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June 30, 2010

小さな救出作戦

私は、道路でミミズを見かけると、必ず救出してあげることを、何故か習慣としている。

木の枝のような棒で引っ掛けて、茂みや畑のような地面のある場所へ移動させて、救出する。

通勤途上とか、急いでいる時でも、見かけたら救わない訳にはいかない。

放って置くと、干からびるか、踏まれて死ぬ運命の、道路上のミミズは、死への旅の途上。

枝で、触れると、攻撃されたかと思って、バタつくミミズも多いが、移動して置かれた場所で、救出されたことに気づくと思う。

こんな小さな救出作戦も、宇宙の調和の一部。

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June 29, 2010

お金は葉っぱ

最低限の衣食住に必要なお金は、確かに死活問題。衣食住には、最低限度のお金が無くてはどうにもならない。だからお金は、とても大切なもの。

だが、衣食住を越えて、お金を積み上げていっても、その価値は、みるみる落ちて行く。

ちょっと衣食住以上にお金は、あっても、大して幸せにもなる訳では無いことに気づく。

お金も、ついには、単なる葉っぱと同じくらい価値が無くなる。狐に騙された葉っぱのお金だったことに気づく。

何億も世間の常識を越えて収入を貰っても、貧富の差が拡大する中、人に軽蔑されたりしては、寧ろ不幸。

葉っぱが、とても大事だったり、くだらなかったり。葉っぱに踊らされる生き方は、まさに滑稽。

人間にとってのお金、自然界にとっての葉っぱ。見ている人間の妄想。

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June 28, 2010

親父ギャグと語学の奇妙な関係

一昨日、語学学習クラブHippoのイヴェントがあり、参加したメンバーと、沢山のギャグ交流も出来、脳が刺激された。

外人が日本語を勘違いして、喋った実例傑作。食事をした後、「ご馳走様」と云うのを、→「おじぞう様」。
「交差点で会いましょう」 →それ、もしかして、喫茶店じゃないかい?
「なまにく、発車します」→ 「まもなく」が何で、「なまにく」になんの?

頭がガチャガチャのギャグ発見。
「You might think today some fish」 → 「云うまいと、思えど、今日の寒さかな。」、 冬はSome Fish だなー 。「溺れるものは、ワラはは姫じゃ?」の症例と同じ。頭が交通事故起してる。絶対安静を要する。

鍵を落っことして、→ 「今度から、Keyつけやー」だって、→じゃかましいやい。

「一つ宜しくお願いします」を、「One Please」なんか云って、何が国際人だ。

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June 27, 2010

躁(そう)の人が動かす世界

政治も経済も社会も、やる気の溢れたリーダーが、良きにつけ、悪しきにつけ、動かしているように思う。

活気溢れるリーダーは、何かにとりつかれたかの様に、熱っぽく語る。

熱っぽく過ぎて、リズムが付いて行けず、息苦しささえも感じる時がある。

それは、躁鬱の、躁(そう)状態ではないのかと私は思う。

鬱(うつ)も、躁(そう)も、どちらも、やはり病。

治療、安静を要する人が、意外と世界を動かしている。可笑しな発見。


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June 26, 2010

「車窓のあぜ道」の詩

列車の車窓から畑や、水田のあぜ道を見ると、いつも母と二人で、そのあぜ道を歩きたいと憧れる。

それが、私の旅の情景。

そして、人生の旅。

ずっと続く、畑の、優しいあぜ道を見る。

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June 25, 2010

介護的人間関係の怪

身体的には健康な人どうしでも、どちらかの世話ばかりする介護的人間関係は、一方的に負担が大きく、辛いだろうと思う。介護は、一日を、誰かと分担するなり、しないと精神的にも参ってしまう。

仲の好い人間どうしに見えても、介護的人間関係では、安らぎは無いと思う。ぎこちない二人三脚の人間関係は、苦しさに於いては孤独に劣らない。

一人でも、生きて行ける人間どうしで、寄り添って生きて行けたら、それは安らぎ。一人でも二人でも、どちらでも、力強く生きて行けるようになること、それが修業。


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June 24, 2010

食するに値するかと云う自問

地球に存在する生命を、個として見なく、"生命の共同体"と見る考えは、素晴らしい。穏かな境地への扉であると思う。

生命は、他の生命を食して生きて行く。植物は、有り余るエネルギーを、他に食されることを前提として生き、動物達にそれ自体を与える。そして、そのエネルギーは動物達の中に生きて行く。

