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April 30, 2011

みなと共にある喜び、

思い通りにならなくても、不幸であっても、みなと共に、同じ境遇である時に、安心感や、喜びさえも出て来るのは何故だろうか?

やはり、宇宙の真理は、「自他一如」ではないか。

みなと同じく不幸で、苦しくて、金持ちでなくて、偉くなくてよい。突出して成功しても、そこには後ろめたく、疎外感に苛まれ、安らぎは無いと思う。

みなと共にあることに喜びがある。それは、一体感がもたらす安心感。

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死を悲しむのと、生きて来たことへの感謝、

死を悲しむことは当たり前。

人間が執着(カルマ)から逃れられないならば、死は悲しいに決まっている。

ところが、死に際して、今まで生きて来た方に目を向ければ、全てが恵みであったことに気づき、感謝せざるを得なくなる。

生きて来たことへの圧倒的な感謝は、死の悲しみを越えると思う。

死に際して、これ以上、更に幸せをねだるような、更なる執着は、修業とは程遠い。 死を悲しまない生き方、これが修業の証とさえ想う。

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April 29, 2011

今日から伊豆、天城の坐禅道場へ

昨日は、久し振りに、家裁調停委員の方々との同窓会、懇親会だった。

調停委員の方々との交流は、今の仕事から離れて、全く別世界であるところが好い。

私にもあった、調停委員時代。数々の人生ドラマに立ち合ったことを想い出す。

そして、今日から、2泊3日で伊豆天城の坐禅道場へ。

尊敬する住職との、静かな時間が、また新たな気づきをもたらしてくれる。

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April 28, 2011

昼休みに、道元禅師の歌、

私が勤務する会社のそばにある青松寺は、東京都港区にある曹洞宗の寺。山号は万年山。開創 は1476年、開基は太田道灌。 長州藩、津和野藩など大名諸家の菩提寺として栄えたと云う。

その青松寺の正門に、いつも道元禅師の歌が書かれている。

先週までは、「濁り無き 心の水に澄む月は 波も砕けて 光とぞなる」であった。

今週は、「峯の色、 谷の響きも、 みなながら、吾が釈迦牟尼の 声と姿と」。これは、住職がよく引用される歌。

昼休み、私は、青松寺正門看板に、達筆の筆で書かれた、この歌を見つけ、しげしげと眺め、嬉しくなった。


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April 27, 2011

運動が癌予防と若さの元、空腹で寝るのが若さの元、

先日米国ニューヨーク州医師の斉藤真嗣先生の講演で、運動が癌を防ぐ効果との話を聴いた。それを、オーットー・ワールブルグ効果と云うらしい。

有酸素運動(散歩などゆっくりした運動)が、ミトコンドリアを増やし、癌を防ぎ、また若さの元たる成長ホルモンの分泌を促すと云う。

成長ホルモンは、70%は睡眠中に分泌すると云う。睡眠が若さの源泉と云うこと。残り、30%は、運動時、空腹時に分泌すると云う。寝る前の空腹が特に大事とのこと。寝る4時間前までに、食事は済ませて。空腹で寝ることが、若さの秘訣だと云う。

運動(毎日、男性で9000歩から10000歩: 女性で7000~8000歩)、が癌を防ぎ、また若さを保つポイントとは、良い話を聴いた。

そして、空腹で寝るのが、そんなに大切だったとは驚き。


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April 26, 2011

一緒に旅したい人、死の床でそばにいて欲しい人、そして命への気づき

一緒に旅したい人、死の床でそばにいて欲しい人とは、どんな人だろうか?

