因果無人
"因果無人"とは、最近、坐禅道場で、住職から聴いた言葉。
因果は、大宇宙の作用・反作用みたいな、大きなうねりの中で起きていること。そこに人の入る余地無しと云う考えとだと感じた。
そう思えば、「全ては、神の手の平の上に」と云う、大安心の世界も広がっているのが見える。
"因果無人"とは、最近、坐禅道場で、住職から聴いた言葉。
因果は、大宇宙の作用・反作用みたいな、大きなうねりの中で起きていること。そこに人の入る余地無しと云う考えとだと感じた。
そう思えば、「全ては、神の手の平の上に」と云う、大安心の世界も広がっているのが見える。
禅の道場で、食事する時、喋らないで、ただ静かに、黙々と食べる慣わしに、何か変だなーと思っていた。
食事中に会話しては、会話に気が取られ、食物に集中出来なく、食物に対する敬意、感謝の念が薄れるからと、ある時、住職にその背景を教えて貰った。
食物の生命を奪って、自分がそれを食していることの意味は、余りにも甚大。よそ見しながらとか、たわいもない会話に気を取られて、談笑しては、亡くなった生命に申し訳が立たない様に想う。
食物として私に食べられることになった生命が、こんな私にに食べられることを嘆かせてはならないと想う。
他の生命を代表して、日々私が生かされていることへの、懺悔と感謝の念を、呼び起こすには、静かに集中して食べねばならない。
家族団欒の食事、友人との会食など、食事には、会話が大切との考え方ばかりではない世界もある。そんな静かな、食事の時もたまには、味わうことが、充実した人生には必要だと思う。
幼児・子供時代の風呂場の想い出は、時折、懐かしく想い出す。
幼児の頃、小さな浴槽に、親や妹など一緒に入った時だろうか、浴槽の中にしゃがんだままで、相手の背中に付いてゆっくり回って、「♪亀さんよー、♪お前どこ行ったかー♪」とか云って、遊んでいた。
風呂に入る時、バンザイして、両手を上げて、下着を脱ぐのを手伝って貰っていた。
風呂上がりは、天花粉をいっぱいつけて貰った。今でも、天花粉は、とても懐かしい。
子供時代の風呂場の光景。
今年の夏は、夏祭りの関係で、町内会の人との付き合いが、どっぷりだったが、何だか達成感の様なものを感じて、心地よく想い出す。
8月1日(日)午前中、公園で、やぐら建て、テント張り、模擬店準備など、汗だくの作業。
8月8日(日)夕方から、模擬店手伝い。フライドポテト担当。
8月15日(日)午前中、公園で、やぐら、テント、模擬店などの撤収作業で又、汗だく。
3週間に亘り、町内会の人との交流は、とても愉しかった。とび職の棟梁との会話も、ほのぼのと感じる。
その後、自宅そばの図書館に行く坂道で、自転車に乗った近所の人と、「暑いねー」と、声をかけ合ったり、近所のスーパーで、その棟梁と偶然会って、「何買ってんだ」とか声をかけられたり、そんなやり取りに、穏かな安らぎの様なものを感じる。
今日から29日まで2泊3日、伊豆・天城山で坐禅合宿に出掛ける。
早朝真っ暗な内から、大好きな虫の声を聴き、静寂の中、夜明けと共に小鳥の声が聴ける。
少しでも、自己のカルマを忘れる瞬間があれば好い。大自然の中に私が消えてしまうひと時があれば好い。
会社のそばに慈恵医大病院があり、昼休み、その前を通る度に、慈恵医大に白血病で入院して5年くらい前に亡くなった私の友人のことを想い出す。
亡くなる、一ヶ月くらい前だったか、突然、病室から電話をかけて来て、自分の今の病状のことなど話して、それでも、亡くなる様な雰囲気の声ではなかった。それが、彼との最期の会話になってしまった。
