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July 31, 2011

学びたい、運命を変える為に、84歳の小学生、「おじいさんと草原の小学校」

昨日、岩波ホールへ、映画「おじいさんと草原の小学校」を見に出掛けた。

50年前、ケニア独立戦争の戦士として英国と戦い、愛する妻子を目の前で殺され、強制収容所で拷問にもかけられた、癒されぬ人生の苦痛、それでも、過去に打ち克ち、未来を変える為に学びたいと思う84歳の老人、マルゲ。

マルゲ老人の優しい表情、そして彼は叫ぶ、「私にとって自由とは、学校へ行き学ぶこと、もっと学びたい」「土に埋められるまで、学ぶさ」と。

どんな時にも、覚悟と決意をもって行動する姿、過去は乗越えられる。いくつになっても私の主人公は自分。そして運命を変える。

この映画との出会いも仏縁。こんなこと教えてくれる映画があったのだ。私は、母と再会したような気がした。


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July 30, 2011

ギャグと手品、そうだ手品も素晴らしい

昨日夜、平河町の海運ビルでの海事関係者(石油海事協会)のReceptionに出席した。懐かしい友人・知人との再会もあった。私が、若い頃、ギャグばっかり云って笑わせ(苦しめ)ていた商社の友人にも再会。

咄嗟にまた、私の最新作のギャグを浴びせかけた。懐かしく、苦笑しながら、「もう、お願いしますよ」と云う感じ。新しい名刺を貰ったし、連絡先がわかったから、今度、日を改めて、またギャグ攻撃か、と愉しくなる。

Receptionでは、海事協会のOGの方が、自分で習得した手品を披露して下さった。通信教育で手品を学ばれたとおっしゃるが、腕はすごい。時折、色々な施設などにも慰問に行かれるとのこと。

私も、手品を少しづつ覚えたい。驚きを与えることでは、ギャグも手品も同じ。人が、びっくりして笑う反応は、人生の私の楽しみ。

ちっちゃい子供達が手品を見て、目を真ん丸くする表情は、もう何とも云えない。

口をポッカリ開けて、"えーーーー""何だこりゃ・・・・"、"あららら・・・・"、とか、驚きの余り、その場で、グルグル回ってみたり、人間は何と可愛いことかと、うっとりしてしまう。

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July 29, 2011

日常への驚き、社会への驚き、自分への驚き

昨日朝、古いNECのデスクトップ・パソコンを廃棄する為、郵便局に持ち込んだ。NECからに指示書にポリ袋・ビニイル袋に入れて最寄の郵便局に持ち込むように指示があり。デスプレイや、本体を、ゴミ出しの半透明のビニイル袋を二重にして入れて、重たい荷物だが、汗だくで、通勤途上に駅付近の郵便局へ向かった。

それは大変で、駅までの距離を長く感じたこと。郵便局まで、後100メートルくらいでタクシーが通り掛ったので、タクシーに乗車、そして無事郵便局へ搬入。100メートルの距離でもタクシーに乗ったことが、可笑しくて、こんなことも人生にはあるんだと驚いた。パソコンをゴミ出し袋に入れる、メーカーからの指示にも、えっと驚いた。まだまだ社会には、驚くことが多いのだなと関心した。

先日、神谷町近くの居酒屋レストランでの昼食の時、ご飯のお代わり(有料)をしたら、店の主人が、勘定の時、私を、いまどきご飯のお代わりをするビジネスマンは珍しいと、賞賛してくれて、タダ(無料)にしてくれた。ご飯をお代わりして賞賛されるとは、これも小さな驚きだった。

昨日は、アラビア語講座クラスの懇親会で盛り上がり、東急線・終電で帰宅。終電でまで飲む自分にも驚き、終電の駅の光景も可笑しかった。

人生は、まだまだ、驚きに満ちて、可笑しいと想う。子供時代のような目で社会を見るのも愉しい。

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July 28, 2011

人生は、勘違い劇場

時折、世の中で起こる色々な事件に、様々な驚きを感じるが、それは世の中で水面化で起きてる色々な勘違いが氷山の一角のように、時々水面上に顔を出すだけ。

中国の新幹線関係者の頭の中はまだ封建時代のようだったのか、ノルウェーのテロの青年はイスラムを悪魔のように見ていたのだろうか。その悲劇には唖然とする。

管総理大臣も、自分の指導力の無さ、人徳の無さを見る機能が自分には無い。正に勘違い。

彼らは、極端な例として、世の中に現れているが、大なり小なり人間は、世間は、皆それぞれの勘違いの中に生きているのかも知れない。人生は、自分の偏った五感のカルマに翻弄される、「群盲索象」の映像かとも思う。

