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May 30, 2011

「街道の果てー死の了解」、高校同窓会で頂いたエッセイ

5月28日(土)、は例年の三池高校の大同窓会だった。約270名の参加だったと云う。同窓会で時折言葉を交わすようになった、少し先輩の、医師の方から、たまたま医科同窓会報に載せられた御自身のエッセイ、「街道の果て、-死の了解」のコピーを頂いた。

街道とは人生そのもの。街道を一人旅するのが人間。その街道を歩きつつ独白される文章が次のように続く。

「隠し絵のように、日常の風景に過去が現れて来る。愛する人との物語に、二人の句読点が打たれていないのである。突然、中断された物語。たとえ納得した離別であろうとも、余儀なく打たれた句読点と云う想いは続くだろう。

愛する者どうしはお互いを思い遣る。逝く人は、残る人が、自分が"絶望、孤独の中で死んで逝ったのではないか"と想い苦しむ。二人の間に了解が、受容が無ければ二人とも浮かばれない。・・・・・、死の解釈は、それは死者を除いてなされる。そして死の了解、それは二人の間でなされる。」

エッセイの最後に、お住まいの新潟の日本海の海岸の夕日の写真に添えて、「夕日、夕日はあなた。あなたは沈んで行く。でも、水平線の向こうで、あなたは上がって行く。あなたはそこで、照らし始める。」とあった。

私は、日本海の海辺の夕日の圧倒的な美を想い出して、穏かに、自分も、人生の街道を歩く姿を発見した。

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