赤穂・四十七士の供養、
そもそも、赤穂浪士の討ち入りの悲劇の発端は、未熟な人間どうしの「貪り・愚痴・怒り」(三毒)から始まった、と私は思う。
吉良上野介のちょっとした貪りの心は、愚痴、怒りに延焼し、傷つき易い未熟な浅野内匠頭の激情的な怒りを暴発させて、松の廊下の刃傷事件に繋がった。
人間の煩悩(三毒)の爆発的な恐さは、大震災・巨大津波のような恐さであり、また制御能力を失った原発のような恐さを想起させる。人間の煩悩とは、それだけの破壊力を秘めている。
先日、私は、品川・泉岳寺に四十七士の供養に立ち寄った。四十七士は、煩悩に吹き飛ばされた主君の本懐を遂げる為に、覚悟して彼らも、また人間の煩悩に殉じた者達であったと思う。
討たれる者、本懐を遂げ嬉し泣く者、切腹を待つ者、全て、同じ我が身で起きていることではないか。
時を経て、赤穂浪士の悲劇が語りかけるものは、人間の煩悩の哀しみであると想う。
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