大学時代の親しかった友人が、最後の時を迎えた場所が、この慈恵医大と想うと、すぐに、彼のことをあれこれ想い出す。
病気する直前に、お互いの仕事のこと、人生のことなど、渋谷の居酒屋で飲んで話をしたなーなど。そんな、慈恵医大の想い出。
昨日の日経夕刊に、小沢氏、「米国人好きだが単細胞」"とあり、びっくりした。
読み進むと、25日午前の自ら主催する小沢一郎政治塾での講演での発言と云う。
「米国は何でそんなに単純なのか?」「米国人を利口と思っていない」「私は、英国人を好きではない」など、信じられない発言が続いていた。
政治家として、他国の国民全体を評する発言としては、余りにも、単純で、思い切った、失礼な発言に唖然とした。
個人的体験・印象と、国民全体の評価は、分けて考えないと、冷静な人だとは思えない。大変心配な発言に感じた。
印象・気分の固まりをカルマ(業)と云う。五感六識がもたらす感覚に振り回されるのはカルマの作用。カルマは一種の闇の世界。
カルマの世界から見れば、地獄・極楽は真実。輪廻転生も真実。
カルマを離れた世界(悟り)は光。光が増せば、闇は自然消滅していく。
悟りの世界に入れば、地獄・極楽は迷信となる。輪廻転生も迷信となる。
数日前の、住職の言葉を想い出す。
先日、電車の席で、洗濯バサミで襟のスカーフの様なものを留めてる中年の男性がいて、びっくりした。
明かに、洗濯バサミ。私は、一瞬ギョッとして、注視した。
最初、不注意で洗濯バサミが、残ったままを着たのかと思ったが、やはり、意識して、洗濯バサミで、留めてらっしゃる。
その他の身なりは普通。
あの洗濯バサミの光景は一体何なのだ?。ちょっと、数日前の驚きを振り返る。
先日図書館のパンフレットで見た、神大寺地区センターの人形劇が、面白そうで、昨日午前中行って試た。小学生・幼児の親子連れが、約20家族くらいはいて、賑やかで、雰囲気がとても愉しかった。私は、「一人でもいいですか?」と受け付けの人に云って、父兄の様な顔をして、部屋の後ろの方で、見せて貰った。
小学生の女の子どうしの会話が耳に入る、「あつが、なついネー」とか、小学生らしい言葉遊びをして、ケラケラ笑っている。私は、思わず、ギャグネタ としてメモした。
隣の部屋は、地域の人の手つくりの「お化け屋敷」開催中。小学生達が並ぶ。私は、外から、チラッと中を覗いて見ると、余り怖くなさそうなところが、又、可愛らしかった。
人生が見せる、色々な光景に、内心うっとりする想いだった。
昨日昼、新宿平和記念資料館で、語り部さんの戦争体験を初めて聴いた。88歳の永野平蔵さんのフィリピンでの兵士体験と、90歳の斉藤邦雄さんのシベリア抑留体験であった。
フィリピン・ネグロス島で、属する部隊約1600名中生存者68名であったと云う。米国との戦いは大人と子供の戦いであったと云う話の例に唖然とした。日本軍が1発撃てば100発返って来る様な、圧倒的優位な米軍の物量。米軍の攻撃は日曜日、夜は攻撃が止み、ウィークデイの日中だったとの話も。戦闘中、30分休憩とか日本軍に呼びかけ、空から煙草を撒いてくれて、広沢虎蔵の浪曲まで拡声器で流して、戦意を削いだこともあったと云う。
シベリア抑留の斉藤さんは漫画を描く才能があり、色んな場面を自分の絵で表現してくれた。極寒の地で、亡くなった戦友を、収容所そばの森に埋葬するとき、戦友と云う歌を歌ったそうです。「ここはお国の何百里、離れて遠き満州の~」。これは、私の両親がよく歌っていた曲。労働した工場に反政府思想でウクライナから送られて来た女性達もいて、ニーナと云う女性が、ある時、斉藤さんに、一緒に逃げようと誘って来たことがあったと云う。彼は、その気持ちが嬉しくて、長い辛いシベリア・イルクーツクの生活に吹いた一陣の春風でしたと振り返った。