魚を食べる時、動物を食べる時、「自分は、他の生命を頂くに値する人間か?」と問う。

「他の生命を、受け取れる資格があるか?」と問う。

宇宙を、地球を、一つの生命体として見ると、全てが愛おしく、調和して見える。


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June 23, 2010

それぞれの、「はやぶさ」の旅

宇宙6億キロを飛び、目指す惑星を探査後、苦難を乗り越え、管制塔からの懸命の操作で、7年振りに無事地球に帰還した、「はやぶさ」のニュースは、感動的であった。

私は、人生も、それぞれの「はやぶさ」の旅だと想う。

管制塔が、見守る両親のような、また神のような存在。何ヶ月も連絡が途絶え、宇宙の屑に消えたかに思えた、傷ついた「はやぶさ」が、再び交信が出来た時の喜び。

管制塔からの、祈るような、指示が通じたのか、「はやぶさ」は幾多の障害・苦難を乗り越え、無事地球へ帰還出来た。

人生も、同じだと想う。管制塔で見守る人達の真剣な顔、顔、顔・・・・・。そのことに気づいて、私は、人生を探査する役目を果たし、無事帰還を目指したい。

人生が究極に目指すものは、導いてくれた、その管制塔の人々の歓声である。

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June 22, 2010

食育、ジャズ、坐禅、そして旅

日曜から、月曜にかけて、2日間で、仙台・一関・藤沢と行動した。

日曜日は、仙台で昼開催の医師講演会、「医者は病気を治せない」の著者・内藤政人先生の講演を聴きに行った。

そして、その後、仙台から新幹線で30分の一関の、ジャズファンのメッカと云われる、ジャズ喫茶"ベーシー"に、遂に念願叶って行くことが出来た。一関は平泉で有名だが、芭蕉が訪れた最北端の庵跡などもあるが、何と云っても、ジャズファンには、この"Basie"と云う店が気になる。やっと、初めて訪れることが出来て、一つの大きなPending List を解消することが出来た。数年前に訪れたニューオリンズのことも想い出した。本気でジャズを味わえる雰囲気の店であった。

人影もまばらな、静かな、一関の街を、散策して、何か昔の日本の街並み・雰囲気を想い出した。月曜日の朝は、磐井川の川辺を散歩した。安倍氏、清原氏、藤原氏と栄えた奥州を、ちょっと身近に感じた。

昨日の昼、新幹線で、東京へ帰着。その足で、藤沢の坐禅会に出席した。月曜年休をとって、日曜・月曜の2日間で、仙台・一関・藤沢の旅を達成。 絶えず海を回遊すると云うマグロ。私も、マグロのような習性をもっているように思った。

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June 21, 2010

遠くて、近いものを食する

健康の為に、人間の合った食事とは、「遠くて、近いものを食する」と云うことを、一昨日、老師様はおっしゃった。

遠いものとは、人間から遠いものとは、魚、植物などである。動物は、人間に近くなる。確かに、その通りではないかと思う。自然界は、そのように造ったのだろうと思う。

近いものは、地産地消の、なるべく地元の食べ物と云う原則。

「遠くて、近いものを食べる」と云う原則は、印象深く、覚え易い指針だと思った。

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June 20, 2010

太陽の光は、いくらやろ?

