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May 31, 2011

子供に対して、「大きくなったねえ」の感嘆の示唆、

子供がドンドン成長して行く時、周りは、驚嘆の余り、「大きくなったねえ」と驚きの言葉を連発する。

それは、私にとって、人も常ならずと云う、無常観に繋がるとは、今まで思いもよらなかった。あのあどけない子供達は、もう二度とは逢えないのだ。あの輝くばかりの思春期の子供達とは、もう二度とは逢えないのだ。今生の別れをして来たのだ。

子供達の成長は親にとって、周りにとっても、当たり前で、そうでなければ、悲しいこと。子供達の変化、成長は、たとえその場面に二度と逢えなくなっても、それは嬉しいこと。

一瞬一瞬に、瑞々しい現在の瞬間が重ねられて行く。

大人になってからは、その自然界の絶えざる変化に目をそむけ、留まりたいと思う心が、精神をよどませ、精神を病んで来る。

以前に体験した人生のシーンの一瞬一瞬の感動が、今ここに、目の前に展開しようとしているのに、過ぎ去った過去の感動には、到底及ばないと確信・勘違いをして生きているのではないか。

変化こそ、生命の証であり、宇宙の真理。永遠の美は、変化の一瞬の残像であり、何処かに留まって澱んだ場面を云うのではない。

大人になってからも、「大きくなりましたねえ」と、精神の成長に感嘆して貰える人生は素晴らしいと思う。

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May 30, 2011

「街道の果てー死の了解」、高校同窓会で頂いたエッセイ

5月28日(土)、は例年の三池高校の大同窓会だった。約270名の参加だったと云う。同窓会で時折言葉を交わすようになった、少し先輩の、医師の方から、たまたま医科同窓会報に載せられた御自身のエッセイ、「街道の果て、-死の了解」のコピーを頂いた。

街道とは人生そのもの。街道を一人旅するのが人間。その街道を歩きつつ独白される文章が次のように続く。

「隠し絵のように、日常の風景に過去が現れて来る。愛する人との物語に、二人の句読点が打たれていないのである。突然、中断された物語。たとえ納得した離別であろうとも、余儀なく打たれた句読点と云う想いは続くだろう。

愛する者どうしはお互いを思い遣る。逝く人は、残る人が、自分が"絶望、孤独の中で死んで逝ったのではないか"と想い苦しむ。二人の間に了解が、受容が無ければ二人とも浮かばれない。・・・・・、死の解釈は、それは死者を除いてなされる。そして死の了解、それは二人の間でなされる。」

エッセイの最後に、お住まいの新潟の日本海の海岸の夕日の写真に添えて、「夕日、夕日はあなた。あなたは沈んで行く。でも、水平線の向こうで、あなたは上がって行く。あなたはそこで、照らし始める。」とあった。

私は、日本海の海辺の夕日の圧倒的な美を想い出して、穏かに、自分も、人生の街道を歩く姿を発見した。

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May 29, 2011

「今ここ」に安らぐか、焦るか、

煩悩を抑え、「今ここ」に、永遠性を感じることは修業の極致。宇宙との一体化。

煩悩を解放して、「今ここ」を感じるのが苦悩、堕落。個の飽くなき主張。寂しさの地獄。

「今ここ」にも、全く逆の境地がある。

「今ここ」を感じて安らぐか、焦るかで、どちらの「今ここ」を感じているのかがわかる。


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May 28, 2011

赤穂・四十七士の供養、

そもそも、赤穂浪士の討ち入りの悲劇の発端は、未熟な人間どうしの「貪り・愚痴・怒り」(三毒)から始まった、と私は思う。

吉良上野介のちょっとした貪りの心は、愚痴、怒りに延焼し、傷つき易い未熟な浅野内匠頭の激情的な怒りを暴発させて、松の廊下の刃傷事件に繋がった。

人間の煩悩(三毒)の爆発的な恐さは、大震災・巨大津波のような恐さであり、また制御能力を失った原発のような恐さを想起させる。人間の煩悩とは、それだけの破壊力を秘めている。

先日、私は、品川・泉岳寺に四十七士の供養に立ち寄った。四十七士は、煩悩に吹き飛ばされた主君の本懐を遂げる為に、覚悟して彼らも、また人間の煩悩に殉じた者達であったと思う。