先日のTVの娯楽番組で、芸能人の男性離婚体験者が別れた奥さんに、「勘違い野郎」と罵られ、キョトーンとして今でも、その意味がわからないと云っていた。その時、TVの会場は爆笑。私も噴出してしまった。

小さな勘違い、大きな勘違い、中くらいの勘違い。様々な勘違いの中に生きてる自分も、滑稽に感じたり、すごいと感じたり。

「人生は、(微妙なバランスの技術の要る)綱渡りの芸なり」などとも云えるかも知れない。

人生は、勘違い劇場。 人生は勘違い芸術か。

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July 27, 2011

哀しみのもたらす強さ、

気功など自然治癒力で有名な帯津良一先生のことを書いてある本の中に、心に残る記述があった。

「検査の結果が悪ければ、ガン患者の明るく前向きな心はもろくも崩れ去る。人間は前向きには出来ていない。人間とは、生と死の狭間を一人歩み続ける哀しい存在なんです。だから、哀しい心こそは、下が無いだけに、磐石な強さがあるんです。」

「死を受け入れ、死の哀しみを立脚点として、そこから生の耀きを見詰め直す。」

これが、帯津三敬病院の治療の指標になったと云う。

"哀しみの強さ"か・・・・・・。 哀しみのもたらす力強さを、改めて感じる。

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July 26, 2011

山下泰裕選手、ラシュワン選手、柔らの「道」

先日、柔道の山下泰裕さん(1984年ロサンゼルス五輪優勝)の講演を、鎌倉円覚寺で聴いた。

中学生時代の柔道の恩師が教えてくれたことに、彼の柔らの道の原点がある。「試合で勝つ為の柔道ではダメだ」、「柔道着を脱いでからの人生は長い、人生のチャンピオンになれるような練習をしろ」。

五輪で、決勝戦の相手は、エジプトの巨漢・ラシュワン選手。足を痛めた山下選手にまさかの敗退。勝てば、エジプトの五輪史上で初の金メダルであったと云う。

試合後、ラシュワン選手は、何故、山下選手の痛めた足を攻めなかったのかと、問われて、「私は、アラブ人です。」と答えたと云う。アラブにはプライドがありますと。痛めた足を攻めて、勝つことは、ラシュワン選手の「柔らで学んだ道」には相い入れなかったのである。

「道」とはすごい。改めて絶句した。

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July 25, 2011

70年前の我が家を訪ねる映画、「旅順・大連」

昨日、神田・岩波ホールへ、映画・「遥かなるふるさと、旅順・大連」を見に出掛けた。

記録映画作家の羽田澄子さん(83)が、戦後65年を経て、やっと子供時代に過ごした旅順・大連を2010年6月に訪問された時の記録であった。

幸せな時代の家族4人の生活の想い出の地でもある、旅順・大連の街は、すっかり近代化して変わっていたが、小学校や中学校の建物はまだ残り、郊外の当時過ごした家もそのままに残っていた。今住んでらっしゃる中国人の方に許可して貰って、昔過ごした、家の部屋を一つ一つみて回る時の万感の想い・・・・・・。大切に使って貰って来た中国の方々への感謝。再び、我が家と再会できた喜びの数々。

両親も妹も、もう既に亡くなっていて、家族の想い出が一杯詰ったこの地を、再び訪れたのは、羽田澄子さんだけ。

私も、2002年に一旦希望退職で会社を辞めてから、時間の余裕ができ、父の住んだ満洲・鳳城、母の住んだハルピンを訪れた。私は戦後生まれで、両親が生きてる時には、満洲のことは、殆ど関心もなかった私が、何故か、満洲に行ってみたくなった。満洲への旅は、私の人生へ沢山の示唆を与えてくれた。私の人生で、どうしてもやらなければならない旅であった。