戦争を実体験した人から直接話を聴く機会は、これからドンドン減っていく。村上二郎さんと云う方がボランテイアで主催する。所沢雑学大学で、今、月に3回くらい、戦争体験を聴く会をやってらっしゃることを知った。私は、是非、所沢へも行こうと思った。
善悪、損得、得失是非など、極端に白黒の区別を付けたがるのが人の常であるが、実際は、自然界にとっては、宇宙の法則にとっては、区別は無く、ただ作用と反作用の渦巻く自然の営みがあるだけのことだと思う。
善悪、損得も、光と闇に似て、一つのセットとして存在している。ただ人間として、その見え方が違うだけ。
そして、その善悪、損得のそれぞれの面積を大きく増幅したり、縮小して生きることはできる。その面積が、人格者も犯罪者も作る。比較として、裕福な人も貧乏な人も作る。
善悪全ての要素は、夫々の人間から消し去ることは出来ない。でも、面積は、修業で自由自在。
どんなに不幸な目に合っても、自分が恵まれている要素に気づき感謝することの素晴らしさ。自分が無意識に犯している悪(罪)への懺悔の気持ちの大切さがわかる気がする。
感謝と懺悔、これが修業の両輪、何れが欠けても修業にはならないと想う。
今朝、新聞の書籍広告に「拝金」と云う書籍の本の広告が載っていた。
お金を崇拝する「拝金」と云う響きに、病的な執着の極みを感じた。修業の正反対の境地。
お金は、人生を思い通りに出来る特効薬の様に見える蜃気楼に過ぎないと私は思う。
お金は、我がままの象徴。そこまで、自分の我がままを解放するために、拝金になるのかと、哀れになって来る。
拝金になるより、もっと大切な価値観に、早く目覚めなければ、人生は辛いと思う。渇いて渇いて、安らぎは無いと思う。
「拝金」への興味は、それぞれの人が、自分が解決しなければならない、今生の「業(ごう)」、地獄の一部だと想う。
「看取り医師が教える、人が死ぬ前に本当に後悔すること」と云う記事が、今週の週間朝日に載っていて、読んでみた。
健康を大切にしなかったこと。やりたいことをやらなかったこと。夢をかなえられなかったこと。感情に振り回されたこと。他人に優しくしなかったこと。自分が一番と信じて疑わなかったこと。故郷に帰らなかったこと。仕事ばかりで趣味に時間を割かなかったこと。行きたい場所に旅行しなかったこと。会いたい人に会っておかなかったこと。記憶に残る恋愛をしなかったこと。自分の生きた証しを残さなかったこと。愛する人に「ありがとう」って云えなかったこと。
数々の後悔の例が並んでいた。
私が、長年勤めた会社を早期退職で辞めて、生き方に彷徨ったのは、この様な後悔が迫るのを感じたからだった。
その会社を辞めてから8年が経った現在。今は、自分を離れることの素晴らしさ、に新たな価値観を見出して生きる。
昨日は、小田原の妹の家から朝、8時の新幹線で出勤した。一昨日(8/16)、18:00時、終業後、品川から新幹線で小田原へ直行。お盆に、妹の家を訪問、寿司を買って妹家族と一緒に食べた。
いつもの様に、昨日(8/17)は早朝、妹の家の前の田園風景を散歩した。
水田の香りの素晴らしさ、ただ、ただ感動。青々と風にそよぐ、瑞々しい稲の穂。畑のナスの、濃い紫色が輝いていた。用水路にチョロチョロ流れる水の音。カエルが飛び乗りそうな、水芋の大きな葉。小さいながら、真っ赤な色でアピールしている胡椒の派手さ。
