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May 31, 2010

心と身体、"神の館"

昨日は、清心女子大で行われた日本ヴェーダンダ協会50周年行事で、素晴らしい講演を聴いた。明治大学の山口泰司教授の哲学に関する講演は、私の心にビンビンと響いた。

長年の哲学の研究の末に、スワーミ・ヴィヴェーカナンダ師の哲学に触れられ、その哲学の持つ安らぎは、キリスト教、仏教を問わず、道は通じていることを示唆するに十分であった。

ヴィヴェーカナンダ師の言葉、「己の心と身体を、神の館とせよ」とかは、朝露のように清々しく、そして力強い言葉だと思った。

会場で頂いた記念の書籍をパラパラとめくると、「自分がまだ悪を見なければならないことを、お泣きなさい。自分が、いたる所に罪を見なければならないことを、お泣きなさい。」と云うヴィヴェーカナンダ師の言葉が、目に留まった。

「貴方にとって望ましからぬ人との出逢いも、聖地の領域への道案内と想いなさい」とかも、心に響いた。

昨日は、ヴィヴェーカナンダ師の言葉に酔いしれた一日だった。

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May 30, 2010

成田・銀座・市ヶ谷

昨日は、事前に計画した通りに、朝・成田着・AM銀座(高田青治・絵画展)・PM市ヶ谷(三池高校同窓会)とスケジュールを坦々とこなし夜、5日振りに横浜へ帰宅した。

シンガポールで、28日夜、空港出発前、アラブ代表団4人に、"I miss you"と冗談っぽく云われたが、ビジネス世界で、そう云われるのも嬉しく思った。インドネシアの元石油相スブロト氏(元OPEC議長)は、石油の仕事に大切なものは、と問われて、「"政治"と、それから"誠実"」と答えたと云う。

アラブ産油国に勤務する立場と、日本の石油会社出身の立場を、誠実にバランスを取るのが私の仕事の醍醐味のようなものだと思う。

パッと場面は切り替わり、同窓会では、同郷の延命中学校の卒業アルバムを見せて貰って、心は、何処へでも飛んで行くようであった。



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May 29, 2010

「耳にアイロンをかける」と云う表現

スペイン語で、「耳にアイロンをかける」と云う表現があると聞いた。

何と、それは、「寝る」と云う意味だと聞いて納得。

言葉、表現って、驚きだなーと、つくづく感じる。

新しい言葉、表現を知ることは、エキサイテイングなこと。

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May 28, 2010

潜在意識は不滅とのこと

人間の五感六識の次に、第七識、第八識と云う潜在意識の領域があると云う。

第七識は、"マナ識"と云って、「私は最高であるべき、私の思い通りであるべき、私は永遠であるべき、私さえ良ければ良い」と云う、潜在意識。

その次に、過去の全ての印象・気分がインプットされた、"アーラヤ識"と云う、強力な自分らしい根源の潜在意識が存在する。"群盲索象"的に世界をとらえる、夫々の人の、千差万別の色眼鏡は、この遺伝子に蓄積された、過去の印象・気分。

この第七識と第八識は、何と肉体が死んでも残ると云う。この第七識と第八識を、清め、高めるのが修業で、生きている間に訓練・修業で、ちょっと変えることが出来る。死んでしまったら、第七識、第八識の強烈なエネルギーに飲み込まれてしまうだけで、コントロールは不能と云う。

だから、生きている内に、忌まわしきエネルギーを浄化する修業をする意義がある。

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May 27, 2010

牛の処分に感じること

口蹄疫事件で大量の牛が処分されるニュースを聞く度に、人間の傲慢さを想う。

「牛が殺されて可哀想だとか」、「人間に食べられてこそ牛も本望」とかのインタービューを聞く度に、私には、人間の勝手な論理展開だと思う。

牛を食肉用に改良して育てることそのものに、私は残虐性を感じる。日常、牛を食肉用に殺していることと、今回の処分は、残虐性においては変わりないように感じる。

行き過ぎた人間の驕りに対して、時折、自然界は反発する。

食肉用に繁栄することと、大量に口蹄疫で処分されることと、牛にとっては大差無いように思う。

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May 26, 2010

現代に脚色された過去、「全ての歴史は現代史なり」

先日、突然、高知の親友が上京し,夕方、東京八重洲で待ち合わせ、銀座の居酒屋"三州屋"で一杯飲んだ。そのとき、彼が、歴史哲学者クローチェの言葉に感動したと云って紹介してくれたのが、「歴史は全て、"現代史"である」との言葉であった。

