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February 28, 2011

「今ここ」の境地に、「私」と云う概念は消滅

禅で云う、「今ここ」の境地を住職は説明して下さった。(2/26-27館山、「生死を考える集い」にて)

住職は、[一即一切、一切即一]の境地から説き、自分を一で見て下さい、[一]と[一切]が同居していることを感じて下さいとおっしゃった。

「今ここ」の境地には、「わたしは存在しません。貴方の思いもありません。自と他の関係も在りません。」

「唯、あるべきようにある」。道元禅師は、この境地を、「春は花、夏ホトトギス、秋は月、冬雪さえて涼しかりけり」と詠まれた。

「今ここ」の境地とは、「汝はそれなり」の境地とは、無条件にして調和した、「絶対大丈夫」の世界のことであることを知った。

それは、表現することの言葉を失った境地・世界であるが故に、奥の深い、分かりにくい表現であるのだと想った。私は「今ここ」を感じる時、まだ「私」が今を感じているもどかしさが口惜しい。

子供をそーっと寝かせるように、静かに、静かに、心の中の波を静めて行って、自らも消えてしまうような禅に憧れる。そして、全ての生活、日常が禅である境地にも憧れる。

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February 27, 2011

クライストチャーチの救出を祈る、リビアの政権移行を祈る

何か、落ちつかない。ニュージランドの地震の後の倒壊した建物の中に閉じ込められている人たちの救出が進んで欲しい。行方不明の方々の写真、ご家族のこと思うと暗い気持になる。

突然訪れる自然の災害や、運命との廻り合いに、人生を改めて問う。

クライストチャーチは、私が、会社を辞め、2003年春、新しい人生を求めて旅した想い出の場所。花や木々の大自然の美しさに囲まれた、可愛く美しい街。何時間もサイクリングした想い出。南十字星を見ながら、ジャズを聴いた想い出。私の知人の安否を思う。

リビアの反政府勢力のリビア全土での拡大は、民主主義には、喜ばしいが、首都トリポリでの、政府治安部隊の取り締まり強化の報道を聞く度に、その状況を思うと恐くなる。早くこの攻防は終わって欲しい。

人間の弱さ、恐さ、を見せつけられる時、残されたものは、祈りしか無い。宇宙の意思に慈悲を賜りたく、平和な日本から、遠く夜空を見上げる。


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February 26, 2011

河津桜との遭遇

昨日は、アラブの特別休暇で、私も特別休暇の恩恵に浴した。

朝の通勤時間帯に、通勤方向とは、逆に横浜から伊豆方面に電車で向かうのは、密かな快感でもあった。

初めての河津桜に会う為に、のんびりと東海道線、伊豆急行線で、伊豆下田方面を目指した。

河津桜の咲くピンクの川べりは、鮮やかな黄色の菜の花も咲き乱れ、清らかな川の水とのコントラストが調和して、別世界の光景であった。今年は、沢山桜を見たい気持が高まった。

川べりの農家の家の前には模擬店も並び、私は、干し柿・らっきょ・梅干など買った。魚の干したのも買った。

桜の小路にある小さなステージでは、猿の曲芸・「タンポポとつくし君」もあり、私は童心に返ってお猿さんの芸を、拍手喝采して愉しんだ。

やっと初めて実現した、河津桜との遭遇。

こうして、一つ一つ、想い描いた、小さな夢を、実現させて、私の人生を形作って行く。

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February 25, 2011

じっとしてたら焼かれる思い、涙の効用、懺悔は子供に返ること、

苦しい時、じっとしていたら焼かれるような、じっとしてられないような、苦しみに合う時がある。そんな時は、人は何かし始める。

作務も好し、仕事も好し、旅も好し、歩くも好し。

インドでは、自殺者は少ないと云う。インドの人々には祈りがあるからとも云う。

人は涙する時、エゴ性がゆるむので、楽になると云う。

人は懺悔する時、頑張る大人ではなく、親に甘える子供になって、素直に「ごめんなさい」と云える。

数日前の住職の言葉のメモを書いたノートを、読み返し、心の中で反芻する。

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February 24, 2011

それぞれに違ったエサが要る生きもの、と思えば楽になる

それぞれの動物には、それぞれの特別のエサ、食物が要る。

お金のかかるエサもあれば、安上がりのエサ代で済む生きものもいる。

その特別なエサが無いと生きていけない、幸せと感じられないと云うのが、それぞれの動物の習性・本能。

私は、水と空気、太陽の光で生きて行けるような生きものでありたいと思う。お金も要からない。

こだわりのある人達には、さぞ人生は、不安で、生き辛かろう。立派な家、立派な服、美味しい豪華な食事が無いと、生きて行けない生物だったら、さぞ生き辛かろう。質素でも豪華でも、感じる幸せは同じ。