小田原・開成の山々は、私の故郷・大牟田の三池山、大間山の形ととても似ている。
私は、懐かしい水田の香りに圧倒され、田園風景に漂う風になった様な、安らぎを感じた。そんな夏の日の朝。
日々、色々な小さな驚きに囲まれて生きていくと、又、好奇心に包まれて周りを見ていると、人生そのものが、子供達が経験するホームステイの様なものではないかとも想えてくる。
本来は、お月様が実家で、地球にホームステイに来て、そこに地球の受け入れ家族がいて、色々な好奇心を刺激される体験をして、又、月へ返って行く。それが、人生ではないか。
毎日、こんなことがあった、あんなことがあったと、実家の月へ報告したり、人生は、そんなロマンチックな時間でもあると想う。
そんな気持ちで月を見上げると、両親が微笑む姿が見えて来る。
昨日は初めて、精霊流しを見ることが出来た。横浜で灯篭流しを見れるとは、感激だった。
横浜・上大岡の大岡川の笹野橋から青木橋、繁華街のアーケードの端の大久保橋と、お盆の日、灯篭は緩やかに、幻想的に流れて行った。夜7時半、僧侶の読経の後、灯篭は一つづつ、川へ流されて行った。川の沿道には、沢山の人が、見送った。その光景は、人生の生と死の一体となった様を見る想いだった。
私は、長崎で母が見たであろう精霊流しを想像した。今、流れていく、精霊が、父であり、母ではないかと想うと、懐かしく、愛おしく、胸がこみ上げた。
帰りに京浜急行で、仲木戸駅で降りて、一昨日も行ってみた熊野神社へ向かった。夜9時頃、神社では、昔ながらの「里神楽」をやっていた。神社の舞殿で、おごそかに、土師流、里神楽・横越社中の方々の、舞いが行われていた。大都会の真ん中で、まだこの様な、五穀豊穣を祝う、昔ながらの舞いが行われているんだと、驚いた。舞いの後、圧巻は、餅撒きの儀があり、神社の人達が、観衆へ向かって、餅を撒いて、振舞った。私は、童心に返って、歓声を上げて餅を追った。成果は、セロハンに包まれた餅を一個、ゲット。
帰りに、内心ニヤリとしながら、そのつきたての小さな餅を食べた。その美味しかったこと。
昨日は午前中、渋谷Nシアターで、ヒットラーの記録映画"我が闘争"を見た。あれだけの残虐な奇行・蛮行をやってしまう人間の闇、人々もまた同じ、集団の狂気に、改めて愕然とした。900万人が収容所で殺されたと云う。ポーランドのゲットー(ユダヤ人居住区)に、押し込められて、痩せ細って死にゆく、ユダヤ人の様子の映像も残っていた。
午後、地元、東神奈川の熊野神社の奉納歌謡大会を覗いてみたら、ご年輩の方々のカラオケ発表大会で、中々、味わい深く、暫く椅子に座って聴かせて貰った。アイヌの模様の様な羽織を着て、杖をつきながら出て来られた老紳士が歌った"イヨマンテの夜"が、何故か人生を感じ、心惹かれた。数日前にTVで見た、戦時中の日本軍を慰問して回ったワラワシ隊のミス・ワカナの芸を笑いながら、愉しんでいた軍人の写真を、何故か想い出したりした。
夜は、地元のジャズ喫茶へ、山本剛さんのピアノトリオのライブを聴きに行った。以前私が、新聞の切り抜きを持って行った、山本剛さんのミステイーに関するコラムを、アナウンサー出身のママさんが朗読してくれて、ミステイーを聴いた。
人生の不思議さ、神秘さ、過酷さ、幸せ、など入り乱れた情景が、私に浮かんだ日だった。
60兆の細胞から成り、1日に6万もの想念が浮かんで来る人間は、やはり大宇宙だと想う。