丁度、私が、663年の"白村江"の大敗北を、日本の歴史で、余り強調しないのか、教えないのかと云う疑問を最近持ったばかりだったので、ピーンとこの言葉の意味する思想・哲学がわかった。

過去の数ある史実の中でも、自分の利害・価値観・好みで、史実を選び出し歴史書は書かれる。結局、"群盲索象"。現代の人が、どう考えるかで歴史は塗り替えられて行く。

何だか、人生を振り返る時も、同じように想う。過去は無く、ただ、現在が過去を脚色してしまう。

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May 25, 2010

今日からシンガポール出張、LPG契約更改交渉

今日から、今年2度目のシンガポール出張。前回は今年2月、ナフサ交渉だった。今回は、久しぶりにLPGに関する交渉。現地でアラブからの代表団と合流する。

早朝の成田エキスプレス、空港ラウウンジでのくつろぎ、私はそんなひと時が好きだ。

ブログは、5日分を、いつものように時限アップにセットして行く。

シンガポールで、28日まで用務があり、帰国は5月29日(土)早朝7時くらいだが、29日(土)は、私らしく、ちょっとタイトなスケジュールを計画した。

先週の休日に行きそびれた銀座の絵画展(同郷の画家、高田青治展、展示最終日)に直行して、その後、市ヶ谷の高校の大同窓会に昼から参加する。そんな事、出来るかなーと思いながら、まー、大丈夫だろうとも思う。

今年は、三池高校の全国の大同窓会、4ヶ所(東京・福岡・京都・熊本)の出席制覇に、ちょっと意欲があり、29日の同窓会は、その最初となる。我ながら、同窓会マニアだなと苦笑。

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May 24, 2010

鉄道線路工事見学マニア

昨日、ヒッポクラブ(語学研修団体)の講演会(中野)に行った帰り、あるご夫婦とイタリアンレストランへ入って会話していたら、驚いた。

大きな線路工事があると、早朝・深夜・徹夜してでも、見学に行くと云う鉄道マニアの御主人とのこと。

本人によると、線路そばで、ずーっと、立ちっぱなしでも、その工事を見るのが楽しいのだそうだ。

私には、わからない。どのような遺伝子が、このような行動に駆りたてるのだろう??。

これも人間のカルマ(業)の一種か??。

人間も、自然界の生物として、そのさまざまな行動が、私の理解を越えて、可笑しい。

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May 23, 2010

「チンパンジー型、オラウンタン型、ゴリラ型分類」、宗像恒次先生

昨日は、初めて熊谷へ講演会を聴きに行った。宗像恒次筑波大学教授の「脳と心と身体のいい関係」と云う演題で、私の興味の分野でもあり、約2時間もかかる遠い場所であったが出掛けてみた。

宗像教授は、"癌は身体のうつ病"との考えで、ヘルスカウンセリング、SAT(Structured Association Technique)療法を考案された人。故人で、「佳代子のウェルビーイング」と云う闘病ブログを書いてらっして、私のブログに時々コメントをくださった佳代子さんから、生前、初めて、このSATと云う言葉を教えて貰った。

「ウツは、愛を得ようとするストレスから来る」、「他者からの報酬追求型人間がかかり易い」などの分析が分かり易かった。また、50歳~60歳から、博士号取得を取ろうとすると、(年齢で免疫力が落ちている中、ストレスから)、片っ端から癌になって行くとか現場の事例を紹介され驚いた。

先生は、人間を遺伝的に3つに分類され、その分析が、ユニークで、面白く、また真理をついているようにも感じた。

チンパンジー型(循環気質): 愛されたい気持ち優先。目が輝く特徴。丸っぽい顔が多い。モテモテタイプ。
オラウンタン型(自閉気質):自分を愛したい気持ちを優先。面長の顔が多い。表情が余り変わらない。マイペース型。
ゴリラ型(粘着気質):人を愛したい気持ち優先。四角顔が多い。世話やきタイプ。

人は、違ったタイプに興味が湧き、惹かれる事も多いが、結婚など、身近に付きあうと、期待(希望的観測)が外れ、大嫌いになってしまうプロセスなど、大笑いで聴いた。横浜から熊谷まで行った甲斐があったなーと思う。