討たれる者、本懐を遂げ嬉し泣く者、切腹を待つ者、全て、同じ我が身で起きていることではないか。

時を経て、赤穂浪士の悲劇が語りかけるものは、人間の煩悩の哀しみであると想う。

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May 27, 2011

赤ちゃんより若い人たち、

最近、80代の年輩の人達も、社会で大いに活動され、お会いする機会も意外と多く、戦後生まれの私には、大きな驚きである。

ビジネス交流会では80歳前後の会社経営者・芸術家、旧満洲の同窓会でも80歳前後の素晴らしい活動的な人達を見かける。

これらの80代以上の人達を、赤ちゃんより若い人と見れば、面白い人生観になる。マイナス10歳とか、マイナス15歳とか、いずれ赤ちゃんとして生まれる何年前と云う年の考え方をしてみると面白い。

宇宙の真理たる、大きな循環理論で、命をとらえる考え方からすれば、極自然なこと。

年輩の方々を、赤ちゃかんの以前の状態と思えば、益々可愛さが増す。寧ろ、赤ちゃんは既に、年をとって見えてきたりもする。

全て、循環の哲学でとらえると、何故か、安心が生まれる。どうなっても、何処か、真っ暗闇の中に落ちて行くことなどあり得ないと思う。循環の中で、見える景色を楽しむことだって出来る。

先日、満洲の同窓会で最長老の出席者の方が、銀座のレストランの一角に、自作の絵葉書と短歌約50点を展示されていた。紫陽花の花の絵に添えて、「煩悩の数をのぼりて、花の寺」と詠っておられた。雨に映える、鎌倉の紫陽花を想い出し、人生の旅の素晴らしさを想い、思わず短歌をメモした。

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May 26, 2011

震災と震災の間に生きる存在、

自然界では、震災は、時折やって来るもの。

人間が建物を建てて安住していても、震災には、ひとたまりもない存在。

震災の後、家を建て、またビクビクして生きるのか、あるいわ、次の震災までの仮住いとして生きるのかは、人生観に大きな違いをもたらす。

本来、自分は、無一物の存在と思えば、家を建て安住していることの方が幻だったのかも知れない。

人生を、震災と震災の間の期間に生きていると思えばよい。失うものは何も無い。

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May 25, 2011

「自分」とは、「太古からの印象・気分の総合計」、実体は無し

個としての自分探しは空しい。実体が無いのだから。らっきょの皮を剥く猿のよう。

生物誕生の太古の昔から、DNAに蓄積された、強烈な印象・気分が、それぞれの個体に自分と勘違いさせている。それをカルマ(業)と云う。その人が、何に関心があるかで、その人のカルマは覗ける。

仏性・神・宇宙の意思に、個は無い。全ての存在が私に見えるなら、個としての自分では無い。自と他の境は無い。それは神性。分厚いカルマ(印象・気分)の雲に包まれた光り(神性)に気づくのが、修業であり、人間の救済。

雲を、描いても芸術家。神を描いても芸術家。カルマを解放・追求した人には、その激しさに応じて苦しみが増す。カルマを極限まで描き切る芸術家は、さぞ辛かろう。修業の反対をやっているのだから。神を描く芸術家は穏か。闇(印象・気分と云う曇り)を描くか、光り(神)を描くかの違い。

芸術家は、カルマを突き詰めて、闇を論じて、修業の反対をやってしまう人も多い。拍手喝采するのも、カルマまみれの聴衆。そんな芸術家にも、カルマを突き抜けて、己の神性に気づいて人生を終えて欲しい。哀れな弱い人間を代表して苦しんでくれたんだから。


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May 24, 2011

岡本敏子著、「いま、生きる力」

数日前、娘が、「お父さん この本いいよ」と云って、読むように貸してくれた文庫本、岡本太郎の養女岡本敏子さんの「いま、生きる力」(青春文庫)であった。

いま20代後半を娘が、どう考えて生きてるのだろうと普段思っているが、少し話しても、深層はわからないが、書籍を渡されると、何だか、深く知れるような気がして読んでみた。

「踏まれても、蹴られても、どんなに抑えつけられ、ひどい目にあっても譲れないものがある。そんなもの放り棄てて逃げればいいじゃないかと思っても、どうしても背負わずにはいられないもの。自分とは厄介者であり、愛おしくもある。」