羽田澄子さんの旅は、私自身の人生の旅のような気持で、眺めた。「遥かなるふるさと」、人生、至るところに、平凡な日常にも、遥かなるふるさとが生まれている。

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July 24, 2011

一輪の花の仏性、明恵上人

今朝は、昨日・一昨日と参加した円覚寺・夏季講座での横田老師の法話のメモを読み返す。

「花は散った後の哀しみはない。ただ一途に咲いた喜びが残るのだ」

鎌倉時代の名僧・明恵上人は、道端の一輪の花に、涙されていたエピソードを聴いた。

「誰が、この花をこのように染めたのだ、誰がこの花をここに咲かせたのだ。測り知れない仏縁。仏様がここにおられるではないか。これがどうして、合掌せずにおられようか。どうして、涙せずにおられようか。」と、一輪の花の前で、立ちつくされていたとのエピソードを聴いた。

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July 23, 2011

陸軍参謀本部の場所、鹿鳴館の場所の刺激

知ることは、世界観を一変させる。

最近、所沢雑学大学で、元兵士の方の講演を聴いて、陸軍参謀本部が、現在の国立劇場の前当たりにあったことを知った。

保管していた、日経新聞の記事を見て、鹿鳴館が、現在の日比谷・大和生命ビルにあったことを最近知った。

日頃、気づかずに通り過ごしている見慣れた場所も、そのような歴史を知ったら、私が見ていた世界は、一変する。

私の人生のシーンが、映画のシーンのように大切なシーンのように見えて来る。

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July 22, 2011

「生きてきちゃった人生」、

昨日夜は、ニューパラダイム研究会(カリスマ会)で、全く面白い方の講演を聴いた。

名刺には、S32年・東大柔道部卒、つでに経済学部卒、あだ名は次郎長と、人を食ったようなユーモアたっぷりの名刺に驚いた。

仕事では、三こう(炭鉱・鉄鋼・出向)を体験したとの自己紹介。

「生きてきちゃった人生」、「できちゃった人生」とかは送りたくない。との表現に、思わず噴出した。

年とったら、仕事から解放されて楽してばかりしてると呆けて、養老院・幼老院人生になる。変化を求め愉しい努力する人は生涯現役・実力現役の元老院人生。単に長生きしても、"息してるタンパク質"みたいなものとか。

自己不安は、自分も守る城を造りたがる。それを、"老人性頑固城主"と云う。哀れな殿様。

高貴高齢者になろう。枯葉や落ち葉でなく、深紅の「紅葉マーク」の人生を送ろうとか檄が続く。

ある意味では、このように、人をからかったような、「茶化した人生観」も痛快で、一本参ったと云う感じだった。

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July 21, 2011

ふらりと会社帰りのアラブへの旅、

昨日夜は三田のクウェート大使館で開催されたアクテイブ・ミドルと云う団体のイヴェントに、たまたま参加して、初めて大使公邸の建物の中で、大使の講演や、ブッフェスタイルの食事、アラブ音楽、などを楽しんだ。

アラブの国の雰囲気は、かつて(1989-1992年)住んだアブダビを想い出して、当時の自分の人生のシーンが浮かんで来た。

アラブに住んだ3年間は、驚きの連続だったなーと想う。3年が30年位にも人生では長い印象的な期間だったように想う。その後の私の人生観も変えてしまった体験だった。その、人生、世界、社会への純粋な驚きが、結局、今の私の禅の世界への興味へと導いたのではと想う。

公邸で立食をしていたら、在アブダビの日本大使館の大使公邸で、当時の(故)米山大使が、よく日本人社会の人達を呼んで下さって、パーテイーをして頂いたことも想い出した。

会場では、外務省OBの知合い、石油業界の知合いなども会い、アラブの話題を楽しんだ。

一昨日知ったイヴェント情報に、好奇心で、ふらりと行ってみて、チラッとアラブへ旅した気分に浸れた。


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July 20, 2011

大人のあどけない表情に感動、なでしこジャパン澤選手

なでしこジャパンの澤選手の写真を見る度に、あんなにあどけない大人の表情もあるんだと驚く。

30代の彼女でありながら、私は、幼児時代の娘の驚きに満ちた表情が脳裏にダブって来て、ほんわかとした気分に浸る。

小さな動物を見た時、プレゼントを貰った時など、「あららら・・・・・」と、嬉しさで、口を大きくあけて、喜びに驚く表情は、幼い頃、娘が見せた表情と同じ。

澤選手は、そんな、純真な一途なサッカー人生を送っているのだろう。

世間や、男性に意識が行った表情ではない、そのあどけない表情が、圧倒的に耀いていた。これも、大自然の一部たる人間の耀き。

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July 19, 2011

キャベツの花が咲き誇る年、

昨日行った友人の属する絵画教室(横浜)の展示会で、キャベツの花を描いた作品に出会った。「キャベツの花が咲いた年」との題が添えられていた。

今年は、福島のキャベツ畑で、一面に出荷停止になったキャベツから花が咲いて、まるで菜の花畑のようになっている光景を、最近TVで見た方が、そのキャベツの花を描いてらっしゃった。