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May 22, 2010

増上寺、葬儀参列、そして日常への想い

昨日、昼、芝増上寺で行われた、ある石油化学会社の現役の社長(66歳)の逝去による社葬に、アラブ人の日本支社代表を連れて参列した。

約1000人以上の会社関連の人達が、参列しておられた。

葬儀委員長の弔辞の中で、社長は特に、目立たない人達への配慮、優しさのある、暖かい人柄であったと云うのが、印象に残った。友人代表の方が、故人との今生での出遭いに感謝され、またいつの日にか、あの世でも再会したいとの言葉にも、素晴らしい人間関係もお持ちだった事がわかった。

色々な仕事に没頭している日常にも、どのような人にも、確実に死期は刻々と、近付いていることを思った。

私は今まで、時間を費やすに値することを選択して生きて来ただろうか、時間を費やすに値することを選択して、今、生きているだろうかと、改めて自問してみた。

そして、私の明日の行動も決まる。そんな生き方が、私は穏かになれ、そんな生き方が好きだ。

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May 21, 2010

元寇より深刻な国難だった"白村江"の大敗北

昨日夜は、ニューパラダイム研究会(通称カリスマ会)で、仲津真治さん(元建設省次官)の韓国の歴史研究の講演を聴いた。

そこで、昨日の最大の驚きは、"663年・白村江の戦い"のことであった。日本は有史以来負けたことの無い"神国"と教えられ、太平洋戦争へと突き進んで行った歴史がある。

当時500万~600万人の日本の人口で、百済の支援に約6万人の大軍勢を朝鮮半島に送り、新羅と戦った日本軍が、唐と新羅の挟み撃ちに会い、たった2日間で、歴史に残る大敗北を喫したと云う。その後、日本では、唐の侵略を怖れ、度重なる遷都を繰り返した。また、東国から国防の兵士を九州へ派遣する防人(さきもり)制度発足も、その恐怖の表われであった。

蒙古襲来(元寇)も乗り越え、神に守られた国・日本と云う迷信を作り上げた、帝国主義日本の歴史教育の捏造ぶりと、国民としての歴史への未熟な勘違いを改めて感じた。

"白村江の大敗北"を、大いに歴史で強調したならば、日本人も、もっと、賢く、原爆の悲劇に繋がる戦争も防げたかも知れない。

"大化の改新(645年)"後、18年目に起きた、白村江の大敗北の重大な意義に、想いを新たにした。

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May 20, 2010

ゴーギャンが憧れた南太平洋のようなシーン

昨日夜は、手造りヨットで太平洋の島、トンガなどへ行かれた冒険家、ナチュラリストの上村彰さんと云う人の講演を聴いた。そして上村氏自身のオカリナの演奏も。

講演を聴いていると、ゴーギャンが南太平洋の島に憧れたように、人間の素朴な原点のような魅力を感じた。日頃は、忘れてしまっている、人間の自然との関わりの素朴さの美。

何年も前、私が、インドネシアの天然ガス出荷基地へ出張した時に、付近にある浅瀬の、小さな海上生活者の村に立ち寄った時の衝撃を想い出した。初めて見るが、何故か懐かしいような、人間社会のメルヘンであった。

そして、世界中で出土すると云う、太古の楽器"オカリナ"、土で作る素朴な楽器"オカリナ"の演奏も、悠久の安らぎに誘ってくれるようであった。オカリナの"星に願いを"の曲は、幼児時代の娘との二人の時間を想い出させた。

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May 19, 2010

ジャズ雑誌に私の姿、"横浜カフェじかん"

昨日は、アラブからの代表団を案内して顧客周りの一日だった。帰りに、行きつけのジャズ喫茶に立ち寄り帰宅。

そこで、何と私がジャズ喫茶のお客の姿で、最近出たジャズ雑誌に、載っていることを教えられびっくり。

コンビニで売られていると云う、「横浜カフェじかん」(2011年判・\945)と云う雑誌に、白楽駅前のジャズ喫茶で、店のカウウンターの中で立って、山本剛さんのピアノに聴き入る私の写真も掲載されていることを教えられた。