昨日は、博多で開催の三池高校同窓会参加を断念して、昼、鎌倉・で有名なお寺の老師様の話を聴く会に出席した。1ヵ月程前に知合った方のご縁で、数人で、老師様と直接お話をさせて頂く機会に恵まれた。

何気ない会話の流れに、確かな老師様の深さを感じた。帰り際に、参加者10人全員に、今日の記念にと、一編の詩のコピーを下さった。

「太陽は、みんなに いっぱい、いっぱい、光をくれはる。 ねだんをつけたら いくらくらいするやろ。 お日さまは、空気は、みな ただや。 そやから 感謝せんと、返さんとあかん。 奉仕しかないよ。 -大川フサ子ー」

私は、この詩を、コピーして、弟、姉、妹、娘にも配ろうと思った。

昔、お爺ちゃんが、毎朝、起きると、朝日の方向に向かって、手を合わせる姿を見て、子供ながらに、変な爺ちゃんと想っていた。その光景が、この詩から、確かに、呼び覚まされるような想いだった。


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June 19, 2010

それぞれの場所に咲く

人生で、いつも一緒にいたいと願う人との人間関係も、それぞれの場所に咲く花と想えば好い。

心が通じれば、同じ場所の地面に居なくても好い。それぞれの、遠く離れた場所でも好い。それぞれ違った時代でも好い。それぞれの場所で、お互いが、咲けば、ほのぼのとお互いの心の中では繋がっている。

それが、それぞれに輝くこと。

物理的な執着を解き放った時の、開放感は、素晴らしい。

自然界に馴染んで生きるとは、そう云う生き方ではないかと思う。 それぞれの場所に咲く。

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June 18, 2010

空虚な商売用語、商売挨拶の怪

仕事で、取引先どうし、色々な会話が交わされるが、空虚で滑稽な、決まり文句に、いつも苦笑する。実質的に、何ら意味を持っていない会話のやり取りが多いことに驚く。

耳ざわりは悪く無いが、結局、現実は、露骨な利害のぶつかり合いになる時は、商売挨拶の滑稽さが特に際立つ。

「夏は熱い、冬は寒い、昼は明るい、夜は暗い・・・・」など、とうとうと長く演説するような、商売挨拶には閉口する。

ビジネスマンも、社会に奉仕するような使命感に燃えた立派な理念を持って、本心で実質的なことを、語って欲しいと思う。


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June 17, 2010

会社、違った景色

昨日夜、横浜で、元の会社のOBの有志同窓(8人)の会食に参加した。全員、同じ部の先輩で、私が若手の頃、先輩達が係長や課長や副部長であった時代を想い出す。

この会では、私が、現役の最若手で、お世話役。半年に一度、ホテルの会場などをセット、Emailで案内連絡をする。

先輩達のたわいない、日常の話の談笑が、何故か音楽のように、心地好かった。下町の路地裏で、時折聞こえて来る子供達の歓声などにも似た、何か穏かな日常を感じさせてくれた。

先輩達も最前線の企業戦士だった頃は、ギスギスした仕事の関係だった。それが、今では、"恩讐の彼方に"って感じになって、穏かに、相手を眺める。

そして、当時の役職など、人間の評価には全然関係無かった事に気づく。当時の会社が、全く違った景色に見えて来る。そして、私は、その変化に、人生の素晴らしさを感じる。

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June 16, 2010

「お大事に」と云いたくなるようなギャグ

女しか入れないお寺が日本で2ヶ所ある。その寺の名は、「おんなじ」(同じ)。

野生のような、煩悩を消すために出家する人に似合う寺は、「本能寺」?かな、やっぱり。

「久しぶり」の、形容詞形は、Hisashible(ヒサシブル)。副詞形の例文: 「I am hisashibly(ヒサシブリー) happy.」

フランス語で"アンシャン"は"一匹の犬 "。九州弁で"アンシャン"は"兄ちゃん"のこと。エライ違い。昨日Hippo Club で学んだ。

先日、深夜、友人から、くだらない早口言葉がメールで届いた。「松平定信殿の喉(のど)」,余りにも、くだらなさに意識朦朧となった。

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June 15, 2010

スカスカの自分、気功、気の流れ

先日の日曜日の朝の気功は、心地好かった。

気の塊りが、全身に流れるのではなく、気が、水のようにサラサラと全身に流れる感触。

自分の身体が、原子単位で見れば、スカスカ空洞で、私は寧ろ、空間に近い存在。そのスカスカな空間にサラサラと宇宙の風のような気が流れる。

微生物たる私が、宇宙の気を引き寄せ、また宇宙に放出する。その光景を想像すると、滑稽で、何かちょっかい出したくなるほど、愉しい。

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June 14, 2010

脳は、頭の中の盆栽のよう

昨日は、脳の研究者、加藤俊徳医師の講演を聴いた。

脳は、経験・環境でドンドン枝を伸ばして行く木みたいな構造をしていると云う。誰しも、脳の枝を伸ばす領域は余りにも広大で、100年くらいの人生では、到底使いきれない、すごい大容量(能力)とのこと。