自分が、その中で、小さなどの部分を表現して生きていくのかが、その人の個性。
全ての人には、マザーテレサの要素も、秋葉原殺人事件犯人の要素も、世の中で見るありとあらゆる人の要素を持っているのではと想う。
どの部分を、その人が、人生で、強調し、表現するのかが、その人の人生を決める。
「全ては、私である」と想えば、宇宙の調和を感じられるような気がする。
昨日、元の会社の先輩、家裁調停委員の先輩と3人で、横浜で暑気払い懇親をした。
会社の同じ部だった先輩が、私のアラブ駐在時代、私がこまめに書いていた、アラブからのレポートFaxを、当時本社の幹部達が、大変評価していたと云ってくれた。当時、そんなに云われてはなかったので、今更ながらとても嬉しかった。
1989年ー1992年当時、私は、私の下手な字の手書きで、頻繁に、アラブでの出来事を手短かに、本社へFaxでレポートしていた。愉しかった日々。全てが好奇心の対象だった。
2004年ー2006年の、家裁調停委員の仕事も、別世界体験だったなー。
調停委員の先輩も、同じ石油会社出身のOBで、3人の話は、盛り上がった。
幼い子供を見ていると、幼少期は、神の名残の期間だと思う。
思春期は、芸術の期間。
青年期は、弱肉強食に明け暮れる、恐竜時代の様なもの。
熟年期は、神の名残を、想い出す時。
それは、年代毎に訪れる様であるが、短い一日の中でも、同じ人の中にも、絶えず、その様な時が、入り乱れて起きている。
それを、道元禅師は、「春は花、夏ホトトギス、秋は月、冬雪冴えて涼しかりけり」と、詠んだんだろうと想う。
今日から、中東では、イスラム教徒はラマダン月が始まる。日の出から日没までは、飲み物・食べ物を口にしない。
毎年、このラマダンは、イスラム暦のため、11日づつ早まって行く。
私は、日本人で仏教徒だから、ラマダン(断食)はしないが、アラブ人との仕事だから、ラマダンの影響は大きい。今朝は、「ラマダン・ムバラク」(ラマダン・おめでとう)と挨拶を交わす。
ラマダンは云わば、プチ断食に似ている。身体の調子を整える、定期検査・車の車検みたいなものかとも思う。身体の器官は、食べ物が無いと、フルに機能を発揮して、身体を整えようとする。
そして、豊かになっても、貧しさを思い出す機会。貧しい人へを思いやる気持ちを培う。
人生には、色々なラマダン(断食)が必要だと思う。
食べ物以外にも、お金のラマダン、お酒のラマダン、孤独を味わってみるラマダンなども好いかも知れない。
数日前の夜、私が降りる白楽駅は、横浜駅より手前の各駅停車の駅なのに、乗りっぱなして、横浜駅まで行ってしまってがっくり。
行き過ぎた横浜駅から、また逆向きの渋谷行きに乗ったら、それが急行で、また自分の降りる白楽駅を通り過ぎて、菊名まで行ってしまった。失敗のハシゴ。
これじゃ、何時までたっても、帰れはしないと、自分の不注意に呆然。
口惜しいから、不注意で行ってしまった、菊名で降りて、駅ビルで営業のスーパーで食材の買い物。これで、こ私の今日のアホな展開に、一矢報いた気持ち。
「魚のように流れに逆らって泳げず、流れに逆らえず漂って流れるのがプランクトン」など、何故かプランクトンの定義など想い出して、苦笑。
昨日朝は、月の一度の気功。蟻んこが、地球と宇宙の気のやり取りを仲介するような、壮大な気持ちをちょっと感じた。
午後、新宿の平和記念フォラムで、高校生の平和記念ビデオ製作コンクール作品を鑑賞した。平和祈念展示資料館では、夏休み期間中、戦争や抑留体験者の"語り部"さんが来館して、話をしてくれると云う。私も、聴いてみたくなった。