ちょっとうつむき加減でジャズを聴く私の姿が、確かに写っていて、ちょっと嬉しかった。早速コピーして、弟や姉妹に送ろうと思った。

山本剛さんのピアノは、映画"追憶"のテーマなどが特に好きで、ロバート・レッドフォード、バーバラ・ストライサンド などの映画を想い出す。ジャズは私の人生の友。

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May 18, 2010

永遠不滅の数字、「9」

一昨日の前田行貴先生の講演の中で、インド思想にある「9」と云う数字の持つ意味に驚いた。先生も、このことに気づくのが、人生でもっと早かったら、よかったと思ったとおしゃったくらいの驚きだったと云う。

「9」と云う数字は、掛け算をして、2X9でも5X9でも、掛け算をした答えの数字を、横に足せばまた「9」になる。

「9」は、永遠不滅の神秘的な数字なのですと云われた。

仏塔の上に「9輪」があるのは、その意味が込められているとのこと。「9」は御釈迦様の数字ですと。

日本では、苦に通じるとして嫌われている「9」ではあるが、その神秘性に気づかされた。

「生ぜず、滅せず」を想起させた。

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May 17, 2010

「仏道とヨーガ」、前田行貴先生の講演を聴く、

昨日は北鎌倉・東慶寺で、ヨーガ・インド哲学の大家、前田行貴先生の講演を聴く光栄に恵まれた。

会場に、前田先生が、合掌しながら、車椅子で出て来られた時、私は、最前列で初めて前田先生とお会いした。修行を経て来られた境地の穏かさが、滲み出てらっしゃって、流石だなーと感じた。

約2時間の講演で、私は、沢山のメモをとたった。

「自分が最低と思う人に仕えることは、最高の教えを得る」、とは衝撃的な言葉であった。

ビヴェーカナンダ師が、外国で、"Laddies & Gentlemen"ではなく、"Sisters & Brothers"と呼びかけられた逸話とかも、驚いた。 "自他一如"を連想して、感激した。

唯識の大家・横山紘一先生も,太極拳の大家・山口博永先生も、ご出席されてますと、司会者の方から紹介があった。横山先生と、山口先生と、前田先生が同席される機会に、私もそばにいたことが、嬉しい。達人のそばにいるのは、気が引き締まるものだ。昨日は、ピリッと、気合いが入る一日であった。「今 ここ」を生きる。

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May 16, 2010

神は、取り引きの対象にあらず

昨日、住職の言葉で、印象に残ったこと。

神に願いごとをしてはならない。神は取り引きの対象ではない。

神には、全てをお任せするもの。

失敗も成功も、全て神のもの。

「無功徳、常精進」、功徳無きところに、ただ働く。

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May 15, 2010

「かなさん」、沖縄の言葉のロマン

沖縄には、愛する人からの執着を薄める為に、わざと嫌われるように行動することが、昔ながらの生活に根ざした慣習のようにあるらしい。

愛する人が、逞しく生きて行けるように、自分がいずれ居なくなっても悲しまないように、自分がちょっと身を引いてみる行為。愛しながらも、遠いところから見守るって、すごいなー。

それこそ、大人の、深い、見守る愛だなーと思う。

沖縄の方言に、「かなさん」と云う言葉があると云う。「愛おしく想う」との意味とのこと。

「哀しむ」とは、「愛おしく想う」こと。万葉時代の大和言葉にも、そんな由来があったように想う。素晴らしい人間の感情のロマンの世界。

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May 14, 2010

金持ち過ぎるのも猥褻、

イタリアの首相の離婚相手への毎月の支払いが3700万円とか、聞いて唖然とした。あの赤字国家のイタリアで、どんな事をしてそんな資産を持っているのだろうと、私は、政治家の資質も疑った。

金持ちは決して自慢にはならない。子供っぽい単純な人達や、邪悪な欲望の塊りの人間には、憧れの的にはなるだろうが・・・。自分がどれだけ、世間とかけ離れた、我欲の塊りの生き方をしているか、恥ずかしくならないのかと、思ってしまう。英語の表現で、「Obscenely Rich 猥褻なくらいの金持ち」と云う表現を見た事があるが、まさにピッタリ。

世間は不思議だと思う。スポーツ選手など、何十億円も収入で貰う人がいるが、努力と才能が凄いと云っても、普通の貧しい人達の中にも、色々な分野で、努力と才能では、そんな才能に勝るとも劣らない人は沢山いると思う。