「自分ほど面白い宇宙は無いんだから。そして、それは今この瞬間に起こるドラマなのだから。何が起こるかわからない。一刻一刻展開する。生きるって、そう云うことでしょう。だから眼が輝いて来る。自分をそっと傷つかないようにしまいこんで甘やかしていては、いつまでたっても自分なんて見えて来ないし、生きてる実感なんてない。生体解剖しなければ、自分を投げ出さなければ、自分にはなれない。」そんな文章が、私の印象に残った。

若い頃満洲への駆け落ちに失敗した母の生き方を,私は想い出した。

娘が今、人生で、そのような光景を、関心をもって見ているのかと思うと、大人になって青春を生きていることがわかって嬉しくもあった。そのような娘をどう見守ればいいのかと云うのも、禅の哲学が暗示を与えてくれる。

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May 23, 2011

心地好く、翻弄されて生きる

"もう一人の自分"の存在がはっきり意識されていれば、多少人生に翻弄されても、大丈夫のような気がする。"もう一人の自分"とは仏性、内面の教師。

打撃・衝撃を消化し、それは神から自己への暗示だと思い、吸収する力があれば、何があっても大丈夫。そこは涅槃のようなものかも知れない。一元を知り、二元に遊ぶ境地ではないかと思う。

人生の渦潮に翻弄されても、流れにぐるぐる回されながらも、「これは一体何?」と、神からのメッセージに興味が湧いて来るような余裕さえ出て来る。不幸の只中と云うより、小さな驚きの衝撃。

何があっても、人生は、輝いて、「今ここ」がある。

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May 22, 2011

清々と、凛々と、「今ここ」を生きる

一刹那とは75分の1秒と云う。昨日の住職の話を想い出す。

華厳の滝の今見た水は、もう既にずっーと先の方へ流れてしまっている。

新しいものは、全て滅して行く。

さっぱりと、清々と、濁らなく、"今ここ"を生きて行けばよい。

全ては流動的なもの。陰も陽も、固定的なものではなく、流動的で作用し合って一つの力を現す。

ものごとは、止めて見ると駄目、間違ってしまう。開く力は、閉じる力から始まる。吸う息は、吐く息から始まっている。

全てを、個体的に見るのではなく、気体的に、エネルギー体的に見るのがよい。それが宇宙の理にかなっていると思う。

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May 21, 2011

四縁の探求、仏法の輝き

一昨日の"心の福島原発"の衝撃を受け、仏教の四縁を、横山紘一先生の仏教辞典で調べてみた。

1: 因縁(いんねん): 結果自体を直接生じる根本原因。正因縁とも云う。

2: 等無間縁(とうむけんねん): 心が生じる為の補助原因(縁)。一刹那前に生じた心の総体。

3: 所縁縁(しょえんえん): 心に拠って認識される対象を云う。

4: 増上縁(ぞうじょうえん): 前の三つの縁を除いた全ての原因。例えば、一粒の米粒が生じる場合、米粒の種子が 因縁で,それ以外の大地の水や温度などが、天災などが増上縁。自らは関われない。

縁の四分の三は何らかの形で自らに起因し、四分の一は宇宙が、大自然が決めていると云うことかと、納得する。

私の人生も、私が頂いた所縁も、全体像が、ぼんやりと浮かび上がり、虚空世界の銀幕に私が映し出す映像であったようにも 想う。そして、私は、どう生きるのかの問いに、仏法が輝きを増して見えて来る。

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May 20, 2011

人の心の福島原発、そして仏教・八正道

昨日、ビジネス交流勉強会のゲストにマンダラ手帳の考案者の松村寧雄氏が呼ばれていて、初めて松村氏の話を聴いて驚いた。会社経営への関心から、深い仏教研究に入った人を、私は初めて見た。

"人の心の福島原発"と云う言葉の打撃は、私に深い暗示を与えた。"人の心の福島原発"とは、人間の煩悩、即ち三毒(貪り、怒り、愚痴)のことですと、続けられた時は、参ったと思った。

制御されていれば、安全ですが、津波のようなもの縁が襲うと、制御不能に陥るのですと。

"心の中の福島原発"(煩悩)を制御するのが、仏教の教えですと。

参加者の方で、「自分が色んな面で失敗して来たのは、煩悩を制御する八正道に反して来たからですか?」との問いに、松村氏は、「そうです。それは凄い気づきですね」と間髪いれずに即答されるところも、只者ではないと感じた。