それぞれの人の頭に、盆栽があるとイメージすればわかり易い。環境・経験で、一人一人違った枝が発達する。それぞれの芸術作品。

あとかたずけの習慣のある子は、記憶脳が発達すると云う。時間厳守習慣も、記憶脳が発達すると云う。

脳と云う、広大な土地を、未利用、未耕作に、放ったらかして、めちゃくちゃ余して、人は人生を終わると云う。もう、もったいないたらありゃしない。宝の持ち腐れじゃないかと思う。と思うと同時に、100年じゃ到底使い切れない脳に、頼もしさと、神秘と、人間としての大財産をもっていることを感じる。

今日は、ちょっと、脳に好い刺激を与えてみるかと、小さな驚きを求める。

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June 13, 2010

残念な驚き、新たな気づき、やはり教わった

昨日は、住職から坐禅とヴェーダンダ哲学の話を聴く坐禅の会に、上北沢・綱島と、連続して足を運んだが、住職の直前の急用で、とうとう昨日は住職とお会いすることが出来なかった。

住職からの、会の幹事の人へのメールに、「人助けの為に急用で遅れます」との伝言であったと云う。

昨日はサイクリングの会の予定を断念して、住職の講義を楽しみにしていた中、住職の講義が聴けないのは、とても残念に思ったが、それは、新たな"気づきの機会"でもあった。

緊急時に人を助ける行為は、修業の求める境地。住職は、たぶん、間髪をいれずに、当初の予定を、ドタキャンをしてでも、その人を助けに行かれたのだろうと思った。

私は、"助けを求めた人"になりきり、住職に感謝した。私の昨日の予定が、無駄になってもよい。その助けを求めた人が、助かればよいと思えた。昨日は、住職の講義こそ、聴けなっかったものの、行動で住職は、何か大きなものを教えてくれたと確かに思えた。

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June 12, 2010

「長生きすりゃ いいってもんじゃない」日野原先生・多湖先生共著

今朝の新聞に、書籍が紹介されていた。「長生きすりゃ いいってもんじゃない」、日野原重明先生・多湖輝先生共著。内容の紹介に、次のような文が続いていて、さすが日野原先生だなーと、尊敬を新たにした。

「師がいれば人は老いません。周囲に期待し過ぎる人は幸せになれない。弱者を助ける人は強者である必要がない。

生きるとは、成熟へ向かって努力することであり、死によって平和な永遠の眠りを与えられるのではと考えているのです。

どれだけ長く生きるかではなく、どれだけ深く生きるかが大切です。」

"弱者を助けるに、強者たる必要はありません"と云う言葉は、心を鼓舞する言葉だなーと感動する。

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June 11, 2010

生きながら、"千の風になる"ような

生きながら、"千の風になるような"生き方が出来たら素晴らしいと思う。修業も完成に近いような境地ではないかと想像する。

そのような憧れは、人間の神性の証し。

自分の姿は消し、風になったり、小鳥になったり、朝日になったり、そして見守る。

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June 10, 2010

精神の平穏の源を探る

邪悪でも、物理的・表面的には、いくらでも成功・繁栄することは出来る。そのような邪悪な要素に支配された人々によって、支えられもする。だが、それは殺風景な、単なる物理的な成功に過ぎない。

邪悪なものに支配され成功したとしても、相対するように精神は病み、心は乱れ、自滅する。

精神は、理性は、素晴らしい、スタビライザーだなーと思う。人間の持つ神性の所以か?