社会は、富の分配の仕方が、極めて、不平等に出来ているのだと思う。それに気づかずして、自分の能力や才能で、沢山稼いでいると思ったら大間違いだと思う。

結局、お金は食事や食料と同じで、最小限あれば好し、食べすぎたら醜くなる、病気にもなる。お金持ちになった人達は、猥褻にならないように、早く社会に還元する道を見付けた方が、幸せになれると思う。それが宇宙の調和の力なのだから。

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May 13, 2010

"人に役立つ事"を"仕事"と云う、

数年前に、読んだユダヤ人の富豪に関する本に、「人に役立つ事を、"仕事"と云う」記述があり、痛く感銘した。

人に役立つ事は、その仕事を評価してくれる人が、結局は守ってくれる。

現実に、そのことで、収入・報酬があるか、無いかで"仕事"と考えてはいけない。人に役だって無ければ、いくら良い給料を貰ったって、仕事をしてるとは云えない。

住職は、日頃から、私に、もう一つの価値観を教えてくれた。「寧ろ、少ない収入で、沢山の仕事が出来る人は、素晴らしい」と。 世の中には、他と比較して、自分の給料が安いとばかり嘆き、仕事そのものには、余り関心が無い人が多い。人に役だってそうに無くても、沢山の報酬を貰って、仕事してるつもりの、カッコ悪い人も沢山いる。

人が見ていないところでも、報酬が無くても、黙々と人に役立つことが出来る人はすごい。「無功徳、常精進」、功徳無きところに働く。功徳が無くても、黙々と精進を続ける精神の魅力、力強さ。もうそれは、一つの宇宙的な調和の美だと想う。

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May 12, 2010

自分を捨てる、自分を広げる、どちらでも好し

先日、立教大学での横山紘一先生の哲学カフェ6周年行事で、ロボット博士の森先生が講演された時の、会場の参加者とのやり取りが印象に残っている。

森先生の講演は、ロボット作り、もの作りに没頭して行くと、自分を忘れる境地があることから、坐禅の修業で得られる"自他一如"の境涯に似た、自分がドンドン薄れる境涯のことにも触れられた。それに対し、会場の参加者から、自分を捨てるとか忘れるとか、そんな大仰なことと違和感を唱えるフランクな意見もあった。

それに対し、森先生の答えが、素晴らしかった。自分を捨てると云うと抵抗がある方もいらっしゃるでしょう。自分を広げると考えて良いです。自分が物作りの熱中して行くと、自分がその物になりきって行く。 自分から周囲の人、物へ、ドンドン自分を拡大して行くと、全てが「私」になり、全世界、宇宙が私になり、その時は、もう自分は無くなっている。自分を広げることは、即ち自分を捨てることと同じ。そのような主旨のコメントを森先生はなさった。

まさに、日頃、私が、山口住職に聴く、ヴェーダンダ哲学、禅の思想に通じるものであった。自分を宇宙にまで広げて行くと、争いや苦しみも消え、穏かな虚空世界の永遠にして安らいでいる、単純にして美しい世界が見えて来ると想う。

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May 11, 2010

年輪の一番外側が今、46億年目の今日

虚空世界からのエネルギーが、アメーバー・魚・恐竜・猿など、色々な形を46億年に亘って取り、今の人類もいる。

その46億年の歴史は、消えてはいない。個々の人間の内奥に、年輪のように気が遠くなる程の情報が、遺伝子の中に、蓄積されている。

今日は地球誕生から、46億年目に、やっと到達した、最先端の日。今日は、46億年の、自分の年輪の一番外側に属する日。

全ての46億年の情報が、潜在意識の中に、気づかない内に、遺伝子の中に隠されているような気がする。

今日と云う日。「ワー、凄い!」と、驚嘆する眺望。 絶景に感嘆。


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May 10, 2010

カント哲学の衝撃、「手段としての人間、目的としての人間」

昨日、夜、教育TVの哲学番組で、ハーバード大学のカント哲学の講義の模様が放送されていた。

人間を誰かの為の手段と考えず、人間その人そのものを目的物と考える、"人間の尊厳"に就いて、カントの道徳律に就いての講義に、聴き入った。

人も手段と考えて人間関係も社会も成り立ち、希薄な表面的な繋がりで、大概の人間関係は成り立っている。

その人が自分に幸せをもたらす、もたらさないに関り無く、その人が独立した存在として独自の目的を持った存在と想えれば、その人の尊厳を考えていること。

私は、私を手段と考えていない人は誰かを、不図想って試た。真っ先に母親が浮かんだ。そして、何人かの親しかった人、親しい人の顔が浮かんだ。人生では、そう何人もは居ない。人間を手段と考えていない人にとっては、精神的な繋がりが余りにも強く、もう今生で会う必要も無いくらいの絆で繫がっている。