お金をそんな、他の動物の特別なエサとして見れば、哀れみさえ感じてしまう。

私と私の妹などは、質素な食事でも、兄妹で、大きな幸せを感じることができる。そんな生物であることが、人生の祝福。

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February 23, 2011

世界は、「他人の貧しさを放置した豊かさ」の崩壊を見ている

今、世界が、チュニジア・エジプト・リビアで見ているものは、何であろうか?

民の貧しさを放置して、絶大な富と権力を世襲のように独占しようとする支配者の崩壊を見ているのだと思う。

富が分配されていれば、暴動は起きない。極端な権利の不平等が無ければ、暴動は起きない。

「富の支配階層への集中」、「権利の極端な不平等」の臨界点に達した国が、自然現象のように崩壊して行く。

カタール、アブダビ、クウェート、サウジなど中東の歴史ある王制の湾岸大産油・産ガス国では、比較的人口が少なく、国民全体の豊かさに於いては、国内の暴動にはなり難い。その点、今後、アフリカ・中東より、暴動の危険な国は他の地域にも、寧ろ多いと思う。

そして、公正な選挙は、暴動を防ぐ安全弁であることを思う。

今、世界は、「他人の貧しさ、不平等を放置した貪欲」の崩壊を見ているのだと思う。それは、いずれ、国内を越え、国際的な紛争の危険をも、はらんでいることでもあると思う。

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February 22, 2011

パワーとフォース、「いる」と「する」、

何たる出会いだろうかと思った。一昨日の夕方、友人から薦められて見た映画(幸せの経済学)の後、会場で買ったインドのサテーシュ・クマール師の書籍の中身を、昨日朝、サラリと読み始めたら、その衝撃に心が震えた。

「フォースとは、軍隊や法律など他人への強制力、云わば外から与える力。パワーは、自分の内に働く力です。弱き者は、フォースを持たない人のことです。弱き者は、腕力もずる賢さも無く、花のように美しい、花はしかし、パワーに溢れている。花は、そのパワーで人を魅了します。花の力は、フォースとしての強さではありません。真の力とは、このように、控え目で優しいものなのです。パワーとは、「いる」力。フォースとは「する」力。

「いる」は非暴力的です。「する」は強引で、攻撃的で、押し付けがましい。「いる」は控え目、「いる」は、土や水や空気のように、花や木のように自然体です。」

ガンジーに魂を揺さぶられたと云うサテーシュ・クマール師、私の師事する住職も母親からガンジーのようになりなさいと云われ、修業を重ねて来られた。

「弱き者が世界を受け継ぐ」と、イエス・キリストの言葉も紹介してあった。

人間はヒューマン・ドウーイング(する存在)では無く、ヒューマン・ビーイイング(いる存在)ではありませんか?とは、感動の余り、涙顔になった私を、笑わせてくれた。


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February 21, 2011

みなとみらい案内、九州の弟の娘(高校生)が一人で上京

昨日朝8時、新横浜のプリンスホテルに、九州の弟の娘が宿泊しているので会いに行った。

高校生の一人旅は、全てが冒険の旅だったろうと思う。19日の夜・横浜アリーナでの、韓国の人気グループ・Super Juniorのショーは、すぐ近くで見れて、大変感動したとのこと。約3時間、観客は興奮の余り、席に座らず、ずーっと、立って、キャーキャーと応援したとのこと。若さってすごいなー。

明日、九州の高校では、期末試験なのに、それでも、やっぱり来て好かったと、大満足の様子。

昼の飛行機で福岡へ帰る前に、横浜を少し見学したいとの希望で、私は、みなとみらいを案内した。都会の洗練された街が、田舎と比べよっぽど素晴らしく思えたのだろう、ずーっと目を見張っていた。

駅や、街で、何枚か写真を撮ったが、これらの写真は、きっと、彼女にとって、遠い将来、素晴らしい"青春の旅"の記念写真になると思った。そこに、立ち合った私も、満面の笑顔で映っていた。そんな、特別な日曜日であった。