そう云う人との会話には、言葉は要らない。 ただ、静かな眼差しだけで好い。そんな人がすぐに脳裏に浮かんでくれば、既に、充実した人生ではないかと思う。

実際に、一緒に旅しなくても、死の床でそばにいなくても、大丈夫。もう十分に、心は通じ合っている。その人と確かに、人生を一緒に歩いたのだ。

虚空世界に彷徨っていたエネルギーが、人間として生命を得た旅から、また慣れた虚空世界へ帰るだけ。生まれて来たこと自体が、奇跡のような神様の恵みだったのだ。生きている間に、まだまだ出来ることがあるのは、神様への感謝の表明。まだ時間が残っていることが、素晴らしい。

どんなに短く、また辛い人生だと思っても、生まれて来たこと自体が光だったのだ。

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April 25, 2011

苦しみの解決は、二元論には存在しない、

大惨事や、災害、人間の苦しみには、一元論でなければ、受けとめることが出来ない。 「二元論では、ごまかしになってしまう。」と,住職は、つぶやかれた。

「生死が仏の命なり」、生と死が合わさって一つと見る思想。

"個"で見るから、地獄、餓鬼、畜生の世界に迷い込む。"個"で見るから、心が乱れてしまう。住職の云う言葉には、深いものがある。

瓦礫の中に咲く一輪の花のことを、住職は添えて説明してくれて、私は住職の云う一元の世界のことを想った。

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April 24, 2011

闇は光を求める、

今朝は、小鳥の声で目が覚めた。小鳥が、私の部屋のそばまで近づいて、ピーピーと鳴いてくれて嬉しかった。わかった、わかったと、私は起きた。

昨日の住職の話、「カルマ(業)」のことを想い出す。

私にとって、カルマは人間を、苦しめ、翻弄し、迷わせ、追い詰める、忌まわしきものであった。

住職は、「カルマこそ、カルマを消す力」、「闇は光りを欲しがる」、「カルマは光りが造りあげたもの」と、説かれた。

内面の教師、もう一人の自分と、言葉を交わす。

その、もう一人の自分が、私といつも共にあることを気づかせてくれる。

その、もう一人の自分が、今朝、朝陽のもと、小鳥と戯れている。


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April 23, 2011

逆さまに見る花火、滑稽な親子のシーン

昨日、昼休み、会社の前の道路で、ずり落ちそうな体勢で2歳くらいお男の子を片手で抱いて、カートを押しながら歩く若い母親の姿を見た。

男の子は、いかにもずり落ちそうだが、ズボンとシャツの間の母親の腕を境に、お腹付近が大きく裸状態。その、奇妙な不安定さが、何故か生活を感じさせて、また滑稽に見えて、振り帰って暫く見続けた。

私は、幼児時代、父親の自転車の後の荷台の上の文具箱に入れられて、花火を見に行った時、その箱から落ちて、箱の紐に足が掛かり逆さま状態にぶら下がってしまったことがある。その時、何故か父親に、大声で助けも求めず、逆さま状態で、キョトンとしていたと云う。たぶん、ゆっくり走っている時か、自転車を歩いて押している時だろうと思うが、そんな可笑しな光景を想い出した。

父親は、通行人から、子供が逆さまにぶら下がってることを指摘され、大あわてで助けてくれたと云う。私が、"こうもり"みたいに、逆さまで花火を見ていたと、父親は、後で、いつも大笑いしながら語っていた。