自分の方に惹き寄せる、巷にありふれた愛は、未熟な自己愛、執着のように、チャチに見えて来る。

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May 09, 2010

"温もりの残る人"

昨日は、私が師と仰ぐ二人の先生の催しが、二つあり、時間を分けて、共に出席した。

午後、池袋・立教大学のセントポール会館で行われた、"横山紘一先生の哲学カフェ6周年行事"で、ロボット博士の森先生の話と、出席者の哲学談義を聴いた。

森先生は、もの造りを通じて、禅の修業と同じ境涯を得ておられる様子が、素晴らしかった。自分から物へ、物から世界へ、宇宙へと広がる"自他一如"の境地への縁を、青少年へのロボット・コンテストへの指導を通して子供達に与えておられる。ロボットコンテストに参加した後の子供達の作文を読めば、そのことが、たどたどしくも、よくわかった。

その後、夜は、横浜・綱島で、山口住職の坐禅会に参加した。懇談の席で、良寛さんの話で、良寛さんが訪れた後、その場所には、何時間も、その"温もり"が残る人であったと云う。

会った後、"温もりの余韻"、"深い優しさの余韻"がずっーと残る人は、そう滅多にはいない。

不図、私は、両親の温もりを想い出した。そして、宇宙の温もりとは、両親の温もりのようなものだと想った。

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May 08, 2010

内面の化粧

食を整えることで肌は80%奇麗に、若々しくなると云う。化粧で残り20%くらいが変わると云う。

食と健康の講演会や、医学書で、この事を知り、妙に心に残っている。

外見を、要領よく、化粧で整えるより、規則正しい生活や、大豆などの良質たんぱく質を毎日キチッと摂り、前向きな精神で生活すれば、ほぼ化粧の80%は終了。

外の化粧は、内面の化粧には、遥かに及ばない。

外面を化粧すればする程、その内面と、外面の差が際だって見えることもある。

"内面の化粧"、素晴らしい響き。

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May 07, 2010

「時間もおしてますから、手短かに御願いします」

それぞれの人は、年を重ねてくれば、自分なりの人生観を語りれるようになり、また語りたくもなるのではと想う。

一方、その話を聴く方は、話が興味深くないと、余り熱心に聴く気にもなれない。

「人生を語る」って、大人としては、カッコいいことに想う。

時に、「時間もおしてますから、手短かに御願いします。」とか、司会者から、諭されるような、情景も、内心想像して、可笑しくもなる。

確かに、人生も、要点を手短かに、ポイントを語らないと、時間はドンドン過ぎて行く。

どうどう廻り、ダラダラのメリハリの無い人生になっては、自分も観客も、あくびしてしまう。自分の人生に就いても、「時間もおしてますから・・・・」とか、神様に云われてる情景は、傑作である。


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May 06, 2010

生まれながらのおばちゃん、おじちゃん

毎日、電車や街の中では、知らない人ばかり。毎日、毎日知らない人が湧き出して来る。都会は、凄い。

初めて見る知らないおばちゃん、おじちゃんは、私が子供時代に見掛けた、知らないおばちゃん、おじちゃんと同じように見える。

当時から変わっていない。おばちゃん、おじちゃんは、昔から、ずーっと、おばちゃん、おじちゃんのまま。生まれながらの、おばちゃん、おじちゃんだと子供ながらに想っていた。

そして、今になっても、知らないおばちゃん、おじちゃんを見ると、昔のままのおばちゃん、おじちゃん。

自分と同じ年頃のおじちゃんなのに、自分の内奥に潜む、変わっていない自分が、繁々と、おじちゃん、おばちゃんを眺めている。

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May 05, 2010

夏休みの宿題、人生の宿題

何事もギリギリで間に合って、かろうじて生きて来たように感じることは、人生60点くらいの証拠だろうか?決して、合格点では無いが、落第は免れるくらいの、苦笑いの恥ずかしい点数。

