誰かの誕生日も、誰かの命日でもある。喜びと哀しみの同居。
誰かの誕生日の日も、誰かの命日でもある。誰かの命日も、誰かの誕生日でもある。喜びと哀しみの同居。
私が持つことは、誰かが持たないこと。私が持たないことは、誰かが持つこと。私が譲ってあげれば好いと思う。
私が、苦しい時、誰かが救われているなら、それで好いではないかと思う。苦しみ甲斐があるとさえ思う。
そんな気持が芽生えて来たのは、ごく最近のことのように思う。
九州への帰省の時、弟が実家にあった古い写真を見せてくれた。私が6歳の時の写真、私が22歳の時の写真。共に、別人のようであった。心の中は、確かに別人だったと思う。人生が、世界が確かに自分中心であった時代。
しげしげと、セピア色の、昔の私の写真を眺める。
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