夜は、町内会の夏祭り。地元の子供達の、ちっちゃな浴衣姿。私は、今年はポテトの販売の模擬店を担当した。子供達が、模擬店に並び、小遣いで買い物する時の、しゃべり方の可愛いこと。
私は、ポテト完売の後、東京音頭、炭鉱節など、盆踊の輪に加わった。"きよしのズンドコ節"などもあった。小中学生の、ソーラン節の振り付けの演技は、可愛く、カッコ好かった。
後片付けの後、地元の人と、町内会館で、11時過ぎまで飲んで、バタンキュウーの夏祭りの日だった。
昨日、午前中、鶴見小野駅の横浜市立・横浜サイエンス・フロンテイア高校の教育祭りに行ってみた。見慣れたJR鶴見駅を鶴見線でちょっと離れると、もうそこは、レトロな空間、別世界への扉のようだった。
ちっちゃい子、小学生、中学生の参加者が多い中、語学学習団体ヒッポファミリークラブは、「量子力学の冒険」と云う、劇をやっていた。
「物理も、自然を説明する言葉だった」ことを発見とか、「光は、見ると粒子になり、見ないと波になる」発見など、実験を通しての、すごい気づきに、私は、呆然。
私は、禅や唯識論を、すぐ想起した。
このような、子供達の文化祭のような催しで、崇高な哲学に触れようとは・・・・・・。教育祭りの参加者への土産に、平賀源内のエレキテル、文房具、書籍、醤油など入っていた。醤油の意外性にも、驚いた。とにかく、日々は、小さな驚きに満ちている。
今朝は、いつものように早朝、日経新聞に目を通していたら、3面の下の広告欄に、姜尚中さんの「母」と云う題の書籍が紹介されていた。
母と子の古い写真があり、母の生々しい言葉が綴られていた。母の遺品から見つかったテープは、字がかけなかった母からのラストメッセージだった。
「お前と二人だけの話ばしたかっとたい」、「オモニは長く生きられん。そう思ったけん、こがんしてお前に声の便りば残しておこうと考えたとたい。」
「オモニは幸せだったばい。苦労もしたばってん、よか人達に出会えて」
これが、冷静に読み進められるだろうか。まるで、私は、私の母の肉声を聴く想いだった。
感動の爆風で飛ばされるような、全てが、吹っ飛んでしまうような、母の優しさの懐かしさであった。
1989年の私のアブダビ時代をよく知る商社の友人と、昨日久しぶりに居酒屋で懇親した。
アブダビ事務所立ち上げ準備のため、出張していた頃、「アブダビのホテル事情を体験する為、4ヶ所のホテルを泊まり歩きましたね。ベリーダンスをよく見に行きましたね。」とかの想い出話に、「エッ、そうでしたっけ?よく覚えていますね。」と私は、忘れかけていた当時を振り返って、懐かしく思った。
今後の駐在事務所として、云わば"駅前旅館"的機能を果たすため、現地事情を知りたく、エネルギッシュに活動した。それがとても楽しかった日々。
私が、当時どうであったかの印象を、あれこれ聞くと、当時の自分が、一個の別の人間がそこにいたようにも感じる。当時、私が、バミューダに革靴のとんでもない格好で写った写真もあると云う。
昔から、私のギャグには参りましたとのこと。
今は、会社を離れた個人としての、想い出話の数々に、お互いの人生の光景が浮かび上がる。
昨日、朝9時頃、通勤途上、神谷町の会社への道の街路樹に、沢山の蝉が鳴いていた。余りにも木々の低い位置で鳴いていたので、手で、ドンドン捕まえてみた。
蝉を捕まえるのは、私の本能のように思えて、ドキドキするくらい楽しかった。
ミンミン蝉3匹、アブラ蝉1匹、ちーちー蝉1匹、合計5匹を、立て続けに確保して、またすぐ、解放。子供の時に感じた蝉の感触を、確かめて、会社には持っていけないから、すぐ解放した。