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February 20, 2011

駒大、西修先生、最終講義&最終落語

昨日、駒沢大学・西修先生の「最終講義・最終落語」を聴きに出掛けた。

2月15日読売新聞には、「駒大西修教授19日、最終講義も高座で」と、17日の産経新聞には「退職・最後の独演会・"またも家楽大"こと西修・駒大教授」と書かれた新聞の切り抜きも資料に頂いた。

西先生の、37年の講義の総決算の憲法の講義、そして落語に、私は立ち合えたことが、先生との縁を思い嬉しかった。

「日本国憲法は、世界の187ヶ国中、古い方から14番目」、「1999年スイス憲法にある、財政の均衡条項(支出の上限は収入を基礎)」、「"自己の安全を保持する為の手段としての交戦権の破棄"は、憲法原案から米国側からも非現実的として削除された経緯」など、私は驚きをもって傾聴させて頂いた。

西先生とは、私も20代の頃、横浜の国際交流のボランテイア団体で、ご一緒に活動したことがある。

最終講義に当たり、先生は個人的な部分の話で、二人の女性に、特別な敬意とお礼を述べたいと切り出され、研究を支えてくれた母(故人)と妻でありますとの言葉だった。その後、壇上に二人の幼いお孫さんも花束を持って登場、拍手が湧いた。

私には、このような素晴らしい人生は送れないけれど、自分を感情移入させたように、高揚した気持になった。駒大記念講堂は、会場を去りがたい暖かい空気に包まれていた。

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February 19, 2011

青木繁、没後100年

16日の日経新聞夕刊の社会面に、青木繁の下絵発見、愛知の男性所有、「海の幸」など資料60点など見出しがあった。

久留米出身の、明治の浪漫主義代表的画家と云われる青木繁、1911年、28歳の若さで結核で亡くなった

「海の幸」は、私が坐禅の会によく行く、房総・館山の布良(めら)の海岸で、1904年に描かれた。今回、布良の地名の入ったメモも見つかったと云う。

彼の「海の幸」は、大きな魚を棒に吊るして担ぐ、裸姿の荒々しい漁師達が描かれている。高校の教科書にも載っていて、よく馴染んでいた絵だったのだが、この荒々しい男達の中に、一人の顔だけ、若い女性の顔に塗り替えられていて、そして、この作品は完成したと数年前に知り、とても驚いた。

確かに、よく見てみると、こちらを見詰める女性の顔がはっきり描かれている。彼は、恋人の顔を、意図的に、作品の中の一人の漁師の顔とすり替えて描き込んでしまっている。

明治のロマンテイックな息吹きを感じる時代、漁師達の逞しい生命力、その中に最愛の恋人を描き込んだ、青木繁の芸術への気迫に圧倒される。描いた画家、描かれた恋人のロマンが、時を忘れさせる。

私の故郷のすぐそばの久留米の画家が、私がよく坐禅に訪れる館山・能忍寺のある布良の海で、この「海の幸」を描いたことが、嬉しい。

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February 18, 2011

世界的各地のデモの広がりの情景

チュニジア・エジプトのデモによる政権崩壊も、何か自然の風景のように、見えて来る。

統制と解放のニ力の作用の揺れ。統制は解放と云う反作用を、長い時間をかけて醸成する。

解放過ぎた社会は、統制された社会への揺れを増して行く。

統制、抑圧が強かった分、解放のエネルギーも大きい。経済的な貧しさは、その解放へのエネルギーを加速する。

そうやって、国際社会を見て行くと、「貧しい専制国家」は、一番崩壊へ近い。

社会の変貌も、ただ、季節の移ろいと同じような、自然界の力学の作用だと思う。

あらゆる不自然は、自然へ飲み込まれて行く。

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February 17, 2011

スペイン内乱、ピカソ、ゲルニカ

昨日、無事、欧州を旅した娘が帰国してほっとした。少し痩せてて、バックパッカーの質素な旅を思わせた。

旅の印象を聴くと、待ってましたとばかりに、あれこれ興奮気味に話してくれた。

娘は、ピカソのゲルニカや、色々な芸術作品に出遭い、スペインの内乱の事が気になったらしく、どんな内乱だったのか、質問され、私は、台頭するファシズムを勢いつかせてしまったフランコ将軍の内乱であったことを教えた。