何故か、ほのぼのと想い出す人生の光景の一つ。


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April 22, 2011

地球と云う砂粒、

光は毎秒30万キロメートル進む。光は1秒で地球(周囲4万キロメートル)を7周半すると云う。

その光が1年かかるのが1光年。地球から見て一番近い星でも4.3光年の距離だと云う。

地球から10光年の範囲にある星は太陽を含めてたった8つしかないと云う。太平洋の中にピンポン玉くらいの大きさの太陽。地球は、砂粒くらいに過ぎないと云う。

地球から太陽までは光で500秒。太陽系の大きさは、光でも2ヶ月もかかる広さだと云う。銀河系の大きさは10万光年。約1000億の星があると云う。

昨日、ビジネス交流会で、そんな宇宙の話を研究者の方から聴いて、気づかなかった別世界に改めて唖然とした。

星を眺めることは、とてつもない太古の宇宙を眺めているようなものなのだ。

星を眺めて五感で感じる宇宙から、心はいつしか五感を離れて感じる宇宙のロマンに飛び出して行く。

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April 21, 2011

鎮魂の黒き喪章を胸に、今は真っ白い帆を上げる時

3月14日の卒業式を震災の影響で中止した立教新座高校の渡辺校長の、「3年生諸君へ」と題するメッセージが、週刊誌に載っていて、読んでみて、心打たれた。

こんな檄文を、高校生の時、もし私が聴いたら、どんなだっただろうかと、青春時代を懐かしく想い出した。

「鎮魂の黒き喪章を胸に、今は真っ白の帆を上げる時なのだ。愛される存在から愛する存在に変われ。愛に受身はない。」

こんなことを叫べる先生の熱血振りに、まるで、自分が高校生になったかのように、心がふるえた。

そうだ。人生も、毎朝、新たな海に、真っ白い帆を上げて漕ぎ出すように想えば、元気が出て来る。

人生の深い哀しみを抱いても、それでも、素晴らしい生命(いのち)を謳い上げるのだ。

それは、母から叩き込まれた"人生の意地"を彷彿とさせる、泣きながら歌う、厳しさと優しさの混ざった人生の讃歌なのだ。

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April 20, 2011

解決するのではなく、何を学ぶか、

人生の苦難、災難に、解決を求めてはならない。解決した気になるのは、人間を傲慢にする。

また、いずれ新たな、巨大な苦難・災難が襲う。原発問題も然りと想う。

謙虚に、ほどほどに、生きることは、寧ろ、しなやかに力強く生きる知恵だと、私は想う。

問題は、解決する為ではなく、学ぶ為にある。これも、崇高な禅の教え。

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クウェートから約450億円もの義捐金発表

4月18日、中東産油国・クウェート政府から約450億円相当の石油による震災義捐金提供(石油500万バレル)が公式に発表された。4月6日までに約1300億円集まっていたと云う義捐金に、更に、一挙に450億円相当が上乗せされることになる。

このことは、クウェート国民・約100万人が、大人も子供も全てが、一人当たり、45,000円づつ払ったことになる。また、クウェートの原油生産量の2日半分を日本に無償で提供することと同じ。

また、これを刺激に、他の産油国も同様の動きガでれば、更に、日本への支援は増す。

逆境になってみて、初めて知る、海外から日本への連帯感に、驚きと感謝。

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April 19, 2011

祈りの覚悟、

遠くで、被災者が安らかにと念じるだけでは、三流の祈り。

自分を犠牲にして、祈るのも、まだ二流の祈り。

自分が犠牲者そのものになりきって祈るのが一流の祈り。

住職は、祈りの覚悟を見抜かれていると思った。

住職は震災の日、東京駅・東京フォラム地下で夜を明かされた。寧ろ、寒い中にいたかったとおっしゃった。翌日の先生の電話口のしゃがれ声を想い出す。


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地震・津波・機銃掃射はなし

子供時代、戦争体験をした方が、今回の震災で、戦争体験を想い出された話を聴いた。

戦争の時、空襲で、瓦礫の道を歩いたことを想い出したと。

そして、今回は、"機銃掃射"が無かったことが、ちょっと違ってはいたけど、とおっしゃった。

予期せぬ"機銃掃射"と云う言葉に、私は一瞬笑い・・・、時間と共に、心の奥では、「深い気付き」に変わった。


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April 18, 2011

自力門、他力門、道は交わる

自力門は陽の道。強いが脆い、「大海」から入る道。独善に陥り易い。 いずれ大海と波が合一する。

他力門は陰の道。弱く見えるが粘り強い、「波」から入る道。念仏の道。グループボケの恐れあり。いずれ波と大海が合一する。

陰陽いずれの道でも好い。いずれ、究極的には、道は交わる。

住職は、富士の頂きへ繋がる道は、いずれでも好しと云われる。嬉しくなる。

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April 17, 2011

苦しみの共有の光景、

被災地で我慢して生活する被災者、淡々と自分の肉親の被害を語る被災者達のことを、何故そんなに淡々と語れるのですか?と住職は問われて云った。

「同じ悲しみを味わうと、エゴの壁が壊れるのです。家は潰れたけど、家族は亡くなったけど、みなも同じだと、苦しさが、軽減されるのです」と。

「みなが苦しんでいるなら、1日おにぎり1個でもいいと云う気持にもなれるのです。世の"幸せ"が、人々を「個」として切り離し、他を見えなくしているのです。」と・・・・。