私は、初めて、キャベツがこんな綺麗な花を咲かせるのかと、驚いた。

私は、キャベツの花が咲く前の、キャベツと云う植物の初期段階を今まで、食していたことにハッと気づいた。

福島原発の被害の年、キャベツは、その春を謳歌したのだ。放射線を一杯浴びても、花を咲かせる機会を得たのは、神さまからの恵みだったのではと思う。

一つのキャベツから咲く花の絵から、広大なキャベツ畑に咲き誇る綺麗な花の絨毯の光景を想像した。人生への深い、新鮮な気づきが、また一つ。

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July 18, 2011

軍隊とビンタ、日本全体が兵舎のような暗黒時代の驚き

昨日、久し振りに、所沢雑学大学で、通信兵だった方の話を聴講した。軍隊とビンタ、よく連想することだが、講師は、先ず軍隊へ入って、上官から云われたことは、上官の命令に「何故」を考えるなと云うことだったと云う。ビンタは、そのことを絶えず思い知らせる為の手段であった。上官の命令は天皇陛下のご命令として、上官の命令に権威付け、従わせた仕組みであった。

個としての兵士に、「何故」と考えることを奪って行った風土が、こうして培われた。上官の命令は絶対と云う風土は、西南の役に原因があるとの分析も聴いた。明治政府の軍隊は、士族も平民も一緒に強力な軍隊を作る場合、絶対服従をさせないと、統率がとれないとの背景であった。

民間の郵便物は、全て憲兵が検閲していたと云う。憲兵は軍隊の警察に当たる組織。日本全体が恰も兵舎のように、日本全体を、絶対服従の風土、何故を考えさせない風土を作り上げて行ったと云う。

だからこそ、その風土だからこそ、世界に稀な、特攻隊とかも、自然に生まれて来たのだと。

そんな時代に生きていた、両親や祖父祖母達のことを想った。人間の恐さ、時代の恐さなど、意外と身近な過去にあったことを感じた。

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July 17, 2011

「自己究明」こそ、他者救済・生死解決への道

自己究明こそ、究極的な修業の道だと、昨日住職に教えて頂いた。

自分を究明して、行き着く先に、見えて来るものは仏性。そこでは、自分と他人の区別が無くなる。

そこでは、自分が、自分を救済する姿が見えて来る。

自己究明が進めば、他者救済も、生死解決も、ひとりでに解決してしまう。

「たとえば、水の中にいて、渇を叫ぶが如きなり」、己の仏性、神性のたとえの言葉に聴き入る。

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July 16, 2011

一瞬の花火、一期一会、長岡の花火、

今度、長岡の花火大会を初めて見ることができそうである。パソコンの会で、8月3日、夏のイヴェントが企画され、花火に惹かれ、泊りがけで、参加することにした。

子供時代には、故郷、九州・大牟田で、父に連れられて行った祭りで見た花火を、いつも何故か想い出す。子供の目には、夜空一杯に、一瞬に広がる花火は、人生の神秘、驚きの光景の一つだった。

花火は地方の花火の趣きが好い。今度は、初めてみる長岡の花火を、長岡の旅館に泊まり、ゆっくり味わってみたい。

今まで、長岡にはさほど縁は無く、人生で初めてであり、かつ最後の、正に一期一会の長岡の花火になることだろう。考えてみれば、人生は全て、一期一会であることを想う。もう一度と、想っても、人生は余りにも短いのである。

人生で、次から次へ起こって来る事象に、ふり回され、押し流される途中に、人は色々な周りの光景を見て、人生の印象が残って行く。

結果的には、人生は全て一期一会であることに気づく。お互いに、永久の別れに気づかず、人は日常、永久の別れの暇乞いなどせずに、平気で別れているものだとも想う。

今度は、前もって、一期一会に気づいて、私は、長岡の花火の美に耽る。

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July 15, 2011

ゴルフ道具を捨てる光景、私の人生の一こま

昨日の朝、倉庫に眠るゴルフクラブ、ゴルフバッグを、粗大ゴミ・シールを貼って処分した。私のサラリーマン時代の想い出の品の一つであったが、もう何年も使ってなく、これからも使う意思もないので、これで好いと思った。

