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September 30, 2010

「本来」の乱用

昨今の世相で、本来と云う言葉が、特に領土問題で、よく出て来て、世論が煽られ感情的になって行く恐さを感じる。

紛争当事国が共に、本来と云う言葉を使う時、交渉の余地は無く、行く着く先は戦争による解決が浮かんで来る。

本来と考える背景を、考えなければ、説明しなければ、議論にならない。

本来と云ってしまえば、問答無用。ただ、感情的亀裂が、深まり、対立はエスカレートして行く。

戦争を避ける技術は、並大抵ではない。ただ、日常の感情の表現の延長上には、何十年に一度、周期的に、また戦争がやって来る。

本来、本来、と両国が政治家もマスコミも、国民も騒ぎ立てる延長線上には、戦車の軋む音がして来る。紛争を避ける叡智・技術が、今強く、求められている。

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September 29, 2010

光の朝を、バラの朝を、

アラビア語で、「お早うございます」は、「サバー・ヒル・ヘール」つまり、「光の朝を」と云っている。

アラブ人は、言葉遊びが好きで、「バラの朝を」(サバーヒル・ワルダ)と、云ってみたり、「ジャスミンの朝を」(サバーハル・ヤーサミン)と云ってみたりするのだと云う。

「生クリームの朝を」(サバーヒル・エシャダ)と云う人までいると云う。

「バラの朝を」とか、サラリと云えたら、かっこいいー。

ちょっと、アラビア語の勉強に興味が出て来たところ。

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September 28, 2010

時空を越えた自分との出会い

年輩の人に会えば、将来の自分を現実に見ていると思い、幼児を見れば、昔の自分を現実に見ていると思えば好い。そうすれば、人生の日常の場面に、全てが、生き生きとした臨場感が生まれて来る。

同窓に会えば、当時の私を、鏡に写った自分を見る様に、当時の私自身とも会える。

記念写真に切り取った過去が、現実に、今日、今、私の前に、何時でも、蘇らせることができる。

それは、時空を越えた自分との出会いの様なもの。

何時でも、どこでも、背後から、そっと私自身を見ている私が、確かにいる。

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September 27, 2010

コスモスの句の朝

昨日は、富士山の初冠雪のニュースを新聞で知った。家から富士の方向を見ると、曇って微かにしか見えなかったが、確かに、朝の空気や風は、すっかり秋。

そんな日の朝、TVでは、コスモスの題の俳句をやっていた。

「コスモスに 呼ばれる如く 近づきぬ」

「海に沿う プラットホーム 秋桜」

「かくれんぼ みなコスモスと なりにけり」

「コスモスの アダージョ・ ラルゴ・ モデラート」(コスモスの揺れ具合の様)

これらの句をメモしながら、ちょっと、豊かな、気分になった。

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September 26, 2010

保土ヶ谷宿、湘南台・歌声喫茶、竹芝桟橋

昨日横浜は、午前中で台風の余波も消え、晴れ間ものぞく気候になった。

私は、朝8時頃、予定とおり、旧東海道・戸塚・保土ヶ谷宿散策の会に参加するために東戸塚へ向かった。初めて歩く、旧東海道の趣、旅籠や本陣、一里塚など、ちょっと江戸時代っぽい気分を味わった。

昼は横浜市営地下鉄・湘南台へ行き、湘南レデイースアンサンブル、マンドリンギター・アンサンブルの方々出演の歌声喫茶に初めて参加した。初めて見る、素敵な湘南台の街に先ず目を見開き、数々の感動的な歌を口ずさみ、ちょっと異次元感覚にもなれた。"遠くへ行きたい"、"いい日旅立ち"、白い花の咲く頃""心の旅""坊がづる賛歌"など。

夜は、東京・竹芝桟橋の、海の見えるレストランで開催された、遊書の阿部先生の出版記念会に出席、書の持つ絵画性を改めて発見。東京湾を眺めるワオーターフロントで、外国気分の光景であった。

かくして、私の、マグロ型・回遊魚型の一日が終了。小さな驚きの収集に成功。

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September 25, 2010

一人二役の様に、「 1人65億人役」

昨日、通勤途上、下りの坂道を、赤いランドセルを背負って走り去る小学生の女の子に出遭った。

その次に、坂道を自転車を降りて押して上がって来る、おばさんと出遭った。

この2人は、全く別人ではなく、実は同じ人が、同時進行で、小学生やおばさんの役をやっているのではないかと思った。

「実は、私自身の姿を、私が見る色んな人の姿(役者振り)で、見ているのではないか? 」、一人二役の様に、1人65億人(地球上の総人口)役を私がやっているのではないか。