世間の幸せの強調、人々が自慢する幸せは、一方では、人々を地獄へ突き落としていることでもあったことに、私は気づいた。

自分の苦しみを表現することは、人々を地獄から救い出すことでもあるのだと思った。


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April 16, 2011

「かっこいい」と云うこと、哲学カフェで考えたこと、

数日前の新宿の哲学カフェでは、「かっこいいこと」とは、どんなことなのか?を掘り下げる命題であった。

私なりに整理した考えは、人や物にかっこよく感じるには、次の二つのことが必要に感じた。

かっこよさには、"何らかの驚き"がなくてはならない。新鮮な気づきのようなもの。

かっこよさは、自然でなくてはならない。人や物に、その役割を認識した時はかっこよく感じる。人が、それぞれの人生で与えられた役を演じる役者に見える時。みなを役者だと思い、目を凝らして見れば、それぞれに名優にも見えてくる。「よっ!鳴駒屋!」とか、掛け声をかけたくなる名優もいる。

「驚きの発見」と「自然の役割の発見」か、それが人生の美の発見か。

みなが、"劇団・地球"のメンバー。

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April 15, 2011

コートを忘れて・・・・、それも縁、人生の新鮮な1ページ、

一昨日、不注意で電車の中にコートを忘れ、昨日夜、会社帰り、東京メトロの上野駅・忘れ物取り扱い所に受け取りに行った。

上野駅は、「何処かに故郷の香りを乗せて♪」の歌が自然と心に浮かんで来る。年末賑わうアメ横にも立ち寄ってみた。アメ横の売り子のお兄さんとの会話も粋に感じた。そして、如何にも上野らしい居酒屋に入り、ちょっと一杯。また、飲んだ焼酎が、「問わず、語らず、名も無き焼酎」と云う名で、名前にも酔った。

せっかくだからと、上野公園に登ってみると、木々も真っ暗で、桜も見えず、人影もまばらだった。目を凝らして、上を見上げると、桜は確かに咲いているが、ただ真っ暗で見えないだけであった。ヘえー、こんな桜もあるんだと、寧ろ、新鮮に驚いた。「心の灯りをともせば、満開の桜か」。住職の云う「法を灯とせよ」など、密かに想い出し、嬉しくもなった。

東神奈川駅まで帰って来たら、ほろ酔いの町内会の方々4人とばったり。町内に家のあるバンコク勤務の元の会社の後輩も一時帰国中で、久し振りの再会であった。居酒屋で、町内会の祭りの話などで、盛り上がり、面白い展開の一日だった。

これも、みんな私の失敗(不注意)の忘れ物がもたらしたこと、私の人生の1ページ。「参ったなー」と思う状況にも、置かれた状況を味わえば、よい味わいではないかと思った。返って来たコートに、「有難う」と云った。