そして松村氏は、最後に、仏陀の三つの目的は、「生死解決」、「自己究明」、「他者救済」ですとつけ加えられた。

このようなような話を、住職以外から聴こうとは、私は、どんなに遠くに旅しても、お釈迦様の手の平の上で遊ぶ存在であることを感じた。昨日の御縁は、仏縁であったのだ。


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May 19, 2011

幸せの闇、不幸の光

人は幸せな時には、他を思いやる力が薄いように感じる。

自分が幸せである時、他への冷たさや、醜ささえも想起する。自分と他が隔離されているように感じ、得体の知れない寂しさが付きまとう。

自分が不幸である時、他を思いやる力があり、人間の暖かさを感じる。自分と他が、哀しみにおいて繋がっていて、寧ろ大きな安らぎさえも与えてくれる。

普段気づかない仏性と云う碇(いかり)は、船が漂流しないように、静かに人生を支えてくれている。

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May 18, 2011

何処かで会った人、TVで会った人、

私は、偶然、電車の中や街で知人に会ったりすることがよくある方である。何処かで会った人であれば、殆ど、声をかけることが多い。

1週間ほど前、何処かで会った中年の男性を横浜駅のコンコースで見掛けたが、どこで会ったか想い出せなくて、結局、声をかけなかった。そして約1週間後の昨日、民主党の政治家であったことに気づいて、我ながら大笑い。私は、TVで見たのだ。

2年ほど前、地下鉄神谷町駅のホームでも、絶対、何処かで会った人と思った中年の男性が、数日後に思い出したのが、もと農林大臣の赤城氏(顔に絆創膏を張って有名になった人)だった。

TVで見た人に、「やあ 、久し振り!」とか、声をかけたとしたら、・・・・我ながら、お笑い系の素質に大笑い。

でも、いずれも、結局、声をかけずに、未然に終わったことが、救いでもある。

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May 17, 2011

被害者、加害者、そして永遠の安らぎとは

被害者的人生観には、相変わらぬ不運さ、悲しみと、怒りと、諦めなどが混ざる。自分の不幸にはいつも他人がかかわっていて、他人のせいにしてしまう生き方。だが、今回の震災では、誰かのせいに出来ないことを学ぶ。そして、日頃の被害者的生き方のエゴ性に気づくのもよい。

加害者的人生観には、相変わらぬ傲慢さと、悲しみと、懺悔と諦めなどが混ざる。毎日、何らかの命あるものを食して生きてること自体、加害者的生き方ではないのかとも思う。自らの加害者的存在に気づくのもよい。懺悔の材料が無いと、エゴ性の放棄が出来ないから。

住職は、若い頃指導を受けた住職の師、大田老師の教えを、今懐かしく、自己の内面で反芻してらっしゃると云う。その、大田老師の講演録に、「世間道に立つ限り、永遠はわからぬ、仏道は人間思想ではない。・・・・・・自己を忘れ、万法に証せられている世界のみである。」とある。エゴ性の放棄の先に、永遠にして安らいでいる世界を垣間見る。

そして、「永遠を感ずる者は、必然的に求道者となる」と云われている。住職は、今はこの意味は、十分よくわかるとおっしゃった。言い換えれば、「永遠を感じない人は、求道者ではない」とおっしゃった。何か、住職の真剣さが、伝わり、全身がピリッと引き締まる思いがした。

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May 16, 2011

"移動動物園"の張り紙、宇宙の旅、商店街ライブ、快晴の日曜日

昨日、綱島での朝の気功の帰り道、道路脇の掲示板に、"移動動物園"との宣伝に目が留まった。

6月4日(土)綱島公園広場10:30~13:00、"移動動物園"がやって来ると云う。 ポニー、子牛、モルモット、山羊、羊、子豚、ウサギ、アヒル、カメ、チャボと書いてあった。"ミニ水族館"も。鶴見川の魚達と。何か、ほのぼのとした気持になり、メモした。

快晴のみなとみらいは、心地よいライブの音楽が青い空に響きわたっていた。横浜周遊100円バス”赤いくつ号”で、港が見える公園まで行き、岩崎ミュージアムで開催中の萩尾紅子展を見た。幻想的なメルヘンのパステル画に一瞬、宇宙の旅のような気分になる。