人間は60兆の細胞の集合体、死に往く細胞、産まれたばかりの細胞、全て私ではないか。

宇宙の意思を、それぞれの人が表していて、私も、身体も心も、宇宙の意思の一部を表している。私も、65億人と一緒に、宇宙の意思を表現している存在。

1人65億人役。全てが私。「自他一如」の世界。

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September 24, 2010

面白い遺伝子論

昨日、保育園経営者で、ヨコミネ方式教育法で有名になられた横峯吉文氏の講演を聴いた。

幼児を運動大好きにするのに、逆立ち歩きを教える。子供は逆立ち歩きを見せると、自発的にちょっとやれそうな「壁(かべ)逆立ち」をやり始め、自宅のたんすの前などでもやり始め、覚えてしまうと云う。ブロック塀渡りは、「猿の遺伝子」にスイッチが入ってしまう。愉しくなる。これで運動好き人間出来上がり。

幼児に、字数の少ない、ページ数の少ない本を与える。"りんご""かき"など簡単な単語でも、しかめっ面で、脳全体を使って、たどたどしく読んで、やっと読めたと達成感で大感動する。それで本好き人間出来上がり。

男は、人間関係下手。喧嘩する様に出来てる。男は子供時代にギャフンと叱られた経験無いと、横暴になる。

女の子は、大丈夫。母性のスイッチが自然に入って強く、賢くなる。男の子は宇宙人、教育しないと危ない。

男は仕事しないと駄目になる。ウルトラマンに憧れる。何かを、戦って守る遺伝子がある。その遺伝子のスイッチをいれないがために、夜遊びは出来て、深夜労働などは出来ない、弱い男を作り出してる。

男の子は、たたいて教育が通じる。女の子にはたたいても無駄。女の子の武器は「無視」。これには、目からうろこ。自分も人生で、無視されたこと想いだし、あれは男の子どうしの暴力に匹敵するものだったんだと悟り、苦笑。

正に、職人的な遺伝子論に苦笑しながらも、的を得ている様で、面白かった。

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September 23, 2010

種子・樹木・種子

種子は、樹木の情報を全て持っていて、即ち樹木の一形態。

樹木は、また種子に返る。

種子・樹木・種子と、変化しつつも、滅っしない。

100年後に居ないのは、肉体だけ。

私の手とは云うが、手は私ではない。

背後で、見ている私がいる。

生ぜず、滅せずの、存在がある。

それが仏性かと思う。

住職の言葉のメモを見ながら、大安心の境地を思う。

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September 22, 2010

負けた方に、感銘を受ける柔道の凄さ

昨日夜、TVでシドニー・オリンピックの時の柔道・篠原選手の決勝の模様が、久しぶりに放送されていた。

世紀の誤審と云われた、審判のミスにも関わらず、篠原選手は、「私は、弱かったから負けた」と言い放った潔さに、改めて感涙。

「勝負は、柔らの道の修業道のための方便」、と考えた嘉納治五郎の精神の高さを、彼は表現してくれたんだと思う。そんな時に、抗議しまくり、わめいては、柔道の精神が泣く。

勝った、負けたと騒ぐことは、時に姑息な感情を生む。全てを学びのための示唆と感じ、修業して行く気概は、修業僧に似て、清々しい。

人生も似ている。世間で考える人生の勝敗のルールに囚われて、一喜一憂する人生は、薄っぺらなスポーツ精神の様なもの。スポーツで有名になっても、人格が最低な人はザラにいる。

全ては、形に囚われては、人格は磨かれない。

形の背後にある、気高いものに気づき、修業して行く姿、それは朝日の様に清々しく、輝いている。

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September 21, 2010

介護短歌の美

昨日、たまたまTVで介護短歌を数首、聴いて衝撃が走った。

「もの云わぬ母の言葉を探しつつ、一人二役おしゃべりをする」

「詫びつつも、介護レトルト与えたら、目を見開きて、うまいと云う母」

「顔寄せて、何を云うかと思いきや、"あと三、四人産もうと思う"」

母と子の時間が、最後の別れを惜しむ様に流れていて、暖かい人生の情景が浮かんで来た。

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September 20, 2010

千葉・浦安へ出張して来た"大蛇山"

