「今ここ」の境地に、「私」と云う概念は消滅
禅で云う、「今ここ」の境地を住職は説明して下さった。(2/26-27館山、「生死を考える集い」にて)
住職は、[一即一切、一切即一]の境地から説き、自分を一で見て下さい、[一]と[一切]が同居していることを感じて下さいとおっしゃった。
「今ここ」の境地には、「わたしは存在しません。貴方の思いもありません。自と他の関係も在りません。」
「唯、あるべきようにある」。道元禅師は、この境地を、「春は花、夏ホトトギス、秋は月、冬雪さえて涼しかりけり」と詠まれた。
「今ここ」の境地とは、「汝はそれなり」の境地とは、無条件にして調和した、「絶対大丈夫」の世界のことであることを知った。
それは、表現することの言葉を失った境地・世界であるが故に、奥の深い、分かりにくい表現であるのだと想った。私は「今ここ」を感じる時、まだ「私」が今を感じているもどかしさが口惜しい。
子供をそーっと寝かせるように、静かに、静かに、心の中の波を静めて行って、自らも消えてしまうような禅に憧れる。そして、全ての生活、日常が禅である境地にも憧れる。