供達が、どこが痛い、ここが痛い、と云うと、すぐ余裕しゃくしゃくとして、”生きとる証拠たい”と云って、子供達をキョトーンと驚かせていた。「全ては、”生きている証拠”」と思う哲学は、ここで、再び横山先生の講義の中で出会うとはと、母は何も大した学問はしていなかったのに、素晴らしい哲学だったのだと思った。
それから、昨日の横山先生の講演で、「さて、死ぬか」と云う境地も、紹介して頂いた。「さて、」と云う、力の抜けた、境地で死を見る。これは、好い。その境地は、また、すごいと思う。 ただ、淡々と、我から遠ざかる。これが修行。「さて、死ぬか」と云う境地は、自己が宇宙一杯に溶け込んでいる。
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