昨日夜、第1回、浦安フェステイバルへ、私の故郷・九州・大牟田の"大蛇山"を見に行った。

17:30くらい、JR新浦安駅へ着くと、携帯で連絡取り合う予定だった同郷の石油会社友人と、偶然すぐ会えた。一緒に、方言で話ながら、海岸方面のシンボルロードを目指して、ビールを飲みながら歩いた。

1匹の大蛇山が、"弘前ねぷた"と、壮大な"五所川原の立ちねぶた"の間に、静かに待機していた。それぞれの山車は、順番を待っているらしく、静かで、拍子抜けした。 静かだと、大蛇山は、地味で、借りて来た猫見たいに、遠慮がちに見えた。

パレードの順番が始まると、それは、花火と煙を撒き散らし、カンカンカンと鐘の音、左右に首を揺らす大蛇山が、本領発揮。 「早くからヤレヨー!」と思いながらも、その勇ましい光景にジーンと胸が熱くなった。よく、浦安まで来たねー。人見知りしながら、田舎もんの大蛇山が1っ匹、浦安に舞った。小さな子供大蛇山を後ろに連れていた。こんな遠い所まで、来てくれた"大蛇山"、「今度、絶対、大牟田に祭りの時期に帰るからね。」と、約束した。

浦安に住む、大牟田出身で同じ下宿だった大学時代の友人(夫妻)も、携帯で連絡し合って合流、4人で、ビールを飲んで、大蛇山のことを語り合った。

横浜へ帰る電車から見るデズニーランドの灯りと、"大蛇山"の組み合わせが、妙に、人生への郷愁を誘うようだった。

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September 19, 2010

英語落語の新鮮さ

昨日は、英字新聞ジャパンタイムズ発刊4万回記念、Katsura Kaishi さんの英語落語を、ジャパンタイムズ本社(芝浦)で初めて聴いた。

観客の外人の雰囲気もあり、結構、英語の落語も、新鮮で面白い。

日本語で、主人と囚人は似てるけど、英語でHusband とPrisoner と云えば大笑い。

美術館で、この絵の顔は変な顔で、「ピカソですか?」と学芸員に聞くご婦人に、「それはミラー(鏡)」ですと答え。・・・・爆笑。

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September 18, 2010

優先順位が人生、人格を決める

毎日、何に、優先順位を与えて生きているかが、その人の人生、人格を決めている様に思う。

同じ人でも、年齢と共に、生きて行く優先順位がえらく変わってしまうものだとも思う。

それが、自然の理なのだから、それで好い。

自分の置かれた立場で、関心事は、目まぐるしく変わって行く。

自分は、旅の列車の様に、車窓から変わる景色を眺めている様なもの。

そして、自分が、変化しているスピードに気づいていないことが多いものだと思う。

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September 17, 2010

「はやぶさ」の帰還に泣く心

友人から送られて来た医療関係の小冊子「いのちを語る」の中に、小惑星探査機「はやぶさ」の帰還に泣く日本人の心を描写してあった。

まるで、「はやぶさ」を自分の息子・娘の様に「地球に戻ってきたんだよ、最後に地球を見せてあげよう」と、・・・。まるで親心。最後は消滅してしまう訳ですが、地上からも見えました。まるで、子供を産むが如く子機を切り離す。その子機をオーストラリアで回収する。まるで、出産みたいなもの。それを見て、心は泣く。

物理的には、無機質な機械なのに、物としてではなく、生きものの様に見ている心が素晴らしい。

人間の仏性ではないかと思う。

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September 16, 2010

9月19日、浦安フェステイバルに大牟田の大蛇山

今週の日曜日(9月19日)、浦安フェステイバル(第1回)と云う祭りに、日本各地の祭りの山車を呼んでパレードする催しがあると云う。

"弘前ねぷた"、"五所川原ねぶた"、"大牟田・大蛇山"、"さいたま竜神"など出ると云う。

大牟田の大蛇山の勇姿を本格的に見るのは、子供時代以来になると想う。たぶん、想い出して、感極まって、胸が一杯になってしまうかも知れない。

幼児の頃、大蛇の口の中に、ちょっと入れられると元気な児になると言い伝えられ、私も、入れられそうになって、恐がって泣いた記憶もある。その後も、子供時代、何度、大蛇山を見たことだろう。