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April 14, 2011

地球に不時着、

人生を、地球に不時着した存在と想像すると面白い。

宇宙船(身体・精神)の整備を終えて、お月様へ旅立つのが(魂の宇宙への回帰)、理想的な船出。

地球にいる間は、仮の、ホームステイのようなもの。

よい家族にめぐり合えたかは多少差はあるが、知合えた人々には、人生で見た光景には、去りがたい懐かしさがある。

時に、宇宙船からみた、青い地球を想像する。

何があっても、地球は、よい星ではないか。


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April 13, 2011

ラクダ → ライオン → 幼子、ニーチェへの驚き

今朝、早朝NHKの番組(100分の名著)でニーチェ、「ツアラツストラ」のことをやっていた。

私は、虚無・ニヒリズムのニーチェが、禅と通じていることに驚き、興奮を覚えた。

彼は、人間の精神の3段階の変化を説いた。

ラクダ: 重たいものを荷い、引き受ける段階。→ ライオン: これが正しいと歯向かい、否定して生きる段階。 → 幼子: 無垢に、夢中に生きる。

ニーチェの思想には、憧れの矢を放ち生きることの素晴らしさも説かれていた。

彼の、根底に流れる思想は、「永遠回帰」とのことであった。

私の心の中では、もう、これで、完璧に、ヴェーダンダ思想・禅に通じるものと一致した。

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April 12, 2011

執着、水をつかむが如し

刹那とは75分の1秒と云う。刹那、刹那に変化する物、事象は、人間の五感と云う鈍い感覚には、変化しないように見えても、実は、猛烈なスピードで変化している。

人体の60兆の細胞の死と誕生も、刹那、刹那に膨大な量で生じている出来事。執着とは、その猛烈に変化するものを、留まらせようと願うこと。

執着が悪いのではない、執着出来ないことに執着するのが辛いだけ。水をつかむが如く、無理なこと。宇宙の理に反しているから苦しいのだ。

執着してよいのは、その変化を生み出している宇宙の理。真理への執着ならば、それは解脱、涅槃へと導く。

凡そ人間が持つ執着は、人間の鈍い五感が生み出す幻、五感のなせる浅はかな勘違いかと想う。

そんな勘違いの執着も、逃れられないような、愛着も感じながら、私は生きている。勘違いを、勘違いとして思いながら。


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April 11, 2011

「見つかるまで探す」、瓦礫の中に

今朝のブログを書いた後、TVで、震災から1ヶ月が経った今も、瓦礫の中で、棒っきれを持ち、瓦礫をつついて、小さな我が子を探し続ける父親の姿が放送された。

108人中74人の行方不明の石巻・大川小学校の子供達。8歳のあどけない和(なごみ)ちゃんを、探し続ける佐々木利充さんの姿だった。あの日から、両親で、和ちゃんを探し続ける時間は止まったまま。

「見つけるまで探す」と、お父さんは云った。「見つけるまで、探す」と、今も、瓦礫をつついていた。

こんな人を見せられると、私は突き上げる想いを、抑えられない。


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神への甘え、そして懺悔、「妙好人」

住職は、経典を学ばなくても、読み書きが出来ない人でも、解脱・悟りの境涯は得られることを、ご自身の体験を通じた実例から教えてくれた。

それは、「妙好人(みょうこうにん)」と呼ばれる。住職は、「逃げられない耐えがたき苦痛、悲しみ」が土台にあり、そこに「深い信心」と、「今ここに打ち込む無私の行為(作業)」があれば、高僧のような「妙好人」を生み出すとおっしゃった。

毎日、苦悩を神仏にぶつけて泣き叫びながら祈り、作業に打ち込み、その行き着く先に、遂に、手に負えない苦悩が、悲しみの涙となって、涙が、我慢の崩壊、エゴの崩壊を促すのです。

我慢(エゴ)が崩壊し、幼児のような、神への邪心の無い"甘え"の世界に入らせしめるのです。そして、「ごめんなさい」、「ごめんなさい」と、神に思いっきり甘えるのです。悲しみからの解放です。何故なら、悲しみはエゴそのものだからです。エゴは、悲しみを通して、導いてくれたのです。

それが、「解脱」です。

この境地を、世の高僧達は修業の末に求めて来たのです。

「妙好人」の話を聴くと、私は身近に、神様を発見したような気持になれる。

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April 10, 2011

びくともしない覚悟、そして流れる歌

日航機事故で亡くなられた坂本九さんのヒット曲「上を向いて歩こう」「見上げてごらん夜の星を」などが突然流れ始めました。

今朝、そのメールに、絶句しました。

昨日、住職は云いました。「今、日本は悲しみ続けています。だから今、素晴らしいものが見えているでしょう」

「気づいて下さい。悲しみが愛なのです」と。

住職は、悲しみを突き抜けて、光りを見て下さいと、静かに説いてくれた。

震災・津波の犠牲者への追悼断食・坐禅を終えた住職は、それは、余りにも力強い覚悟で、私は、圧倒された。

「驚き、→怒り、→悲しみ、→静寂」、犠牲者は地獄のように死んで行ったのではありません。

静寂に、大きな光りを見て、新たな命を得て、転生して行ったことでしょう。と云う住職の言葉に、"生死解決"の言葉が浮かんだ。

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April 09, 2011

「永遠でなく、一番でもなく、思い通りにもならず」を愉しむ境地

人間が考える幸せの中味は、「自分は永遠であり、自分が最高で一番であって、自分の思い通りになること」がベースになっていると思われる。 ちょっと、欲張り過ぎでは無いかと思うが、そのような人間の奥深い煩悩が、仏教でも説かれている。

