「自分」とは、「太古からの印象・気分の総合計」、実体は無し
個としての自分探しは空しい。実体が無いのだから。らっきょの皮を剥く猿のよう。
生物誕生の太古の昔から、DNAに蓄積された、強烈な印象・気分が、それぞれの個体に自分と勘違いさせている。それをカルマ(業)と云う。その人が、何に関心があるかで、その人のカルマは覗ける。
仏性・神・宇宙の意思に、個は無い。全ての存在が私に見えるなら、個としての自分では無い。自と他の境は無い。それは神性。分厚いカルマ(印象・気分)の雲に包まれた光り(神性)に気づくのが、修業であり、人間の救済。
雲を、描いても芸術家。神を描いても芸術家。カルマを解放・追求した人には、その激しさに応じて苦しみが増す。カルマを極限まで描き切る芸術家は、さぞ辛かろう。修業の反対をやっているのだから。神を描く芸術家は穏か。闇(印象・気分と云う曇り)を描くか、光り(神)を描くかの違い。
芸術家は、カルマを突き詰めて、闇を論じて、修業の反対をやってしまう人も多い。拍手喝采するのも、カルマまみれの聴衆。そんな芸術家にも、カルマを突き抜けて、己の神性に気づいて人生を終えて欲しい。哀れな弱い人間を代表して苦しんでくれたんだから。
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