大蛇山を見終わったら、当時の家に帰り、当時の両親が待っている様な気がすることだろう。

心は、ひっそりと、大音響の大蛇山を見ることだろう。

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September 15, 2010

真理探求は「驚き」に始まる、ーアリステレスの言葉ー

昨日、哲学カフェで頂いた横山紘一先生(唯識論)の資料に、真理への追求は、"驚異"から始まり(アリストテレス)、熱愛と理性とによって遂行されるとあった。

私は、人生の基本に、"驚き"の大切さを置いたことは、私の、真理探求への渇望だったことを改めて思った。

そして、私の頭の中で、真理を、次の様なものとして再認識した。

哲学的真理とは、"波と大海"の大海の様なものに気づくこと。一元論に帰結。

宗教的真理とは、キリストの云う"愛"、即ち、"万物の調和"の様な安らぎ。一元論に帰結。

科学的真理とは、村上和雄先生(遺伝子研究)の云う、Something Great(宇宙の意思の様なもの)の様なものに気づくこと。一元論に帰結。

哲学的真理も、宗教的真理も、科学的真理も同じ一つの宇宙的意思のことかと思う。

単純にして、安らいでいる、美しい調和の世界。

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September 14, 2010

小沢嫌いと軟弱嫌いの戦い、日本の過渡期

今日は、日本の迷走を象徴する決戦の日。

国民的には人気の薄い小沢一郎氏が、指導力・人望欠如の管総理の反作用として浮上する始末。

私は、徳川家康の関が原の勝利の様に、意外な票(小早川勢)が大勢を決め、小沢氏が勝利するのではないかと思う。

だが、どちらに転んでも、この二人の戦いで、ともに倒れ、早く二人とも、政界から去って、新しい時代に道を開いて欲しい。

自らを捨てて、社会へ尽くす気概のある政治家、の誕生を望む。

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September 13, 2010

危機は、寝ている遺伝子のスイッチを入れてくれる

全ての遺伝子情報は一つの細胞の中にも込められていて、ただスイッチが切られているだけ。一つの細胞でも取りだして、それを危機状態(飢餓状態)にすると、そのOffの遺伝子のスイッチが入る。その手法でクローン羊が誕生した。

これも、先日の村上和雄先生の講演で得た衝撃。

危機は、寝ている遺伝子のスイッチをオンにする。

人生も同じだなーと思う。

危機が無いと、人間の能力も開花しない。


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September 12, 2010

「38億歳の赤ちゃん」、村上和雄先生(遺伝子研究)の表現

赤ちゃんは38億年の生命誕生以来の遺伝子をもって生まれて来る、云わば38億歳。村上和雄先生の表現に驚いた。

137億年前のビッグバンの時に生じた水素原子も、46億年前の地球誕生の痕跡も、38億年前の生命誕生以来の遺伝子も、16万年前の人類の誕生時からの遺伝子も、全ての人間には備わっている。

私が見ている人は全て、38億歳+α歳の存在。赤ちゃんも老人も、同い年みたいなもの。

ビッグバン以前に、更に、最初に遡れば、宇宙の意思が、おぼろげにも感じられる。身体は衣服の様なもの。肉体の放棄は死と云うが、「38億歳の赤ちゃん」と云う表現は、「生ぜず、滅せず」を説かれている言葉だと思う。

数年前、円覚寺の足立老師様の講話で、「ありきたりの様に見える今日も、実は、地球誕生以来46億年目にやっと到達した頂点の日でもあります。」との話も想い出した。

私は38億歳プラスα歳。

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September 11, 2010

遺伝子研究・村上和雄先生と、禅の境地

昨日は、会社がラマダン(断食)明け休暇になり、たまたま、遺伝子研究の村上和雄先生(筑波大学)の講演を聴いた。村上先生の到達なさった境地が、余りにも、坐禅の住職に聴く修業の境地と同じことに唖然とした。

万物を造り出したものを村上先生はSomething Great と名づけてらっしゃるが、それは、それは「親の親の親を辿って行く様な存在」とおっしゃった。(→白隠禅師の片手の音が聴こえる世界、闇夜のカラスが見える世界。万物を生み出した虚空世界)