ゴルフは、世のサラリーマンが、ちょっとセレブ気分になれ、ファッションとして、大勢のサラリーマンがサラリーマンのたしなみとして、やったものだ。私も下手ながら、何度も、ゴルフ場へも行ったものだ。朝早く起きて、車が迎えに来たり、クラブハウスでの食事の想い出、成績発表会での恥ずかしさ、ゴルフの後の入浴など・・・・。

今の私には、ゴルフで成績が良くても悪くても、それが私の人生には、時間を費やすべき対象ではなくなってしまった。他にやるべきことが多く、ゴルフは私の人生に感動を与えないものであると考えるようになったから。

人間関係なら、深い哀しみや喜びを共有するつきあいをしたいし、ゴルフにはそれは無いと感じるから。私には、名利や娯楽志向の生き方の象徴に見えるゴルフは、もはや、今の私には関心の無い、縁の無いものになってしまっていた。それで好い。こうして、私はドンドン、自分の人生観で身軽になって行きたいと思う。すっきりと、昨日、私のゴルフ・クラブを見送った。

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July 14, 2011

余りにも不幸で、余りにも幸福で・・・・

考えれば余りにも不幸で・・・・、考えれば余りにも幸福で・・・・、

「結局、貴方はどっちですか?」 と聞かれたら、そんな時、何と答えればいいのだろう。

頭が混乱して、「ワカリマセーン」、と外人みたいに、他人ごとみたいに返事したら、大笑い。

人生の可笑しさを発見。

これは、世界史で云えば、新大陸の発見にも等しい大発見かも知れない。

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July 13, 2011

捨てて、捨てて、捨て抜いて行く境涯

人生の前半は、いつも何かを得よう得ようと、志向して行くことが多い様に思う。

そして得て来たもの、得ようとして来たものが、別に大したもので無かったことに気づくのに、人生の前半以上をはるかに多く費やしてハッと気づく。

身の周りに、良かれと思って集めて来たものが、滞り、淀み、ガラクタとなって人生の自由な展開を阻み、不自由な不幸に陥って行く。

人生の後半は、捨てて、捨てて、捨て抜いて行くのが好い。毎日、何かを必ず捨てることを習慣としたら、さぞかし、毎日が、新鮮に展開して行くことだろう。

身の周りのものを、捨てて行くこと、身軽になって行くことは、自分が自然に返って行くことと同じ。それは、宇宙一杯に広がるような安心感。

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July 12, 2011

「粗雑な樹木、精妙な種子」

種子は樹木になる情報を精妙に、整然と内臓している。種子は樹木になり、大木にもなり、また種子に返って行く。樹木は粗雑、種子は精妙。

年を重ねると云うことは、粗雑な樹木から、粗雑な身体から、もとの種子へ返って行く道のり。避難所生活のような仮の住居(身体・人生)から、本来の家(種子、仏性、アートマン)へ返って行く道のり。

身体も、人生も、大雑把で、確かに粗雑だと思う。死とは、破壊とは、分解・凝縮されて、精妙な種子に形を代えるだけのこと。

人生も、肉体も、夕焼け小焼けの歌を歌いながら、外で泥んこで遊んで来た子供が、家に帰って行くような風景。暫く、種子として休養したら、また、樹木になるべく芽を出して来る。

私は、今、粗雑な樹木かと思うと、人生も楽しいやら、情け無いやら、苦笑せざるを得ない。でも、精妙な種子に向かっているのなら、それも楽しみな旅でもある。本来の家に返る道のりの旅。そして、再生へ向かう旅。

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July 11, 2011

働き盛り、男盛り、自然現象のもたらす光景

私は、高校1年生の時、3000mで学年1位になった時、嬉しかったなーと想いだす。走るのが楽しかった。目立つ赤いランニングで、大牟田の記念グランドで、2位に大差をつけて優勝した。

海外勤務から帰国後、本社の課長をしている時に、「働き盛りですね」、「男盛りですね」とか周りから云われている頃、確かにそうだったんだと想い出す。

全て、私が、自分の力で、実力でやって来たことで、人生は自分の頑張り次第だと、いつも思って生きて来た。

それが、今では、全ては、自然界の生きものである私が、自然現象のように生きて来たに過ぎないことがわかった。自然が生み出した命が、自然に展開する身体を得て、自然に今の私を形作っている。