邪悪なものから、遠ざからなければ、精神的な幸せは訪れない。

物理的、表面的な成功・繁栄など、幸せには、何の指標にもならない。

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June 09, 2010

清々しい昼休みの風景ひとつ

昨日の昼休みの、嬉しい驚きの三連発。

昼食にたまたま入った御成門のイタリアン・レストランで、混んで来たので、別の席へ自ら移動を申し出たら、店のご主人(イタリア人)が、お礼に赤ワインのサービス。

慈恵医大前で、おばさんに話しかけられ、「この辺で美味しい店ないですか?」と聞かれた。私は、すぐ、"てのじの鰻"を教えた。900円の"サービスうな重"がいいですよと付け加えた。おばさんは、「それはいい、家族に6つ買って帰ろう」と云っていた。そんな、通行人どおしの会話が何故か、ほのぼのと楽しかった。私はおばさんにとって、話かけ易かったのかなと、嬉しくも思った。

愛宕森タワーの前の歩道に母と幼児(男の子)が、薄茶色の、ちっちゃなカエルを見付けて、しゃがんで観察していた。カエルは、歩道の真ん中でジッとして、怖がっているようだった。私は、持っていた週間誌に、何とかそのカエルを乗せて、近くの茂みに移動させてやった。見ていた母と子も、「カエルさん良かったねー」と微笑んでいた。

こんな、出来事3件が、昨日、会社の短い昼休みの間にあって、何気ない一日の出来事に、清々しい安らぎを感じた。

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June 08, 2010

世界環境ビジネスフォラム、そしてシェリー・オーロビンド「神の生命」

昨日は、昼1時間くらい、大手町・日経ホールで開催の世界環境ビジネス・フォラムを聴講した。電気自動車の時代への展望、蓄電池時代の到来、世界的な水ビジネスの可能性など、よい刺激になった。

東京都水道局など自治体の組織が、近い将来、その技術・ノウハウを利用して、世界的に巨大なビジネスチャンスを持つ可能性など新しい時代の息吹を感じた。

それから、昨日は、書店に依頼していた、シェリー・オーロビンドの「神の生命」(山口泰司訳)が届き、夕方、受け取った。先日(5/30)のヴェーダンダ協会50周年の行事で、山口泰司先生(明治大学)の哲学の講演に、大いなる刺激を受け、読みたくなった本。 5750円の分厚い(厚さ約4.5センチ)、約900ページにも及ぶ大作。この本の到着も、昨日は嬉しい日であった。

仕事は、ちょっと望ましくない展開も多く、気持ちは快適では無かったが、昨日の小さな驚きを想い出し、ちょっと元気になる。

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June 07, 2010

秩父への旅の驚き

土日は、パソコンソフト・マイツールの会の記念行事が秩父で開催され、初めて秩父へ旅した。今回の旅の驚きは、色々あったなーと振り返る。

先ず池袋からの西武線に乗ったこと、秩父駅の仲見世通りの旅気分、武甲山の勇姿、石灰岩の山は海低が隆起して出来た山とのこと、山に囲まれた秩父は昔は熊谷方面の道しか無かったこと、熊谷からSLが通っていること、武田信玄に神社仏閣まで焼かれた歴史。

1884年の秩父の困民党の秩父事件は「草の乱」と云う映画でも見たが、椋神社に終結する農民達の様子のシーンを想い出した。農民ロケット、"龍勢"の祭りも、この椋神社前で行われると云う。

戦国時代の狼煙(のろし)から農民が発案して、1575年に初のロケット"龍勢"を打ち上げたとも椋神社伝があると云う。今でも、秩父の人達が、手作りロケット"龍勢"を作って、競い合ってる姿が、不思議なロマンを感じた。

"硝石・炭・硫黄"を調合して火薬を作り、その微妙な調合も競うのだと云う。秩父夜祭りの雄大な屋台も、祭り会館で見た。

全く、知らなかった世界にまた、ちょっと足を踏み入れた想いだった。今朝は、また平常に戻り、石油の仕事。数年振りに会社に行くような感じに思う。


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June 06, 2010

少し謝りたい時の英語表現

全面的ではなく、少し謝りたい時の英語表現を考えついた。

「I am 副sorry !」

補佐的に謝る。この微妙なニュアンス。

国際ビジネスマンには必携。

じゃ、自分を卑下して、謝る時は、「I am ヒゲsorry!」。これで、完璧。

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June 05, 2010

人生の"真打襲名"