大腸菌の遺伝子暗号も、人間の遺伝子暗号も、どんな生きものの遺伝子暗号も全て同じ暗号が使われている発見。(→"自他一如")

死んだ大腸菌と、生きてる大腸菌と、物質レベルでは、何ら変わらない。人間の60兆の細胞は、生も死もプログラムされ人間と云う個体を維持している。生と死はペア。(→"生ぜず、滅せず")

60兆のそれぞれの細胞は、自分の個体を維持しながら、絶えず他の細胞を助ける働きもしている。その見事な助け合いはデタラメには造られてはいない。(→本具仏性)

Something Great (宇宙の理)は、特定の子供(生物)をエコひいきしない。99.5%は、同じ。全ての生物は、自分の花を咲かせている。(→"波と大海"、大海に気づく境地)

村上和雄先生は、高僧の到達した境地を、科学の言葉で表現している。

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September 10, 2010

動物性脂肪、砂糖、ポテトチップス、カップ麺

書籍、「癌にならないぞ宣言、驚異の和食パワー」船瀬俊介著、(花伝社)に、確かにと思う食育に関する記事が書いてあった。

(1) 動物性脂肪は、汚染物質の濃縮装置の様なもの。動物性脂肪は、農薬などを濃縮・蓄積する。

(2) ポテトチップスは、発ガン物質(アクリルアミド)のWHO基準の1280倍(2002年、英国食品基準局レポート)。
油で揚げる高熱が原因。揚げ物大好き人間は短命。

(3) カップ麺は、亡国食品か?
プラスチックの容器から熱湯でしみ出す環境ホルモンの恐さ。→ 多摩川の688倍のフタル酸エステルの例も。

(4) 甘いもの好きにヒステリー多い。← 血糖値のジェットコスター現象が怒りのもと。

食育の基本は、「動物性脂肪・砂糖・インスタント食品・人工添加物」の過剰摂取の害に気づくことだと思う。

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September 09, 2010

魚は、水の一形態

私と外の世界を対峙させて生きているのが五感の世界。

外の世界に、見る対象があるのではない。

全てが私、そのものと云う感覚は好い。

魚が、水そのものを自らと見る力。

魚があって、水が生じたか?

水があって、魚が生じたか?

