喪失感の大きさの背景は、執着と云う名のエゴ?
人格の完成に近い人が目指すものは、周りの人に希望を失わせる死であってはならないと思う。
周りの人が、喪失感と、悲しみのあまり、生きて行けなくなるならば、亡くなった人は成仏出来るだろうか?
ひとしきり泣いたら、めそめそしないで、シャキっとして、その亡くなった人の励ましで、元気に生きて行くことが出来てこそ、その人間関係は磐石だったと云える。
己の中に、愛する対象が生き始めるような境地になれば、死による隔たりの悲しみは力を失う。
執着と云う種子は、水と光と栄養を与えれば、大きく育って人を苦しめる。執着する心は、相手にせず、邪魔にもせずで、自然消滅すると云う。
住職は、自分の身体を気遣ってくれる人に対して、「心配するな。私はどこにもいかぬ。」とおっしゃる。そして、将来、もし弟子達が悲しむならば、何の為に修業して来たのかと嘆かれると思う。思い切り、「活」を入れられると想う。
私の母もそう。今でも、時々私に、「活」を入れてくれる。
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