そして、私が最近たまたま買った、「世界の歴史がわかる本(三笠書房)」のスペイン内乱部分に印を付け、娘に貸した。

旅自体が、打撃・衝撃。そこで見た、風景、芸術なども打撃・衝撃。「打撃・衝撃は、自己を学ぶ暗示なり」、住職から教えて貰った言葉を思いだす。

スペイン内乱の悲劇か。ドイツの爆撃で焦土と化した、スペインの小都市・ゲルニカを、1937年に、ピカソは戦争への憎しみ・怒りを描いた。娘が見た、ゲルニカの衝撃を思った。

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February 16, 2011

ムバラク大統領5兆3000億円の資産の地獄、哀れさ

石油は僅かしか出なく、アラブでは貧しい国の一つ、エジプトでは、人口約7800万人が苦しい生活を強いられている。そのエジプトのムバラク大統領は、5兆3000億円とも云うとてつもない資産(凡そ大産油国クウェートの年間石油収入に匹敵)を蓄えていたとの可能性の報道には・・・・・唖然とした。

人間のエゴを放置した時の、巨大な罪の深さを思う。

こんな金持ちになったら、余りにもグロテスクで、今後、国民に軽蔑され、世界中から、見捨てられたような、孤独を味わうのではないかと哀れに思う。いかなる業績があったとしても、エジプト国民の怨嗟の対象になってしまったのではないかと思う。

スラム街のように、貧しく暮らす大勢の民を抱えて、指導者が猥褻なほどの巨大な私服を肥やす罪は、余りにも精神が貧しく、未熟で、哀しくなる。

「人々が救済されるまでは、自らの救済は望まない」と云う、仏道の修業の誓願の対極にあるような、ムバラク大統領の生き方に、人間のエゴの哀れさを思う。

そして、そのような生き方の空しさを、金持ちになることの空しさを、人々に知らしめる役割を持っていた事にも思いを馳せる。

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February 15, 2011

想い出すだけで幸せになる出会い

人生には、想い出すだけで幸せになる出会いがある。

もう二度と会えない寂しさなど、吹き飛ばしてしまうほどの幸せな気分にしてくれる出会いもある。

想い出すだけで、心から幸せにしてくれる出会いは、時間も空間も超越している。

人にも、自然の光景にも、自然の生きものにも。

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February 14, 2011

私のものとさえ思わなければ・・・

全ての、色々なものごとにでも、私のものと意識した時に、穏かさが消えるような気がする。更に、私だけのものと、考えると、更に大きな苦しみが襲って来るように思う。

私は、ただ、それを見ている存在、対象を見ている存在と思えば、穏かになれるような気がする。

ただ見ているだけでも、それでも幸せになれれば、それで好い。

例えば、野生の動物。動物園で、飼われている野生の動物が、動物園で、野生の自然に近いしぐさをすれば、飼育係りは嬉しくなるように。

対象が、自分のものから、解き放たれて、その存在そのものが自然であれば、それで幸せに感じられれば、その境地は素晴らしいと想う。自分の方へ、引き寄せるではなく、ただ、そのものの存在を愛でること。それは、哀しみと喜びが同居しているような境地。

例えば、小さな、小動物を見ると、そんな崇高な気持にもなれる。

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February 13, 2011

自分を広げて行く彼方に、

我をなくすとは、全てが私になるような境地だと思う。

草原の、シマウマも私、ライオンも私。 共に私と思えば、世界観も変わる。

ムバラク大統領も私、民衆も私とか、考えてみる。哀しかったり、歓喜したり。

社会で起こる色々な事件も、それは蓄積されたエネルギー。事はなるべきようになる。ショッキングな形で起こる事も、自分の受信器が、壊れていただけかも知れない。

周りを見詰めてみると、調和とか、揺れとか、大自然の営みが見える気がする。私も、壮大な大自然の一部。身を委ねても大丈夫だと思う。

宇宙の理を想う。


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February 12, 2011

高校生の情熱、横浜アリーナ「Super Junior」上陸

九州の弟の娘(高校生)が、19日横浜アリーナのコンサートを聴きに一人で上京するとのことで驚いた。数年前まで、帰省する度に、私と遊んでいた幼い女の子が、一人旅が出来るようになったのかと驚く。