間に合わなかったことが多ければ、20点~30点など、かなり、課外追加授業を要するレベル。そんな分野も、私の人生の科目には、確かにありそうな気がする。

ちょっと、子供時代の、夏休みの終わり8月31日の心理を想い出す。毎日コツコツと、やるべきことを続けることの大切さを想い出す。やるべきことをやっていなかった時の空しさ、パニック振りは、考えるのもイヤだ。

小学校1年か2年くらいの時の、"夏休みの友"と云う名の、宿題付きの日記帳の小冊子が懐かしい。毎日の天気の記録は、簡単なことだが、毎日書いておかないと、後は大変なことになる。曇りマーク、晴れマークなど懐かしい。

人生の宿題は、成人すると、自分で作成している。その宿題に、向き合う時間は、毎日、少しの時間でも必ず必要なことだと想う。

そうだ、"夏休みの友"が"人生の友"と云う宿題に代わっていたんだ。

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May 04, 2010

宇宙の意思が、凝固したような存在

全ての生命、物質を、宇宙の意思が、凝固したような存在と私は考えるようになった。

水滴になったと考えても好い。

凝固したものは、形を持つ。それが、個体としてそれぞれに認識する自分と云う存在。

その凝固したものが、もとの拡散した波動になって宇宙いっぱいに広がることが死。死と云っても、単なるエネルギーの形態が変わるだけ。水滴が、また水蒸気化して散らばるだけ。

「生ぜず、滅せず」、その境地を垣間見る。

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May 03, 2010

子供の心を打つ、親の働く姿

先日、TVで、漫才の"次長・課長"の河本さんの母親とのエピソードの話を、"徹子の部屋"の何周年行事かの番組で聴いた。

高校時代頃か、母親が鮮魚関係でアルバイトしていると聞いて、小遣いをせびりに職場へ行って見たときの話。スーパーの魚売り場で働いてるのかと思って行ってみると、母はいなく、スーパーの裏へ行くと、寒い中、白い作業服を着て、包丁を持って、冷凍した魚を解凍し魚をさばく作業をしている母の姿を見つけたと云う。

母は、元気よく近付いて来て、「どうした。小遣い欲しいんか?」と明るく聞いてくれたそうだが、辛くて小遣いのことが云えなくなったと云う。何よりも、その時の母親の姿が、カッコよくて、余りにもカッコよくて、泣けて来たと云う。

私の母も、同じように、働き者で、勇ましかった。私も、その母の働く姿を想い出して、貰い泣きをしてしまった。親は、敢えて友達には見せたくないような、敢えて自慢にはならないような仕事をしていれば、しているほど、子供の心を打つと想う。感謝の念を起させると思う。社会的にカッコ良い仕事では、そんな素晴らしい感情を子供に与えることは出来ない。

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May 02, 2010

再会は自由自在

人は、人生の中で、どうしても再会したいと願う人がいると想う。

そして、再会する機会を願えば願うほど、脳裏にはっきりその再会の映像は浮かんで来る。そうすれば、もう再会したと同じこと。現実に再会するか、しないかは、どちらでも好いことになる。現実の再会より、寧ろ心の中の再会が現実的に感じることさえある。

亡くなった人、子供が小さかった頃など、現実の再会はありえあない。まだ存命する人達だって、子供が成長した様に、変わって行く。

再会とは、心の中でこそ出来るもの。心の中でこそ、より現実的に蘇るもの。再会は自由自在。心の中で再会したい人と自由に再会しながら、共に人生を歩めば好い。

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May 01, 2010

許すことは強さの証し、マハトマ・ガンジー

今朝5時半からの英語の教育TV番組で、思いがけない凄い言葉に出遭った。

「弱い者は、人を許すこと出来ません。許すことは、強さの証しなのです。」

これは、マハトマ・ガンジーの言葉だと云う。

"許すことは、強さの証し"、涙が出て来るほど、勇気づけられた。

私が尊敬する住職は、幼児の頃、まだ母親と別れる前、母親に、「マハトマ・ガンジーのような人になりなさい」と云われたことが、人生の支えにも、勇気にもなっておられる。

"The weak can never forgive, foregiveness is the attribute of the strong."忘れ得ぬ、珠玉の言葉。

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