「男盛りですね」と云われても、自分の実力だと思っていた。全ては、自然界からの貰い物、借り物だったことがわかる。何ひとつ私のものなど無かったんだ。己の傲慢、勘違いに、気づくのが今では、清々と心地よい。

「春は花、夏ホトトギス、秋は月、冬雪冴えてすずしかりけり」、ただ淡々と私の今を生きる。

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July 10, 2011

「私は何処へ向かうのか?」 の問いの前に、

誰しも、不図、「私は何処へ向かっているのか?」と、漠然とした不安を抱えて立ち止まる時がある。

幾度となく繰り返されて来た、自分への問いかけ。

それと同時に、「私は、何処から来たのか?」の問いが、更に重要である。

私は、何処から来たのか?、そして何処へ向かうのか?

「私は何処から来たのか?」、これこそ、永遠性への扉。永遠にして安らいでいる世界への扉。

ヴィヴェーカナンダ師の1896年ニューヨークでの講演は、自分と云う小宇宙の壮大な展開を語っている。

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July 09, 2011

驚嘆の禅、手の平の上の無限

ただ、何も考えずに壁に向かって座る曹洞禅は、高級過ぎて初心者には居眠り禅になる恐れがあると云う。ぼんやりした禅は、何万年やっても、ものにはならぬ。

そこに、便法として考案を用いた考える禅、血眼になってやる臨済禅がある。

そして、何かを望む禅は「餓鬼禅」、問題を解決を求める禅は「修羅禅」と云う、と住職の言葉は続く。

手の平の上の無限、今が無限、ここが無限。

阿僧祇(あそうぎ)とは、一里四方の岩を、百年に一度、空から天女が降りて来て、衣で岩を撫で、そしてその岩が磨耗して無くなるほどの年月、途轍もない年月のことを云う。よくお経に出て来る三阿僧祇とは、それが三つ集まったもの。

禅は、その阿僧祇を手の平の上で、転がして遊ぶ。

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July 08, 2011

ただ、名前を呼んでみただけ、

太極拳の最新号の機関誌で、父の死を看取った娘さんの手記を読んだ。

私の名を呼んで、「何でもない・・・、もうすぐ呼べなくなるから、呼んでみただけ」と、父はまっすぐな視線を向けて来た。

戦い疲れ、やがては全てを受けいれた。亡くなる前日に、家族には感謝と詫び、縁ある人達にはユーモアを入れての激励と、本人らしい別れの形であった。人はたった一人で戦い、受けいれ、覚悟して、最後は解脱して逝くものなんだなと思った。

この手記を読んで、私も、母から生前、何気なく、名前を呼ばれた情景を想い出した。ただ万感の想いが溢れた。

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July 07, 2011

生生世世(しょうしょうせせ)を繰り返す小川のせせらぎ、

サラサラと流れる小川のきらめき。水は絶えず動いていることで、清々と、美しく耀く。

それは、終わりに向かっているでもなし、始まりに向かっている訳でもなし。

人は何故立ち止まりたいのだろう。淀んで、濁ってしまうのに。

サラサラと流れる小川の光景は、生まれ出ずることへの讃歌であり、また崩び行くことへの讃歌でもある。どちらに見えても好い。真理は、万物は立ち止まらないと云うこと。生生世世を繰り返す小川のせせらぎ。

"三世両住の因縁"とは、人生の前半は前世と重なり、人生の後半は既に来世と重なって始まっていると云う因縁の話を、以前住職に教えて頂いた。

ただ、サラサラと、清らかな"今ここ"に身を任せて、人生を送る。そんな生き方は素晴らしい。

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July 06, 2011

無言館のドキュメンタリー映画、

昨日、終業後、かながわ県民センターへ、無言館のドキュメンタリー映画を見に行った。長野県上田市にある戦没画学生慰霊美術館、無言館は、館主の窪島誠一郎さん達が、全国に埋もれていた、戦没画学生達の絵を集めて回って、1997年に設立された。

迫り来る死を、感じながら、画学生達は、自分の命を確かめるように、自画像や故郷や家族を描いた。

窪島さんは、若くして亡くなって逝った画学生達を、羨ましく想うことがあると云う。絵は憎んでいては描けない、絵は愛する対象しか描けない。その生きていた命が、スパークするような火花を散らして、愛していた対象を描いているのだ。それは、短い人生であったが故にできたことならば、短くても良いと想うほど。