夕方、白楽・六角橋商店街の狭い路地の一角で小さな、震災チャリテイーライブもやっていた。地元のおばさん達と一緒に椅子に座って聴いた。2歳~3歳の幼児も、立ち止まって、めづらしそうにライブを見ていた。"風鈴"と云うグループのボーカルの女の子が、曲の合間に自作の短歌も披露してくれた。「雨しぐれ 大地沁みこむ その息吹 種を残さん 花は散るとも」。ジーンと来てしまった。

帰宅後、懐かしい"笑点"をTVで見れた。そんな、穏かな日曜日、小さな驚きに溢れていた。


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May 15, 2011

自分の苦しみを探す私、

「苦しむ心をここに持って来なさい。」と云われて、自分の苦しみを探している自分が、認識出来たら、大丈夫ですと、住職は云う。

苦しみは「闇」、探す自分は「光」。

光が増すと闇は消えて行く。

何故と云う問いかけを、自分に繰り返しなさい。その問いかけをする私が、内面の教師、光です。

そして、闇の面積が徐々に減り、闇が消えたら、そのとき光も消える。

闇は光を触発する。 遂には、闇に感謝する境涯に至る。

住職に感服する。

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May 14, 2011

驚きは生命力、人生の讃歌

驚いて、すぐ死ぬ人はいない。

驚いた人は、取りあえず、その驚きに対し、これは一体何だろうと考える。

予期せぬこと、知らなかったことに、対し"驚き"は気づきを与えてくれる。

無知は"驚き"のもと、新鮮な生命力のもと。

意味不明なこともよい、笑ってごまかしたくなる。それも新鮮な驚き。

毎日、何かに驚くことは、即ち生命力の証。親への感謝。神への感謝。

驚きは、生命の歌。

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May 13, 2011

我を捨てたとき、人は神様になる

文芸春秋6月特別号に、「被災地で子供達が書いた作文」が特集されていた。

地震直後、小学生の夏奈ちゃんのお母さんは、家にいたお婆ちゃんと一緒に逃げようとしたら、すこし腰が悪いお婆ちゃんは、「私はいいから、早く夏奈のところへ行きなさい」と告げたと云う。

それが、お婆ちゃんとの最期の別れだったとのこと。

小学生の夏奈ちゃんは、早く逃げなさいと云って、「お母さんも、お婆ちゃんに助けられたんです。」と作文に書いている。

お婆ちゃんは、津波に呑み込まれる瞬間、娘や孫が、この津波に呑み込まれなくて良かったと、安心して逝かれたと、私は想った。 

「早く行きなさい」っと云って気丈に別れを告げる姿は、私は、どうしても母を想い出す。

我を捨てたとき人は神様になる。宇宙そのものになる。

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May 12, 2011

"禅の安らぎ"

坐禅をしているときに限らず、修業が進むと、日常生活でも、時折"禅"になり、全てが禅に変わって行くような境地を瞬間味わうことがあると云う。

"禅のとき"の極地は、五感六識の運転を止めること。即ち"自他一如"、自分と他人の境が無くなり、全ては存在として同一化する。

生ぜず滅せず、会うも別れも無い、貧しくも豊かでも無い、全てが私自身なのだから。それは永遠にして安らいでいる世界。

個としての私に帰るから、大海が波に揺れ動き、右往左往の喜怒哀楽に翻弄される日常生活に引き戻される。

全てが私自身であれば、富を得る必要無し、名声を得る必要無し、愛を渇望する必要も無し、会えない人を嘆く必要も無し。全てが、自分自身の中で起きてることなのだから。

それが、禅がもたらす安らぎのもとであったのだと想う。

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May 11, 2011

古い家屋の飴色に輝く木のように

私は、田舎などの古い家屋の板張りなど、年月を経て飴色に輝く木の色が好きだ。質素に、穏かに、生きて来た実感と、暖かさが感じられる。

過去の色々な生活の場面を全部飲み込んで、その輝きとなっている。

自分が、何かを紛らわせようと生きて来たことも想い出す。他人の人生のように、違和感を感じる時代もある。我ながら天晴れと思うシーンもある。メルヘンのような時代もある。迫る地獄も感じたことも。そして、住職との出遭いも。

飴色に、その想いは全部包み込まれて、輝いている。

それが、「今 ここ」だと想う。

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May 10, 2011

悠々自適、晴耕雨読は危険?