そのような、極めて当たり前の人間の煩悩に惑わされなくなれば、心穏かに、平穏な安らぎの人生が到来するのだと思う。

そうか!!!。 私は、忘れ去られる存在であり、と思えば、返って気が楽になる気もする。 私は、中くらいで、一番なんかじゃないからこそ、気が楽にもなれる。 自分の思い通りになったら、不気味で気持悪くて、面白くも何ともない、スリルの無い詰らない人生にも思える。思い通りにならないところに人生の醍醐味がある。

私は、永遠でもなく、一番でもなく、何事も思い通りにならない、ドッタン・バッタンの苦しみの人生であるが・・・・、待てよ、それが、隠し味の効いた、燻し銀の人生じゃないのか?

波のような存在である自分が、全く勘違いして、大海たる神の特性、永遠性などを求める、ドタバタ喜劇に没頭しているのが人生かと、滑稽さも見えて来て、可愛らしくさえ想う。

「君も役者だなー」と神様に、微笑んで、褒めて貰えそうな展開。 人生の新大陸の発見。

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April 08, 2011

嵐が通り過ぎるように、

今朝は、夜明け前から、嵐のような風が吹いていた。これも、大自然の一部。

布団の中で、嵐も、台風も地震も津波も、自然の一部であることを想い出した。

大自然の美しい光景を想い、自分が好き嫌いで、自然を見ていたことに、不図気づく。

そんな、嵐のような、荒れ狂う自然の時は、ただじっと待てば好い。

子供時代から、そうして来たように。

今朝は5時半に朝日が昇った。

いつものように、前向きな気持を拡大して、後向きな気持の存在をしりつつ相手にせず邪魔にもせず、そして今日と云うページの日をめくる。

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April 07, 2011

自分の面白い一面に、小さな驚き

昨日は、アラビア語講座の生徒の懇親会設定のアレンジを,幹事として、Email で開始した。

私が、アラビア語の授業中でも、日頃ギャグばっかり云ってるので、私は、とても面白いお笑い芸人のように思われているように感じる。私への反応が、すぐ笑いを誘う体制で身構えて、メールが入って来ることが可笑しい。

私と、顔を合わせるだけで、笑いだす人もいて、我ながら、嬉しいやら、悲しいやら、あきれるくらい。

それも、私の一面かと、自分を観察、見物する気持にもなる。

色々な面を見せて人生を生きるか? "裏を見せ、表を見せて、散る紅葉"とか、良寛和尚の句だとか、想い出した。

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April 06, 2011

不幸に恵まれると云うこと

私が、最近見た週刊誌で、「私が幸せに恵まれたのは、不幸にも恵まれたからだった」と云う記述に出遭った。「不幸に恵まれてこそ、幸せが存在する」とも、書いてあった。

「不幸に恵まれる」って発想は、ユニークで、好い。

そうだなー。不幸にだって、私にぴったりの不幸を神様は用意してくれていて、ちょうどよく好く、幸せを際立たせてくれているのではとも思う。

その微妙な、不幸の加減が、運命に味わいを与えてくれ、人生を芸術に高めてくれている。

そして私は役者。私の役になり切って演じる。それが人生。


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April 05, 2011

これが「生きる」こと・・・・、私は生きる

津波から3週間の海上漂流後、海上保安部のヘリコプターで、救助された犬が、気仙沼の避難先にいる50代男性の家族のもとに帰った。

今朝の日経新聞30面の小さな社会記事に、、掲載されていた。

「妻が動物愛護センターを訪れたところ、犬は尻尾を振って大喜び。センター職員らに見せる態度とは全く異なり、飼い主と判断した。」

「・・・・全く異なり、飼い主と判断した」と云う部分に、・・・・・、何故か、これが「生きる」ことだと、・・・・・、私の魂は叫んで泣いた。


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ソウルの日本大使館前で募金活動続ける従軍慰安婦のおばさん