落語界とかで、芸が高まると、"真打"になる。"真打襲名"なんて、何か堂々とした、落ちついた、味のある芸を連想する。

人生も、年を経て、経験を積んで、その様な、味が出て来れば、何時か"真打"と自分で命名しても面白いのではないかと思う。

人生も、芸を積むようなもの。

客席の隅から隅まで、眺めて、「宜しくお引き立てほど、お願い申し上げます」とか口上を云う。客席に相当するのは、友人・知人。

前座の若い芸人に座布団をひっくり返して貰い、好きな出囃子で登場、「待ってました!」とか掛け声なんてかけられたりして。それもいいなー。

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June 04, 2010

日経新聞、ステテコ記事、外出用ステテコ

今朝の日経新聞に31面、消費欄に、「ステテコ、ステキに」と見出しを発見。先ず「何だこりゃ」と笑った。そして、読み進むと、爆笑。

新宿・京王百貨店では、ワコールの「部屋テコ」シリーズが売れている。「自分用に買う女性もいる」とも書いてある。

池袋・東武百貨店では、リーバイスのジーンズ柄をプリントしたステテコ(6,300円)も販売。散歩の際にはいても見苦しくないと云う。

5月のステテコ売上げが前年比4%増・・・と続く。

昔、九州の田舎で、街でステテコ姿のおっちゃんをよく見掛けた。あれは、"外出用ステテコ?"かと、今でも、想い出すと大笑いしていたら、本当に"外出用ステテコ"が出てきちゃった。

自分用に買う女性もいるとかは唖然、ギャグ的現実も、行き過ぎ。もう、お願いしますよ。って感じ。でも、街でステテコ姿の女性を見てみたい気もする。そんな時は、即、「参った!!」と云った方がよい。

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June 03, 2010

「吹き矢」の想い出

2002年、早期退職に応募して会社を辞めた時、その開放感はすごかった。「スポーツ吹き矢」のクラブに入ったりしたのも、懐かしく想い出す。

「吹き矢」の長い竿をもって、銀座の吹き矢練習会場に行く時、「吹き矢」を持って銀座近辺を徘徊する自分に苦笑。今まで出来なかった、ちょっと突拍子の無いこともやってみたかった。

会社を辞めてから、人生で、これだけはやっておかないと収まりがつかないことを、一つづつやった。

ニュージランド、起業、旧満洲への旅、あれは確かに、私の人生ではルネッサンス(人間復興)であった。会社を辞めている期間に、禅・インド哲学にも偶然に出遭えた。食育の素晴らしさにも目覚めた。

南洋の原住民みたいな「吹き矢」に、"私のルネッサンス"を想い出す。南十字星と「吹き矢」、人生の微笑ましいシーン。


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June 02, 2010

マイナス43℃、シンガポール上空

飛行機の中では、高度・スピード・外気温度・目的地までの距離など、映像デイスプレイで見れるようになっているが、赤道直下のシンガポールまじかの上空でも、高度1万メートルでは、マイナス43℃くらいであることを知り、改めて驚いた。

高度が高くなれば、気温が下がることはわかっているが、あの暑いシンガポールでも、上空はマイナス何十度と云う寒さなんだと思うと、面白く感じた。

ソ連の宇宙飛行士・ガガーリン少佐は、「地球は、青かった」と云う言葉を残した。

宇宙から見ると、地球は水の惑星。僅かの陸地の上に、這うように生きてる人間。そして、丁度、人間が生きていける温度帯に、生きているんだなーと思う。

私も、「自然のアルバム」の様な番組に出て来る、一匹の生きものと思えば、可笑しく感じられる。

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June 01, 2010

私が、私に出遭う旅

何でもない日常の些細な出来事に、何でもない日常見かける光景に、何か偉大さを感じることが出来るような瞬間がある。

それは、年を重ねることと、時折の自分との対話で、もたらされる境地ではないかと思う。

「私が、私に出遭う」ような不思議な、穏かな境地。

色んなところを旅して来て、結局、自分は大自然の偉大な一部であったと云う、畏敬と喜びの境地。

「私が、私に出遭う旅」

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