精神の安定を保つ、幸せホルモンと云われるセロトニンと云う物質は、どう体内で生成されるかを考えると、生き方に新たな気づきを与えてくれる。

セロトニンは、朝日を浴びたり、毎日単純な作業習慣(散歩・お経・掃除など)などやらねばならぬ日課があることで分泌されると云う。どんな時でも、朝日を浴びて起きること、毎日やらねばならぬ作業が精神を安定させてくれている。

そして、セロトニンは95%は腸内で生成されると云う。セロトニンの原料となるのはトリプトファンと云う栄養素。トリプトファンは、バナナ・玄米・大豆などの食品に多く含まれる。

不規則な生活をして、毎日何時に起きても好し、好きなことだけやれば好し、肉や甘いものなど好きなだけ食べて楽しんでいたら(腸が汚れ)、セロトニンの分泌が減少し、ウツや無気力、延いては生活習慣病に堕ちて行く。

悠々自適・晴耕雨読って、何となく幸せそうではあるが、ピリッとしない。自分だけ楽しんでも、自然界の物質・人体は、それでは駄目だと教えてくれているように感じる。朝日を浴びて起床、人に役立つ何か役割を、単純に作業しなさいと教えてくれているようにも感じる。 それは、無意識の修業にも思えて、清々しい気持になれる。

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May 09, 2011

小腸の神秘、

昨日は、米国斉藤真嗣医師の講演会で、小腸はガンにならないとのことを聴いた。

その理由は、(1)小腸には、発ガン物質を分解する酵素が多い。(2)免疫細胞の働きが活発、(3)小腸は第2の脳と云われ、脳からのストレスを受けにくい。(大腸は脳からのストレス受けやすい)

人体の免疫の70%は、腸管免疫で、小腸に存在する、小腸は正に免疫の本拠地。腸をキレイに保つことは、健康に直結。(肉食習慣の危険性、食物繊維の大切さを改めて思う。)

心臓・脾臓もガンにならない(温度高い理由ほか)とは聴いていたが、小腸もガンにならないことを初めて知った。

小腸を元気にするには、NK細胞を刺激する(=よく笑うことがよいとのこと)、また善玉菌を殖やす乳酸菌(ぬかずけ、キムチなど発酵食品)も大事とのこと。

小腸の神秘を想う。

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May 08, 2011

「帰らんちゃよか」

先日夜、TVで、"家族で歌う日本の歌"と云う歌番組をNHKでやっていた。

「帰らんちゃよか♪」、「寂しかばってん、元気にしとる♪」、「自分のやりたかこつばせんね♪」、「心配せんでよか♪」・・・・「帰らんちゃよか♪」。

と続いていた曲があった。

この曲で、私は、亡くなった母や父に、すぐ会えた気がして、自分で気づくことのない、親の愛の深さを想った。

「帰らんちゃよか」は、愛する哀しみの歌。それでも、生きる証の歌、人生の讃歌であるとも私は想う。


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May 07, 2011

3万人の衝撃

東日本大震災の犠牲者・行方不明者が4月末で約2万7千人に達したことを漠然と想いながら、先日の遠藤周作展での講演を聴いていた時、講演者の方が、日本での自殺者は相変わらず年間3万人ですと触れられた。

その瞬間、震災に匹敵、あるいわ震災以上に多くの人々が、苦しみの果て、自ら命を絶っているのだと、私はハッと気付かされた。

ただ、漠然と年間自殺者3万人と統計の数字として、無機質に覚えていたことに、我ながら愕然とした。

震災のあとの瓦礫、廃墟、絶望、無常観の光景は、最近現実に見て唖然としたが、それと同じか更に酷い地獄の様な光景を心に抱いて、人知れず苦しみ、死に行く人が、平和そうな日本に3万人もいたのだ。

今思えば、遠藤周作さんの魂は、渾身の力を込めて、苦しむ人に気づいて下さいとメッセージを送ったのだろうと想った。遠藤周作さんの魂は死して尚、苦しむ人の傍らにいなさいと、伝えているように思えた。

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May 06, 2011

遠藤周作展、神奈川近代文学館(2011年5月)