昨日、インターネットで朝鮮日報の3月30日の東京特派員コラムの素晴らしい記事に感銘を受けた。

日本政府は30日、予定通りに中学校の歴史、地理、公民の教科書の検定結果を発表する。独島(日本名・竹島)は日本領だという内容が強化される見通しだ。せっかくの韓日友好ムードに冷水を浴びせるのは明らかだ。しかし、それによって、死の恐怖に苦しむ日本の平凡な人々に対する温かい心まで捨ててはならない。ソウルの日本大使館前で募金活動を続けている従軍慰安婦のおばあさんの心こそ、国の品格を高めるという事実を忘れてほしくない。ー東京=辛貞録(シン・ジョンロク)特派員の記事ー

私は、このような人達がいることで、人間を、人生を、美だと考えることが出来る。

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April 04, 2011

"津波を背に仁王立ち"渡辺巡査に敬礼、魂を揺さぶられる

週間新潮最新号に殉職者達の記事があった。もう、私は、こんな人がいたことを知るだけで、自分の人生の最高の幸せを感じる。仏陀を感じるような感動。

仙台南署の渡辺巡査部長は、押し迫る津波に気づいても、最期まで交差点で、避難誘導を仕切っていたと云う。津波を背に、仁王立ちになった渡辺巡査部長は、3月17日、交差点から200メートル離れた倒壊家屋の中から遺体となって発見された。彼は覚悟を決めていた。

気仙沼署の千田巡査部長も、パトカーで、すれ違いの車に、「津波が来るから逃げろ」と云って、海岸のほうに向かって行き、その後、津波に流されるのが見えたという。彼も覚悟を決めていた。

岩手でも、覚悟した消防団の越田さんという人がいた。避難の為、消防車に乗れと云われても、手を顔の前で振って乗らないとジェスチャーで示し、掌を前に出して行けと指示し、自分は、消防団の屯所の屋上に登って半鐘を打ち続け、殉職した越田富士夫さん。彼も覚悟を決めていた。

こんな人達が沢山いることを知り、もう言葉が無いほどの感動。

私も、こんな人達と同じ時代を生きていたことが嬉しい。もう何も云えない。何も要らない。仏性の圧倒的な光りに、眩しいほどの光りに、身を委ねる。

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April 03, 2011

不幸が似合う人生もよし

人生には、不幸が似合うくらいで丁度よい。

人生には、多少の不幸が無ければ、自分だけ幸せいっぱいでは、心苦しかろうと思う。

私には、これくらいの不幸があって当然で、寧ろ、その不幸が似合うくらいで丁度よいと考える。

不幸が似合う人生も、大自然の光景の一部ではないか。それで、よい。

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April 02, 2011

"一人占め"の発想が苦の根源?

何事も、"一人占め"の発想が苦の根源ではないか? と思う。

「何事も、自分だけのものではない、全ては共有のもの。」と思えば、守ろうとする苦しみは軽減される。全てが、一時お借りしてるもの、また本来返すべきものと思えば、執着から解放される。

"一人占め"はせず、時に借りたり、時に返したり、自由自在に生きる。

全ての存在は、かかわり合いながらも、ただそのものとして存在する。

そこには、安らぎがある。


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April 01, 2011

ひっそりと花見開始

小田原・南足柄の妹の家は、田園風景の中にある。私はいつも、早朝、散歩することが大好きである。

昨日、朝6時半、ドアを開けると、光がドーッと入って来て、ヒンヤリした空気が清々しかった。散歩道のそばには、長ネギ、シソ、大根などの小さな畑が散らばり、箱根の山々が見える。チョロチョロと、側溝の水の流れも心地よい。

何ヶ月か毎に、小田原の妹の家を訪ねるのは、まさに、行きつけの旅館にでも行くような楽しさ。

今回、山北の桜はまだ咲いていなかったが、朝日ビール工場の桜も、運動公園の高台の桜も、満開のように咲いていて、ちょっとした花見が出来た。何よりも兄・妹で二人で、桜を見て廻ることが愉しかった。

2歳違いで、小さい頃から、一緒に遊んでいたからだろうか、子供時代の懐かしい出来事を想い出したり、子供時代に使っていた言葉を想い出して大笑いしたり。

ちょっと日常を離れて、新鮮な気分になって、昨日の朝、小田原から8時過ぎの新幹線で東京へ出勤した。

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