魚は水の一形態。

私が見るのではない。私がそれなのである。

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September 08, 2010

人間関係模様

それぞれの人に、深い個性があり、それぞれの人間関係模様がある。60兆の細胞から成る人間、1日に6万の想念が浮かぶ人間のこと、当たり前に自然なこと。

全ては、自分の業(カルマ)が生み出す人間関係模様。味わい深い、それぞれの模様。

良い人との出遭い、悪い人との出遭い、好きな人との出遭い、嫌いな人との出遭い、印象に残る人との出遭い、印象に残らない人との出遭い。

全ては、自分の内面が、織り成す光景。それは、デフォルメされた、浮世絵の様なもの。自分は、何を表現したいのか?人間関係の模様を見ればわかる。

それは、大自然を見る様な感動の光景でもある。人間関係模様も大自然の営みが作る波の様なもの。

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September 07, 2010

天国・地獄はカルマ(業)が生み出す幻

天国や地獄は、行くのではない。自分と云うカルマ(業:即ち巨大な印象気分の集合体)が生み出すものに過ぎない。先日の住職の言葉が、想い出される。

天国を表すか、地獄を表すかは、自分の印象・気分しだい。自分とは、巨大な印象・気分の集合体。

エゴを捨てて行くのが修業。エゴを捨てれば、印象・気分を取り除けば、永遠にして、安らいでいる世界がある。

修業は、獲得するものではない。ただ、捨てて、捨てて行く過程が修業。

得るのではない、ただ捨てて、身軽になって行き、己の仏性に近付く。

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September 06, 2010

的へ向かって飛ぶ矢の清々しさ

一昨日、館山で行われた、「生死を語る会」で、住職は、修業する者の"覚悟"に就いて、一本の矢の話をされた。

天地の唯一の法則に的を定め(発心)、矢を放つ様なものとの例を出された。

的を定めれば、矢は的にささるべき運命を持っている。矢は今も飛んでいる。初めと、終わりがわかれば、何億年要かろうとも、それは、手の平の上の出来事。

正しい発心(的)を立てることが大事。

覚悟とは、誓願。

今も、一本の矢が飛んでいる姿を思い浮かべると、清々しく、日々がピリッと締まる気がする。

思わず、合掌したくなる。

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September 05, 2010

2チャンネルの世界観、一元論と二元論

善悪・得失是非・好き嫌いなど、は人間が、5感6識で生きてる以上は当たり前の感覚であり、それで好い。

人間も、どれだけ修業しても、美味しいものは美味しく感じ、5感6識で動物的感覚で生きることは、逃れられない人間の定めでもある。

だが、それは、世俗的な、動物レベルの世界観のチャンネルと思えば好い。

それとは、全く違う世界の存在を垣間見る力、それが一元論世界。陰陽をセット一体として見る力、プラス・マイナスをセット・一体として見る力。様々な波を、大海として同じに見れる力。それは、安らぎの世界。大安心の世界。

一元論的世界観と二元論的世界観は、世界観・人生観のチャンネルの切り替えで、見える世界。

苦しい時、逆境の時、悲しみの時は、一元論が、私を救ってくれ、私に安らぎを与えてくれる。


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September 04, 2010

"心の世界遺産"

数年前、"心遺産"と云う言葉を、使われてる人がいて、いい響きだなーと、漠然と覚えていた。

世界遺産の様に、自分の心の中で大切にすべき、記念碑的な遺産は何か、考えてみるのも愉しい。

子供時代の本気だった夢、青春時代の憧れ、中堅社員時代の熱血価値観(ヒットラー的、屈折世界観)、アラブ世界との出遭い、一人旅した時の佐渡の山々の景色の感動、旧満州への両親の人生を知る旅、娘との二人の旅、一元論の感動(自他一如)、・・・・・・

人生には、その想い出の強烈さのマグニチュードがダントツに違う事件がある。それが、心の遺産。


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September 03, 2010

鬼のような顔をした神様、カーリー神の感動

鬼のような恐い顔をした、子供を食べてしまうような女神、カーリー神のことは、今まで、私は、気にもしなく、時々好奇心の対象くらいで、殆ど無視していた。

ところが、住職は、坐禅道場のある個室に、カーリー神を祭られていることを知った。

残虐にも、鬼の形相をして見詰めるカーリー神は、実は、こんなことまでして、自分に何かを教えようと、宇宙の理を教えようとしていると想うと、ハラハラと、泣けて来る。自己犠牲をする親のような、余りにも深い愛情を感じる。

住職が、幼児の頃、両親の離婚で、駅のホームで、親戚の人に引き取られて行く時、お母さんは、近付く自分を鬼の形相で追い返したと云う。そして、ホームの柱の陰で、ジーッと最後まで、こちらの方を見ていたと云う話を聴いたことを想い出した。

人生に試練を与えるイヤな人、悲しみを与える人、恐い人も、内心泣き叫びながら、私に何かを教えようとしているカーリー神と想えば、愛おしくなる。気づかなかった、自分が子供だったことに涙する。

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September 02, 2010

記念写真、時間の暴力

入院や、施設に入る親の部屋の整理や、亡くなった親の遺品の整理などの時、よく記念写真も出て来ると云う。

そんな体験を語る、私の友人が、大事にしていた記念写真も、その写真を持っていた人が亡くなれば、価値も無くなり、紙くずの様になる。それは"時間の暴力"みたいなものと云った。

確かに、"時間の暴力"とは、その通りに感じることもある。

圧倒的に、押し寄せる、時間の波。それも、自然なのだから、それでいいとも想う。

"時間の暴力"と"時間の癒し"は、時間に関する感情の表現。

"時間の癒し"と云えば、何事も自然の力で、浄化される様にも感じる。

そんなことを、考えながら、自分の持ってる記念写真を眺めてみる。


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September 01, 2010

無常、即ち変化、感動のもと、幸せのもと

万物は絶えず変化すると云う無常感は、哀しさ、儚さを連想させ、心地好いものでは無いイメージであったが、そうでもない様にも感じる。

変化するから感動がある。変化するから非日常がある。

もし、全てが永遠で、変化しなかったら、・・・・・退屈で、幸せなど感じない様に思う。

変化するからこそ、驚きがあるからこそ、幸せも感じることができる。変化を楽しむ境地にもなれる。

「春は花、夏ホトトギス、秋は月、冬雪冴えてすずしかりけり」の境地にもなれる。

無常とは、幸せのもとではないか。

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