無言館の映画を見て、私は、何を描きたいと想うだろうと自問してみる。そして、日常の何気ない、風景の深さを知る。

無言館を知ったことも、以前長野に無言館を訪れたことも、今回の無言館の映画を見たことも、私の人生の仏縁であったのだろうか。

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July 05, 2011

身の周りのメルヘン三景、

最近、よく見掛ける、「毛布がつなぐいのちのぬくもり」と云うアフリカへ毛布を贈る会のポスターの母と子の、あの穏かな母の笑顔、子供の安心して甘える笑顔、。その神々しい表情に、私は最初見た時、立ち止まって暫く見詰めた。そして写真にも収めた。

町内会の掲示板に、6月4日、「町内会費・詐欺現る」と注意を呼びかける掲示があり、おとぎ話のようで、可愛らしくて、そして苦笑した。

そして、家から駅へ続く道の、竹のある家の玄関の塀に、七夕用の笹の小枝の束が並んで、通行人に自由に持って帰って下さいと掲示されていた。 「ことしは、災害もありました。ひこ星さま、織り姫さま、今年はちょっと多くの願いをしても許して下さいね。」家主からのメッセージも、メルヘンの世界へ誘ってくれた。


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July 04, 2011

虚空世界の静寂、

私は白隠禅師の虚空世界の歌が好きである。住職から聴いて、とても気に入っている歌。

「闇の夜に、鳴かぬカラスの声聴けば、生まれる先の父ぞ恋しき」

「片手の音を聴く」ような世界、永遠にして安らいでいる虚空世界の静けさに酔う。

身体は生命ではない。身体はあってよし、無くてもよし。それが虚空世界。

この世を必要としない。あの世も必要としない。生死を必要としない。生ぜず、滅せず。

江戸時代の当時、白隠禅師のこの歌を聴いて、声を出して大笑した老婆がいたと云う。私も、その場面に加わりたいと思う。

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July 03, 2011

「最大の苦しみ」と「法を知ること」、「表面の束縛」と「内面の自由」

人は苦しみが無いと、真理(法)を知ろうとしない、道を求めようとしない。

だが、最大の苦しみだけでは、こんな悲惨なものはない。

法(真理)を学ぶだけでは、単なる学者で、菩薩にはなれない。

最大の苦しみに法が加わった時、菩薩の心が生まれる。最高の人生へ導かれる。

「表面の束縛」と「内面の自由」。"名称と形態"の消えた、ただ"ある"と云う存在のみの世界に入ると、執する心が無くなる。完全なる自由の世界が現れる。

人生の全ての束縛(哀しみ)を肯定的に見れるようになる。束縛でさえも愛しい気持になる。束縛だらけの人生でも、甘美なものとなる。それが菩薩の人格を創る。

昨日の住職の、「菩薩の世界」の描写に、心地よい心の旅をした。


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July 02, 2011

平常心にて驚く

予期せぬことは常にある。小さな驚きは、恰も波のように、嬉しかったり、哀しかったり。

小さな驚きは、衝撃は大きくても小さくても、常に、何かのメッセージを与えてくれている。

驚きから何を学ぶか。全てが修業の過程。

人は、それぞれに、煩悩、カルマに引き回されて生きているようにも思う。

カルマからの解放は、即ち修業の度合いは、平常心にて驚くことができるか、ではないかと思った。

それは、驚いて、驚きに流されないこと。修業の度合いを知る微妙な尺度だと思う。

全ては、神の摂理のうちに。


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July 01, 2011

旅、もう一人の自分と出遭う旅、旅への憧れ

今は、丁度、JR東日本の「大人の休日クラブ」のキャンペーン期間中で、私も。旅ごころが刺激される。旅を想像するだけでも、私は幸せな気分に浸れる。

ゴトン、ゴトン、ゴトンと云う、ローカル線の線路の音、田園風景、遠くまで続く畑のあぜ道、川、沿線の小さな古びた神社など、車窓の光景は、ゆりかごの中のような穏かさをもたらしてくれる。

日頃、抑えていたもう一人の自分が、大きく背伸びして深呼吸でもしているよう。

自分が旅しているのを見ている、もう一人の自分と、一緒に旅しているのである。

旅は、人生の今の自分の立ち位置を知らせてくれる。仏性は、あの手、この手で、その存在を知らせようとしてくれている。私は、旅すると、そんな、気持になる。私は、旅に憧れる。


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