昨日、神奈川近代文学館で開催中の遠藤周作展へ行き、彼の精神性に衝撃を受けた。沈黙する神への不信感の果てに、彼は遂に、「神は、苦しむ者と共にある」ことを知る。

1964年、長崎・大浦天主堂そばの資料館でみた踏絵によって気づかされ、代表作「沈黙」を書いたと云う。多くの人々に踏まれ、摩滅した踏絵の有様には、自らがどんな苦しみにあっても人間の傍らを去らないキリストの姿があったと。

「神は、人生において罪の痕跡を遺して、常に人間に話しかける」。著作「私が棄てた女」は、勝組の男が自分が棄てた負組の女に対し感じる、どこから来るともいえない寂しさを表現していると云う。それは、私が棄てた女を通して。私が棄てた"キリスト"を描いていることを知り絶句した。

「愛は、真面目で、暗いものです。」、「そしてその暗さを突き抜けるのです。」

1996年10月2日、四谷での葬儀の出棺の時、どこともなく、群集から、「遠藤さん、ありがとう」の声があがったと云う。

そのような遠藤周作さんを、当時の私に理解する力が無かったことが、悔やまれるが、今こうして、遠藤周作さんと精神世界で邂逅出来たことに、救われたように想う。

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May 05, 2011

TV番組、「15歳、廃墟からの旅立ち」に感じたこと

昨日朝、NHKのTVで、岩手県の甲子中学校の生徒達の様子が放送された。

その中で、若菜さんと云う女の子の言葉に、私は、既に何か修業をした高僧の境地を感じ、愕然とした。

「何もかも一瞬のうちに無くなってしまい、何も永遠でないことに気づきました。今を大切に生きたいと思います。また、あの津波を生き延びたんだから、もう何があっても大丈夫だと思います。九州・福岡へ行って、立派になって、またここへ帰ってきたいです。」

15歳の女の子が、・・・・・・、こんなことが云えるように成長していることに、唯、愕然とするほど嬉しかった。神を見た思いだった。

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May 04, 2011

神様からの請求書

"神様からの請求書"なるものを想像して試ると、色々なユーモラスな想像の展開がある。

請求書を見て、目が飛び出すほど驚く人。「支払いは、今世ですか?来世ですか?」とか云われたり。値段がわからず、「時価」はやはり高かったとか、反省したり。メニューには色々な"執着"と云う料理が並ぶ。

支払いとは、大体、「苦しみ」と云う通貨で払う。お勘定が大したこと無かったと思える人は、徳を積んで来た人。神様に値切る人もいたりして・・・、神様がレジで「ポイント貯めときますか使いますか?」とか聞いたりしたら、大笑い。

笑いながらも、"神様からの請求書"と云う言葉は、何かドキッとする発想。

こんな空想は、住職には叱られると思う。神は契約の対象ではないから。

それでも、こんな空想に遊ぶ自分は可笑しな人間だと、つい苦笑する。

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May 03, 2011

「精気神」

住職が指導される太極拳の会員誌が、「精気神」と名づけられているので、その意味を知りたかった。

「精神は、気に高められ、気は神に高められて行く」、そのような、修業する者の発心の言葉であることを、最近知った。

「精気神」、覚悟で、ピリッとする言葉だと思う。

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May 02, 2011

「ごめんなさい」、「ありがとう」のチャンネル

毎日、おびただしい数の不幸が通り過ぎて行く。毎日、おびただしい数の幸せも通り過ぎて行く。

人間の粗い五感には、その殆どの部分は見えてはいない。

「ごめんなさい」と云えば、見えて来る世界が広がって来る。

「ありがとう」と云えば、恰もTVのチャンネルが変わったように、見えて来る世界が変わって来る。

それは、光を見ること。


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May 01, 2011

坐禅道場、勤労奉仕終了

今回(4/29-5/1)の伊豆への旅は、坐禅道場の勤労奉仕でもあった。道場の沢山の布団の、布団干しや掃除。日頃慣れない大変な肉体労働であったが、それでも、私にとっては、心地よい体験でもあった。

天城山には道路に鹿がいた。林に自生する竹の子、タラの芽、ワラビ、椎茸なども食べることが出来た。

坐禅の時、住職が、「この世でもない、あの世でもない、それが"今 ここ"」と云われた。この数年、坐禅を学んで来た私にとっては、すごい表現だと感動を覚えた。

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