負けた方に、感銘を受ける柔道の凄さ
昨日夜、TVでシドニー・オリンピックの時の柔道・篠原選手の決勝の模様が、久しぶりに放送されていた。
世紀の誤審と云われた、審判のミスにも関わらず、篠原選手は、「私は、弱かったから負けた」と言い放った潔さに、改めて感涙。
「勝負は、柔らの道の修業道のための方便」、と考えた嘉納治五郎の精神の高さを、彼は表現してくれたんだと思う。そんな時に、抗議しまくり、わめいては、柔道の精神が泣く。
勝った、負けたと騒ぐことは、時に姑息な感情を生む。全てを学びのための示唆と感じ、修業して行く気概は、修業僧に似て、清々しい。
人生も似ている。世間で考える人生の勝敗のルールに囚われて、一喜一憂する人生は、薄っぺらなスポーツ精神の様なもの。スポーツで有名になっても、人格が最低な人はザラにいる。
全ては、形に囚われては、人格は磨かれない。
形の背後にある、気高いものに気づき、修業して行く姿、それは朝日の様に清々しく、輝いている。
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