1週間の命だから、頑張って鳴けよと、激励して釈放。
以前、会社に持って行ったら、アラブ人も会社の女性も、蝉を余り歓迎しなかった。私は、箱へ入れて、また暫くして、解放せざるを得なかった。アラブ人にとっては、蜂(ハチ)の親玉のように見えるらしい。
蝉の声も、日本に来て最初、至ところで電線がショートしてるのじゃないかと思ったと云うので傑作。
通勤途上、サラリーマン・OLがゾロゾロ歩く中で、私は数分、童心に返って、蝉取りに興じた。
昨日夜、36年前、ソ連の圧力で封印された映画、「樺太1945年夏、氷雪の門」を見た。
1905年ー1945年、40万人の日本人が暮らした樺太。豊原、真岡の街並み、当時の日本人の生活を映像で見れて良かった。私の両親の満洲での体験を、擬似体験する様な想いで、私は、この映画をどうしても見たかった。
8月20日、真岡郵便局で、9人の電話交換手の乙女達が、迫る来るソ連兵の緊迫した状況の中、「皆さん、これが最後です。さようなら、さようなら」と告げて、青酸カリで自決した。
樺太をまじかに望む、対岸の稚内には、樺太で亡くなった全ての人々のために建つ氷雪の門、と女人像があると云う。私も、いつか、必ず訪れたい場所。
8月9日ソ連軍の攻撃が始まり、樺太のソ連国境の町々から、ソ連軍の攻撃を逃れて、歩いて南を目指す難民の集団。その、逃避行の映像は、強く、私の母親の人生を想起させた。母も当時、青酸カリを持っていた。
余りにも、人生が過酷で、ただ、呆然とこの映画を見た。
そして、「打撃、衝撃は、己を学ぶためのきっかけである」との、日頃の住職の言葉を想い出した。
夏の朝、新聞を取りに玄関を開けると、今朝は、涼しくて清々しい空気。
小さな薄紫に咲く朝顔を見る。
誰もいない広々とした道路に猫が堂々と一匹寝そべる。
いつもの様に、朝のシャワーを浴びて、シッカロール(天花粉)が心地よい。
朝日、朝から鳴く蝉の声に、「今 ここ」を感じる。
昨日の朝8時過ぎからの作業は約20名の町内の男性が集まり、着々と夏祭り準備は進んだ。私は、とび職の棟梁(79歳)との会話がいつも愉しい。一緒の作業中、「スイヘイ」(水平を見る棒状の器具)を見てくれと頼まれ、スイヘイと云う器具を当てると、「馬鹿!、そんなとこ当ててどうすんだ!」と云う声、これがいいんだなー。東北出身の棟梁は、73歳まで、働いたんだと。20代の時、雪の中で酔っ払って寝て、死にかけてから、酒は止めたと云う昔話も聴いた。
午後は、浜離宮ホールで東京農大コーラス、コールファーマーの演奏鑑賞。島崎藤村の初恋、佐藤春夫の浜辺の恋(小椋佳作曲)などに、詩とメロデイーの美の世界に、ジーンときた。島崎藤村や佐藤春夫を、読み返してみたくなった。
夜の二俣川・万騎が原の森に、ジャズが響きわたっていた。アルトサックスの"Fly Me To The Moon"、私も、英語で口ずさんだ。
去年立ち寄った、二俣川駅前のびっくり寿司は今年は閉店されていた。昨日は、横浜の花火大会の日だったので、沢山の若者の浴衣姿を横浜駅で見ながら、帰った。色々な光景に、深い人生の場面を、味わいながら。
今日は、来週の町内会の夏祭りの準備の作業の日、公園にやぐら建てや、テント張りなど、労働奉仕の日。
肉体労働で、汗だくになるのも、たまには好い。これも修業のうち。
午後は、浜離宮朝日ホールで行われる東京農大のコーラス演奏会へ、夜は、旭ジャズフェステバルへ。
今日、2010年の8月が始まる。