誤解に満ちた記憶の集積、懺悔への入り口
昨日来た坐禅会の案内メールに、幹事の方が、住職の言葉を添えてくださった。
「私たちが問題にするその問題は外にあるのではなく内にあるのです。我々の喜怒哀楽の対象は外ではなく、内面の記憶にあります。ここが分かったら、外のせいにはしない。そうすると全ては懺悔の対象になります。
嫌いな、大嫌いな人、外にいるのではないんです。記憶の中(カルマ)にいるのです。心の中にあるんです。外にはよいも悪いもない。」
全ての人が、また私と云う存在が、如何に極端な、それぞれの業(ごう)に、翻弄された存在であるかを思う。それは、まさに、誤解に満ちた、エキセントリックな存在と云ってもよいかも知れない。
それに気づく時、私は、開放され、宇宙に同化し調和する。波が大海に気づく時。
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