当日の朝の飛行機で東京へ来て、すぐ新横浜へ行って、コンサートを聴いて、その日の夜、新横浜のホテルで泊まって、翌日昼、また飛行機で帰るとの計画とのこと。

弟夫婦にそれぞれに、誰のコンサートかと聞いても、韓国のタレントとかしか判らず、気になっていた。インターネットで調べてみたら、韓国No.1のエンターテンメント・グループ「Super Junior」のアジアツアーの日本初上陸とのことがわかった。

ハイテイーンの女の子の人生の情熱に、私は、「ヘー」と新鮮な驚きを感じた。私の母は、昔、高校生当時の私に、、「若いだけでも財産たい」とか云っていた。時折、繁々と私を見詰め、不思議な存在・生きものでも見ているようでもあった。

弟夫婦も、そんな娘の行動を、自然の情熱ととらえ、暖かく旅に送り出しているのだろう。

横浜へ来るなら、せめて私の家に泊めてあげたいのが私の本音なのだが、私の長年の荒涼とした夫婦関係には、そんなこともしてあげられず、ちょっと心苦しい。それはそれで、弟の娘にとっては、親戚に気がねせずに済むと考えれば、気が楽になる。私は、翌朝、一人で旅して来た、「高校生の情熱さん」に、是非会いに行ってみようと思う。

「若さって、頼もしいなー」と、人生のエネルギーを、心地よく想い出す。

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February 11, 2011

欧州を旅する娘からの誕生日返信メール

昨日、朝、スペインを旅行中の娘に誕生日メッセージを送った。娘は、1月24日成田を出発以来、イタリア、フランス、を経て最後の訪問国、スペインに来週15日までいる。

スペインでは、1人旅になるので、ちょっと心配だったが、返信がすぐ来て好かった。「夜行列車で無事バルセロナに着き、昨日は、ガウデイ建築をいくつも見ました」と書いてあった。

バックパッカーの泊まるホテルにいる娘に、頼もしいやら心配やら、無事に帰って来るまで心配は尽きない。

宇宙探査機を見守る、地上の管制塔のように、固唾をのんで、交信する。娘には、宇宙から地球を見るように、自分の生命・人生を外から見れるような、そんな旅をして欲しいと思う。

そして、いずれは、娘が旅した場所に、将来私も行けたらいいなーと思う。

人生の場面を共有するのは、別々に行っても、私は幸せに想う。

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February 10, 2011

「座布団マイナス1」、「自分を√(ルート)する」

昨日、夕方、早々と会社から帰宅する東横線の電車の中で座り、ウトウトとしていたら、「座布団マイナス1」とは、座布団が頭の上の乗っているような状態とか、二人の男子高校生が冗談で話をしている声が聞こえてきて、聴き入ってしまった。

まだ幼さの残る、学生服の男子高校生が二人、ケラケラ笑いながら数学の冗談で盛り上がっていて、こちらも、その冗談に、内心拍手・喝采した。

座布団に座るのが通常だから、「座布団マイナス1」とは、座布団1が、丁度反対に位置していることで、座布団が頭の上に乗った状態をイメージして、笑っていたようであった。傑作な発想♪。

「自分を√(ルート)するとは、自分を2回かけて自分になるようなもの」とか云っていた。

自分を√(ルート)するとは、自分を分析すること。自分を二乗すると自分になる存在。過去の自分X過去の自分で、別の現在の自分になる存在。

そのもとの自分を二乗するとは、過去の自分を個体的に客観視した主体がいる。その個体的に客観視された自分を、二乗(飛躍)させると、今の成長した自分になると考えると、かっこ好い仏教哲理。(波と云う自分を、二乗していくと、大海と云う仏性に近づく)

数学で遊ぶ、高校生に、可笑しさと、頼もしさと、仏教を感じた。彼らは、こっそり現れた菩薩様だったかも知れない。


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February 09, 2011

男の習性は、新聞・ニュース好き?

