水があって魚、山があって鹿、
天城山の坐禅道場の周りには、よく鹿が現れると云う。
暖かい時、たまに道場の外で住職が坐禅してると、時々、鹿が近付いて来て、じっと住職の方を見ることがあると云う。そんな時、住職は、鹿を驚かさないようにじっと坐禅を続けるとのこと。
住職は、鹿を山の斜面に見る時は、神々しく見えるとおっしゃる。確かに、山あっての鹿、まさにピッタリの光景。鹿がいて山が造られたのではない。鹿は、山の存在の一部なのかも知れない。
魚があって、水が生まれたのではない。水があっての魚。水が消えれば、魚も消える。
人間があっての、空気、山河草木ではない。人間も、自然界の一部、自然界を写す鏡。空気、山河草木が消えれば、共に人間も消える。人間も自分を主張し過ぎず、外界の中に溶け込む程、調和すれば、斜面の鹿のように、神々しくなると想う。
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