昨日終業後、時々出るビジネスマンの勉強会に出席した。約25人くらいの人達が、進んで、色々自分の専門で勉強したことを話してくれて、とても役立つ。

銀行の調査部の人は為替レートのこと、研究職の人はアラブ情勢、役所関連の人は鉱業法の改正の必要性に就いてなど、それぞれの話に、感謝する。

続々と、会社帰りのサラリーマン男性が自分の時間をさいて集まり、資料も自分で用意・配布して、意欲的に発表する姿に、何故か敬意と同時に、不思議さを感じた。

「世の中の仕組みを論ずる」、「遠い世界の出来事が気になる」、「自分の得意をアピールする」とか云うのは、男の本能に根ざした部分も大きく影響しているのではないかと、私は観察した。

私の年の離れた弟が、子供の頃、TVを見て、私に、「ニュースに最終回は無いの?」と聞いて、吹き出したことがある。

ニュースに何故興味が湧くのか、それは、男は外で狩りをしたり、食料を探して、外を探検して回る遺伝子が、ニュース好きにしているのではないかと思い、苦笑する。

日頃の生活がヨレヨレになっても、新聞を読みたくなったり、海外のニュースを知りたくなったり、「それがどうしたの
?」と看護婦さんに云われそうな光景を想像して、可笑しくもなる。そう云う私も、新聞・ニュースが気になる。


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February 08, 2011

柿の木坂は駅まで3里♪

昨日、終業後、東横線・都立大学駅下車、エジプト大使館に初めて、アラビア語講座を聴講に行って試た。

目黒通りを経て、駒沢通りに向かう坂は、柿木坂との案内が書かれていた。子供時代、姉達が口ずさんでいた歌なのか、私にとっては慣れ親しんだ、有名な、「柿の木坂♪」であった。歌に歌われた「柿の木坂」は、田舎の田園風景の中にある柿の木のある坂道を歌った歌で、特にこの目黒区の柿木坂では無いとのことは、後でインターネットで調べてわかったことだが、私には、この坂のイメージが、歌にある「柿の木坂」のイメージにピッタリだった。

柿木坂を歩くのは初めてだった。初めてなのに、何故か、懐かしいような、メルヘンのような雰囲気の、長く続く、心に暖かい坂道であった。

「♪春には柿の花が咲き、♪秋には柿の実が実る。♪柿木坂は駅まで3里。♪想い出すなー故郷のよー、♪乗りあいバスの哀しい別れ。」

知らず知らず、この歌が、メロデイーが、台詞が、自然に出て来た。

乗りあいバスは、たぶん昔のボンネットのバスだったのだろう。道路脇の草花、道はバスが走ると砂ぼこりもたったであろう。セピア色をした、純真な時代の日本。

別れの一本杉♪、白い花の咲く頃♪なども、日本の美だなーと感慨に耽りながら、駅から約20分くらい歩いて、エジプト大使館に着いた。

心の中の「柿の木坂」に遭うべくして、私はやっと、「柿の木坂」に出遭ったと想った。遠い昔の家族を想う。

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February 07, 2011

朝日もよし、夕日もよし、

朝日には、これから一日が始まる楽しみがある。夕日に向かう寂しさもある。

夕日には、一日の想い出が浮かび、これから向かう闇への寂しさがある。一晩寝れば、やがて来る朝日に向かう楽しさもある。夕日には、やがて赤ちゃんが誕生するような、静かな安らぎの時を感じ取ることも出来る。

朝日も夕日もそれぞれの美しさは、比べようもない。

とどまろうと思うのは執着。とどまろうと思うから苦しい。とどまらなくても、朝日も夕日も廻って来る。

幸せは逃げない。執着さえしなければ・・・と感じる。「今 ここ」の中に、永遠性を見る。

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February 06, 2011

水を掴む、河頭に水を売る、衝撃の効用

昨日の住職の講義は、すごかった。

執着出来ないものに執着するから人生は辛い、それは水を掴むようなもの。執着出来る対象は一つしかない。それは仏性。

救済とは、河頭に水を売るようなもの。水の中にいて、水を渇望する人々に、貴方は水の中にいるのですよと気付かせること。己の仏性に気付かせること。それが救済。

打撃・衝撃は、己のエゴ性を無くすには良い。苦しみ哀しみは、強ければ、強いほど、エゴ性の放棄が出来る。エゴ性の放棄こそ、仏性。

もう何も云う言葉が続かないほどの、真理との出遭いだと想った。修業された方の覚悟に、圧倒される。

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February 05, 2011

外人に禅を伝える

昨日、新宿の坐禅会に、時々出られる米国人の若い女性も参加していた。時折、坐禅の途中で、話される住職の講話の内容を、坐禅の後の懇親会の時、要約して伝えた。

「波と大海」のこと、「春は花、夏ホトトギス、秋は月の境地」、「晴れて好し曇りても好し富士の山の境地」、など英語で伝えた。

すぐに分かってくれて、元々禅に関心がある人には、説明し易かった。

時折、リラックスして、得意の英語のギャグも交えた。彼女は少し日本語も分かるようで、私のギャグに、失笑していた。

禅の思想に触れて、人生の重い荷物が軽くなる人が多くいる。私もその一人。そして、禅の思想を伝える喜びがある。

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February 04, 2011

ブラームスの子守唄

先日、もとの会社の同期入社の友人の通夜に参列した。病気療養中だったと云う。

音楽葬で、バイオリンが演奏されていた。中に、聴き慣れたメロデイー、ブラームスの子守唄があった。

娘が赤ちゃんの時、赤ちゃんが入る寝具のような器具の中の娘に、ブラームスの子守唄のメロデイーが、流れていたことを、不図、想い出した。

葬儀の時に、子守唄のメロデイーも、少し驚いたが、寧ろ、故人を送るにも、よいものだと想った。確かに死は、新たな誕生と隣り合わせだから。もう彼の魂は、何処かの赤ちゃんとして生まれようとしているかも知れないから。

友人の死を通して、今、私が生きていることが有限であることを改めて実感した。そして、自分は、今世において残されたことは何か、私は今、何をなすべきか、何に時間を使うべきかと、改めて問い直した。

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February 03, 2011

我を忘れる自然の光景

圧倒的な自然の美しい光景など見る時、我を忘れるような時がある。

先日、伊豆下田の爪木崎の灯台のある丘を訪ねた。群青の海、島に砕ける白い波、海の見える海岸の丘陵に群生する可憐な水仙、余りの美しさに私は、呆然とした。

以前、私は、住職に、美しい光景を見て、我を忘れる境地も、大海を知るような境地ですか? と尋ねた。

住職は、便法としては正しいです、とおっしゃって、嬉しく想った。感動して我を忘れることは、誰にでも出来る。好い音楽、美しい光景、絵画なども、修業で目指す境地と似ていることが嬉しい。

我を忘れることは宇宙に溶け込むこと。宇宙と一体化すること。

人生で、自分が見る光景に、自分の視界に、美しさの面積を広げて行くことが、修業だとも思った。

そして、「ダイヤモンドも石ころも同じに見えませんか?」と云う境地が、近付いて来るような気がする。

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February 02, 2011

宇宙から隔絶された存在の意味するもの、

人は、自分が宇宙から切り離された存在と感じた時の、孤独感と恐怖は、他の人には、計り知れない。だが、宇宙から隔絶された存在と感じることは、それ自体が、既に高いものに触れている証拠である。

こんな住職の言葉に、私はちょっと戸惑い、その意味することをその後、考えてみた。

宇宙から隔絶された孤独感で連想したのが、数ヶ月前ニュースで聞いた、親からの虐待の上、ベランダで放置されて亡くなった女の子のことだった。

「そんな女の子も、既に高いものに触れて亡くなったのですか?」と、私は、住職に、勇気を出して、思い切って聴いてみた。住職は、間髪も入れずに、「そうです」とおっしゃって、私は、救われた気がした。

「自分と宇宙の両方を見ている、もう一人の自分がいる」。それが、神だと想った。それが、仏性だと想った。

以前に、「人間がこんなに 哀しいのに 主よ 海があまりに碧いのです」、と書いた碑が、長崎の遠藤周作文学館にあると聞いて、何故か、強く心に沁み、その言葉に惹かれた。 今、この言葉の意味する情景を、改めて考える。

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February 01, 2011

「一応」の英訳の遊び

日曜日、昼、観光ガイド協会の総会に出席、その後の懇親会がとても面白かった。隣に座った女性の方が、同じテーブルの方々へのフランクな挨拶に、「一応、女性です」とおっしゃって、一同キョトーンと苦笑。

その後、その方と私は、「一応、女です」って英語で何て云うのでしょう?、と話しあってみた。

Anywayとか、Generally Speaking とか云ってみて、顔を見合わせて大笑い。

「一般的には」、「とにかく」、とか思い出すだけで、笑ってしまう。

その他、私が考えた、追加の英訳、So to speak(いわゆる), Biologically(生物学的には)などにも、一人笑いが止まらなかった。

そして、今朝、思いついた新しい訳は、if you don't mind(もし よろしければ)」、我ながら、その英訳には、そこまで云うかと、「あんたに云われたくない」と云う声が返ってきそうだった。

そう云えば、「あんたに云われたくない」と云うのも、英訳したら面白そう。

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